黙ってすっこんどいたら良かったのに

朝山みどり

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40 ミナの曲がり角

 次の休み、私はダイスケさんの店に行かなかった。
 別に「来て」ときちんと言われたわけじゃないし、ただなんとなく、行ってはいけない気がした。
 あの人の前では、わたしがわたしじゃなくなりそうで、怖かったのかもしれない。

 でも、その休みが終わって仕事に戻ったとき、
「ん? あれ、今週は休みがなかったの?」

 背後から軽い声がした。
 振り返ると、ダイスケさんが少し首をかしげて笑っていた。

「……いえ。ありました」

「そう? 待ってたのになぁ」

 その言い方は、怒っていなくて、ただ本当に残念そうだった。
 胸の奥がふわっと温かくなって、同時にざわついた。
 こんなふうに“待たれる”なんて、いつ以来だろう。

「今度の休みはいつ?」

「えっと……木曜日です」

「じゃぁ、その日に会いたい。約束」

 そう言って、軽く手を振って去って行った。
 その歩き方が本当に洗練されていて、思わず見とれてしまった。

 約束。
 その言葉だけで、体の芯がじんわり熱くなる。

 でも同時に、トオルの暗い横顔が頭に浮かぶ。
 最近は、私が帰っても顔を上げてくれない。
 洗濯物を取り込んでも「ありがとう」も言わない。
 私がご飯を作れば、黙って食べて黙って寝室へ行く。

 前は違ったのに。

 前のトオルは、優しくて、よく笑っていて……
 わたしを必要としてくれていた。

 だけど今は、わたしがローンを払えなくて謝っても、あの冷たい目。
 同じ家にいても、ひとりぼっちみたいだった。

 だから、わたしは休みの日、ダイスケさんの店に行った。

 

 ショッピング街の中心にある、ガラス張りの明るい店。
 扉を押すと、軽いベルの音が響いた。

「来たね!」

 まるで心から嬉しそうに言うから、胸がきゅっとした。

「新作が入ったんだよ。ミナちゃん絶対似合う」

 そう言って、彼はいくつかの服を持ってきた。
 どれも柔らかい色で、形が綺麗で、明らかに高い。

「試着してみてよ。見たいんだ」

 見たいだけ。
 彼はそう強調したけれど、わたしはもう心臓がバクバクしていた。

 試着室で着替えてカーテンを開けると、スタッフが増えていた。
 さっき来たときは一人だったのに、今は三人。
 その三人が、私の姿を見て、口々に

「似合う」
「可愛い」
「雰囲気がある」

 と言った。

 ダイスケさんは、腕を組んで満足そうに言う。

「な? 似合うだろ」

 誇らしげで、嬉しそうで、まるで自分のものを自慢しているみたいな言い方だった。
 そんな目で見られたことなんて、今まで一度もなかった。

 けれど、試着室に戻って着替えた瞬間、気づいてしまった。

 私服が、もっさりして見える。

 今日のために気合いを入れて選んだ服なのに。
 ストレートアイロンで丁寧に伸ばした髪も、ほんのり香る香水も。
 全部、あの店のライトと比較にならないほど、薄汚れたものに思えてしまった。

 あのワンピースを着ているときは、わたしはキラキラした娘だった。
 でも普段の私は、ショッピング街の裏で段ボールを潰すただの清掃員。

 彼が触れた肩のところが、まだ少し熱い。
 撫でた時の指の形が、皮膚に残っている気さえする。


 食事は、街の小さなイタリアンだった。

「目立たない場所に、こんなお店があるんだ」

 そう言って、慣れた様子で薦めてくれたサラダもパスタも美味しかった。
 でも、彼の声が一番美味しかった。

「清掃って、給料いいの?」

 フォークの先が止まった。

「……まあ、普通……です」

「普通かぁ。ミナちゃんならもっと給料のいい仕事があると思うけどね。家が厳しいの?」

「いえ……」

 家が厳しいというか、自分が浪費しているだけ。
 ローンの返済で苦しんでいるだけ。
 彼にそんなこと、言えない。

 彼はテーブルに肘をついて、少しだけ寂しそうに笑った。

「うちのショップに誘いたいけど、それは僕の一存じゃ無理だからね。君なら知り合いの店で歓迎されるだろうけど……惜しいね」

 惜しいね。その褒め言葉に、胸の奥が痛くなった。

 自分の現実と、彼が見ているミナちゃんがかけ離れているのがわかったから。

「清掃って……続けたいの?」

 その問いに、答えられなかった。

 わたしは最近、毎日トイレの匂いを全身に浴びて帰る。
 スニーカーは埃にまみれ、指先は段ボールの角で切れて、爪の中は黒くなる。
 あんなに憧れていたショッピング街なのに、裏通路の湿った匂いと段ボールの粉塵にまみれて、夢だった場所がどんどん遠のいていく。

 でも、その苦しい現実の中で、彼だけが私を「キラキラしてる」と言った。

 そんなこと、誰にも言われたことがなかった。

 だから、彼の言葉は甘くて、怖かった。



 家に帰ると、トオルはPCで地図を見ていた。

「おかえり」

「ただいま」

 私の格好を見もしない。
 今日、どれだけ頑張っておしゃれしたと思ってるのに。

 その瞬間、胸の奥で何かがカラン、と音を立てて崩れた。

 あぁ、わたしは、目に入れる価値がないんだ。

 ダイスケさんの笑顔を思い出す。
「またおいでよ」と言った声も。
「待ってたのに」と言った目も。

 その全てが、今の生活より温かかった。

 清掃の仕事は辛い。
 トオルとの生活は冷たい。
 ローンに追われて、未来も見えない。

 だけどダイスケさんの前では、
 わたしは、キラキラしているように見えるらしい。

 その言葉だけで、救われてしまう自分がいた。

 救われたい。
 苦しさから逃げたい。
 誰かに褒められたい。
 愛されたい。
 大事にされたい。

 そんな気持ちが、ごちゃ混ぜになって胸を締めつける。

 ――このまま清掃を続けて、何が変わるの?
 ――このままトオルと暮らして、幸せになれるの?

 答えはどれも、わからない。
 でも一つだけ、はっきりしていることがある。

 ダイスケさんといるときの私は、
「こんなはずじゃなかった」なんて一度も思わなかった。

 それは、初めてだった。

 このままじゃダメ。でも、どうすればいいのかわからない。

 わたしは、変わりたかった。
 どこか遠くへ行きたかった。
 今の私じゃない誰かになりたかった。

 ダイスケさんの店で見た綺麗な服を着たわたしが、頭から離れなかった。

 鏡の中で笑っていたわたし。本当だったらあれがわたしなのだ。

 
 次の休みも、また彼の店に行く気がしていた。
 行けば褒められる。
 行けば優しくされる。
 行けば、キラキラした世界に触れられる。

 わたしは気づかぬうちに、その甘さに溺れようとしていた。

 ローンと家賃に押しつぶされそうな毎日から逃げるために。
 誰からも必要とされない現実から逃げるために。
 そして、トオルとの冷えきった関係から逃げるために。

 わたしは、変わりたいと思い始めていた。

 このままじゃ、ダメだ。

 でも……どこへ、どう歩き始めればいいのかが、まだ見えなかった。

 ただ一つだけ確かだったのは、

 あの日、試着室でキラキラしていたわたしを、取り戻したい。

 その願いだけが、胸の奥でじんわりと熱を持ち続けていた。
 消えそうで、消えない小さな灯りのように。


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