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春告げ鳥
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春告げ鳥が鳴くころ、わたしはあの人と知り合った。
朝の空気はまだ冷たくて、土の匂いにかすかな青さが混じっていた。
あの人が笑うと、なぜかいつも春告げ鳥の声が重なる。遠くで一声、近くでもう一声。まるで笑顔に合いの手を入れるみたいに。
春告げ鳥が鳴くころ、あの人は戦争に行った。
「笑って待っていてね」
そう言って、あの人は笑った。胸の奥に残るほど、何度も。忘れないようにと、覚えていてほしいと、わざと大げさに。あの声に、また春告げ鳥が重なった。わたしはうなずいた。うなずくしかなかった。
覚えているはずなのに。
いちばんはっきり思い出せるのは、振り返らなかった背中だ。肩の線、長い足、土を踏む音。
呼び止めなかったことを、今でもときどき後悔する。呼んだら、あの人は振り返ってくれただろうか。
振り返って、もう一度笑ってくれただろうか? 行かせない理由を与えてしまっただろうか。
春告げ鳥は今年も鳴く。
同じ時、同じ声色。なのに、世界の色だけが少し違う。待つことに慣れたはずの時間が、春になると少しだけ重くなる。
笑って待っていてね、という言葉を、わたしは守れているだろうか。
笑顔を思い出そうとするたび、声が混ざる。
春告げ鳥の声が、あの人の声に寄り添って、離れない。
今年も鳴いている。
でも、あの人は戻らない。
それでも、わたしは耳を澄ます。
笑って待つ約束をちゃんと守っている。
今年の春告げ鳥は、ずいぶん早く鳴いた。
まだ朝の空気は冬で、吐く息の白さが目に見えるほどなのに、あの声だけが季節を追い越して届いた。
待ちくたびれたわたしのためだろうか、そんな馬鹿げたことを、自然に思ってしまう自分が少し可笑しかった。
よく聞こえるように、窓を開けた。
冷たい風が部屋に流れ込み、長く閉め切っていた空気をゆっくり押し出していく。
カーテンが揺れ、その向こうで春告げ鳥がまた鳴いた。澄んだ声だ。昔と変わらない。
変わらないものが、こんなにも胸に沁みるなんて知らなかった。
気づけば、体はずいぶん言うことを聞かなくなっていた。
朝、起き上がるだけで時間がかかる。歩幅は小さく、階段は手すりを頼りに、数えながらでないと上れない。
それでも、窓辺に立つときだけは、昔の癖がそのまま残っている。背筋を伸ばして、外を見る。あの人を少しでも早く見つけたいから、ずっとそうしていた。
あの人がいなくなってからも、春になるとそうしてきた。
初めて知り合ったのも、春告げ鳥が鳴くころだった。
あの人は、少し困ったような、それでいて優しい笑顔で自己紹介をした。
声は低くて穏やかで、言葉の端々に笑いが含まれていた。
その声に、あの鳥の鳴き声が重なった瞬間を、今でもはっきり覚えている。
偶然なのに、運命の合図のように思えた。
戦争に行くと言われた日のことも、忘れていない。
「笑って待っていてね」
そう言って、あの人は何度も笑った。覚えていてほしいとでも言うみたいに、少し大げさに。
わたしはその笑顔を胸に刻もうとして、かえって不安になった。
失う前に覚え込もうとすること自体が、別れを予感しているようで怖かったから。
わたしは待った。笑って待った。
春告げ鳥が鳴くたび、今年こそはと思った。戻らないと分かってからも、待つ事はやめなかった。
待つことが、あの人と繋がっている唯一の方法のように思えたから。
今年の春は、少し違う。
体の奥が、静かに、確実に終わりに向かっているのが分かる。医師の言葉よりも、朝の重さや、夜の長さがそれを教えてくれた。
怖くないと言えば嘘になる。でも、不思議と寂しさは薄れていた。代わりに、懐かしさが満ちてくる。
窓の外に視線をやると、道の向こうに人影が見えた。
逆光で、輪郭だけがはっきりしている。
誰だろう、と一瞬思ってから、胸がすとんと静まった。説明はいらなかった。
あの人が、立っていた。
若いころのままの姿で、少し照れたように笑っている。戦争に行く朝と同じ表情だった。
こちらを見上げて、ゆっくりと手を振る。その仕草があまりにも自然で、わたしは驚かなかった。
ただ、やっと来たのだと、そう思った。
春告げ鳥が鳴いた。
今年最初。はっきりと。
「遅くなってごめん」
声は聞こえない。でも、そう言っているのが分かる。
「待たせたね」
わたしは小さく首を振る。待つことは、苦ではなかった。待つ時間も、人生だった。
体が、急に軽くなった気がした。
長く背負ってきた重さが、そっとほどけていく。窓枠に手を置いたまま、深く息を吸う。冷たいはずの空気が、驚くほどやさしい。
あの人は、まだ手を振っている。
急かす様子はない。ただ、そこにいる。それだけで十分だった。笑って待っていてね、という約束を、ちゃんと守ったと報告しなくちゃ。
「今、行くわ」
声に出したかどうかは分からない。でも、胸の奥で確かにそう言った。
春告げ鳥が、もう一度鳴いた。
その声に背中を押されるように、わたしは笑って両手を広げた。
