エミリーと精霊

朝山みどり

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15 火の精霊の異変 1

 その夜は、眠りが浅かった。まぶたを閉じると、どこか遠いところで、鎖が水の底から持ち上がる音がする。
土が箱になり、風がそれをはるかへ運ぶ。見たことのない景色なのに、知っている気がした。
 胸の真ん中が静かに震え、やがて、震えは波のようにおさまっていく。 
 火の精霊のざわめきが、遠のく。代わりに、黒い塵のようなものがどこかでぱらぱらと崩れる感覚だけが残った。


 その朝、わたしはいつもより早く目を覚ました。窓の外に見える空はまだ淡い灰色で、夜明けの気配を残していた。枕元の机の上に、小さな影がちょこんと座っている。わたしの精霊――銀色の鱗を持つちっぽけなトカゲだ。
 彼はいつもと変わらない。丸い瞳をゆっくりと瞬かせ、尾をゆらりと揺らしている。
 

 けれど、階下を駆ける侍女たちが騒々しいことに気づいた。ひそひそ声だが、聞こえてくる。
 「侯爵閣下の不死鳥が……」
 「炎を失って、真っ黒に……」
 「お嬢様方の精霊も……」

 その言葉を耳にした瞬間、わたしは息を止めた。信じられない!
 火の精霊たちが、いっせいに炎をなくした?
 制御出来なくなっているなと思ったが‥‥‥そうなるのか?

 にわかには信じられなかった。屋敷の誇りである不死鳥も、妹が契約した紫炎のハヤブサも、燃えさかる力を象徴としていた。あれほど人々を圧倒していた炎が――今は、焼け焦げた残骸のようになっているという。
 ちょっと見てみたいと思ったわたしは家族に冷たいよね。それは仕方ないよね。

 侍女たちは恐怖と困惑で声を震わせていた。屋敷じゅうの精霊が騒然としているらしい。
 わたしは机の上の小さな精霊に目を落とした。彼だけは変わらなかった。すべすべとした銀の鱗は光を映し、緑の瞳には金の粒がちらついている。

「……あなたはいつも通り?」

 問いかけても、精霊はただ首をかしげるだけだった。けれど、その何でもない仕草が不思議と心を落ち着かせてくれた。周囲がどれほどざわめいても、この小さな存在は変わらない。わたしの側にいる。
 それだけで、胸の奥に温かなものが灯るのを感じた。

 朝食の席は誰もいなかった。わたしは黙ってスープを口に運び、早々に席を立った。
 今日は学院に行かなければならない。どんな顔で皆が現れるのだろう。あるいは、現れられないのだろうか。
 姉は学院に行かないと思うが、馭者に確認に行って貰った。

 学園の門をくぐったとき、すぐに異様な静けさに気づいた。
 いつもなら朝から華やかな声が飛び交い、燃える尾を引く精霊が空を舞っている。だが今日は違った。精霊はいるけど、青く揺らめくリス?

 緑色のたてがみのライオンが、優しくだっこされてわたしを見ていた。

 掲示板前に集まっていた生徒たちも、穏やかに話をしていた。やはり、火の精霊を持つ人は来ていないようだ。
 こうしてみると火の精霊持ちは目立つ人たちだったとわかる。実際の人数より多く感じていたようだ。
 「生徒会長が、来ていない」と誰かが囁くのを耳にした。

 生徒会長――彼はいつも壇上で堂々と演説をし、わたしたちに未来や責任を語りかけてきた。その声は大きく、言葉は鋭く、わたしの心を何度も刺してきた。
 あの乱暴者のクジャクがいないって‥‥‥・いないって‥‥‥せいせいする!
 

 教室に入ると、空席があちこちに散らばっていた。欠席者の名が読み上げられるたび、教室はざわめきに包まれる。
 けれど、わたしの胸の奥には、思いがけない感覚が広がっていった。

 ――居心地がいい。

 あの視線がない。あの声がない。比べられる相手が、そこにいない。
 ただそれだけで、椅子に座る体が軽く感じられた。机に広げた本の文字が、こんなにもすんなり頭に入ってくるなんて。

 教師は落ち着かず、授業の言葉も上の空だった。けれどその緩さすら心地よい。
 今まで常に張り詰めていた空気が、緩んでいる。空気が美味しい。

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