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第三話 航太郎と淑乃(下)
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2.
「ふ…副部長すみません資料を作るデータが足りなくて…」
「これも使ってくれるかな?」
新入社員の入社からもうすぐ一か月。
この子は今年の新卒の一人、桜井 淑乃くんだ。
努力家なのか責任感が強いのか、ほぼ毎日私のもとへやってくる。
最初のころはそうでもなかったとは思うが、最近は顔を真っ赤にして震えながらやってくる。
(怖がらせてしまって申し訳ないなぁ…)
おそらく、俺が忙しいことを誰か…おそらく教育係の狛江くんあたりに聞いたのだろう。
確かに俺は忙しい。それは否定しない。
部署としては人事部の副部長なのだが、あちこちの仕事に対して会議で指摘をしているうちに
「スーパーシニアアドバイザー」というよくわからん役職が付いて大抵の部署のメーリングリストに入れられてしまった。
しかもToに名指しされていることが多く、それが多い日は本当に休憩の時間もない。
おかげで離席していることも多いが、なんとか席にいるタイミングを見計らって仕事上で分からないことを聞きに来ることを申し訳なく思っているのだろう。
今も桜井くんは息が荒い。
瞳はうるみ、顔を赤くしている様子からするとおそらく熱があるのだろう。
「…桜井くん、調子が悪いなら帰ってもいいんだぞ」
「いっ…いえ。 そういうわけには…」
「そうか…。本当に無理な時には言いなさい」
「はっ…はい。ありがとうございます」
そういうと桜井くんは深々と頭を下げてふらふらと去っていく。
それを見ていた周囲からは「桜井ちゃん可哀そ~」「よっぽど怖いんだな…」と同情的な声が上がる。
俺が怖いのは仕方がないこととはいえ、可哀そうなのはそこではないだろう。
俺は立ち上がり、ある部署へ歩き出した。
部署へ向かう途中喫煙所から話し声が聞こえた。
…ちょうどいい。手間が省けたようだ。
俺は目的地を変えて喫煙所に向かった。
「で、どうなってんの? お前桜井ちゃん1週間で落とすって言ってたじゃん」
「まー慌てんなって。今仕込みしてる最中だよ」
狛江くんと同僚の鈴置くんが話している声がする。
「仕込み?」
「ああ。桜井ちゃんに渡した仕事に鬼島さんに確認しなきゃわからない案件を混ぜておいてさ。できる限り一人でやってみて、って言ってある」
狛江くんの言葉に鈴置くんが苦笑いしてあきれたような声を出す。
「お前ひでぇなぁ…」
「鬼島さん怖ぇじゃん? 近いうちに泣きついてくると思ってるんだよね」
楽しそうに狛江くんは話し続ける。
「泣きついてきたらそれからは俺が鬼島さんに確認しに行くようにするさ。そうすれば俺はあっという間に頼りになる先輩だ。落とすのもわけないね」
「お前なぁ…」
「そもそも、桜井ちゃんが優しくしても靡いて来ないのが悪いんだ。少しわからせてやらないと」
「なるほど、君から共有すべき内容を桜井くんが聞きに来るのはそういうことか」
これ以上聞く必要はない。
そう判断した俺は喫煙所に踏み込んだ。
***
今日も荒島さんとお話しできたーー!
思わず浮かんでしまうニヤケ顔を書類で隠しながら私はスキップしそうな足を抑えてゆっくり歩いていた。
ああもう狛江さんありがとう!
