19 / 20
19 アレクという人
夏の光が少し弱まって来た。
昼下がりの避暑地は、湖から吹く風こそ涼しいが、通りはまぶしいほど明るい。
店の軒先に立っていると、白い光が石畳を跳ね返してくる。
その光の中を、賑やかな一団が通り過ぎていった。
笑い声。
高い声。
軽い靴音。
若者たちだ。
肩を寄せて歩き、誰かが冗談を言い、肩をぶつけ合って笑い、別の誰かが大げさに笑う。
未来が当たり前に続くと信じている顔だ。
わたしはその背中を、静かに眺めていた。
――自信に満ちている。
そう思う。
そして、思う。
潰す。
もちろん、文字通りではない。
そんな野蛮なことをするつもりはない。
だが、あの自信。
あの軽さ。
あの「自分たちは正しい」という確信。
それは、いずれ壊れる。
わたしはそれを少し早めるだけだ。
わたしは店の柱にもたれ、腕を組んだ。
ミネルバには言っていない。
いや、言うつもりもない。
彼女は王都に戻った。
婚約式の準備で忙しくしている。
だがわたしは避暑地に残った。
理由は簡単に説明してある。
店の面倒を見るため。
避暑地に家を買うため。いくらなんでもずっと兄の家にお世話になるわけにはいかない。それに、二人きりにもなりたい。
――嘘ではない。
だが、本当でもない。
本当の理由は、別にある。
明日、友人たちと集まる。
夏の終わりの小さな集まりだ。
名目は「夏の名残を楽しむ会」。
実際には、少し違う。
役所で書類と格闘している友人がいる。
あれは真面目すぎる男で、法律の条文と格闘しているときの顔は、まるで戦場の兵士のようだ。
「だったら、手伝え」
と言われた。
わたしは承知した。
もう一人、外交部の友人がある要人を招待したがっている。
だから彼を夜会に招待することも約束した。
表向きは、ただの集まり。
酒と食事と会話。
だが、実際には少しだけ違う。
王都に戻ったら忙しい。
友人の手伝い。
夜会の準備。
そして――
少しだけ、世界を動かす。
ミネルバには言わない。
彼女は、きっと止める。
あるいは、悲しそうな顔をする。
それは見たくない。
だから黙っている。
その代わり、彼女が安心して笑える場所を作る。
わたしのやり方で。
通りはまだ明るい。
夏の光は、まだ終わらない。
友人たちは、重荷をおろしたすっきりした顔で王都へ戻っていった。
◇◆◇◆◇
わたしは店の中を見回す。
棚には、色々なものが並んでいる。
小さな陶器。
ガラスの瓶。
外国の砂糖菓子。
細工の可愛い匙。
布の小物。
避暑地の客は、こういうものを買う。
必要ではない。
だが、欲しくなる。
そんなものばかりだ。
ミネルバは、この店を見て少し不思議そうな顔をしていた。
「どなたかのためですか?」
そう聞かれた。
わたしは笑って答えた。
「暇つぶしだ」
半分は本当だ。
半分は嘘だ。
棚の上の小さなガラス瓶を指で回す。
陽の光が当たると、淡い色が揺れる。
……こういうものが好きなのだ。
可愛いもの。
楽しいもの。
意味がなくても、少し嬉しくなるもの。
人には言わない。
言えば笑われるし、仕事に差し支える。
だから商売を前面に出している。
「店」という形にしてしまえば、誰も不思議に思わない。
わたしは瓶を棚に戻した。
外では、さっきの若者たちの笑い声が遠ざかっていく。
まぶしい夏と軽い未来。
わたしは小さく息を吐いた。
「さて」
◇◆◇◆◇
王都からの手紙が届いたのは、店を閉めたあとのことだった。
避暑地の夕方は早い。湖の光が静かに沈み、昼間の賑わいが嘘のように落ち着く。店の扉を閉め、帳簿を片づけていると、使用人が封筒を差し出した。
「王都からです」
そう言われた瞬間、わたしは誰からの手紙なのかすぐにわかった。
封の色も、紙の質も、見覚えがある。
ミネルバだ。
わたしは思わず少し笑ってしまった。
数日前に別れたばかりなのに、手紙が届くだけでこんなにも嬉しいとは思わなかった。
封を切る。
紙を開く。
そして――思わず息を止めた。
やはり、きれいな字だ。
整っていて、やさしくて、どこか静かな強さがある。
わたしはこの字が好きだった。
最初に見たときから、ずっと。
読み始める。
王都は忙しいこと。
婚約の準備が始まったこと。
招待状の文面を整えていること。
文字を追いながら、自然と情景が浮かぶ。
王都の屋敷。
広げられた紙。
マーガレットが横からのぞきこんでいる様子。
夫人が楽しそうに笑っている姿。
そしてその中心に、ペンを持ったミネルバがいる。
想像するだけで、胸があたたかくなる。
続きを読む。
避暑地で毎日顔を合わせていたせいか、こちらでは少し静かすぎます。
そこを読んだとき、わたしは思わず声を出して笑った。
「それはこちらも同じだ」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
避暑地は相変わらず穏やかだ。
けれど、どこか足りない。
どこにいても、少し先に彼女がいた。
それが当たり前になっていたらしい。
マーガレットが、次に会ったら新鮮な気持ちで会えるのよ、と言いました。
ほんとうにそうなるでしょうか?
