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1巻
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◆◇◆
私はランドレイ家で執事見習いをしているエドワードと申します。
ランドレイ侯爵夫人であるアイリス様の実家からやってきた執事見習いで、ランドレイ家の執事長であるトマスさんの補助として執事の仕事を学ぶために、少し前からランドレイ侯爵邸で働かせていただいております。
今日は王宮で大切なパーティーということで、ランドレイ侯爵家の皆様でお出かけです。私はトマスさんの代理として皆様について参りました。
しかしそこで、とんでもない事件が起きました。
「マーガレッタ! お前のような令嬢とも呼べぬ娘を、私の婚約者にしておくわけにはいかない!お前との婚約を破棄させてもらう!」
よく通る声で朗々と、ノエル殿下がマーガレッタお嬢様との婚約破棄を宣言し、聖女であるロゼラインお嬢様を婚約者にすると宣言されたのです!
い、一体、何が起こっているのでしょうか⁉
国王陛下を見ると、ぽかんと口を開けていらっしゃいます。これは、予定になかったことなのでしょうか。ですが、ロゼラインお嬢様とノエル様――寄り添う二人はまるで一枚の美しい絵画のようです。
燭台とシャンデリアの光でキラキラと二人の衣装が輝き、すべての出席者の目を引いていて、私もうっとりと眺めてしまいました。
二人の煌めきは、まるでこの国とランドレイ侯爵家がますます繁栄していくことを示唆しているようです。
それなのに、私の前に立つ旦那様の顔色は青ざめておりました。この発表のことを旦那様はご存じなかったようで、慌てているように見えます。
「な、何を……殿下は何を言っておられるのだ‼」
ノエル様は旦那様と同じく、日頃から地味な見た目のマーガレッタお嬢様を軽んじていましたが、さすがに婚約破棄に至るとは予想外だったのでしょう。
「で、殿下はお忘れなのか。なぜ殿下がマーガレッタと婚約なされたか!」
旦那様は呆然とそう呟きました。
婚約なさったときには、事情や政略があったのでしょうが、どちらにせよノエル様の婚約者はランドレイ家の令嬢なのだから、そこまでランドレイ侯爵家に損失はないはずです。
「あなた、よいのではありませんか。地味なマーガレッタよりロゼラインのほうが王妃にふさわしいでしょう?」
「ア、アイリス……駄目なのだ、殿下の婚約者はマーガレッタでなくては……」
「なぜです⁉ あなたも日頃から言っていたではないですか。マーガレッタではなくロゼラインが王太子殿下の婚約者だったらよかったのに、と」
奥様のおっしゃることはもっともですが、旦那様は奥様の言葉を否定なさいます。もしかして、奥様も知らない『何か』があるのでしょうか?
日が浅い一介の使用人であり、執事見習いの私には見当もつきません。
旦那様が唸っているうちに、ロゼラインお嬢様もマーガレッタお嬢様を邪魔だと言い、長男のオリヴァー様もノエル様に追随し始めました。
「や、やめろ……やめるんだ、ロゼライン、オリヴァー! こ、このままではマーガレッタが……マーガレッタが……」
「あなた。マーガレッタがいなくても我が家は問題ありませんわ。聖女のロゼラインがノエル様の婚約者に、そして我が家の跡継ぎには優秀なオリヴァーがおりますもの。我がランドレイ家は安泰です。あなたもご存じでしょう? オリヴァーは剣の腕だけでなく、頭もいいのですからね!」
「駄目だ、アイリス。マーガレッタは我が家に必要な娘なのだ!」
旦那様は歩み出て、お嬢様たちを止めようとなさいますが、奥様に腕を取られ押しとどめられてしまいました。
「いまさら何をおっしゃいますか。マーガレッタはいらない子供だと、あれほど言っていたあなたが、今日に限ってあの子の肩を持つなど」
「アイリス……マーガレッタとて私たちの娘――私たちの『とても使える娘』なのだ」
私はあまりマーガレッタお嬢様と話をしたことはございません。関わらなくてよい、と旦那様と奥様から言いつけられたので、顔合わせすらしておりません。
なので私は、マーガレッタお嬢様がどんなお方かはわかりません。ですが、旦那様がおっしゃるのなら、『とても使える娘』なのでしょう。貴族の家には執事が口を出してはならない境界線というものがありますから。
「あの子の薬師としての能力は高いですが……あの子だけ地味な茶色の髪じゃないですか! あなただってあの子だけ私たちと違うと思っているから、あの子にだけ冷たくしていたんでしょう?」
「ち、違う……」
私がこの仕事に就く前に調べた限りでは、ランドレイ家の歴史を辿ると茶色の髪の者は何人もいて、何より旦那様のお母様はマーガレッタお嬢様と同じ茶色の髪です。
今のランドレイ侯爵家では、金髪で碧眼であることが美しいと重要視されているのは確かです。髪の色と目の色に誇りを持っているようなのです。
旦那様も常日頃から、ご自身の髪と瞳の色を自慢しておられますが、どうしてか、今回だけはお嬢様を擁護なさっています。
「違わないわ、あの子をいつも調剤部屋に押し込んで仕事をさせている間に、私たちは食卓を囲んだ。それはあの子が私たちの本当の家族じゃない、何かの間違いで産まれてきた子だからよ、あなただってそう思っていたんでしょう?」
「だが必要なのだ……」
「だから、どうして!」
旦那様と奥様は小声で言い合いを続けていて、話が纏まらないままです。
その間にも、ロゼラインお嬢様とオリヴァーお坊ちゃまはマーガレッタお嬢様を公衆の面前で罵倒し続け、もう事態の収拾がつかなくなっておりました。
そして、マーガレッタお嬢様はパーティー会場から逃げるように消えました。
あそこまで言われてこの場に残るのは、たとえマーガレッタお嬢様でなくとも難しいでしょう。
ノエル様やロゼラインお嬢様、オリヴァーお坊ちゃまはやりきったという表情でしたが、夜会にはおかしな雰囲気が漂い始め、普段よりもかなり早い時間に解散となりました。
「先に戻っておれ、私は陛下に話がある」
「畏まりました」
旦那様は一人王宮へ残り、国王陛下との面会を取り付けたとのことです。たしかに婚約者をロゼラインお嬢様に変更するなら、たくさんの手続きがあることでしょう。
私は旦那様から命じられた通りに先に侯爵邸に戻りました。
きっと国王陛下と話をなされば、旦那様のお気持ちは上向くはずです。何せ、聖女であるロゼラインお嬢様が王太子殿下であるノエル様と婚約なさるのだから!