心の中で狛江さんに手を合わせながら荒島さんから受けとった書類に目を通す。
いつも通り完璧な書類だ。
必要な情報が余さず記載してあり、しかも読みやすいように付箋までつけてくれている。
最初はそこまでではなかった。
でも、直接荒島さんに聞きに行くことが増えると、本来の書類のほかに付箋や補足資料をつけてくれるようになった。
それがまたわかりやすいし、定例会などで聞かれる質問への答え方の解説書までつけてくれる。
おかげで不器用な私ができる子扱いだ。
会社での評価が上がるのももちろんうれしいけど、まさか入社してすぐでこんなに荒島さんとお話しできるなんて。
しかも、この資料…明らかに私のために作っている。
私が困らないように細かいところの説明から注意点まで。
最初は恩人であり、憧れのひとだったはずなのに。
この一か月ではっきり自覚してしまった。
そうなるともう目を見てお話しするだけでも恥ずかしいわけで…。
こんな気持ちになるなんて全く想像もしていなかったわけで…。
私は今自分の気持ちを持て余している。
少しでも荒島さんの近くに行きたい、荒島さんと話したい。
荒島さんの体臭の混ざったムスクの香りを嗅ぎた…いや、なんでもない。
でも、あまり頻繁に荒島さんに相談に行くと負担をかけてしまう。
行かないのが正解なんだろうけど、行かないと仕事もできないし、何より信頼して仕事を任せてくれている狛江さんに申し訳ない。
少しでも荒島さんや狛江さんの期待を裏切らないように頑張ろう!
そう思って、私は両手で握りこぶしを握りしめた。
***
「お…鬼島さんお疲れ様です」
俺が喫煙所に入ると明らかに動揺したように狛江くんと鈴置くんの目が泳ぐ。
「じゃ…狛江、俺仕事に戻るから」
そう言って鈴置くんは会釈して喫煙所を出ていく。
鈴置くんをそのまま行かせて、狛江くんが出ていかないようにその進路を塞ぐように立つ。
「さて…、さっきの話の続きを聞かせてもらおうか?」
「いや、あははー…何のことでしょうか」
「桜井くんに伝えられる情報を伝えていなかったことだ」
そう言って狛江くんの目を見ると、狛江くんは真っ青になった。
「い、いえ桜井さんには出来なかったら相談するように言っています!でもアイツが勝手にお忙しい鬼島さんに…」
「あいつ?」
「いえ、桜井さんです!」
「まあいい。君は桜井くんに伝えるべき情報を伝えず仕事を振った。認めるな?」
「いえ、できることとできないことを教えようとしていました!相談してきたらボクから鬼島さんにご相談に伺いました!」
「荒島だ」
「ヒッ…、失礼しました!」
分かりやすくうろたえる狛江くんだったが、確かにできないことを相談せず俺に話を持ってきた桜井くんに問題がないとも言えない。
「…いいだろう。今回は目を瞑ろう」
「あっ、ありがとうございます!」
そこで礼を言うこと自体自分に非があると認めているようなものだが、それは言うまい。
狛江くんには入社してから3年間の実績がある。今回はそこを立ててやろう。
「だが、次はないぞ」
「はい!失礼いたします!」
そう言って狛江くんは逃げるように喫煙所を出て行った。
――だが、翌日も桜井くんは俺の席にやってきた。
「あの、たびたびすみません…。また資料にわからないところが」
桜井くんがまた震えながら俺の席に顔を出した時、俺はつい問いかけてしまった。
「狛江くんはどうした?」
「あ、はい。今日は午前中外出で…」
そうか。いないのか。
ならば今回は良しとしてもいいが、昨日喫煙所で話をした時にその気であれば確認できたはずだ。
また桜井くんに念のため作っていた資料を渡して話を終えると今日の桜井くんは立ち去らず、なにかもじもじしていた。
「あの…」
「ん?」
「荒島さんは…、今日の歓迎会にご参加くださいますか?」
歓迎会?
