デイジーは歩く

朝山みどり

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04 ホープ小路二十五番地

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 最近は衛兵さんの巡回ルートにうちのアパートが入っている。心強い。彼らは街を歩いているから、情報が早い。

 「部屋が空いたそうだよ。ちょっと狭いけど場所がいい」

 そう聞いてすぐに見に行った。

 サウス通りを右に曲がって三番目の部屋。
 ホープ小路こうじ二十五番地。素敵な名前の通りだ。
 昼下がりの陽が石畳を淡く照らし、窓辺に並ぶ花の鉢が小さく揺れていた。

 案内してもらうと、そこは本当に小さな部屋だった。十軒長屋の二番目だ。
 玄関入ってすぐお部屋。奥に台所のある小さなお部屋。奥のお部屋にベッドを置けば、お店に出来る。
 台所にはヤカンと鍋。食器があった。使わせてもらおう。
 壁は少し煤けていて、床にはところどころ染みがあるけれど、磨けばきれいになる。
 窓の外は通りに面していて、昼間は光が斜めに差し込み、埃が金色に舞っている。
 その光の中で自分の影が柔らかく揺れた。
 悪くない。むしろ、ここなら「お店」としてやっていける気がする。

 カーテンを工夫して中が少し見えるくらいにすれば良い。
 縫っている姿が目に留まるだろう。「ドレスの仕立て屋さんね。縫ってるのね」と思って貰えるといい。
 これは前の店で学んだことだ。
 見せ方ひとつで、腕の良し悪しより先に信頼を得られる。
 あの店の日々も、決して無駄じゃなかった。

 日当たりも悪くない。夜は静かで、隣室の物音もあまり聞こえない。
 それだけでも、これまでのアパートより何倍もましだ。
 古い木の床が少し軋むたびに、今ここに自分の時間があると実感できる。

 家賃は相場。手持ちの金で当分は困らない。
 ありがとう、ボブ。あなたの嘘は、わたしをここまで連れてきた。

 その足で詰め所へ行き、借りる部屋のことを話した。
 すると奥に積まれていた古いテーブルや仮眠用のベッドを譲ってくれることになった。
 
 急いで掃除をして、すぐに引っ越しだ。
 わずかな裁縫道具、着替え。それだけだ。すぐに終わる。

 ありがたいことに、非番の衛兵さんが机とベッドを運んでくれた。
 「ここを店にするのか?」「そう。小さな仕立て屋よ」
 そう言うと、彼らは「いい場所だ」「通りがきれいだし、きっと繁盛する」と笑ってくれた。
 その声に背中を押されたような気がした。

 部屋の掃除は思っていたより大変だった。
 窓を開けると冷たい風と一緒に、古い埃がぶわっと舞い上がった。
 雑巾を濡らして床を拭くと、黒ずんだ水がバケツに溜まっていく。
 この汚れを落とすほどに、ここが自分の場所になっていく気がして、疲れても手が止まらなかった。

 カーテンのない窓を見て、緊急に詰め所のカーテンを貸してくれることになった。
 いくらなんでも、カーテンなしに丸見えはね。
 糸くずの入った瓶を窓辺に置くと、瓶の中で光がきらりと跳ねた。

 「少し傾いてるな」
 カイルがベッドの足を見て言った。
 「下に布をかませば平らになるよ」
 わたしは古布をたたんで差し込んだ。
 「おお、器用だな」と笑うカイル。
 笑い声が部屋に響いて、壁の冷たさが少しやわらいだ気がした。

 作業が終わるころには日が傾いていた。
 差し入れのサンドイッチを分け合い、わたしが入れた、あまりおいしくないお茶を笑いながら飲んでくれた。
 「今度は俺たちの詰め所で入れてくれよ」
 「ええ、味見してもらわないとね」と返事をした。

