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29 開店前のお客様
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金曜日の朝、空気が少しだけやわらかかった。
王都の朝は早い。通りではもう、パン屋の煙突から白い煙がのぼっている。
わたしは看板を両手で抱えて、ゆっくりとドアの前に置いた。今日は門でなくドアの前に置く。
アンドレさんが作ってくれた木の看板。デイジーの花が彫られて、
――仕立て直し、繕い物、刺繍ハンカチあります。相談承ります。
ドアを閉めてから、窓越しにもう一度見た。
白い花が陽を受けて、木の表面が少し光っている。胸の奥が温かくなった。
今日から本当に始まるんだ。
カーテンを開けて、棚のハンカチを整える。
ハンカチは三種類の布。どれも自分の手で刺した花模様。
針の先を見つめるたびに、不思議と心が落ち着く。
棚の向こうで通りの音がする。馬車の車輪の音。人の声。
わたしは胸の前で手を組んで、深呼吸した。
そうだ。開店時間を決めた方がいいわね。でもそれは明日からのこと。まだまだ早いけど、いつドネル夫人がお見えになっても大丈夫よ。
ハンカチを縫って刺繍を始めた。通りに買い物客が増えて来た。わたしは刺繍を置いて窓から外を眺めた。
そのときだった。
馬車が止まる音がした。
窓からそっと外をのぞく。
淡い色の帽子をかぶり、品のある身振りで女性が馬車を降りた。
門からご婦人が入って来た。
ドアを開けて頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔するわ、デイジーさん。待ちきれなくて早く来てしまったわ。お庭も素敵。でもお庭は後で見るわ」
「どうぞ、中へ」と夫人を招き入れた。
夫人を店の中に案内すると、彼女は静かにぐるりと見渡した。
「まあ、可愛らしいお店ね。雰囲気がいいわ」
そう言って、棚に並ぶハンカチを手に取る。
「刺繍も丁寧だわね……こんなにたくさん。どれも素晴らしいわ」
「はい、ありがとうございます」
「あちらで見た刺繍の服はよかったわね。買った二人はホクホクよ」
少し笑って、夫人は続けた。
「棚のハンカチ、全部買いたいけど、この二枚にする。オーダーはお願い出来る?」
「はい、こちらを」
わたしは布見本を取り出して並べた。お店で一番いい布も買って来て準備したんだ。
夫人は見てさわって、やはり一番いい物を選んだ。
「これに、私のイニシャルを刺してくださる?周りはこのデザインで」
「かしこまりました。えっとこちらになります」とわたしは見積もった金額を示した。
「はい、お願いします」
夫人はしばらくお店を見て回っていたが、やがて小声で言った。
「実はね、今朝、お友達が一緒に来たいと言っていたの。でも、今日はだめと言ったの」
「そうだったんですか?」
「だけど、開店初日にあの賑やかなのが押しかけたら迷惑かなって、だから……もしあなたが構わないなら、見るだけでも来させてもいい?」
「構いません。見ていただけるなんて光栄です」
「まあ、そう? じゃあ連絡するわ」
夫人は馭者に何かを伝えた。馭者がうなずいて馬車を走らせる。
しばらくすると、別の馬車が通りの角から現れ、さらにもう一台、もう一台。
「お友達は五人なの」
「まあ……」
お店がいっぱいになってしまいそう。けれど、心のどこかがくすぐったい。
夫人の友人たちが、次々と入ってきた。
香水の匂い、笑い声。
「まあ、素敵なお店ね」「この刺繍、見て」「王都でこんなに可愛いお店があるなんて」「わたしたちは、知ってるけどね」「なんですってね。本当、あなたの言った通りね」
そんな声が、次々と飛び交う。
「ハンカチが素敵ね」「これはオーダー見本よね」
わたしは緊張していたが、手元の布を広げて説明した。
刺繍の図案、糸の色、布の種類。
みんな真剣な顔で聞いてくれる。
やがて、一人が言った。
「お願いしたいわ」
「もちろんです」
気がつくと、全員が注文書を書いていた。
イニシャル入りのハンカチ。全部白で刺繍したのが好きな人。色を入れるのが好きな人。好みは本当に色々だ。
帰り際、ドネル夫人が振り向いた。
「デイジーさん、今日は本当にありがとう」
「ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます」
言葉が詰まって、声が震えた。
夫人たちが賑やかに、馬車に乗り込む。通りが再び静かになった。
机に戻って、注文書を並べた。五枚、六枚。
手の中で紙が柔らかくたわむ。
これが、わたしの新しい生活のはじまり。
窓の外の光が、看板を照らしていた。
わたしは看板を片付けて、埃を拭った。
それから、ハンカチに刺繍をした。日が傾いて来た。手を休めて伸びをしていると、庭に入ってくる人影が、アンドレさんだった。
ノックの前にドアを開けた。カゴに活けたお花を後ろの馭者さんが持って、アンドレさんも小さな箱を持っていた。
「お邪魔します。この花は開店祝いです。これは差し入れです」笑顔が眩しかった。
なんだか、いそいそして、アンドレさんと馭者さんも中に入って貰った。三人で飲むお茶。わたしの淹れ方も少し上手になった見たい。
アンドレさんは棚を描いた絵と見積りも持って来た。棚のデザインが素敵。もちろん、お願いした。それに開店祝いがもう一つあった。服をかけるハンガー。看板と同じデイジーが掘り込んである。それを五本。