ああ、そういえば今日は新入社員の歓迎会だったか。
ゴールデンウィークに入る直前にホテルの大ホールを借りて行う歓迎会。
変わった時期ではあるがうちの会社の伝統だ。
だが。
「いや、今日はこの後社外打ち合わせが続いて参加できるかわからない」
「そうですか…」
目に見えて落ち込んだ様子の桜井くんに俺は言い添える。
「…わかった。終わり頃になるだろうが出られるようなら顔を出すようにしよう」
今までこういった宴会については俺は行かないほうがいいと思っていた。
何せ、俺はこの風貌で社内で恐れられている。
雰囲気を壊すのも悪いかと思って遠慮していたのだが、不参加でここまでわかりやすく落胆されるのは初めてだ。
俺の言葉に桜井くんは顔を上げて明るい顔で嬉しそうに笑った。
「お待ちしてますね! 普段お世話になってますしお酌させてください!」
俺は酒は飲まないのだがそれを言えばまた落胆させるのだろう。
それに、昨今お酌はアルハラだ。
だがそれを口に出すには桜井くんがあまりにも嬉しそうだった。
「…わかった。一杯だけ頂こう」
「はい!」
そういうと桜井くんはにこにこと上機嫌で去っていく。
怖がられているとは分かっているが、あそこまでわかりやすく喜ばれるのは悪くない。
なるべく間に合うように行くとしよう。
「もうこんな時間か…」
最後の社外打ち合わせを終えて時計を見ると時間は20時を回っていた。
俺はすぐにタクシーを捕まえて乗り込んだが、会場のホテルまでは20分はかかるだろう。
大体20時半にはお開きになるので本当に行くだけで終わるだろうが約束をした手前もある。
果たして、俺が会場のホテルにたどり着いた時には20時半手前になっていた。
すぐにエレベータに乗って会場に向かうが、会場では最後の社長の締めの挨拶が始まっていた。
(間に合わなかったか)
そう思って、ひとまず会場を見渡してみる。
目視できる範囲に桜井くんの姿はない。
とはいえ、このホールは広い。会場のどこかにいるのだろう。
ひとまず俺は会場に足を踏み入れる。
俺に気づいた何人かから挨拶を受けるがそれに手を挙げて応え会場の奥へ。
――いた。
会場の奥、パーテーションで区切られた少し陰になった区画。
鞄を置いたり上着などをかけて置くスペースだろう、そこに机に伏せた桜井くんを見つけた。
「大丈夫か?」
声をかけてみるが返事はない。
だが、後ろ姿からでも耳まで赤くなっていることがわかる様子を見るとかなり酒を飲んだのだろう。
「桜井くん?」
「ん~… もう飲めませぇん…」
「そうか、わかった。だがこんなところで寝ていてはいけない。すぐにタクシーを呼ぼう」
「あっ、荒島さん」
「狛江くんか。ずいぶん飲ませたな」
「あ、いえ、その…。荒島さんはなぜここに…」
「会場に着いたら今だった」
(…マジかよ、いつも参加しないのに何で今年だけ来るんだよ)
口の中で小さくつぶやいたつもりだろうが、丸聞こえだ。
「桜井くんは私がタクシーで送っていこう。君は二次会に行くんだろう。楽しんできたまえ」
そう言って桜井くんに立てるか、と声をかけると小さく頷いたので肩を貸すように立ち上がらせる。
狛江くんは青い顔をして何か言いたそうにしていたが、直接俺に異を唱える度胸は無いらしい。
(さすがにもう見逃してやるのは難しいな)
俺は桜井くんの荷物を受け取るとそのまま彼女を抱き上げ会場を後にした。
ホテルを出て入口に連なっていたタクシーの一台を捕まえると俺は桜井くんと後部座席に乗り込んだ。
もう少し意識がしっかりしていればタクシーに預けるだけでもよさそうだったがこの様子では無理だ。
念のため会場で確保してきたビニール袋を桜井くんに渡して、彼女を支えるように隣に座る。
「○○区の△△駅付近まで行って下さい」