しかし真夜中近くに戻ってきた旦那様の顔色は、お世辞にもよいとは言えないものでした。
「あ、ああ……マーガレッタとの契約が……お、終わってしまう……!」
旦那様は頭を抱えて顔面を蒼白にしておられますが、私には何が起こったか分かりません。そんな旦那様の様子を、トマスさんは静かに見つめていました。
「こぼれたミルクは戻らない、いくら嘆いても……」
トマスさんの呟きの意味が、私にはまったく分かりません。
しかし、旦那様のおっしゃっていた『契約』が終わったことで事態は静かに進み、その恩恵にあずかっていた者たちは、そのことの意味に気づかないままなのでした。
翌日、ロゼラインお嬢様の機嫌が悪いとメイドたちから泣きつかれた私は、ロゼラインお嬢様の部屋にやってきておりました。
聖女とはいえロゼラインお嬢様は貴族の令嬢です。少し……いや、それなりに、私たちに強く当たることがあります。
私はこのランドレイ家に来た時、ロゼラインお嬢様は聖女だから誰でも分け隔てなく優しく温かく接してくださる、と思っておりました。それがすぐに誤りだとわかり、落胆したことを覚えております。
それでもロゼラインお嬢様は、私が仕える旦那様のお嬢様。
どれほど強く当たられても、しっかり仕えなければなりません。これも立派な執事になる為に必要なことです。
「変ね……いつもスッキリと目覚めるのに、今日はぼんやりとして体も重いわ。せっかく昨日我が家の役立たずを追い出して、私がノエル様の婚約者になったのに。うふふ、意外と緊張してしまって、よく眠れなかったのかしら?」
ロゼラインお嬢様の部屋に近づくと、そんな声が聞こえてきました。そうか、今日からロゼラインお嬢様がノエル様の婚約者なのでした。
王太子妃、そして王妃になることが決まったことで、無意識に緊張していらっしゃったのでしょう。ロゼラインお嬢様は扉の前で待機していたメイドに声高に命令なさいました。
「あれを持ってきて!」
メイドは何のことか分からず、首を傾げます。あれとは何のことだろう……私にも分かりません。
「まったく使えないメイドだわ。主人である私があれって言ったら、あれに決まっているじゃない!」
「あれ……もしかしてマーガレッタお嬢様の作られたドリンクですか?」
「分かってるなら早く寄越しなさいよ!」
メイドはこれ以上ロゼラインお嬢様の機嫌が悪くなる前に、急いで棚から小瓶を取り出し、ゆっくりと差し出します。お嬢様はそれを奪い取ると一気に飲み干しました。
「まあまあね」
あれはマーガレッタお嬢様が製作なさったドリンクの一つだったかと思います。
「元気のない時に飲むとすこし疲れが取れますが、常用はお控えください」とおっしゃっていた、と聞いております。
ロゼラインお嬢様はとてもお疲れだったのでしょう。だからメイドにもつい、強い口調が出てしまったのでしょうね。
「さあ、今日からいい日になるわよ!」
ロゼラインお嬢様はドリンクを飲まれてお元気になられたようでしたので、いつも通り朝食後に、聖女の仕事をするために神殿へ向かいます。
メイドたちの希望もあって、今日は私がお供をすることになりました。
「聖女ロゼライン……いつものように祈りをお願いします」
「え、やっているわよ?」
祈りの間の中心で膝をつき、両手を組んでいたロゼラインお嬢様は、呆れ顔の女性神官にそうおっしゃいました。
いつも通り真面目に祈っているわ、とロゼラインお嬢様はおっしゃるけれど、いつも通り祈りながら不満そうな表情をしているのは誰もがわかっております。聖女が祈らなくても神官が祈ればいいじゃない、と日々漏らしておられましたから。
それでもロゼラインお嬢様は朝から神殿の祈りの間で膝を折って祈りを捧げていらっしゃる。
こうやって聖女が毎日毎日神に祈りを捧げることで、神官たちは神から力を賜るのだそうです。
「こんな寒いところで何時間も祈らなきゃいけないなんて、疲れるし面倒くさいし、馬鹿らしいわ。私はもっと地位が高くてお布施をたくさん納めてくれる人たちを治療する仕事があるし、お金を持ってない平民を治療するのも、こんなくだらない祈りを捧げるのも無意味なの!」
ぶつぶつと呟くロゼラインお嬢様の言葉を、私は聞かなかったことにしました。〝お優しい聖女様〟がそんなことを言うはずがないのですから。
普段はいろいろな理由をつけて祈りをさっさと切り上げるようですが、今日はそうはいかないようでした。
「聖女ロゼライン? 祈りが天に届いておりません。悪ふざけはおやめください」
神殿の中でも高位の女性神官が、ロゼラインお嬢様に注意をします。私にはいつも通り祈りを捧げておられるように見えましたが……
「いつも通りやってる、って言っているじゃない。ほら」
「ご冗談を。神聖力がまるで感じられませんわ。いつものようにお願いします」