迎えに来た笑顔を、抱きしめるために。
今年の春告げ鳥は、少し早かった。
それで、ちょうどよかった。
朝の空気はまだ冷たくて、土の匂いにかすかな青さが混じっていた。
あの人が笑うと、なぜかいつも春告げ鳥の声が重なる。遠くで一声、近くでもう一声。まるで笑顔に合いの手を入れるみたいに。
春告げ鳥が鳴くころ、あの人は戦争に行った。
「笑って待っていてね」
そう言って、あの人は笑った。胸の奥に残るほど、何度も。忘れないようにと、覚えていてほしいと、わざと大げさに。あの声に、また春告げ鳥が重なった。わたしはうなずいた。うなずくしかなかった。
覚えているはずなのに。
いちばんはっきり思い出せるのは、振り返らなかった背中だ。肩の線、長い足、土を踏む音。
呼び止めなかったことを、今でもときどき後悔する。呼んだら、あの人は振り返ってくれただろうか。
振り返って、もう一度笑ってくれただろうか? 行かせない理由を与えてしまっただろうか。
春告げ鳥は今年も鳴く。
同じ時、同じ声色。なのに、世界の色だけが少し違う。待つことに慣れたはずの時間が、春になると少しだけ重くなる。
笑って待っていてね、という言葉を、わたしは守れているだろうか。
笑顔を思い出そうとするたび、声が混ざる。
春告げ鳥の声が、あの人の声に寄り添って、離れない。
今年も鳴いている。
でも、あの人は戻らない。
それでも、わたしは耳を澄ます。
笑って待つ約束をちゃんと守っている。
今年の春告げ鳥は、ずいぶん早く鳴いた。
まだ朝の空気は冬で、吐く息の白さが目に見えるほどなのに、あの声だけが季節を追い越して届いた。
待ちくたびれたわたしのためだろうか、そんな馬鹿げたことを、自然に思ってしまう自分が少し可笑しかった。
よく聞こえるように、窓を開けた。
冷たい風が部屋に流れ込み、長く閉め切っていた空気をゆっくり押し出していく。
カーテンが揺れ、その向こうで春告げ鳥がまた鳴いた。澄んだ声だ。昔と変わらない。
変わらないものが、こんなにも胸に沁みるなんて知らなかった。
気づけば、体はずいぶん言うことを聞かなくなっていた。
朝、起き上がるだけで時間がかかる。歩幅は小さく、階段は手すりを頼りに、数えながらでないと上れない。
それでも、窓辺に立つときだけは、昔の癖がそのまま残っている。背筋を伸ばして、外を見る。あの人を少しでも早く見つけたいから、ずっとそうしていた。
あの人がいなくなってからも、春になるとそうしてきた。
初めて知り合ったのも、春告げ鳥が鳴くころだった。
あの人は、少し困ったような、それでいて優しい笑顔で自己紹介をした。
声は低くて穏やかで、言葉の端々に笑いが含まれていた。
その声に、あの鳥の鳴き声が重なった瞬間を、今でもはっきり覚えている。
偶然なのに、運命の合図のように思えた。
戦争に行くと言われた日のことも、忘れていない。
「笑って待っていてね」
そう言って、あの人は何度も笑った。覚えていてほしいとでも言うみたいに、少し大げさに。
わたしはその笑顔を胸に刻もうとして、かえって不安になった。
失う前に覚え込もうとすること自体が、別れを予感しているようで怖かったから。
わたしは待った。笑って待った。
春告げ鳥が鳴くたび、今年こそはと思った。戻らないと分かってからも、待つ事はやめなかった。
待つことが、あの人と繋がっている唯一の方法のように思えたから。
今年の春は、少し違う。
体の奥が、静かに、確実に終わりに向かっているのが分かる。医師の言葉よりも、朝の重さや、夜の長さがそれを教えてくれた。
怖くないと言えば嘘になる。でも、不思議と寂しさは薄れていた。代わりに、懐かしさが満ちてくる。
窓の外に視線をやると、道の向こうに人影が見えた。
逆光で、輪郭だけがはっきりしている。
誰だろう、と一瞬思ってから、胸がすとんと静まった。説明はいらなかった。
あの人が、立っていた。
若いころのままの姿で、少し照れたように笑っている。戦争に行く朝と同じ表情だった。
こちらを見上げて、ゆっくりと手を振る。その仕草があまりにも自然で、わたしは驚かなかった。
ただ、やっと来たのだと、そう思った。
春告げ鳥が鳴いた。
今年最初。はっきりと。
「遅くなってごめん」
声は聞こえない。でも、そう言っているのが分かる。
「待たせたね」
わたしは小さく首を振る。待つことは、苦ではなかった。待つ時間も、人生だった。
体が、急に軽くなった気がした。
長く背負ってきた重さが、そっとほどけていく。窓枠に手を置いたまま、深く息を吸う。冷たいはずの空気が、驚くほどやさしい。
あの人は、まだ手を振っている。
急かす様子はない。ただ、そこにいる。それだけで十分だった。笑って待っていてね、という約束を、ちゃんと守ったと報告しなくちゃ。
「今、行くわ」
声に出したかどうかは分からない。でも、胸の奥で確かにそう言った。
春告げ鳥が、もう一度鳴いた。
その声に背中を押されるように、わたしは笑って両手を広げた。
迎えに来た笑顔を、抱きしめるために。
今年の春告げ鳥は、少し早かった。
それで、ちょうどよかった。
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