人事の社員名簿に載っていた為把握していた桜井くんの住所を告げるとタクシーはゆっくり走り出す。
「桜井くん、今タクシーに乗ったぞ。わかるか?」
「あ、荒島さん~。 お待ちしてたんですよぉ?」
桜井くんは俺の顔を見ると、とろんとした顔で嬉しそうに笑った。
「お約束通りお酌させてくださいよぉ~…」
これは、駄目だな。
「家には誰かいるか?」
「はい、あっくんがいます~」
「あっくん?」
「弟です~。あっくんはいい子なんです~。可愛くてサッカーもうまくてこの間も表彰されて~」
どうやら、家には弟がいるらしい。
それならこのまま送っても大丈夫だろう。
桜井くんにとって「あっくん」というのはよほど可愛がっている弟なのだろう。
タクシーに乗っている間中桜井くんは「あっくん」を自慢し続けた。
俺自身が奔放な姉に振り回されているからか、姉として弟を溺愛する桜井くんはとても微笑ましく思える。
「あっ、荒島しゃん笑ってるぅ~」
「そうか?」
「はい~、どきどきしちゃいます。いつもは目を細めてるのが笑顔だと思ってましたから~…」
言いながら桜井くんは俺にもたれかかり頭をぐりぐりと押し付ける。
「…かっこいいです。しゅき…」
そのまま俺に体重を預けた。
「…もうすぐ着くようだ」
しばらくして指定した駅の近くに着いたので細かい指示を出して一軒のマンションの前に止めてもらった。
桜井くんを支えながら、桜井くんの居住階まで上がりインターホンを押す。
しばらくして一人の少年が顔を出した。彼があっくん…晶斗くんだろう。
晶斗くんの顔を見ると、桜井くんは嬉しそうに抱き着いた。
「あっくんたらいまぁ~」
「おかえり…って姉ちゃん酒臭っ!?」
「君が晶斗くんだな。すまないな。私の監督不行き届きだ」
声をかけた俺に、晶斗くんは怪訝そうな顔をする。
「…どうして僕の名を?」
「タクシーの中でずっと『うちの弟はすごいんです!』って自慢されたよ。じゃあ、あとは任せたぞ」
「…あなたに言われなくても。今日はありがとうございました」
晶斗くんは桜井くんを支えたまま折り目正しく頭を下げた。
まだ小学校の高学年か中学生くらいか?なのに、しっかりした少年だ。
「ありあとごひゃいました~」
真っ赤な顔でお礼を言う桜井くんに頷いて、俺は玄関のドアを閉めた。
***
「あのひとが荒島さん…」
…淑乃がいつも楽しそうに話してくれる『頼りになる素敵な人』。
なるほど、背も高くてがっしりしていて、あの落ち着いた物腰…。
年相応の貫禄、と言うのだろうか。近くにいたらたぶん安心しかないだろう。
今日だって、おそらく飲みすぎた淑乃が無事に帰れるように送ってくれたのだと思う。
淑乃の気の許し方を見ても、明らかに無理やりに飲ませたわけではない。
でもさ!
それはわかるけど、いくら何でもあんなおっさんにベタベタしなくても…!
晶斗の頭の中で不満と不安が渦を巻く。
あの人幾つくらいなんだろう? 多分僕と淑乃よりもまだ齢は離れているはずだ。
それなのにふたりは大人同士で。
僕と淑乃は大人と子どもで。
それが悔しい。
「…あんなおっさんより絶対に僕の方が姉ちゃ…淑乃のこと好きなのに…」
――晶斗がつぶやいた言葉は、淑乃の耳に届くことはなかった。
***
「ただいま」
「遅いです!」
淑乃を送ってようやく自宅に帰り着いた航太郎を皐月の元気な声が迎えた。
「21時くらいに帰ってくるって聞いてたからずっと待ってたんですよ?」
「そもそも、こんな時間に来るな」
「大丈夫です。来たのは夕方ですから。おじい様たちにも今日はおじさまの家に泊まるって言ってあります」
「そういうことはまず俺に言っておけ」
「だって、言ったら断るじゃないですか」
そう言って口を尖らせる皐月に航太郎は苦笑いする。
「わかってるならするんじゃない」