「だから、やってるって!」
「……聖女ロゼライン、ふざけておられるのですか? きちんと神聖力を乗せた祈りを――」
「やってるって、さっきから言ってるでしょう‼」
その言葉とともに、周囲にいた神官たちが騒めきます。本人たちは小さい声で耳打ちしているつもりのようですが、私にも聞こえるほどに声が少しずつ大きくなっておりました。
周囲の騒めきを纏めると、なぜかロゼラインお嬢様の神聖力は、見習い神官以下、というか、きれいさっぱり消え失せている、とのこと。
顔を青くした女性神官が、ロゼラインお嬢様に早口でまくしたてます。
「せ、聖女……ロゼライン……? ま、魔法は、回復魔法は使えますか……? 詠唱も祈りもほぼ必要とせずに、しかも神聖力を気にせずに何度も使えたヒールやキュアといったものは……それに結界魔法は使えますか、使えますよね⁉」
「……つ、使え……ないわ……」
ロゼラインお嬢様がいくら両手を組んで祈ろうと、聖なる言葉を紡ごうと、昨日までは簡単にできていた癒しの技が一つもできなくなってしまったようなのです。
そんなことがあるのでしょうか……?
しかし一介の執事見習いである私は、部屋の隅でハラハラと成り行きを見守るしかありません。
「い……癒しを、ヒール! 嘘ッ! なんで何にも起こらないの⁉」
普段、ロゼラインお嬢様が対象のものに手をかざすと、ふわりと温かい緑の光が現れるのですが、今は何も起こりません。
お嬢様も混乱していますし、それを聞いた神官たちから動揺が広がっていくのは容易に想像できました。
ロゼラインお嬢様は、祈りの間にいた神官たちに取り囲まれ……そして恐ろしい台詞を突き付けられました。
「聖女ロゼライン、あなたは聖女の資格を失っております。聖女の力が今のあなたからはまったく感じられない」
「え……どういう……」
「あなたはもう聖女ではない、ということです」
「な、なんですって……⁉」
◆◇◆
私の名前はサウエル・シュテファン。
シュテファン家は代々侯爵位を世襲している家である。
そしてこのリアム王国で実力によって宰相という地位を得た私の目から見ても、リアム王国の王太子であるノエル様は「優秀」の一言では表し切れない才能があった。
あの両親から生まれた子供がよくここまで才気に溢れる傑物になったものだ。
剣の腕、魔法の才能、勉学。どれをとっても王太子という地位に引けを取らず、次期王という肩書きにも勝るほどの能力があった。
さらに彼の容姿は人を惹きつけるほどに美麗なのだ。
キラキラと煌めく金の髪に、澄んだ青空を映したかのような青色の瞳が美しく、さらに明るく爽やかな性格で、誰からも好かれる好青年。
動き一つにも気品があり、ノエル様を見て「素敵ね」とため息を漏らす令嬢は数知れず。難があるとすれば婚約者があまりにも地味だった、そういう素晴らしい人物――と、言われていた。
……しかし、その日はどうも違った。
「ノエル様。ノエル様? おかしいな。いつもならもう起きて剣の稽古をしておられるはずなのに」
ノエル様は起こされずともご自身で起き、朝早くから自主練を欠かさない王子の鑑のような方であったはず。
しかし今日はいつまでたっても現れず、不審に思ったメイドたちが、たまたま通りかかった私に助けを求めたのだ。
私も不思議に思い、ノエル様の寝室をノックする。しかし返事はない。
「ノエル……様?」
昨日大きなことがあったからか今日の訓練は休みにしたが、もう起きてはいらっしゃるのだろうか。そう思い扉を開け、中の様子を覗き込むと、ノエル様はまだ睡眠中だった。
ノエル様が寝坊など、この十年間なかったことだけれども、人間だれしも寝坊の一度や二度はあるだろう。
「ノエル様も完璧ではなかったということだな。それにしても……」
大きないびきをかくノエル様の寝相は酷いものだ。頭と足が逆になり、毛布はベッドからずり落ち、枕もどこかへ飛んでいる。
絶句するほど、だらしなく情けない姿だった。
私は口角を上げてクスリと笑った。
「……子供みたいだな」
ベッドメイクなどいらないのではないか、と思うほど寝相がよかったノエル様にしては珍しい姿に少しだけ安心した。完全無欠の完璧な王太子にも人間らしさがあるのだと。
「ノエル様、ノエル様。朝でございますよ、朝食の時間です」
しかし、声をかけても、ノエル様のいびきは止まらない。
おかしい、何度起こしてもノエル様は起きないどころか、不快ないびきが大きくなる。
最初は微笑ましく見ていた私だったが、あまりに起きないものだからイライラがとうとう限界を超えた。
「起きてくださいッ! いつまで寝ておられるんですかッ‼」
「うわぁっ」
相当な大声で叫ぶと、ノエル様はのそのそとやっとベッドの上で身を起こした。
