恋が始まらない話

古森日生

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第一話 淑乃と晶斗(上)

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1.
――僕が彼女と出会ったのは6歳の時だった。

「初めまして! あっくん!」
初めて見る女性ひとが満面の笑顔で僕に手を差し出す。
「…だれ?」
人見知りの僕は思わずササッと兄の背中に隠れたけれど、兄は笑いながら僕を抱き上げる。
「俺の彼女」
少し照れたように、でもちょっと自慢気に兄がその女性ひとを紹介してくれる。
彼女と言われて嬉しいのか彼女は頬を染めて兄に笑顔を向ける。

僕は改めてその女性ひとの顔を眺めた。

髪は肩よりも少し短くて、笑うと少したれ目気味になる優しい顔立ちの女性ひと
服装は…多分兄と同じ学校の制服だろうか。白いセーラー服がとてもよく似合っている。
まじまじ観察する遠慮のない僕の視線に微笑むと、彼女は僕の頭にふわりと手をのせて落ち着かせるように撫でてくれた。
「お姉ちゃんって呼んでいいよ?」
「…呼ばない」

その時から僕…矢内 晶斗やない あきとは、彼女…桜井 淑乃さくらい よしのの『弟』になった。

僕は兄に抱っこされたまま淑乃の視線から逃れるように兄の胸に顔を擦り付けた。
「かわいいね」
「だろ? 仲良くしてやってくれよ」
「うん!」

それから、淑乃は僕にいろいろ話しかけてくれた。
その時の僕はまだ少女といえる年齢としの女性と話すのは初めてで、照れてしまってほとんどまともに話せなかった。
そんな僕に淑乃は気を悪くせず、ずっと笑顔で話しかけてくれた。

当然、僕が彼女に気を許していくのにそれほどの時間はかからなかった。


僕は、父時貞ときさだと兄の隆斗りゅうとと親子三人で暮らしていた。
母は僕を生んでくれた時に亡くなり、僕の記憶にはない。
僕の家族は父と兄…、その二人だけだった。

――そう、僕は『母』というものを知らない。

友達には当たり前にいるのに、僕にはいない。
保育園のころは「どうして僕にはお母さんがいないの?」と聞いては父を困らせていた。
いくら「遠いところにいる」と言われても当然納得できず、ただ僕は「お母さん」が欲しかった。
友達が迎えに来たお母さんに飛びついて甘えるのを見るたびうらやましくて仕方がなかった。

僕が泣くたび、父は「ごめんな」と言って抱きしめてくれた。
しかし、父の体は固く力も強い。
どうしても僕が求める、優しく包み込んでくれる『お母さん』ではないのだ。

――そんな時に僕の前に淑乃が現れた。

淑乃は『お母さん』ではなかったけれど、本当によく家に来て僕と遊んでくれた。
兄は、家で淑乃と過ごす時間が晶斗のほうが長いんじゃないか?と嬉しそうに笑っていた。
2年生になるころには僕は淑乃を『姉ちゃん』と呼ぶようになっていた。

『お姉ちゃん』じゃなくて『姉ちゃん』。
それは、小さな僕の精いっぱいの照れ隠し。
…だって「呼ばない」って言ったから。
でも淑乃は僕が『姉ちゃん』って呼ぶといつも嬉しそうに笑ってくれた。

いつの間にか、僕の寂しさは淑乃が埋めてくれていた。


「頑張れーっ!! あっくん! がんバー!」
「誰の家族…? すっげえなあのひと」
「ねえちゃ…恥ずかしいって…」
3年生になるころ、僕はサッカーを始めた。
兄の隆斗は高校サッカーでは県で有名なプレイヤーだった。
淑乃も兄の高校のサッカー部でマネージャーをしていて「可愛いすぎるマネージャー」という特集で雑誌に写真が載ったこともあるという。
コンプラ的にどうなのそれ…と思わなくもないが、僕は淑乃が「可愛い」と言われるとうれしかった。
兄も淑乃もすごくキラキラしてて格好良くて、可愛くて。
僕がサッカーをやりたいって言った時、二人ともすごく喜んでくれた。
そうして、試合の時には二人で応援に来てくれて…

「あっくーーーーん!」
――すごく大きな声で応援してくれて。

「すごいすごーい!」
――ぴょんぴょん飛び跳ねて応援してくれるのがすごく可愛くて。

「やったー! あっくーーん!」
――僕が活躍して、淑乃が喜んでくれているのを見るとうれしかったし、誇らしかった。

「頑張ったね! すごいよあっくん格好良かった!」
試合を終えて、父と兄、淑乃の元へ戻ると淑乃はぎゅっと抱きしめてくれた。
「くっつくなってぇ…」
言いながら照れて目をそらすと、兄がわしゃわしゃと頭をなでてくれた。
「いいプレーだったぞ、晶斗」
「…ありがと」
自慢の兄に褒められると素直にお礼が言えるのに、淑乃に褒められるとうれしいのになぜかお礼が言えない。
…その感情の正体を僕が知るのはもう少し後になってからだった。

