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 元の世界に帰れないとわかった後も、葵の生活は別段変わらなかった。夜は、イルブランドの気がのれば『娼婦』として抱かれ、昼はずっと原稿をしている。葵の描いた本はじわじわとファンを増やし、ついに葵の追随をする漫画作家まで現れたらしい。まだ、技術は稚拙だったが、今後の発展に期待したい葵である。
 葵は原稿の息抜きに、庭に下りて薔薇を眺める。
「はぁ」
 以前、この薔薇園でルーセルと、イルブランドが話していた事を思い出す。イルブランドは、葵の事を好きらしい。結婚も申し込まれた。あの時は、元の世界への未練もあったので断ってしまったが、今はどうだろうか。
「うーん……」
 この世界で暮らすのなら、生活は安定させなければいけない。そして葵は現在、作家業が軌道に乗り始めている。収入をきちんと計算したら、女一人がこの世界で生きていくには問題無いくらいの金額がある。このままいけば、イルブランドの『娼婦』を辞めても良さそうだ。
「でも、それは……」
 少しだけ、後悔の残る選択でもあった。彼が、葵以外に触れ合える人がいない事を知っている。葵が離れれば、彼は永遠に触れ合える人を失うだろう。いつも側に控えるルーセルですら、直接肌に触れられるのは辛いらしい。葵のように、何も気にせず好きなだけ触れ合える相手は他にはいない。葵は膝を折って座り、薔薇を指先でいじる。
「でも、同情ではだめよね」
 だからと言って、同情で彼の側にいても良いのだろうか。彼はそれを喜ぶのだろうか。葵の中に少しでも彼への愛があるのなら、話は別なのだが。
「愛か……」
 葵には愛がわからない。薄い本で大量に、男達の愛の話を描くのに、葵自身の愛についてはわからなかった。葵が二次元の世界にのめり込んだのは、中学生の頃だった。ぼんやりと生きていた小学校時代と違って、中学生になった途端葵を取り巻く環境は目まぐるしく変わった。元々マイペースだった葵はその変化に着いて行けなかった。みんな大人の仲間入りをする為に勉強を頑張り、部活に精を出し、男女の関係は少し隔たりができた。女の子達は見た目に細心の注意を払うようになった。それら全ての変化が葵には、着いて行けなかった。難しくなった勉強に着いて行けず、厳しい部活にもみんな程本気になれず、男女の関係などは理解不能だった。親が厳しかったので引きこもりはしなかったが、ただ周囲に置いていかれたように感じた。実際学生時代葵は周囲から浮いていた。イジメも受けていた。そんな葵が、漫画やアニメの世界にのめり込んでいったのは自己防衛の為でもあったのだろう。漫画やアニメを見ている時は、辛い現実が忘れられた。ファンと知り合い、学校以外の人間関係を作れた。描いた漫画をネットにあげれば、肯定された。葵は漫画やアニメに心を救われたのだ。だから葵は大人になった今も漫画やアニメが好きだし、それらを命の糧にして生きていた。けれど、そのせいで葵は未だに向き合っていない事があった。中学時代に葵を主にイジメていたのは、クラス全員の『男子』だった。そしてクラスの『女子』は毎日行われるイジメを傍観していた。イジメられていた事は、もう記憶としてはぼんやりとしか覚えていないのだが、人間へのどうしようもない不信感を持つようになったのはそれ以降だと思えた。葵は生きた人間を信用していない。大人になっても、人と必要以上に深い関係にならないようにしていた。それが結局恋人がいなかった原因なのだろうと思う。
「愛……」
 イルブランドを漫画のキャラクターのように、『好き』だとは思えた。それはファンとしての愛だ。一人の人間として彼を愛するのは葵には難しかった。それは葵の心の柔らかいところを開かなければいけないからだ。『好き』だと言われるのは嬉しい。理由はどうあれ、こんな自分を好きになってくれる人がいるのは嬉しい。けれどその愛を受け取るのは難しかった。
 葵は自分の心の内を覗き、うっすらと涙が浮くのを感じた。

 散歩を終えて部屋に戻って来ると、部屋にイルブランドが居た。そして床に散らばる原稿達。
「へ」
 彼は葵の描いた、原稿を食い入るように見ている。しばらくして、葵が部屋にいる事に気づく。見つめ合う二人。
「な、なんで」
 何故魔法のトランクに入れておいた原稿が床に散らばっているのだ。
「かってに見てしまってすまない。やはり、気になってしまってな」
 イルブランドは葵が前に隠した原稿をやはり、見てしまっていたらしい。
「しかし、これはどう言う事なんだ」
「そ、それは……」
 彼はなんの原稿を見ているのだろうか。
「なぜ、私とルーセルが抱き合っている?」
「うっ」
 よりによって、その原稿を目にしてしまったか。葵は、冷や汗をかく。
「すいません」
「何故、謝る」
「お目汚しをしてしまって」
「……綺麗な絵ではないか」
「不躾な妄想をしてしまって」
 葵は顔を両手で覆う。