「まるで国王陛下と同じくらい寝起きが悪い日ですね、いかがなさいましたか?」
「ん……なんだ……朝か……? 嘘だろう、体が重い……もう少し寝たい……」
「何をおっしゃいますか。本日も公務の予定がいっぱいです、さあ顔を洗って朝食です。皆様お待ちですよ」
「え……あ、ああ……」
ノエル様の様子を見て、私は不思議で仕方がなかった。いつものノエル様はもっと生気に満ち、明るく元気な青年である。
それが今日はどうしたのか。朝からどんよりとして、覇気がなくのろのろと動く。背中も自信なさげに曲がり、なんだか雰囲気も暗い。
あまりに似ていない、と言われ続けたノエル様の父親、国王陛下とそっくりなのだ。
「……ノエル様も人間、こんな日もありますよね」
「ん、なんか言ったかい?」
「……いえ、なんでもございません」
しかし私の気のせいではなかったようだ。
やっとベッドから這い出て、しょぼしょぼと半分しか開かない目と丸めた背中で歩くノエル様の姿に、私以外の使用人たちもぎょっとした。
しかし使用人のうち、この城に長く勤めるものたちは顔を青くして頷きあったらしい。
十年前、婚約者を得る前の王太子ノエルはこんな姿であった、と。
その者たちに話を聞くと、近頃は両親とはまるで似ていないと言われていたノエル様だったが、十年前は瓜二つと言われていたというのだ。
さらに、王太子も無能だ、と陰で囁かれていた十年前のことを教わった。
私はごくりと唾を飲み、だらだらと歩くノエル様の背中を見遣る。
昨日までと打って変わって覇気のなくなった姿に、言いようのない恐怖を覚えた。
◆◇◆
昨晩、私たちランドレイ侯爵邸の使用人が敬愛するマーガレッタお嬢様が、自らの意思ではなかったものの、この家と離別なさいました。別れは辛く悲しいものですが、使用人一同精一杯の感謝を込めてお見送りしました。
執事長である私トマスだけでなく、末端の使用人にまで最後まで心を砕いてくださった優しいマーガレッタお嬢様の幸せを心よりお祈り申し上げたものです。
残されたランドレイ侯爵家の噂が、お嬢様の耳に届かぬことを祈りながら。
翌朝、ランドレイ侯爵家嫡男、オリヴァー様の目覚めは最悪で、普段よりも多くの時間寝たところで疲れは取れていないようでした。しかも起こしにいったメイドに、朝から大声を上げたようです。
「目障りなマーガレッタを追い出したのに」
マーガレッタお嬢様がご家族の為に、と置いて行ったドリンクを一気に飲み干し、ゆっくりと自室から食堂へやってこられましたが、目の下の隈が酷く、いつもの美男子振りはございませんでした。
「おはようございます、父上、母上」
「おはよう、オリヴァー」
「……」
食堂には旦那様と奥様がすでにいらして、オリヴァー様をお待ちになっていました。しかし挨拶を返されたのは奥様だけで、旦那様は心ここにあらずです。
「父上?」
「あ、ああ。お、おはよう」
オリヴァー様は、青い顔でブツブツと何かを呟く旦那様に話しかけられましたが、生返事しか返ってきません。怪訝な表情で奥様が旦那様に厳しい視線を向けます。
「あなた、昨日からおかしいわ。さあ朝食をいただきましょう、オリヴァー」
「え、ええ……」
奥様は怪訝な表情を浮かべたままオリヴァー様を促し、食事を始めます。
しかしその朝食はすぐに中断されてしまいました。血相を変えたメイドが食堂に飛び込んできたからです。
――もう始まってしまいましたか。
私は思わずこぼれたため息を隠し、これから次々と飛び込んでくるであろう凶事の報告に備えなければいけませんでした。
「だ、旦那様! 大変でございます‼」
「何事だ、朝食の席だというのに騒がしい」
声を荒らげたのはオリヴァー様。飛び込んできたメイドを叱責しますが、それどころではない、とメイドは大声で続けます。
「侯爵領の鉱山で、大規模な崩落事故が起きました‼ 死傷者多数の大事故だという急ぎの知らせが届いております!」
「なっ……⁉」
私はランドレイ家で執事見習いをしているエドワードと申します。
ランドレイ侯爵夫人であるアイリス様の実家からやってきた執事見習いで、ランドレイ家の執事長であるトマスさんの補助として執事の仕事を学ぶために、少し前からランドレイ侯爵邸で働かせていただいております。
今日は王宮で大切なパーティーということで、ランドレイ侯爵家の皆様でお出かけです。私はトマスさんの代理として皆様について参りました。
しかしそこで、とんでもない事件が起きました。
「マーガレッタ! お前のような令嬢とも呼べぬ娘を、私の婚約者にしておくわけにはいかない!お前との婚約を破棄させてもらう!」
よく通る声で朗々と、ノエル殿下がマーガレッタお嬢様との婚約破棄を宣言し、聖女であるロゼラインお嬢様を婚約者にすると宣言されたのです!
