【短編集】

朝山みどり

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怖い話

砂漠の町の黒い井戸

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砂漠の町・哈那(ハーナ)は、四千年以上前、緑の泉を抱く王国の都だった。
その中心にあったのが、玉石で縁取られた「王の井戸」である。
王は天の恩寵を受ける証として、毎年この井戸から聖水を汲み、国中に配った。
だが、最後の王は暴君だった。民に過酷な税を課し、ついに井戸を呪った。

「私の血筋以外の者が、この水を口にすれば、その者は永遠の渇きを得るだろう」

伝えられるところでは、王は処刑された反乱の首領たちの亡骸を井戸に投げ込み、自らもその水を飲んで玉座で息絶えたという。
以来、王の血を引かぬ者が水を飲めば、渇きを癒す代わりに魂を奪われ、井戸の底に引き込まれると恐れられた。

時は流れ、オアシスは干上がり、町は砂に飲まれた。
水は王よりも偉く、銀よりも高く、住人は互いの皮袋を睨み合いながら暮らしていた。
市場の端に、一つだけ使われない井戸がある。石垣は黒く染まり、近づくと冷気が指先を這い上がってくるという。

老人たちは子供にこう言う
「あの井戸の水を飲んだら、二度と渇かなくなる。だが、魂が渇くぞ」
二十年前の干ばつの日、飢えた若者たちがこっそりその水を汲み、喉を潤した。
翌日、若者たちの姿が消えた。

探しに行った者は、井戸の縁に膝をつき、笑いながら水面を覗き込む若者たちを見たという。

そして目の目で若者たちは井戸に飛び込んだ。
慌てて、井戸を覗くと無数の目がこちらを見ていたそうだ。

それからというもの、夜半になると、井戸の方角から「水がいらないか」という声が風に乗って届く。
声は街中を這い回り、窓の隙間や耳の穴から忍び込み、夢の中に水面を浮かべる。
夢で水を飲めば、朝には喉の渇きが消え、皮袋の水も満ちている。
だが三日後、必ずその人間は井戸へ歩いていき、帰ってこない。
だから、人々は決して一人では寝ない。誰かが起きていて
「水を貰うな」と注意する。

ある旅の商人が、この噂を笑い飛ばして一人でゆっくりと寝た。

彼は渇きも飢えも消えたと喜んだが、夜ごと鏡に水面が現れ、その底に沈んでいく自分の姿を見た。
七日目、商人の荷物だけが市場に転がっており、皮袋はすべて空だった。

今も砂嵐の夜には、井戸の中から水音が響く。
それは波の音にも似て、あるいは無数の人間が喉を鳴らす音にも聞こえる。
町の者は耳を塞ぎ、唇を固く閉ざす。
渇きがどれほど耐え難くとも、黒い井戸に向かってはいけない。
なぜなら、あの水は「飲む者」を潤すのではなく、「飲む者」を飲むからだ。

およそ百年前、政府の手で遠くの河川から水道が引かれ、人々はもう井戸に頼らなくなった。

井戸とその恐怖は伝説となった。

「黒い井戸」の名は、やがて観光パンフレットの目玉になった。
井戸の周りは整備されて人々の楽しげな声が聞こえる場所になった。

昼間でも、井戸の中は光を吸い込むように暗く、底は見えない。
それでも「古代王朝の呪い」という文字は、外国人には魅力的に映るらしい。


ある春の日、都市部から来た観光客の一団が井戸の前で記念写真を撮っていた。
その中に、背の高い若い男がいた。
彼は冗談めかして「俺がこの町の王様だ」と笑いながら、ポーズを取った。
その瞬間、周囲の空気がひやりと冷え、カメラを構えていた友人が思わず息を呑んだ。
井戸の中から、ぼんやりと金色の模様が浮かび上がったのだ。
古い壁画のような、王冠を戴く男の横顔。
だがその目は、真っ直ぐに若い男を見ていた。

地元の年寄りが後に語った。
「あれはな、血が呼んだんだよ。あの若者、きっと王家の末裔さ」

男は笑って否定したが、その夜から夢を見るようになった。
果てしない砂漠の真ん中で、透き通る水面が広がっている夢。
その水面に自分が映り、だが顔は自分ではなかった。
黄金の冠を戴いた古代の王が、無言でこちらを見返していた。

三日目の夜、男は宿を抜け出し、月明かりの下で黒い井戸の前に立っていた。
観光用の柵を越え、石垣に両手を置く。
水面は無かった。代わりに、底からいくつもの手が伸び、彼を迎えた。
その手は冷たくも温かくもなく、ただ引き寄せる。彼は抵抗しなかった。

翌朝、男の姿は消えていた。
井戸の中を覗くと、底にかすかな光が瞬き、波紋が広がっていた。
まるで王が玉座に戻ったかのように。

今も夜半、観光客の中には、井戸の方から水音を聞く者がいる。
それは波の音にも似て、あるいは誰かが玉座で杯を傾ける音にも聞こえる。
地元の案内人は必ずこう言う・・・

「あなたが末裔かも知れません。王様」
そこで観光客は笑ってポーズを取る。

そして王は、まだ渇いている

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