黙ってすっこんどいたら良かったのに

朝山みどり

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31 ショッピング街初日

 秘書に聞かれたとき、トオルは「この会社で清掃をします」と言った。
 馬鹿だと思った。噂がある所で働くなんて・・・
 その点、わたしはおしゃれなショッピング街で働く、清掃と言ってもあそこの制服はかっこいい。キリッとした制服に身を包んでキビキビ働くわたしは、ショップからスカウトされるわ。伝説になるかも知れない。

 

 翌朝、事務所に行くのにメイクを念入りにして髪もキリッとまとめた。そして、わたしは清掃会社の事務所を訪ねた。
 受付の女性は驚くほど丁寧だった。面接で翌日から勤務できることを告げると、制服と帽子を渡された。
ロッカーに名前を書いたシールを貼ると、ここに居場所が出来たと思った。

 更衣室の鏡の前で、制服姿の自分を見た。灰色のポロシャツにロゴ、動きやすくて、シルエットがきれいなパンツ。髪をまとめて、帽子をかぶる。
 リーダーと呼ばれる女性が「覚えるまで一緒に回りましょう」と言ってくれた。

 最初の仕事はトイレのチェックだった。ここのトイレはいつもきれいだから楽な仕事だと思っていたが、夜のレストランでお酒を飲んだ人。飲みすぎた人が汚した後があった。信じられなかった。

 営業時間前に、これをきれいにしていたのだ。
 
 それから、通路を回ったが、とても汚れていた。それが終わると後は、午前と午後、決まった時間に回って、ペーパーの補充と床の拭き掃除。

 わたしが想像していた清掃の仕事だった。だが、わたしはトイレの匂いが体に染み付いているようで、気持ちが悪かった。
 
 リーダーからは歩く姿勢をうるさく言われた。
「そんなに覇気のない歩き方は、ここの雰囲気を壊す。もっと背を伸ばして、ワゴンにすがらないで、腕も伸ばして」
「あそこの紙屑が落ちている所見える?拾うから見てて」そう言うとリーダーはトングでさりげなくゴミを拾い上げた。

歩くスピードは全然変わらなかった。

 「これは練習して下さいね」

 午後になると、契約しているショップの倉庫の掃除に入った。倉庫と呼んでいるが、商品の仮置き場だった。
段ボールに入って届いた商品はすぐに店に運ばれるのだろう。そこにあるのは梱包資材。段ボール、剥がれ落ちたガムテープ。商品を包んでいたビニール袋。荷造りバンドが落ちていた。

 次の段ボールをすぐ積めるように、片付ける。

段ボールを開いてまとめ、その他の物はゴミ箱に入れるが、床にカッターが落ちていたり、なぜかボタンが落ちていたりする。

 それらを棚にまとめる。そんな契約ショップを回る合間にトイレと通路の掃除をする。
 
 時間が来て、事務所に戻った。するとリーダーからまとめて注意された。
「最初に注意したことが守られてませんでした。まず、姿勢。ワゴンを押す姿勢もなってません。細かいこともたくさんありますが、この二つだけはきちんとして下さい。それではお疲れ様」

 「お疲れ様」なんとか挨拶を返した。

 更衣室で帽子を外すと、鏡の中の自分はすっかり別人のようだった。髪はぺっちゃんこ。
 化粧を直す気力もないが、口紅だけは塗った。手が疲労で震えてうまく塗れなかった。
 
 汗でベトベトの体にスーツを着る。惨めだと思った。疲れた足にパンプス。泣きたくなった。

 ドアを開けると、トオルがテーブルの前に座っていた。

 テレビは消えていて、部屋の中は静かだった。
 「おかえり」
 それだけ言って、トオルは箸を動かした。
 「ただいま」とだけ返した。

 彼は唐揚げ弁当を食べていた。私には牛丼を買って置いてくれた。
 「一応、買っておいた」
 私は「ありがとう」と言うべきなのに、声が出なくて、ただ、うなずいた。

 牛丼のフタを開けたけれど、見ただけで胃が重くなった。
 油の匂いが鼻を刺して、箸を持つ手が止まる。食欲がなかった。
 「食べないのか?」
 トオルの声が少しだけ硬かった。
 「うん……ちょっと、疲れて」
 「それじゃ、冷蔵庫に入れておいて、明日の朝、食べるから」
 そう言うと、彼は黙ってテレビをつけた。画面の中ではニュースキャスターが笑っていた。

 
 しばらくしてトオルが言った。
 「……うまくいかなかった。時間が足りなくて、メモも取れなかった」
 「最初は多分、そんなもんだ」
 彼の声は優しいようで、遠かった。
 同じ部屋にいても、まるで別々の世界にいるみたいだった。

 わたしはソファに座り、スマホの画面を見た。
 何も通知がない。世界から外れたんだと実感した。

 
 
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