こつんと皐月の頭を痛くないように小突いて航太郎は家に上がる。
「おじさま、ジャケットを」
「ん? ああ、すまんな」
航太郎はジャケットを皐月に渡してネクタイを緩めながらリビングに向かう。
皐月は航太郎のジャケットをハンガーに通し、スチームアイロンをかけようとラックにかける。
すると、ふわっと淑乃の残り香が香った。
「これは…香水の香り? まさかおじさまに女の影が…」
言いながらジャケットを見上げる。
「…あっても不思議はない、でしょうね。おじさま格好いいから。でも、あのおじさまにくっつけるなんてどんな女なのでしょう…」
皐月が香水の持ち主である淑乃を夏祭りで見るまであと3か月――。
「ふ…副部長すみません資料を作るデータが足りなくて…」
「これも使ってくれるかな?」
新入社員の入社からもうすぐ一か月。
この子は今年の新卒の一人、桜井 淑乃くんだ。
努力家なのか責任感が強いのか、ほぼ毎日私のもとへやってくる。
最初のころはそうでもなかったとは思うが、最近は顔を真っ赤にして震えながらやってくる。
(怖がらせてしまって申し訳ないなぁ…)
おそらく、俺が忙しいことを誰か…おそらく教育係の狛江くんあたりに聞いたのだろう。
確かに俺は忙しい。それは否定しない。
部署としては人事部の副部長なのだが、あちこちの仕事に対して会議で指摘をしているうちに
「スーパーシニアアドバイザー」というよくわからん役職が付いて大抵の部署のメーリングリストに入れられてしまった。
しかもToに名指しされていることが多く、それが多い日は本当に休憩の時間もない。
おかげで離席していることも多いが、なんとか席にいるタイミングを見計らって仕事上で分からないことを聞きに来ることを申し訳なく思っているのだろう。
今も桜井くんは息が荒い。
瞳はうるみ、顔を赤くしている様子からするとおそらく熱があるのだろう。
「…桜井くん、調子が悪いなら帰ってもいいんだぞ」
「いっ…いえ。 そういうわけには…」
「そうか…。本当に無理な時には言いなさい」
「はっ…はい。ありがとうございます」
そういうと桜井くんは深々と頭を下げてふらふらと去っていく。
それを見ていた周囲からは「桜井ちゃん可哀そ~」「よっぽど怖いんだな…」と同情的な声が上がる。
俺が怖いのは仕方がないこととはいえ、可哀そうなのはそこではないだろう。
俺は立ち上がり、ある部署へ歩き出した。
部署へ向かう途中喫煙所から話し声が聞こえた。
…ちょうどいい。手間が省けたようだ。
俺は目的地を変えて喫煙所に向かった。
「で、どうなってんの? お前桜井ちゃん1週間で落とすって言ってたじゃん」
「まー慌てんなって。今仕込みしてる最中だよ」
狛江くんと同僚の鈴置くんが話している声がする。
「仕込み?」
「ああ。桜井ちゃんに渡した仕事に鬼島さんに確認しなきゃわからない案件を混ぜておいてさ。できる限り一人でやってみて、って言ってある」
狛江くんの言葉に鈴置くんが苦笑いしてあきれたような声を出す。
「お前ひでぇなぁ…」
「鬼島さん怖ぇじゃん? 近いうちに泣きついてくると思ってるんだよね」
楽しそうに狛江くんは話し続ける。
「泣きついてきたらそれからは俺が鬼島さんに確認しに行くようにするさ。そうすれば俺はあっという間に頼りになる先輩だ。落とすのもわけないね」
「お前なぁ…」
「そもそも、桜井ちゃんが優しくしても靡いて来ないのが悪いんだ。少しわからせてやらないと」
「なるほど、君から共有すべき内容を桜井くんが聞きに来るのはそういうことか」
これ以上聞く必要はない。
そう判断した俺は喫煙所に踏み込んだ。
***
今日も荒島さんとお話しできたーー!
思わず浮かんでしまうニヤケ顔を書類で隠しながら私はスキップしそうな足を抑えてゆっくり歩いていた。
ああもう狛江さんありがとう!
