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15.伯爵夫人、再び静かに怒る
しおりを挟む「大丈夫ですか、オリービア? 下は泥濘んでいますから、動く時は気を付けて下さいね」
地面の泥濘に足を滑らせ、倒れそうになった身体をローレルが抱き留めて支えてくれ、自分にしか聞こえないような小さな声で囁かれる。オリービアは顔を上げると、微笑んだ。
「ありがとうございます、ローレルさん。助かりましたわ――」
腰を抱かれ互いの身体が密着し、予想外にローレルの端正な顔が近かった事に、オリービアの頬が思わず赤くなった。
その彼女の顔を見て、ローレルもつられて赤面する。
「あっ……す、すみません」
「い……いえ、大丈夫ですわ。こちらこそ……」
お互い慌てて顔を離したが、泥濘んだ足元で身体まで離すと危ないと思ったのか、ローレルはオリービアを抱きしめたままだった。
ニアナは心の中で、手のひら机バンバンと激しくゴロゴロ転げ回りが止まらない。
「オリービアッ!」
その時叫びに近い声で名を呼ばれ、オリービアが振り返ると、急いで走ってきたのか軽く息を切らしたハイドがそこにいた。
「あら、旦那様? どうされた――」
「おい、お前。今すぐオリービアの身体を離せ。彼女は俺の妻だ。勝手に触れる事は許さない」
怒りを隠さず表情に出しているハイドに、オリービアとローレルは目を丸くして顔を見合わせた。
「旦那様、ローレルさんはわたくしが滑って倒れそうになったのを支えてくれただけですわ。何をそんなに怒ってらっしゃるんですか? 許さないって……貴方にはユーカリ様がいらっしゃるではないですか」
「……っ! オリービア、それは違うんだ! 彼女は従姉だ。俺は彼女を姉のようにしか思っていない! 世間では愛人と思われているらしいが、それは全くの誤解だ! 勿論彼女には何もしていないし、彼女をそういう目で見た事は一度だって無い! これからもずっとだ!!」
必死の形相で捲し立てるハイドに、オリービアはキョトンとした顔を向けた。
「あら……そうなんですの? あの仲睦まじさはそういう仲としか見えませんでしたわ」
「う、嘘をつかれていたんだっ! 腕を組むのは誰でもする事だって……っ!」
「あらあら、まぁ……」
(それさえも分からなかったなんて……。旦那様の中で、そういう知識は幼少期で止まっているのかしら? 余程女性との接点が無かったのね……。――あぁ……でもそれですと、慰謝料請求は難しくなりましたわね……)
「ちょっとハイドぉ、急に走ってどうしたのよ。アタシを置いていかないでよ」
そこへ、ユーカリが不機嫌な表情で歩いてきた。
そして農作業姿のオリービアを見て、ブッと吹き出し笑い出す。
「アハハッ! 何よその姿は? 泥塗れで汚らしいわ! まぁ、田舎の芋娘のアンタにはお似合いね? この畑の持ち主と仲良く泥遊びでもしてなさいよ。アタシはそんな野蛮で汚らしい事は絶対にしないけど?」
そう言って可笑しそうに嗤い続けるユーカリに、オリービアはスッと表情を失くし、静かに怒れる声を発した。
「……今の発言は許す事は出来ませんわ、ユーカリ・ブルタスさん。農作業をしている皆様は、天候が悪い日も、汗水を流してこの美味しい野菜達を作っているのです。その野菜達が貴女のお腹を満たし、健康にも繋がっているのですよ。感謝こそすれ、卑しめるのは間違っています。発言の撤回を強く求めますわ」
「はあぁ? ド田舎娘のアンタが何を偉そうに!!」
ハイドは、凛としてユーカリに立ち向かうオリービアを、眩しそうに目を細めて見つめた。
(……また君は、自分ではなく他人の為に怒るんだな……)
「……謝るんだ、ユーカリさん」
「は? 何を――」
「貴女は決して言ってはいけない事を言った。謝罪するのが道理だ。オリービアと畑の持ち主に謝るんだ」
「はぁ? な、何よアンタまで……。――あーぁ、やってらんないわ! アタシ帰る!!」
ユーカリはヒステリックに叫ぶと、踵を返し早歩きでこの場から去って行った。
「……従姉が心無い言葉を言ってしまい、大変申し訳ない。代わって深くお詫び申し上げる」
深々と頭を下げるハイドに、畑の持ち主は首を横に振った。
「別に気にしちゃいませんよ、顔を上げて下せぇ。この歳になると、あんなんで腹を立てる事は無くなりましたからね。けど、当主様はあの女の言いなりになってるかと思ってましたが……。ちょびっとだけ見直しましたぜ。ホンのちょびっとだけね」
「……ありがとう」
オリービアはハイドの変わり様に目を見開き、まじまじと彼を見つめてしまった。
(旦那様がユーカリ・ブルタスに反論するなんて……。しかもおじ様の不躾な物言いと、彼女の事を『あの女』と呼んだのに、怒りもしないなんて……。彼にどんな心境の変化があったのでしょう?)