僕はたぶんこの時期が一番幸せだった。

自慢の兄がいて、淑乃がいて、優しい父がいて。
このまま兄と淑乃が結婚して本当に僕の『姉ちゃん』になってくれたらいいのに。

――そう、無邪気に思っていた。



「え…?」
いつものように小学校に行き、放課後部活でサッカーをやっていた時、僕は先生に呼び出された。

「あのな、矢内…。 落ち着いて聞け――」
言い辛そうに口ごもりながら先生が言っていることを。

僕は、理解できなかった。

いや、言葉の意味は分かる。だけど、僕の意識がその理解を拒んでいた。

『父と兄が亡くなった』

大学二年になっていた兄はプロからも声のかかる注目の選手で、雑誌の取材を受けてから合宿に向かうところだった。
その日は事故を起こすと危ないから、ということで父が車を運転して兄を合宿所に送ってくれるはずだった。

それなのに、対向車線のトラックがセンターラインをはみ出してきて――



そこからしばらく記憶がない。

気が付いた時、僕は喪服を着せられて父と兄の葬儀に出ていた。

もともと僕たちは3人家族だった。
父方も母方も、僕を気にかけてくれる人たちはいないのだ。
いるのは、見たこともないような遠い親戚だけ。

何も考えられず、ぼんやりと父と兄の遺影を眺めていると淑乃がいた。



「あ…」

『事故で、隆斗とおじさまが亡くなった』

まだ信じられない気持ちで隆斗とおじさまの葬儀会場にたどり着いた時、ふたりの写真の前にあっくんが立っていた。
いつも元気で、ちょっと照れ屋さんで人見知りな、それでも人懐っこいあっくん。
そのあっくんが、見たこともない表情で立ち尽くしていた。

「あっくん…っ!」
私は思わず走り寄ってあっくんを強く抱きしめていた。

「あっくん…」
――暖かい。
あっくんの体を抱いた時、私はそう思った。
隆斗はもう…、なのに。あっくんの体は暖かい。熱い…。
気が付けば私の目からは堰を切ったように涙が溢れていた。
「ねぇ…っちゃ…」
あっくんの小さな体が私にしがみついてくる。
「兄ちゃあああああーーー…!!」
私の体に顔を押し付けるようにして、叫ぶように泣くあっくんを抱きしめながら、
私は何もできず、ただ一緒に泣くことしかできなかった。

そのかわり、私はあっくんにささやき続けた。
「私がいるよ。私はずっとあっくんと一緒にいるよ…」

――私はこの時、あっくんの本当の『お姉ちゃん』になろうと決めた。
隆斗やおじさまの代わりには絶対になれないけど、これ以上寂しい思いだけは絶対にさせたくないから。

それからあっくんは私と暮らすことになった。
本当なら身寄りのないあっくんは施設に行くことになるはずだった。
でも、そうはならなかった。
あっくんが私から離れなかったからだ。
とはいっても、私もまだ大学生だ。収入といえばアルバイトだけ。
大学に通うために一人暮らしをしていたものの、生活の基盤はすべて親頼みだった。
結局おじさまの保険が下りて当面の生活費が担保されたことで、役場のひとが月一回の訪問することを条件にようやく私はあっくんと暮らすことが決まった。

はじめは、あっくんは泣いてばかりだった。
でも、ある日から急にあっくんは泣くのをやめた。
ごはんも食べるようになった。
小さかったあっくんは急に大人びていくようだった。

**
――僕は、見てしまった。
淑乃が兄の写真を抱きしめて夜泣いているのを。
僕の前では明るく、いつも元気づけてくれていた淑乃。
淑乃は大人だから兄が…、隆斗がいなくても生きていけるのだと思っていた。
何ヘラヘラしてるんだって、腹が立つこともあった。

でも、違った。
寂しくないわけがないのだ。
あれだけ大人に見えた淑乃が初めて頼りない女の子に見えた。

この日、僕は思った。
泣いてちゃ駄目だ。
――早く大人になって、僕が淑乃を守るんだ。
**


私があっくんと暮らすようになって1年がたった。

「おはよう」
眠そうにあくびをしながらあっくんが起きてくる。
「おはよ。もうご飯できるから顔洗ってきて」
「うん…」
あっくんはあくびをしながらふらふら洗面所に向かっていく。
私はその間に朝ごはんを仕上げてよいしょとエプロンを外した。
「姉ちゃん、これ持ってけばいい?」
顔を洗って目を覚ましたあっくんがしゃっきりした顔で私に声をかける。
「うん、ありがと」

…あれ?

私は両手に朝ごはんのお皿を持ってダイニングテーブルに向かうあっくんを追いかけた。
「…なに?」
「あっくん、もう私と変わらなくない?」
あっくんは頭の上に『?』を浮かべて小首をかしげる。かわいい。
「背」
「…そりゃ、男だし」
言いながらあっくんはふいっと目をそらしてお皿をテーブルに置いた。

そうか、あっくんももう6年生。いつまでもかわいいって思ってちゃ駄目だよね。
私たちは向かい合って座り、手を合わせた。
「いただきます」

いつの間にか大きくなってたんだなぁ…。

あっくんは大きな口を開けてパンを頬張る。
そのままフォークでオムレツを切ってまた頬張る。
ぼーっとあっくんが食べるのを眺めていると、あっくんがふと食事の手を止めた。

「姉ちゃん? 今日面接じゃないの? 早く食べないと」
あ、そうだった。早く食べて支度しないと。

そう、私も今就活の真っただ中だ。
特に今日は第一志望の会社。遅刻するわけにはいかない。
私はあわててごはんを食べて、学校に行くあっくんを見送って支度をして家を出た。
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