心の中で狛江さんに手を合わせながら荒島さんから受けとった書類に目を通す。
いつも通り完璧な書類だ。
必要な情報が余さず記載してあり、しかも読みやすいように付箋までつけてくれている。
最初はそこまでではなかった。
でも、直接荒島さんに聞きに行くことが増えると、本来の書類のほかに付箋や補足資料をつけてくれるようになった。
それがまたわかりやすいし、定例会などで聞かれる質問への答え方の解説書までつけてくれる。
おかげで不器用な私ができる子扱いだ。
会社での評価が上がるのももちろんうれしいけど、まさか入社してすぐでこんなに荒島さんとお話しできるなんて。
しかも、この資料…明らかに私のために作っている。
私が困らないように細かいところの説明から注意点まで。
最初は恩人であり、憧れのひとだったはずなのに。
この一か月ではっきり自覚してしまった。
そうなるともう目を見てお話しするだけでも恥ずかしいわけで…。
こんな気持ちになるなんて全く想像もしていなかったわけで…。
私は今自分の気持ちを持て余している。
少しでも荒島さんの近くに行きたい、荒島さんと話したい。
荒島さんの体臭の混ざったムスクの香りを嗅ぎた…いや、なんでもない。
でも、あまり頻繁に荒島さんに相談に行くと負担をかけてしまう。
行かないのが正解なんだろうけど、行かないと仕事もできないし、何より信頼して仕事を任せてくれている狛江さんに申し訳ない。
少しでも荒島さんや狛江さんの期待を裏切らないように頑張ろう!
そう思って、私は両手で握りこぶしを握りしめた。
***
「お…鬼島さんお疲れ様です」
俺が喫煙所に入ると明らかに動揺したように狛江くんと鈴置くんの目が泳ぐ。
「じゃ…狛江、俺仕事に戻るから」
そう言って鈴置くんは会釈して喫煙所を出ていく。
鈴置くんをそのまま行かせて、狛江くんが出ていかないようにその進路を塞ぐように立つ。
「さて…、さっきの話の続きを聞かせてもらおうか?」
「いや、あははー…何のことでしょうか」
「桜井くんに伝えられる情報を伝えていなかったことだ」
そう言って狛江くんの目を見ると、狛江くんは真っ青になった。
「い、いえ桜井さんには出来なかったら相談するように言っています!でもアイツが勝手にお忙しい鬼島さんに…」
「あいつ?」
「いえ、桜井さんです!」
「まあいい。君は桜井くんに伝えるべき情報を伝えず仕事を振った。認めるな?」
「いえ、できることとできないことを教えようとしていました!相談してきたらボクから鬼島さんにご相談に伺いました!」
「荒島だ」
「ヒッ…、失礼しました!」
分かりやすくうろたえる狛江くんだったが、確かにできないことを相談せず俺に話を持ってきた桜井くんに問題がないとも言えない。
「…いいだろう。今回は目を瞑ろう」
「あっ、ありがとうございます!」
そこで礼を言うこと自体自分に非があると認めているようなものだが、それは言うまい。
狛江くんには入社してから3年間の実績がある。今回はそこを立ててやろう。
「だが、次はないぞ」
「はい!失礼いたします!」
そう言って狛江くんは逃げるように喫煙所を出て行った。
――だが、翌日も桜井くんは俺の席にやってきた。
「あの、たびたびすみません…。また資料にわからないところが」
桜井くんがまた震えながら俺の席に顔を出した時、俺はつい問いかけてしまった。
「狛江くんはどうした?」
「あ、はい。今日は午前中外出で…」
そうか。いないのか。
ならば今回は良しとしてもいいが、昨日喫煙所で話をした時にその気であれば確認できたはずだ。
また桜井くんに念のため作っていた資料を渡して話を終えると今日の桜井くんは立ち去らず、なにかもじもじしていた。
「あの…」
「ん?」
「荒島さんは…、今日の歓迎会にご参加くださいますか?」
歓迎会?