い、一体、何が起こっているのでしょうか⁉
国王陛下を見ると、ぽかんと口を開けていらっしゃいます。これは、予定になかったことなのでしょうか。ですが、ロゼラインお嬢様とノエル様――寄り添う二人はまるで一枚の美しい絵画のようです。
燭台とシャンデリアの光でキラキラと二人の衣装が輝き、すべての出席者の目を引いていて、私もうっとりと眺めてしまいました。
二人の煌めきは、まるでこの国とランドレイ侯爵家がますます繁栄していくことを示唆しているようです。
それなのに、私の前に立つ旦那様の顔色は青ざめておりました。この発表のことを旦那様はご存じなかったようで、慌てているように見えます。
「な、何を……殿下は何を言っておられるのだ‼」
ノエル様は旦那様と同じく、日頃から地味な見た目のマーガレッタお嬢様を軽んじていましたが、さすがに婚約破棄に至るとは予想外だったのでしょう。
「で、殿下はお忘れなのか。なぜ殿下がマーガレッタと婚約なされたか!」
旦那様は呆然とそう呟きました。
婚約なさったときには、事情や政略があったのでしょうが、どちらにせよノエル様の婚約者はランドレイ家の令嬢なのだから、そこまでランドレイ侯爵家に損失はないはずです。
「あなた、よいのではありませんか。地味なマーガレッタよりロゼラインのほうが王妃にふさわしいでしょう?」
「ア、アイリス……駄目なのだ、殿下の婚約者はマーガレッタでなくては……」
「なぜです⁉ あなたも日頃から言っていたではないですか。マーガレッタではなくロゼラインが王太子殿下の婚約者だったらよかったのに、と」
奥様のおっしゃることはもっともですが、旦那様は奥様の言葉を否定なさいます。もしかして、奥様も知らない『何か』があるのでしょうか?
日が浅い一介の使用人であり、執事見習いの私には見当もつきません。
旦那様が唸っているうちに、ロゼラインお嬢様もマーガレッタお嬢様を邪魔だと言い、長男のオリヴァー様もノエル様に追随し始めました。
「や、やめろ……やめるんだ、ロゼライン、オリヴァー! こ、このままではマーガレッタが……マーガレッタが……」
「あなた。マーガレッタがいなくても我が家は問題ありませんわ。聖女のロゼラインがノエル様の婚約者に、そして我が家の跡継ぎには優秀なオリヴァーがおりますもの。我がランドレイ家は安泰です。あなたもご存じでしょう? オリヴァーは剣の腕だけでなく、頭もいいのですからね!」
「駄目だ、アイリス。マーガレッタは我が家に必要な娘なのだ!」
旦那様は歩み出て、お嬢様たちを止めようとなさいますが、奥様に腕を取られ押しとどめられてしまいました。
「いまさら何をおっしゃいますか。マーガレッタはいらない子供だと、あれほど言っていたあなたが、今日に限ってあの子の肩を持つなど」
「アイリス……マーガレッタとて私たちの娘――私たちの『とても使える娘』なのだ」
私はあまりマーガレッタお嬢様と話をしたことはございません。関わらなくてよい、と旦那様と奥様から言いつけられたので、顔合わせすらしておりません。
なので私は、マーガレッタお嬢様がどんなお方かはわかりません。ですが、旦那様がおっしゃるのなら、『とても使える娘』なのでしょう。貴族の家には執事が口を出してはならない境界線というものがありますから。
「あの子の薬師としての能力は高いですが……あの子だけ地味な茶色の髪じゃないですか! あなただってあの子だけ私たちと違うと思っているから、あの子にだけ冷たくしていたんでしょう?」
「ち、違う……」
私がこの仕事に就く前に調べた限りでは、ランドレイ家の歴史を辿ると茶色の髪の者は何人もいて、何より旦那様のお母様はマーガレッタお嬢様と同じ茶色の髪です。
今のランドレイ侯爵家では、金髪で碧眼であることが美しいと重要視されているのは確かです。髪の色と目の色に誇りを持っているようなのです。
旦那様も常日頃から、ご自身の髪と瞳の色を自慢しておられますが、どうしてか、今回だけはお嬢様を擁護なさっています。
「違わないわ、あの子をいつも調剤部屋に押し込んで仕事をさせている間に、私たちは食卓を囲んだ。それはあの子が私たちの本当の家族じゃない、何かの間違いで産まれてきた子だからよ、あなただってそう思っていたんでしょう?」
「だが必要なのだ……」
「だから、どうして!」
旦那様と奥様は小声で言い合いを続けていて、話が纏まらないままです。
その間にも、ロゼラインお嬢様とオリヴァーお坊ちゃまはマーガレッタお嬢様を公衆の面前で罵倒し続け、もう事態の収拾がつかなくなっておりました。
そして、マーガレッタお嬢様はパーティー会場から逃げるように消えました。
あそこまで言われてこの場に残るのは、たとえマーガレッタお嬢様でなくとも難しいでしょう。
ノエル様やロゼラインお嬢様、オリヴァーお坊ちゃまはやりきったという表情でしたが、夜会にはおかしな雰囲気が漂い始め、普段よりもかなり早い時間に解散となりました。
「先に戻っておれ、私は陛下に話がある」
「畏まりました」
旦那様は一人王宮へ残り、国王陛下との面会を取り付けたとのことです。たしかに婚約者をロゼラインお嬢様に変更するなら、たくさんの手続きがあることでしょう。
私は旦那様から命じられた通りに先に侯爵邸に戻りました。
きっと国王陛下と話をなされば、旦那様のお気持ちは上向くはずです。何せ、聖女であるロゼラインお嬢様が王太子殿下であるノエル様と婚約なさるのだから!
