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18 王都のミネルバから避暑地のアレクへ
王都に戻ってから、屋敷の中が急に忙しくなった。
避暑地では、時間が水のように静かに流れていたのに、王都では人の足音も、馬車の音も、侍女たちの動きも、何もかもが少し速い。朝になると仕立屋が来て、昼には装身具の箱が運ばれ、午後には招待客の名簿が広げられる。
その真ん中に、わたしがいた。
少し前まで、婚約とは重たいものだった。
家と家の話で、当人の気持ちは後からついてくるものだと思っていた。
けれど今は違う。
みんなが忙しそうにしているのに、胸の奥には妙なあたたかさがあった。
これは、わたしのための支度なのだとわかるからだ。
けれど、そのあたたかさの隣には、小さな寂しさもあった。
アレクは避暑地に残っている。
店の面倒を見るためだと聞いて、なるほどと思った。あの人らしい。
避暑地の店は、あの場所に馴染むために少し早く開けたのだし、置いてある品も、そこで過ごす時間ごと売っているような店だった。
きっと最後まで、自分の目で見ていたいのだろう。
わかる。わかるのだけれど。
朝の紅茶を飲むときも、廊下を歩くときも、庭の花を眺めるときも、ふと、青い目を探してしまう。
そのたびに、ああいないのだと気づく。
初めて会った日から、考えてみれば、わたしたちは毎日のように顔を合わせていた。
朝の乗馬に朝食の席。
湖の道と藤棚の下。
どこにいても、少し先にあの人がいて、こちらを見て、穏やかに笑った。
それが急になくなると、思っていたより心もとない。
そのことを、ある日の午後、マーガレットに見抜かれた。
布見本を前にして、夫人と三人で次のドレスの相談をしていたときだ。
わたしが青みのある薄紫の布を手に取ったまま、少しぼんやりしていたらしい。
マーガレットが言う。
「ミネルバ、また叔父様のことを考えてますね」
思わず布を落としかけた。
「そ、そんなことは」
夫人がくすっと笑う。
「顔に書いてあるわよ」
わたしは急に恥ずかしくなって、布見本に視線を落とした。
「そんなに、わかりやすいでしょうか」
「とても」
とマーガレットが元気よく言う。
「でも、いいことです。次に会ったら、新鮮な気持ちで会えるんですもの」
わたしは思わず顔を上げた。
「新鮮な気持ち?」
「ええ」
とマーガレットが得意そうに言う。
「少し会えないと、会ったときに、わぁってなるでしょう」
「わぁって」
とわたしが聞き返すと、夫人がとうとう声を立てて笑った。
「どこで覚えたの、そんなこと」
「本で読みました」
とマーガレットが胸を張る。
「恋人同士は、ちょっと離れていたほうが、次に会った時に好きって気持ちが強くなるんですよ」
「まあ」
と夫人が言う。
「もう、そんな本を読んでいるのね」
わたしは恥ずかしくてたまらなかったけれど、なぜか少しだけ笑ってしまった。
その夜、部屋に戻ってからも、マーガレットの言葉が耳に残っていた。
新鮮な気持ち。
そうかもしれない。
そう思う一方で、こんなふうに人を待つのは初めてだった。
テリウスを待ったことはなかった。
来れば会うし、来なければそれまで。
婚約者とは、そういうものだと思っていた。
けれどアレクは違う。
会えないだけで、今日あった小さな出来事を話したくなる。
仕立屋が持ってきた布の色、夫人が選んだ飾りも、マーガレットの妙に大人びた発言も。
いちいち伝えたくなる。
これは、ずいぶん面倒な感情だと思う。
面倒で、でも、幸福だった。
数日後、招待状の文面を整えるために、わたしは書斎に呼ばれた。
ローハン様が長椅子に座り、夫人がその横で封蝋の色を選び、マーガレットが紙の山をのぞきこんでいる。
「ミネルバ、この書き出しはどうかしら」
と夫人が紙を差し出した。
わたしは受け取って目を通した。
文面は丁寧で、失礼はない。
けれど、どこか固い。
「もう少しだけやわらかくしたみたらどうでしょうか?」
とわたしが言うと、ローハン様が面白そうに目を細めた。
「ほう。見せてくれ」