ああ、そういえば今日は新入社員の歓迎会だったか。
ゴールデンウィークに入る直前にホテルの大ホールを借りて行う歓迎会。
変わった時期ではあるがうちの会社の伝統だ。
だが。
「いや、今日はこの後社外打ち合わせが続いて参加できるかわからない」
「そうですか…」
目に見えて落ち込んだ様子の桜井くんに俺は言い添える。
「…わかった。終わり頃になるだろうが出られるようなら顔を出すようにしよう」
今までこういった宴会については俺は行かないほうがいいと思っていた。
何せ、俺はこの風貌で社内で恐れられている。
雰囲気を壊すのも悪いかと思って遠慮していたのだが、不参加でここまでわかりやすく落胆されるのは初めてだ。
俺の言葉に桜井くんは顔を上げて明るい顔で嬉しそうに笑った。
「お待ちしてますね! 普段お世話になってますしお酌させてください!」
俺は酒は飲まないのだがそれを言えばまた落胆させるのだろう。
それに、昨今お酌はアルハラだ。
だがそれを口に出すには桜井くんがあまりにも嬉しそうだった。
「…わかった。一杯だけ頂こう」
「はい!」
そういうと桜井くんはにこにこと上機嫌で去っていく。
怖がられているとは分かっているが、あそこまでわかりやすく喜ばれるのは悪くない。
なるべく間に合うように行くとしよう。
「もうこんな時間か…」
最後の社外打ち合わせを終えて時計を見ると時間は20時を回っていた。
俺はすぐにタクシーを捕まえて乗り込んだが、会場のホテルまでは20分はかかるだろう。
大体20時半にはお開きになるので本当に行くだけで終わるだろうが約束をした手前もある。
果たして、俺が会場のホテルにたどり着いた時には20時半手前になっていた。
すぐにエレベータに乗って会場に向かうが、会場では最後の社長の締めの挨拶が始まっていた。
(間に合わなかったか)
そう思って、ひとまず会場を見渡してみる。
目視できる範囲に桜井くんの姿はない。
とはいえ、このホールは広い。会場のどこかにいるのだろう。
ひとまず俺は会場に足を踏み入れる。
俺に気づいた何人かから挨拶を受けるがそれに手を挙げて応え会場の奥へ。
――いた。
会場の奥、パーテーションで区切られた少し陰になった区画。
鞄を置いたり上着などをかけて置くスペースだろう、そこに机に伏せた桜井くんを見つけた。
「大丈夫か?」
声をかけてみるが返事はない。
だが、後ろ姿からでも耳まで赤くなっていることがわかる様子を見るとかなり酒を飲んだのだろう。
「桜井くん?」
「ん~… もう飲めませぇん…」
「そうか、わかった。だがこんなところで寝ていてはいけない。すぐにタクシーを呼ぼう」
「あっ、荒島さん」
「狛江くんか。ずいぶん飲ませたな」
「あ、いえ、その…。荒島さんはなぜここに…」
「会場に着いたら今だった」
(…マジかよ、いつも参加しないのに何で今年だけ来るんだよ)
口の中で小さくつぶやいたつもりだろうが、丸聞こえだ。
「桜井くんは私がタクシーで送っていこう。君は二次会に行くんだろう。楽しんできたまえ」
そう言って桜井くんに立てるか、と声をかけると小さく頷いたので肩を貸すように立ち上がらせる。
狛江くんは青い顔をして何か言いたそうにしていたが、直接俺に異を唱える度胸は無いらしい。
(さすがにもう見逃してやるのは難しいな)
俺は桜井くんの荷物を受け取るとそのまま彼女を抱き上げ会場を後にした。
ホテルを出て入口に連なっていたタクシーの一台を捕まえると俺は桜井くんと後部座席に乗り込んだ。
もう少し意識がしっかりしていればタクシーに預けるだけでもよさそうだったがこの様子では無理だ。
念のため会場で確保してきたビニール袋を桜井くんに渡して、彼女を支えるように隣に座る。
「○○区の△△駅付近まで行って下さい」
人事の社員名簿に載っていた為把握していた桜井くんの住所を告げるとタクシーはゆっくり走り出す。
「桜井くん、今タクシーに乗ったぞ。わかるか?」
「あ、荒島さん~。 お待ちしてたんですよぉ?」
桜井くんは俺の顔を見ると、とろんとした顔で嬉しそうに笑った。
「お約束通りお酌させてくださいよぉ~…」
これは、駄目だな。
「家には誰かいるか?」
「はい、あっくんがいます~」