 彼らが帰っていく背を見送り、静かになった部屋に立ち尽くす。
 テーブルの上に並べた道具が夕日に照らされて輝いて見えた。
 針、糸、ハサミ、糸巻き、そして布。
 どれも見慣れたはずのものなのに、まるで新しい宝物のように見えた。

 小さなランプを灯すと、光が布の上を滑って広がる。
 少し前まで、誰かの命令で針を動かしていた。
 今は、わたしが選んで縫う。
 その自由が、胸の奥にじんわりと広がっていく。

 台所のヤカンで湯を沸かし、自分だけの為にお茶を淹れた。
 粗末な茶葉でも、香りが立ち上るとほっとする。
 通りの灯りがぽつぽつとともり、遠くで猫が鳴いていた。
 カーテンがゆらりと揺れて、あの通りの風が部屋の中を抜けていく。

 「ここが……わたしのお店」
 声に出してみた。
 誰もいないのに、まるで部屋が答えてくれたような気がした。

 夜になっても眠る気になれず、机の上で針を持った。
 古着屋で買っておいた布の端切れを取り出した。チクチク真っ直ぐ縫ってはぎ合わせた。
 少し硬い布。針を通すと、かすかに「きゅっ」と音がした。
 糸が布を結び、模様を形づくっていく。
 部屋の中で聞こえるのは、その音と自分の呼吸だけ。
 静けさの中に針の音が響くと、まるで心の中のざわめきまで整っていくようだった。

 やがて夜が深まる。ランプの火が小さくなり、糸の影が机に揺れる。
 「もうこんな時間……」
 ベッドに腰を下ろすと、スプリングの音が小さく軋んだ。
 詰め所の仮眠用に使われていた幅の狭い古いベッド。
 でも、その軋みさえも優しく感じられた。

 眠る前に、天井を見上げて考えた。
 この部屋をどう整えよう。
 窓辺にはドレスと子供用のワンピースを飾ろう。
 裾を少し揺らして、通りを歩く人の目に留まるように。
 奥の棚には糸巻きと布を並べて、色とりどりの世界を見せたい。
 小さな看板を掛けよう。「仕立て屋 デイジー」と。
 そんな想像をしているうちに、まぶたが重くなっていった。

 朝、鳥の声で目が覚めた。
 窓の外は、早起きのパン屋の香ばしい匂い。
 通りを掃除するおばさんが、ほうきを持って笑顔を向けてくれた。
 「おはよう。新しい人だね」
 「はい。仕立て屋を始めようと思って」
 「まぁ、いいねえ。縫える人がいると助かるよ」
 その一言が嬉しかった。
 まだ看板も出していないのに、もう誰かが「仕立て屋」として受け入れてくれたような気がした。

 朝の光の中で、机に置いた針が光った。
 昨日より少し明るく見える。
 この小さな部屋のどこを見ても、今のわたしには宝石のようだ。

 前の店で言われた「失敗」「未熟」という言葉が、もう遠い昔のことのように感じられた。
 あの痛みも、悔しさも、今のわたしを作っている。
 だからきっと、この小さな部屋からでも、夢は始められる。

 通りの鐘が鳴った。
 今日からが本当のスタートだ。
 針と糸を手に取り、わたしは最初の一針を落とした。
 この針の音が、わたしの生活のリズムになるだろう。

 誰かの服を縫い、直し、また新しい誰かを迎える。
 この通りで、人の笑顔と共に生きていく。

 わたしは窓を開けた。冷たい風が頬をなでる。
 向かいの家の子どもが、パンをかじりながらこちらを見ている。
 「おねえちゃん、なにしてるの?」
 「お仕事の準備よ」
 そう言って微笑むと、子どもも笑って手を振った。

 カーテンの向こうに、わたしの未来が揺れている。
 針を持つ手の先には、希望の糸。

 わたしは深く息を吸い込んだ。
 そして小さく呟いた。

 「ここが、わたしのお店。わたしの始まり。」


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