服がすごく映える。アンドレさん。ありがとうございます。
王都の朝は早い。通りではもう、パン屋の煙突から白い煙がのぼっている。
わたしは看板を両手で抱えて、ゆっくりとドアの前に置いた。今日は門でなくドアの前に置く。
アンドレさんが作ってくれた木の看板。デイジーの花が彫られて、
――仕立て直し、繕い物、刺繍ハンカチあります。相談承ります。
ドアを閉めてから、窓越しにもう一度見た。
白い花が陽を受けて、木の表面が少し光っている。胸の奥が温かくなった。
今日から本当に始まるんだ。
カーテンを開けて、棚のハンカチを整える。
ハンカチは三種類の布。どれも自分の手で刺した花模様。
針の先を見つめるたびに、不思議と心が落ち着く。
棚の向こうで通りの音がする。馬車の車輪の音。人の声。
わたしは胸の前で手を組んで、深呼吸した。
そうだ。開店時間を決めた方がいいわね。でもそれは明日からのこと。まだまだ早いけど、いつドネル夫人がお見えになっても大丈夫よ。
ハンカチを縫って刺繍を始めた。通りに買い物客が増えて来た。わたしは刺繍を置いて窓から外を眺めた。
そのときだった。
馬車が止まる音がした。
窓からそっと外をのぞく。
淡い色の帽子をかぶり、品のある身振りで女性が馬車を降りた。
門からご婦人が入って来た。
ドアを開けて頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔するわ、デイジーさん。待ちきれなくて早く来てしまったわ。お庭も素敵。でもお庭は後で見るわ」
「どうぞ、中へ」と夫人を招き入れた。
夫人を店の中に案内すると、彼女は静かにぐるりと見渡した。
「まあ、可愛らしいお店ね。雰囲気がいいわ」
そう言って、棚に並ぶハンカチを手に取る。
「刺繍も丁寧だわね……こんなにたくさん。どれも素晴らしいわ」
「はい、ありがとうございます」
「あちらで見た刺繍の服はよかったわね。買った二人はホクホクよ」
少し笑って、夫人は続けた。
「棚のハンカチ、全部買いたいけど、この二枚にする。オーダーはお願い出来る?」
「はい、こちらを」
わたしは布見本を取り出して並べた。お店で一番いい布も買って来て準備したんだ。
夫人は見てさわって、やはり一番いい物を選んだ。
「これに、私のイニシャルを刺してくださる?周りはこのデザインで」
「かしこまりました。えっとこちらになります」とわたしは見積もった金額を示した。
「はい、お願いします」
夫人はしばらくお店を見て回っていたが、やがて小声で言った。
「実はね、今朝、お友達が一緒に来たいと言っていたの。でも、今日はだめと言ったの」
「そうだったんですか?」
「だけど、開店初日にあの賑やかなのが押しかけたら迷惑かなって、だから……もしあなたが構わないなら、見るだけでも来させてもいい?」
「構いません。見ていただけるなんて光栄です」
「まあ、そう? じゃあ連絡するわ」
夫人は馭者に何かを伝えた。馭者がうなずいて馬車を走らせる。
しばらくすると、別の馬車が通りの角から現れ、さらにもう一台、もう一台。
「お友達は五人なの」
「まあ……」
お店がいっぱいになってしまいそう。けれど、心のどこかがくすぐったい。
夫人の友人たちが、次々と入ってきた。
香水の匂い、笑い声。
「まあ、素敵なお店ね」「この刺繍、見て」「王都でこんなに可愛いお店があるなんて」「わたしたちは、知ってるけどね」「なんですってね。本当、あなたの言った通りね」
そんな声が、次々と飛び交う。
「ハンカチが素敵ね」「これはオーダー見本よね」
わたしは緊張していたが、手元の布を広げて説明した。
刺繍の図案、糸の色、布の種類。
みんな真剣な顔で聞いてくれる。
やがて、一人が言った。
「お願いしたいわ」
「もちろんです」
気がつくと、全員が注文書を書いていた。
イニシャル入りのハンカチ。全部白で刺繍したのが好きな人。色を入れるのが好きな人。好みは本当に色々だ。
帰り際、ドネル夫人が振り向いた。
「デイジーさん、今日は本当にありがとう」
「ありがとうございます。ほんとうに、ありがとうございます」
言葉が詰まって、声が震えた。
夫人たちが賑やかに、馬車に乗り込む。通りが再び静かになった。
机に戻って、注文書を並べた。五枚、六枚。
手の中で紙が柔らかくたわむ。
これが、わたしの新しい生活のはじまり。
窓の外の光が、看板を照らしていた。
わたしは看板を片付けて、埃を拭った。
それから、ハンカチに刺繍をした。日が傾いて来た。手を休めて伸びをしていると、庭に入ってくる人影が、アンドレさんだった。
ノックの前にドアを開けた。カゴに活けたお花を後ろの馭者さんが持って、アンドレさんも小さな箱を持っていた。
「お邪魔します。この花は開店祝いです。これは差し入れです」笑顔が眩しかった。
なんだか、いそいそして、アンドレさんと馭者さんも中に入って貰った。三人で飲むお茶。わたしの淹れ方も少し上手になった見たい。
アンドレさんは棚を描いた絵と見積りも持って来た。棚のデザインが素敵。もちろん、お願いした。それに開店祝いがもう一つあった。服をかけるハンガー。看板と同じデイジーが掘り込んである。それを五本。
服がすごく映える。アンドレさん。ありがとうございます。
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