黙ってすっこんどいたら良かったのに

朝山みどり

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28 冷たい部屋で ミナ目線

 朝になっても体が動かなかった。ソファに横になったまま、目を開けると、天井の模様がぼやけて見えた。泣きすぎたせいで瞼が腫れていた。
 クッションの端が湿っていた。夜のうちに何度も泣いたらしい。

 昨日のことを思い出すと、胃の奥が熱くなる。
 叫んだ声。静まり返った社内。カオリ先輩の呆れた表情。
 そして、社長の前での尋問。 もう一度思い出すだけで、息が止まりそうだった。

 この部屋に戻った時、スーツがぐちゃぐちゃになっているのに気がついた。
 袖の縫い目がほどけていた。ボタンも緩んでいた。まだ、ローンが残っているのに。

 台所に行くと、テーブルの上にインスタントコーヒーの瓶があった。
 トオルが夜中に飲んだらしい。寝室のドアは閉まったままだった。中から音はしなかった。

 カーテンを開けた。薄い光が入ってきた。
 何も動かない部屋だった。家具を置いたばかりなのに、空っぽに見えた。
 新品のソファはある。大きなテレビもある。だけど、部屋全体が冷たかった。

 携帯を見ると、会社からメールが来ていた。
 《当分は有給扱いとします。体調を整えてから出勤してください》
 体調を気づかっている文面なのに、どこか突き放すような言い方だった。
 「体調を整えて」なんて、笑える。整うわけがない。

 カップラーメンの蓋を開けてお湯を注いだ。
 湯気が顔に当たって、少しだけ現実に戻る。麺が柔らかくなるのをただ、待った。頭が動いていない。これって現実?

 トオルは寝室から出てこない。
 ドアの向こうの沈黙が、壁みたいに重かった。
 テレビをつける気にもなれなかった。

 昼近くになって、寝室のドアが開いた。トオルが無言で出てきた。
 顔は青白く、髪も整っていなかった。目を合わせなかった。
 台所で、黙ってカップラーメンを作っている。

 何か話さなくてはいけない。だけど何も言えない。言うことが出来ない。

 トオルが小さく言った。
 「だから何も言うなって言っただろ」
 声は低かったが、明確だった。私は答えなかった。
 言葉を出すと泣きそうだった。


 携帯を開いた。女の子たちからメールが来てた。

 心配してくれてる。一応はね。

 通知を全部消した。画面を伏せた。

 窓の外は晴れていた。風の音がする。
 ベランダの観葉植物が小さく揺れていた。
 この部屋の中で、唯一、生きているものだと思った。

 冷蔵庫を開けた。
 中には水のペットボトルと発泡酒。
 冷凍庫には氷と、買い置きのピザ。
 それだけ。
 新しい暮らしのはずなのに、何もない。

 午後になって、トオルが出ていった。
 会社じゃない。
 「外で少し考えてくる」とだけ言って、鍵を持って出た。
 ドアの音がして、また静寂。

 一人になって、部屋の隅に座った。
 大きすぎるテレビの黒い画面が、鏡みたいに自分を映していた。
 顔は疲れていた。目が赤く、髪が乱れている。
 その姿を見て、また涙が出た。
 泣きながら笑ってしまった。
 どうして泣いているのか、もう分からなかった。

 会社に戻る勇気はない。
 外に出る勇気もない。
 それでも時間は進む。

 夕方、カーテンの隙間から夕陽が差し込んできた。
 部屋の埃が光に照らされて舞っていた。
 誰もいない空間で、自分の呼吸の音だけが聞こえた。

 夜になっても、トオルは帰ってこなかった。
 時計の針が音を立てて進んでいく。
 冷たい空気の中で、何度もスマホを見た。
 通知は何もない。

 有給で休めと言われたけど、何も回復していない。
 むしろ、壊れていく感じがした。

 寝ようとしても眠れない。
 目を閉じても、あの報告書の文面が浮かぶ。
 「上下運動」「優勝発表の瞬間」「尻が並んでいた」
 あれを誰かが笑いながら読んでいる。その光景が消せない。頭から消えない。

 夜中、玄関の鍵が開く音がした。
 トオルが帰って来た。リビングで待つわたしをチラッと見て寝室に入った。


 明日、会社に行くかどうかも決めていない。
 誰も指示してくれないし、誰も心配してくれない。

 ただ、もう一度だけ思った。
 「こんなはずじゃなかった」

 けれど、その言葉の続きが浮かばなかった。


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