しかし真夜中近くに戻ってきた旦那様の顔色は、お世辞にもよいとは言えないものでした。
「あ、ああ……マーガレッタとの契約が……お、終わってしまう……!」
旦那様は頭を抱えて顔面を蒼白にしておられますが、私には何が起こったか分かりません。そんな旦那様の様子を、トマスさんは静かに見つめていました。
「こぼれたミルクは戻らない、いくら嘆いても……」
トマスさんの呟きの意味が、私にはまったく分かりません。
しかし、旦那様のおっしゃっていた『契約』が終わったことで事態は静かに進み、その恩恵にあずかっていた者たちは、そのことの意味に気づかないままなのでした。
翌日、ロゼラインお嬢様の機嫌が悪いとメイドたちから泣きつかれた私は、ロゼラインお嬢様の部屋にやってきておりました。
聖女とはいえロゼラインお嬢様は貴族の令嬢です。少し……いや、それなりに、私たちに強く当たることがあります。
私はこのランドレイ家に来た時、ロゼラインお嬢様は聖女だから誰でも分け隔てなく優しく温かく接してくださる、と思っておりました。それがすぐに誤りだとわかり、落胆したことを覚えております。
それでもロゼラインお嬢様は、私が仕える旦那様のお嬢様。
どれほど強く当たられても、しっかり仕えなければなりません。これも立派な執事になる為に必要なことです。
「変ね……いつもスッキリと目覚めるのに、今日はぼんやりとして体も重いわ。せっかく昨日我が家の役立たずを追い出して、私がノエル様の婚約者になったのに。うふふ、意外と緊張してしまって、よく眠れなかったのかしら?」
ロゼラインお嬢様の部屋に近づくと、そんな声が聞こえてきました。そうか、今日からロゼラインお嬢様がノエル様の婚約者なのでした。
王太子妃、そして王妃になることが決まったことで、無意識に緊張していらっしゃったのでしょう。ロゼラインお嬢様は扉の前で待機していたメイドに声高に命令なさいました。
「あれを持ってきて!」
メイドは何のことか分からず、首を傾げます。あれとは何のことだろう……私にも分かりません。
「まったく使えないメイドだわ。主人である私があれって言ったら、あれに決まっているじゃない!」
「あれ……もしかしてマーガレッタお嬢様の作られたドリンクですか?」
「分かってるなら早く寄越しなさいよ!」
メイドはこれ以上ロゼラインお嬢様の機嫌が悪くなる前に、急いで棚から小瓶を取り出し、ゆっくりと差し出します。お嬢様はそれを奪い取ると一気に飲み干しました。
「まあまあね」
あれはマーガレッタお嬢様が製作なさったドリンクの一つだったかと思います。
「元気のない時に飲むとすこし疲れが取れますが、常用はお控えください」とおっしゃっていた、と聞いております。
ロゼラインお嬢様はとてもお疲れだったのでしょう。だからメイドにもつい、強い口調が出てしまったのでしょうね。
「さあ、今日からいい日になるわよ!」
ロゼラインお嬢様はドリンクを飲まれてお元気になられたようでしたので、いつも通り朝食後に、聖女の仕事をするために神殿へ向かいます。
メイドたちの希望もあって、今日は私がお供をすることになりました。
「聖女ロゼライン……いつものように祈りをお願いします」
「え、やっているわよ?」
祈りの間の中心で膝をつき、両手を組んでいたロゼラインお嬢様は、呆れ顔の女性神官にそうおっしゃいました。
いつも通り真面目に祈っているわ、とロゼラインお嬢様はおっしゃるけれど、いつも通り祈りながら不満そうな表情をしているのは誰もがわかっております。聖女が祈らなくても神官が祈ればいいじゃない、と日々漏らしておられましたから。
それでもロゼラインお嬢様は朝から神殿の祈りの間で膝を折って祈りを捧げていらっしゃる。
こうやって聖女が毎日毎日神に祈りを捧げることで、神官たちは神から力を賜るのだそうです。
「こんな寒いところで何時間も祈らなきゃいけないなんて、疲れるし面倒くさいし、馬鹿らしいわ。私はもっと地位が高くてお布施をたくさん納めてくれる人たちを治療する仕事があるし、お金を持ってない平民を治療するのも、こんなくだらない祈りを捧げるのも無意味なの!」
ぶつぶつと呟くロゼラインお嬢様の言葉を、私は聞かなかったことにしました。〝お優しい聖女様〟がそんなことを言うはずがないのですから。
普段はいろいろな理由をつけて祈りをさっさと切り上げるようですが、今日はそうはいかないようでした。
「聖女ロゼライン? 祈りが天に届いておりません。悪ふざけはおやめください」