そこまで読んで、わたしはしばらく手紙から目を離した。
新鮮な気持ち。
なるほど。
あの子らしい言葉だ。
そして、ミネルバらしい疑問だ。
わたしは椅子にもたれ、天井を見た。
会えない時間。
それは確かに寂しい。
けれど同時に、気づくこともある。
ミネルバがいないとき、わたしはよく考える。
彼女が笑った顔。
少し困った顔。
驚いた顔。
そして――
藤棚の下でのこと。
あのとき、わたしはひざまずいた。
言葉は自然に出た。
愛している。
毎日この言葉を言いたい。
あれは衝動ではない。
あの瞬間までの、すべての時間がそうさせた。
彼女の手紙を見て、改めて思う。
この人は、わたしの人生に必要な人だ。
ただ一緒にいるだけで、世界が少し穏やかになる。
手紙を最後まで、もう一度読む。
そして丁寧に折り直した。
「さて」
わたしは立ち上がる。
窓を開けると、夜の湖が見えた。
静かな光が広がっている。
「新鮮な気持ち、か」
そうつぶやく。
たぶん、そうなるだろう。
いや。きっと、そうなる。
次に王都で彼女を見るとき。
ドレスを着て、少し照れて、でもちゃんと背筋を伸ばしているだろう。
その姿を見たら――
また同じ言葉を言う気がする。
「綺麗だ」
わたしは苦笑した。
「これは、手紙を書かなければな」
机に戻り、紙を広げてペンを取る。
彼女は今、王都で忙しくしている。
でも、その忙しさの中で、わたしを思い出して手紙を書いた。
ならば、わたしも同じことをしよう。
ペン先を紙に置く。
インクが静かに広がる。
わたしは書き始めた。
ミネルバへ。
避暑地は相変わらず静かです。
そして、あなたがいないので少しだけ退屈です。
書きながら、わたしは小さく笑った。
手紙というものは不思議だ。
離れているのに、距離が縮まる。
彼女がこの手紙を読む頃。
きっとまた、顔を赤くするのだろう。
その様子を想像して、わたしは静かに思った。
早く会いたい。
とても。
昼下がりの避暑地は、湖から吹く風こそ涼しいが、通りはまぶしいほど明るい。
店の軒先に立っていると、白い光が石畳を跳ね返してくる。
その光の中を、賑やかな一団が通り過ぎていった。
笑い声。
高い声。
軽い靴音。
若者たちだ。
肩を寄せて歩き、誰かが冗談を言い、肩をぶつけ合って笑い、別の誰かが大げさに笑う。
未来が当たり前に続くと信じている顔だ。
わたしはその背中を、静かに眺めていた。
――自信に満ちている。
そう思う。
そして、思う。
潰す。
もちろん、文字通りではない。
そんな野蛮なことをするつもりはない。
だが、あの自信。
あの軽さ。
あの「自分たちは正しい」という確信。
それは、いずれ壊れる。
わたしはそれを少し早めるだけだ。
わたしは店の柱にもたれ、腕を組んだ。
ミネルバには言っていない。
いや、言うつもりもない。
彼女は王都に戻った。
婚約式の準備で忙しくしている。
だがわたしは避暑地に残った。
理由は簡単に説明してある。
店の面倒を見るため。
避暑地に家を買うため。いくらなんでもずっと兄の家にお世話になるわけにはいかない。それに、二人きりにもなりたい。
――嘘ではない。
だが、本当でもない。
本当の理由は、別にある。
明日、友人たちと集まる。
夏の終わりの小さな集まりだ。
名目は「夏の名残を楽しむ会」。
実際には、少し違う。
役所で書類と格闘している友人がいる。
あれは真面目すぎる男で、法律の条文と格闘しているときの顔は、まるで戦場の兵士のようだ。
「だったら、手伝え」