「あっくん?」
「弟です~。あっくんはいい子なんです~。可愛くてサッカーもうまくてこの間も表彰されて~」
どうやら、家には弟がいるらしい。
それならこのまま送っても大丈夫だろう。
桜井くんにとって「あっくん」というのはよほど可愛がっている弟なのだろう。
タクシーに乗っている間中桜井くんは「あっくん」を自慢し続けた。
俺自身が奔放な姉に振り回されているからか、姉として弟を溺愛する桜井くんはとても微笑ましく思える。
「あっ、荒島しゃん笑ってるぅ~」
「そうか?」
「はい~、どきどきしちゃいます。いつもは目を細めてるのが笑顔だと思ってましたから~…」
言いながら桜井くんは俺にもたれかかり頭をぐりぐりと押し付ける。
「…かっこいいです。しゅき…」
そのまま俺に体重を預けた。
「…もうすぐ着くようだ」
しばらくして指定した駅の近くに着いたので細かい指示を出して一軒のマンションの前に止めてもらった。
桜井くんを支えながら、桜井くんの居住階まで上がりインターホンを押す。
しばらくして一人の少年が顔を出した。彼があっくん…晶斗くんだろう。
晶斗くんの顔を見ると、桜井くんは嬉しそうに抱き着いた。
「あっくんたらいまぁ~」
「おかえり…って姉ちゃん酒臭っ!?」
「君が晶斗くんだな。すまないな。私の監督不行き届きだ」
声をかけた俺に、晶斗くんは怪訝そうな顔をする。
「…どうして僕の名を?」
「タクシーの中でずっと『うちの弟はすごいんです!』って自慢されたよ。じゃあ、あとは任せたぞ」
「…あなたに言われなくても。今日はありがとうございました」
晶斗くんは桜井くんを支えたまま折り目正しく頭を下げた。
まだ小学校の高学年か中学生くらいか?なのに、しっかりした少年だ。
「ありあとごひゃいました~」
真っ赤な顔でお礼を言う桜井くんに頷いて、俺は玄関のドアを閉めた。
***
「あのひとが荒島さん…」
…淑乃がいつも楽しそうに話してくれる『頼りになる素敵な人』。
なるほど、背も高くてがっしりしていて、あの落ち着いた物腰…。
年相応の貫禄、と言うのだろうか。近くにいたらたぶん安心しかないだろう。
今日だって、おそらく飲みすぎた淑乃が無事に帰れるように送ってくれたのだと思う。
淑乃の気の許し方を見ても、明らかに無理やりに飲ませたわけではない。
でもさ!
それはわかるけど、いくら何でもあんなおっさんにベタベタしなくても…!
晶斗の頭の中で不満と不安が渦を巻く。
あの人幾つくらいなんだろう? 多分僕と淑乃よりもまだ齢は離れているはずだ。
それなのにふたりは大人同士で。
僕と淑乃は大人と子どもで。
それが悔しい。
「…あんなおっさんより絶対に僕の方が姉ちゃ…淑乃のこと好きなのに…」
――晶斗がつぶやいた言葉は、淑乃の耳に届くことはなかった。
***
「ただいま」
「遅いです!」
淑乃を送ってようやく自宅に帰り着いた航太郎を皐月の元気な声が迎えた。
「21時くらいに帰ってくるって聞いてたからずっと待ってたんですよ?」
「そもそも、こんな時間に来るな」
「大丈夫です。来たのは夕方ですから。おじい様たちにも今日はおじさまの家に泊まるって言ってあります」
「そういうことはまず俺に言っておけ」
「だって、言ったら断るじゃないですか」
そう言って口を尖らせる皐月に航太郎は苦笑いする。
「わかってるならするんじゃない」
こつんと皐月の頭を痛くないように小突いて航太郎は家に上がる。
「おじさま、ジャケットを」
「ん? ああ、すまんな」
航太郎はジャケットを皐月に渡してネクタイを緩めながらリビングに向かう。
皐月は航太郎のジャケットをハンガーに通し、スチームアイロンをかけようとラックにかける。
すると、ふわっと淑乃の残り香が香った。
「これは…香水の香り? まさかおじさまに女の影が…」
言いながらジャケットを見上げる。
「…あっても不思議はない、でしょうね。おじさま格好いいから。でも、あのおじさまにくっつけるなんてどんな女なのでしょう…」
皐月が香水の持ち主である淑乃を夏祭りで見るまであと3か月――。
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