神殿の中でも高位の女性神官が、ロゼラインお嬢様に注意をします。私にはいつも通り祈りを捧げておられるように見えましたが……
「いつも通りやってる、って言っているじゃない。ほら」
「ご冗談を。神聖力がまるで感じられませんわ。いつものようにお願いします」
「だから、やってるって!」
「……聖女ロゼライン、ふざけておられるのですか? きちんと神聖力を乗せた祈りを――」
「やってるって、さっきから言ってるでしょう‼」
その言葉とともに、周囲にいた神官たちが騒めきます。本人たちは小さい声で耳打ちしているつもりのようですが、私にも聞こえるほどに声が少しずつ大きくなっておりました。
周囲の騒めきを纏めると、なぜかロゼラインお嬢様の神聖力は、見習い神官以下、というか、きれいさっぱり消え失せている、とのこと。
顔を青くした女性神官が、ロゼラインお嬢様に早口でまくしたてます。
「せ、聖女……ロゼライン……? ま、魔法は、回復魔法は使えますか……? 詠唱も祈りもほぼ必要とせずに、しかも神聖力を気にせずに何度も使えたヒールやキュアといったものは……それに結界魔法は使えますか、使えますよね⁉」
「……つ、使え……ないわ……」
ロゼラインお嬢様がいくら両手を組んで祈ろうと、聖なる言葉を紡ごうと、昨日までは簡単にできていた癒しの技が一つもできなくなってしまったようなのです。
そんなことがあるのでしょうか……?
しかし一介の執事見習いである私は、部屋の隅でハラハラと成り行きを見守るしかありません。
「い……癒しを、ヒール! 嘘ッ! なんで何にも起こらないの⁉」
普段、ロゼラインお嬢様が対象のものに手をかざすと、ふわりと温かい緑の光が現れるのですが、今は何も起こりません。
お嬢様も混乱していますし、それを聞いた神官たちから動揺が広がっていくのは容易に想像できました。
ロゼラインお嬢様は、祈りの間にいた神官たちに取り囲まれ……そして恐ろしい台詞を突き付けられました。
「聖女ロゼライン、あなたは聖女の資格を失っております。聖女の力が今のあなたからはまったく感じられない」
「え……どういう……」
「あなたはもう聖女ではない、ということです」
「な、なんですって……⁉」
◆◇◆
私の名前はサウエル・シュテファン。
シュテファン家は代々侯爵位を世襲している家である。
そしてこのリアム王国で実力によって宰相という地位を得た私の目から見ても、リアム王国の王太子であるノエル様は「優秀」の一言では表し切れない才能があった。
あの両親から生まれた子供がよくここまで才気に溢れる傑物になったものだ。
剣の腕、魔法の才能、勉学。どれをとっても王太子という地位に引けを取らず、次期王という肩書きにも勝るほどの能力があった。
さらに彼の容姿は人を惹きつけるほどに美麗なのだ。
キラキラと煌めく金の髪に、澄んだ青空を映したかのような青色の瞳が美しく、さらに明るく爽やかな性格で、誰からも好かれる好青年。
動き一つにも気品があり、ノエル様を見て「素敵ね」とため息を漏らす令嬢は数知れず。難があるとすれば婚約者があまりにも地味だった、そういう素晴らしい人物――と、言われていた。
……しかし、その日はどうも違った。
「ノエル様。ノエル様? おかしいな。いつもならもう起きて剣の稽古をしておられるはずなのに」
ノエル様は起こされずともご自身で起き、朝早くから自主練を欠かさない王子の鑑のような方であったはず。
しかし今日はいつまでたっても現れず、不審に思ったメイドたちが、たまたま通りかかった私に助けを求めたのだ。
私も不思議に思い、ノエル様の寝室をノックする。しかし返事はない。
「ノエル……様?」
昨日大きなことがあったからか今日の訓練は休みにしたが、もう起きてはいらっしゃるのだろうか。そう思い扉を開け、中の様子を覗き込むと、ノエル様はまだ睡眠中だった。
ノエル様が寝坊など、この十年間なかったことだけれども、人間だれしも寝坊の一度や二度はあるだろう。
「ノエル様も完璧ではなかったということだな。それにしても……」
大きないびきをかくノエル様の寝相は酷いものだ。頭と足が逆になり、毛布はベッドからずり落ち、枕もどこかへ飛んでいる。
絶句するほど、だらしなく情けない姿だった。
私は口角を上げてクスリと笑った。
「……子供みたいだな」
ベッドメイクなどいらないのではないか、と思うほど寝相がよかったノエル様にしては珍しい姿に少しだけ安心した。完全無欠の完璧な王太子にも人間らしさがあるのだと。
「ノエル様、ノエル様。朝でございますよ、朝食の時間です」