と言われた。
わたしは承知した。
もう一人、外交部の友人がある要人を招待したがっている。
だから彼を夜会に招待することも約束した。
表向きは、ただの集まり。
酒と食事と会話。
だが、実際には少しだけ違う。
王都に戻ったら忙しい。
友人の手伝い。
夜会の準備。
そして――
少しだけ、世界を動かす。
ミネルバには言わない。
彼女は、きっと止める。
あるいは、悲しそうな顔をする。
それは見たくない。
だから黙っている。
その代わり、彼女が安心して笑える場所を作る。
わたしのやり方で。
通りはまだ明るい。
夏の光は、まだ終わらない。
友人たちは、重荷をおろしたすっきりした顔で王都へ戻っていった。
◇◆◇◆◇
わたしは店の中を見回す。
棚には、色々なものが並んでいる。
小さな陶器。
ガラスの瓶。
外国の砂糖菓子。
細工の可愛い匙。
布の小物。
避暑地の客は、こういうものを買う。
必要ではない。
だが、欲しくなる。
そんなものばかりだ。
ミネルバは、この店を見て少し不思議そうな顔をしていた。
「どなたかのためですか?」
そう聞かれた。
わたしは笑って答えた。
「暇つぶしだ」
半分は本当だ。
半分は嘘だ。
棚の上の小さなガラス瓶を指で回す。
陽の光が当たると、淡い色が揺れる。
……こういうものが好きなのだ。
可愛いもの。
楽しいもの。
意味がなくても、少し嬉しくなるもの。
人には言わない。
言えば笑われるし、仕事に差し支える。
だから商売を前面に出している。
「店」という形にしてしまえば、誰も不思議に思わない。
わたしは瓶を棚に戻した。
外では、さっきの若者たちの笑い声が遠ざかっていく。
まぶしい夏と軽い未来。
わたしは小さく息を吐いた。
「さて」
◇◆◇◆◇
王都からの手紙が届いたのは、店を閉めたあとのことだった。
避暑地の夕方は早い。湖の光が静かに沈み、昼間の賑わいが嘘のように落ち着く。店の扉を閉め、帳簿を片づけていると、使用人が封筒を差し出した。
「王都からです」
そう言われた瞬間、わたしは誰からの手紙なのかすぐにわかった。
封の色も、紙の質も、見覚えがある。
ミネルバだ。
わたしは思わず少し笑ってしまった。
数日前に別れたばかりなのに、手紙が届くだけでこんなにも嬉しいとは思わなかった。
封を切る。
紙を開く。
そして――思わず息を止めた。
やはり、きれいな字だ。
整っていて、やさしくて、どこか静かな強さがある。
わたしはこの字が好きだった。
最初に見たときから、ずっと。
読み始める。
王都は忙しいこと。
婚約の準備が始まったこと。
招待状の文面を整えていること。
文字を追いながら、自然と情景が浮かぶ。
王都の屋敷。
広げられた紙。
マーガレットが横からのぞきこんでいる様子。
夫人が楽しそうに笑っている姿。
そしてその中心に、ペンを持ったミネルバがいる。
想像するだけで、胸があたたかくなる。
続きを読む。
避暑地で毎日顔を合わせていたせいか、こちらでは少し静かすぎます。
そこを読んだとき、わたしは思わず声を出して笑った。
「それはこちらも同じだ」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
避暑地は相変わらず穏やかだ。
けれど、どこか足りない。
どこにいても、少し先に彼女がいた。
それが当たり前になっていたらしい。
マーガレットが、次に会ったら新鮮な気持ちで会えるのよ、と言いました。
ほんとうにそうなるでしょうか?