「……オリービア。君は何をしていたんだ?」
ハイドからの問い掛けに、オリービアはハッと我に返ると小さくコホンと咳払いをし、説明を始めた。
「町民が何に困っているか、何が必要かは、言葉で聴くだけではなく実際に経験した方がよろしいかと思いまして。お蔭で、農作業はこんなに大変な事が分かりましたわ」
「君がそこまで――」
「踏ん反り返って見ているだけで何もしないのは好きではありませんの」
「……っ!」
今までの自分に言われているようで、ハイドは抉られた胸に思わず手を当てる。
「確かにこの作業は腰と肩が辛いですわね……。御年配の方でしたら尚更だと思いますわ」
「そうなんだよ。お嬢さんが町の浮浪者との間に立って取り持ってくれたお蔭で、どの農地も人手がグンと増えて大分楽にはなったんだが、やっぱり年寄りには身体が辛くてなぁ」
「……っ!」
ハイドはそこで、エルム団長の言葉を思い出す。
『町の外れにいた沢山の浮浪者も殆どいなくなってる、ってさ。また近い内に行きたいって声を弾ませながら言ってたよ』
(浮浪者が少なくなったのは、彼らに働く場所を提供したオリービアのお蔭だったのか……!? ――と……いう事は……料理店のシェフに掛け合った者と仮面の女性は、やはり――)
「実はまだ販売前なのですが、身体の筋肉組織を刺激して、疲労回復に筋肉の疲れやコリを取る事を目的とした機器が造られたのです。この機器を幾つか購入して、誰でも自由に使えるように宿屋に置きましょう。魔力で動くのですが、わたくしが何とかしますので大丈夫ですわ」
「おぉっ! そんな代物があるんかい!? そりゃ嬉しいし助かるわ!」
大喜びの表情でオリービアの手を握りブンブンと振る畑の持ち主に、彼女は優しく微笑む。
「……オリービア。その機器はかなり高額の販売額だった筈だ。まさかまた君の私財で出すのか……?」
「えぇ、そのまさかですけれど」
「そんなのは駄目だ!! 町人の為に購入する物なんだし、俺の私財で出す。君はそこまでしなくていい」
「……それは助かりますが……いいんですの?」
「問題無い。君はこれ以上借金を増やさないでくれ」
「……では、お言葉に甘えますわ。ありがとうございます、旦那様」
オリービアにニコリと微笑まれ、ハイドの胸が自分の意思関係なく、ドクンと大きく波打つ。
(――ち、違う……違う違う! 思い出せ! 彼女は男漁りをしているんだぞ!? そ……そんな節操無しな相手に、俺は――)
認めたくない“想い”を、無理矢理心の奥に押し留める。
別の事を考えようと頭を振り、ハイドはふと気付いた。
(オリービアが言った機器は、魔導士団の『特別顧問』を筆頭に、魔導士団と工具開発陣が協力して作った、まだ公になっていない物だ。しかも魔力を使うなんて、開発に関与した者だけしか知らない内容だ。それをどうして何の接点も無い彼女が知ってるんだ……?)
ハイドのその疑問は、一週間後、彼が登城した時に明らかになる――
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