しかし、声をかけても、ノエル様のいびきは止まらない。
おかしい、何度起こしてもノエル様は起きないどころか、不快ないびきが大きくなる。
最初は微笑ましく見ていた私だったが、あまりに起きないものだからイライラがとうとう限界を超えた。
「起きてくださいッ! いつまで寝ておられるんですかッ‼」
「うわぁっ」
相当な大声で叫ぶと、ノエル様はのそのそとやっとベッドの上で身を起こした。
「まるで国王陛下と同じくらい寝起きが悪い日ですね、いかがなさいましたか?」
「ん……なんだ……朝か……? 嘘だろう、体が重い……もう少し寝たい……」
「何をおっしゃいますか。本日も公務の予定がいっぱいです、さあ顔を洗って朝食です。皆様お待ちですよ」
「え……あ、ああ……」
ノエル様の様子を見て、私は不思議で仕方がなかった。いつものノエル様はもっと生気に満ち、明るく元気な青年である。
それが今日はどうしたのか。朝からどんよりとして、覇気がなくのろのろと動く。背中も自信なさげに曲がり、なんだか雰囲気も暗い。
あまりに似ていない、と言われ続けたノエル様の父親、国王陛下とそっくりなのだ。
「……ノエル様も人間、こんな日もありますよね」
「ん、なんか言ったかい?」
「……いえ、なんでもございません」
しかし私の気のせいではなかったようだ。
やっとベッドから這い出て、しょぼしょぼと半分しか開かない目と丸めた背中で歩くノエル様の姿に、私以外の使用人たちもぎょっとした。
しかし使用人のうち、この城に長く勤めるものたちは顔を青くして頷きあったらしい。
十年前、婚約者を得る前の王太子ノエルはこんな姿であった、と。
その者たちに話を聞くと、近頃は両親とはまるで似ていないと言われていたノエル様だったが、十年前は瓜二つと言われていたというのだ。
さらに、王太子も無能だ、と陰で囁かれていた十年前のことを教わった。
私はごくりと唾を飲み、だらだらと歩くノエル様の背中を見遣る。
昨日までと打って変わって覇気のなくなった姿に、言いようのない恐怖を覚えた。
◆◇◆
昨晩、私たちランドレイ侯爵邸の使用人が敬愛するマーガレッタお嬢様が、自らの意思ではなかったものの、この家と離別なさいました。別れは辛く悲しいものですが、使用人一同精一杯の感謝を込めてお見送りしました。
執事長である私トマスだけでなく、末端の使用人にまで最後まで心を砕いてくださった優しいマーガレッタお嬢様の幸せを心よりお祈り申し上げたものです。
残されたランドレイ侯爵家の噂が、お嬢様の耳に届かぬことを祈りながら。
翌朝、ランドレイ侯爵家嫡男、オリヴァー様の目覚めは最悪で、普段よりも多くの時間寝たところで疲れは取れていないようでした。しかも起こしにいったメイドに、朝から大声を上げたようです。
「目障りなマーガレッタを追い出したのに」
マーガレッタお嬢様がご家族の為に、と置いて行ったドリンクを一気に飲み干し、ゆっくりと自室から食堂へやってこられましたが、目の下の隈が酷く、いつもの美男子振りはございませんでした。
「おはようございます、父上、母上」
「おはよう、オリヴァー」
「……」
食堂には旦那様と奥様がすでにいらして、オリヴァー様をお待ちになっていました。しかし挨拶を返されたのは奥様だけで、旦那様は心ここにあらずです。
「父上?」
「あ、ああ。お、おはよう」
オリヴァー様は、青い顔でブツブツと何かを呟く旦那様に話しかけられましたが、生返事しか返ってきません。怪訝な表情で奥様が旦那様に厳しい視線を向けます。
「あなた、昨日からおかしいわ。さあ朝食をいただきましょう、オリヴァー」
「え、ええ……」
奥様は怪訝な表情を浮かべたままオリヴァー様を促し、食事を始めます。
しかしその朝食はすぐに中断されてしまいました。血相を変えたメイドが食堂に飛び込んできたからです。
――もう始まってしまいましたか。
私は思わずこぼれたため息を隠し、これから次々と飛び込んでくるであろう凶事の報告に備えなければいけませんでした。
「だ、旦那様! 大変でございます‼」
「何事だ、朝食の席だというのに騒がしい」
声を荒らげたのはオリヴァー様。飛び込んできたメイドを叱責しますが、それどころではない、とメイドは大声で続けます。
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「なっ……⁉」
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