そこまで読んで、わたしはしばらく手紙から目を離した。
新鮮な気持ち。
なるほど。
あの子らしい言葉だ。
そして、ミネルバらしい疑問だ。
わたしは椅子にもたれ、天井を見た。
会えない時間。
それは確かに寂しい。
けれど同時に、気づくこともある。
ミネルバがいないとき、わたしはよく考える。
彼女が笑った顔。
少し困った顔。
驚いた顔。
そして――
藤棚の下でのこと。
あのとき、わたしはひざまずいた。
言葉は自然に出た。
愛している。
毎日この言葉を言いたい。
あれは衝動ではない。
あの瞬間までの、すべての時間がそうさせた。
彼女の手紙を見て、改めて思う。
この人は、わたしの人生に必要な人だ。
ただ一緒にいるだけで、世界が少し穏やかになる。
手紙を最後まで、もう一度読む。
そして丁寧に折り直した。
「さて」
わたしは立ち上がる。
窓を開けると、夜の湖が見えた。
静かな光が広がっている。
「新鮮な気持ち、か」
そうつぶやく。
たぶん、そうなるだろう。
いや。きっと、そうなる。
次に王都で彼女を見るとき。
ドレスを着て、少し照れて、でもちゃんと背筋を伸ばしているだろう。
その姿を見たら――
また同じ言葉を言う気がする。
「綺麗だ」
わたしは苦笑した。
「これは、手紙を書かなければな」
机に戻り、紙を広げてペンを取る。
彼女は今、王都で忙しくしている。
でも、その忙しさの中で、わたしを思い出して手紙を書いた。
ならば、わたしも同じことをしよう。
ペン先を紙に置く。
インクが静かに広がる。
わたしは書き始めた。
ミネルバへ。
避暑地は相変わらず静かです。
そして、あなたがいないので少しだけ退屈です。
書きながら、わたしは小さく笑った。
手紙というものは不思議だ。
離れているのに、距離が縮まる。
彼女がこの手紙を読む頃。
きっとまた、顔を赤くするのだろう。
その様子を想像して、わたしは静かに思った。
早く会いたい。
とても。
あなたにおすすめの小説
繰り返しのその先は
みなせ
ファンタジー
婚約者がある女性をそばに置くようになってから、
私は悪女と呼ばれるようになった。
私が声を上げると、彼女は涙を流す。
そのたびに私の居場所はなくなっていく。
そして、とうとう命を落とした。
そう、死んでしまったはずだった。
なのに死んだと思ったのに、目を覚ます。
婚約が決まったあの日の朝に。
真実の愛の裏側
藍田ひびき
恋愛
アレックス・ロートン侯爵令息の第一夫人シェリルが療養のため領地へ居を移した。それは療養とは名ばかりの放逐。
男爵家出身でありながら侯爵令息に見初められ、「真実の愛」と持て囃された彼女の身に何があったのか。その裏に隠された事情とは――?
※ 他サイトにも投稿しています。
婚約者を借りパクされました
朝山みどり
恋愛
「今晩の夜会はマイケルにクリスティーンのエスコートを頼んだから、レイは一人で行ってね」とお母様がわたしに言った。
わたしは、レイチャル・ブラウン。ブラウン伯爵の次女。わたしの家族は父のウィリアム。母のマーガレット。
兄、ギルバード。姉、クリスティーン。弟、バージルの六人家族。
わたしは家族のなかで一番影が薄い。我慢するのはわたし。わたしが我慢すればうまくいく。だけど家族はわたしが我慢していることも気付かない。そんな存在だ。
家族も婚約者も大事にするのはクリスティーン。わたしの一つ上の姉だ。
そのうえ、わたしは、さえない留学生のお世話を押し付けられてしまった。
夏の眼差し
通木遼平
恋愛
伯爵令嬢であるティナの婚約者とティナの妹が恋仲になり、ティナは婚約を解消することになる。婚約者に対して特に思い入れはなかったが、姉妹の婚約のすげ替えについての噂と勝手なことばかり言う妹に気疲れしたティナは、昔から彼女を気にかけてくれていたイライザ夫人の紹介で夫人の孫娘リネットの話し相手として雇われることになった。
家から離れ、リネット共に穏やかな日々を過ごすティナは、リネットの従兄であるセオドアと出会う。
※他サイトにも掲載しています
公爵家の次女ですが、静かに学園生活を送るつもりでした
佐伯かなた
恋愛
王国でも屈指の名門、公爵アルヴィス家。
その家には、誰もが称賛する完璧な令嬢がいた。
長女ソフィア。
美貌、知性、礼儀、すべてを備えた理想の公爵令嬢。
そして──もう一人。
妹、レーネ・アルヴィス。
社交界ではほとんど名前も出ない、影の薄い次女。
姉ほど目立つわけでもなく、社交の中心にいるわけでもない。
だが彼女は知っている。
貴族社会では、
誰が本当に優れているのかは、静かな場面でこそ分かるということを。
王立学園に入学したレーネは、
礼儀作法、社交、そして人間関係の中で、静かに周囲を観察していく。
やがて──
軽んじていた者たちは気づく。
「公爵家の妹」が、本当はどんな令嬢だったのかを。
これは、
静かな公爵令嬢が学園と貴族社会で評価を覆していく物語。
【完結】愛する人のために
月樹《つき》
恋愛
カスペル公爵令嬢デルフィーヌは、幼い頃その愛くるしい笑顔に一目惚れしたクリストファー王子に請われ、彼の婚約者となった。
けれど王子妃としての厳しい教育を受けるうちに、彼が好きだった笑顔は滅多に見られなくなり…気がつけば彼の側には、デルフィーヌではなく屈託なく笑う平民の聖女アネモネの姿を見かけるようになる…。
『あなたのために、私は無邪気な笑顔もなくしたのに…』
このお話は愛する誰かのために生きる人達のお話です。
三部仕立てで、お話はそれぞれの視点で描かれております。
※他サイトでも投稿しております。