わたしは机の前に座り、ペンを取った。
紙に触れると、気持ちが落ち着く。
字を書くことは、わたしにとって呼吸に似ている。
静かに形を整えていくうちに、頭の中まで整っていく。
さらさらと書き進めていると、ふいにローハン様が言った。
「アレクに見せたら、悔しがるだろうな」
ペン先が少し止まる。
「どうしてですか」
「君の字が好きだからだ」
とローハン様がさらりと言った。
「商売人のくせに、あれは妙なところで感心しやすい」
夫人が笑う。
「わかるわ。ミネルバが何か書くたびに、すごく嬉しそうだものね」
マーガレットが身を乗り出した。
「叔父様、きっと戻ったら真っ先に招待状を見ると思います」
わたしは何も言えなくなって、ただ紙に視線を落とした。
書きあがったものを差し出すと、三人が一緒に読んでいる。
「ミネルバ、さすがね」
と夫人が言い、二人もうなずいた。
嬉しい。
たったそれだけのことなのに、胸が静かに満ちていく。
わたしが書く字を好きだと言ってくれる人がいる。
わたしが選んだ言葉を、読みたいと思ってくれる人がいる。
昔なら、字は家のためのものだった。
母に言われ、父に言われ、必要だから書くものだった。
けれど今は違う。
わたしの字を見て、喜んでくれる人がいる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
その日の夜、部屋で一人になると、わたしは小さな紙を取り出した。
招待状とは別の、私的な便箋だ。
避暑地で選んだ、少し青みのある白い紙。
それを見ただけで、湖の色を思い出す。
少し迷ってから、ペンを取る。
何を書けばいいのだろう。
婚約者なのだから、手紙を書いてもおかしくはない。
けれど、いざとなると、簡単な一文さえ難しい。
元気ですか。
それでは、あまりにも他人行儀だ。
早くお戻りください。
それでは、あまりにもそのままだ。
ペン先を紙の上で止めたまま、わたしは小さく息を吐いた。
すると、窓の外で風が鳴った。
王都の風なのに、なぜか避暑地の匂いを思い出す。
湖の光。藤の香り。あの店のコーヒーの匂い。
そして、ひざまずいたアレクの顔。
胸がじんわり熱くなる。
わたしはようやく書き始めた。
アレクへ。
王都は忙しく、毎日が少しだけ騒がしいです。
けれど皆さまがよくしてくださるので、わたしは元気です。
婚約式の準備も始まりました。
招待状の文面も整えています。
あなたが戻ったら、見てください。
それから。
避暑地で毎日顔を合わせていたせいか、こちらでは少し静かすぎます。
そこまで書いて、手が止まった。
顔が熱い。
最後の一文は、あまりにも正直だったかもしれない。
けれど、消したくなかった。
だって本当のことだ。
王都は騒がしいのに、あの人がいないだけで、妙なところだけ静かになる。
わたしはそのまま続きを書く。
マーガレットが、次に会ったら新鮮な気持ちで会えるのよ、と言いました。
ほんとうにそうなるでしょうか?
早く、結果を知りたく思います。
書き終えた瞬間、自分で自分に驚いた。
こんな文を書けるようになるなんて。
少し前のわたしなら、考えもしなかった。
封を閉じてから、そっと胸に当てる。
不思議だった。
会えない寂しさは消えないのに、手紙を書いただけで少しだけ近くなる。
もしかしたら、婚約とはこういうものなのかもしれない。
誰かに決められた関係ではなく。
自分で選んで、自分の言葉で結び直していくもの。
蝋燭の灯りが揺れる。
机の上には、昼に選んだ布見本がまだ広がっている。
薄紫。青。やわらかな白。
どれも、わたしが自分で選んだ色だ。
昔のわたしなら、誰かに決めてもらうほうが楽だと思っていた。
けれど今は違う。
待つことも。
選ぶことも。
好きだと思うことも。
少し怖いけれど、ちゃんと自分の人生の中にある。
わたしは封を見つめながら、小さく笑った。
「早く帰って来てください、アレク」
そうつぶやく声は、自分で思っていたよりずっとやさしかった。
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