春の避暑地

朝山みどり

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45 フローラの敗北

 45 フローラの敗北

 マダム・クロエのサロンは、柔らかな光に満ちていた。

 ちらりと見えたデザイン画が、目に焼きついて離れない。流れるような線、無駄のない装飾。あれは、本当に、素敵だった。
 あの場にいたミネルバは、静かに、けれど確かに中心にいた。
 対して、わたしは外に立っていた。そこに存在しない者も同然だった。

 あの日のことが頭をよぎる、金の針でも、クリスタルでも断られた。
「失礼ね。身の程知らずだわ」
 お母様は笑っていたけれど、その声の奥には、隠しきれない苛立ちと焦りが滲んでいた。
 わかる。あれは、ただの強がりだ。

 似合わない。
 地味。

 あの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
 そうなのね。お母様はお姉様に、わざと似合わないドレスを着せていたんだ。

 お姉様を馬鹿にする、取り巻きたちの言葉。
「立ちそうなドレス」
 あれを聞いて、お母様も家で笑っていた。自分が着せたものなのに。

 すべて、自分たちに返ってくる言葉だった。

 本当に似合うと思っていたのなら、趣味が悪いと言うしかない。
 けれどもし、似合わないと分かっていて着せていたのだとしたら――。

「最低……」

 思わず、独り言が漏れた。
 実の娘を貶めて、それを笑いものにしていたということになる。

 そして「わたしも、同じね」

 気づかなかった。いや、気づかない振りをしていたのだ。
 お姉様が引き立て役であることを、どこかで当然のように受け入れていた。そのほうが、わたしにとって都合が良かったから。

「最低だわ」

 胸の奥が、じくじくと痛かった。
 テリウスは、どう思っていたのだろう。あんな滑稽な姿のお姉様を見て、何を感じていたのだろう。

 今シーズン、結局ドレスを新調しなかった。
「似たり寄ったりのドレスを、無分別に作るのをやめたのだな。賢くなった」
 食卓で、お父様は満足げに頷きながら言った。

「はい……」
「ええ、お父様」

 お母様とわたしは、顔を見合わせて笑って返した。
 けれど、その言葉はどこか遠くで響いているようだった。ドレスを作ろうと店を回ったあの醜態は、ただ笑いを買っただけだったのではないか。そんな不安が胸をよぎる。

 そして、夜会。

 光に満ちた広間に足を踏み入れた瞬間、ささやき声が波のように押し寄せた。
「見て……」
「あれが……」

 皆の視線が、一点に集中していた。
 その中心にいたのは――。

「ローハン夫人でいらっしゃいます」

 そう紹介された、お姉様だった。
 見事なドレスだった。
 おそらく、あのマダム・クロエの作品だろう。流れるような布地が、歩くたびに柔らかく揺れる。無駄を削ぎ落としているのに、どうしようもなく目を奪われる。

「綺麗……」

 思わず、溜息がこぼれた。
 その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「結婚式には呼んでいただけなかったのですね」
 誰かが、ふざけているとわかる口調で恨み言を述べる。それを周りが、好意的な笑みを浮かべて見守っている。
 お姉様は少しだけ目を伏せ、それから穏やかに答えた。
「家族だけに囲まれた、静かな式に憧れておりましたの」

 その言葉に、周囲が柔らかくざわめく。
「まあ……素敵」
「本当に。今時、贅を尽くすばかりが美徳ではありませんわね」
「本来のお式はそうだったのよね」

 一通り称賛が続いた後、「どんな豪華な式だって挙げてあげられたのに」とガーベラ伯母様が悔しそうに零した。
 けれど、その言葉も感嘆の波に乗って広がった。

「新時代ですね」
「いえ、古来のやり方に戻ったと言うべきでは?」

 相反する評価さえ、すべてが熱烈な支持に変わっていく。
 気がつけば、会場の空気はお姉様一人のものになっていた。

 わたしの友人たちは、わたしの側に儀礼的に近寄っては来る。
「相変わらず素敵なドレスね」
「さすがだわ、安定感があるもの」
「やっぱり、あなたらしいわ」

 口々に、無難な言葉を置いていく。
 そして、すぐに、お姉様の方へと視線を移して去っていく。

 わたしは、立ち尽くしていた。
 着ているのは、去年のドレス。
 彼女たちはこれに気づいているのに、気づかない振りをしているのか。それとも、印象にすら残っていないのか。

 どちらでもいい。

「馬鹿みたい」

 小さく、自嘲のつぶやきが漏れた。
 新しいドレスを求めて必死に走り回ったことも。去年のドレスを少しでも新しく見せようと工夫をしたことも。

 全部、全部「馬鹿みたいだわ」

 隣に立つテリウスを見る。
 彼は、完全に上の空だった。
 視線はお姉様の方を向いているのに、その瞳は何も捉えていないような、あるいは、遠い何かを追っているような。

「ねえ」

 腕をぽんぽんと叩き、彼の名前を呼ぶ。

「テリウス」

 彼が、わずかに視線をこちらに落とした。その瞳には、かつての熱量はなかった。

「疲れたわ」

 彼の耳元で、そう囁いた。
 テリウスの表情が、ほんの少しだけ動いた。
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