「なるほど、これはおまえの妄想なわけか」
 彼は、他の紙も眺める。
「どれも上手いが、男達が抱き合っている絵ばかりだな」
「はい……本当に、すいません」
「だから、何故謝る」
「だって、そんな物を見てしまったら、気分が悪くなるでしょう?」
 よりによって、自分が部下と薔薇色の世界を繰り広げている絵を見て、冷静でいられる人がいるだろうか。
「いや、こう言う嗜好が世の中にあるのは知っている。しかし、上手いな。しかも変わった表現技法をしている」
 彼は怒るのではなく、感心している。
「言葉を読めないのが残念だ」
 日本語で書いておいてよかった。
「怒らないんですか?」
「別に怒らないが」
「原稿破いたり、燃やしたりしない?」
「そんな事、するはずが無いだろう。簡単に描ける絵では無いのだろう。人の労力を無下にするような事を私はしないぞ」
 葵は心底ほっとした。そして、イルブランドの株が大幅に上がる。
「よ、よかった」
 思わず腰の力が抜けて、座り込む。イルブランドが慌てて、原稿を置いてやって来る。
「どうした、具合でも悪いのか」
「い、いえ。ちょっとほっとして」
 怒られなくて本当に良かった。
「驚きはしたが、怒りの感情は無いぞ」
「イルブランドの心が広くて良かったです」
「だが、一つ気になる事があった」
 葵は肩を跳ねさせる。
「描かれていた絵には、随分過激なシーンが多かったように思う。君はあぁ言うのが好きなのか」
「違います!」
 葵は大きく、首を横に振った。
「君が望むのなら、応えてやらねばいけないな……」
 イルブランドが葵を抱えて立ち上がる。
「いや、だから違いますって!!!」
 葵の否定も虚しく、寝室に連れこまれてしまった。

 ベッドに転がされて、キスをされる。葵は、彼の唇から逃れる。
「イルブランドさん、本当過激なのとか求めてないんで!」
 むしろ、いつものでも十分過激なので。
「おまえの気分が乗らなくても、私の方は先程の絵のせいで抑えようが無いのだ」
 彼が葵の太ももに股間を押し付ける。そこには、既に立派に反り立った固い物がある。
「お、お元気ですね!!」
 キスをされる。
「このような場ではあるが、アオイ。私はおまえを愛している」
 アオイは肩を跳ねさせる。
「な、なんですか突然」
「元の世界に帰れぬのならば、この世界にとどまるしか無いのだろう。ならば、他の者におまえを渡したくなど無い」
 彼は熱っぽい瞳で葵を見つめる。
「葵、どうか、私を選んでくれ」
「そ、それは……」
 彼が葵の頬にキスを何度も落とす。
「私はおまえを一心に愛すぞ」
 優しいキスが振って来る。葵は混乱する。
「えっと……」
「あのように絵に描いてくれるのだから、多少はおまえも私を好ましく思ってはくれているのだろう」
 彼は口元に笑みを作る。
「うっ、それは、そうですね」
 好きでも無ければ、描きはしない。
「でも、それは恋愛対象としてではなく、ファン感情って言うか……ルーセルとイルブランドがいちゃいちゃしているのを妄想しているだけで楽しいって言うか」
「ルーセルでなく、おまえと私で愛し合えば良いではないか」
「うっ……それは……抵抗があるって言うか……私は二人を眺める壁になりたい……」
「何を言っているんだおまえは」
 男性同士のいちゃいちゃに何故萌えるのか、それは葵にもわからぬ事だった。
「おまえは、男を好きになると他の男との妄想をして楽しむのか」
「い、いえす」
「だから処女だったのか?」
「それは……妄想が忙しくて」
 具体的に言うと、イベントに出す新刊の制作に忙しくて男性と出会う時間を作る余裕が無かったのだと思う。
「ふむ、つまり。現実では恋をした事が無いのか」
「い、いえあります!」
 小学校の時だけど。あの頃は、まだ同人誌なんて知らなかったので恋をする心と時間の余裕があった。
「付き合ったのか」
「い、いえ。見てるだけでした」
 小学生の恋なんて、そんなものだろう。
「アオイ、わかった」
 イルブランドがアオイの肩に触れる。 
「おまえは愛や恋に対して未熟なのだな」
「うっ」
 ご明察だと言えた。
「アオイ、私の事はどう思っているのだ」
「どうって……顔が良い魔王様だと思ってます。あと、おっぱい星人」
「酷い感想だな」
「魔王様だって好きとか言うけど、私の事、どう思ってるんですか!」
「……かしましい女だと思っている。それから、男同士の恋愛妄想が好きな女だな……」
「うっ、酷い感想。でも、何も間違ってない」
 葵とイルブランドは見つめ合う。
「魔王様、私に惚れたの気のせいじゃないですか?」
「私はおまえの、騒がしさを気に入っているんだ」
 イルブランドは葵を見つめて真っすぐに言う。
「おまえと共にいるのは楽しい。だから、妻に迎えたいと思ったんだ」  
 驚く程、真摯な瞳で彼は言う。
「だから、おまえが私に惚れていないのだしても、今後の努力で必ず惚れさせる」
「うっ」
 触れるだけのキスをされる。イルブランドは離れる。
「だ、抱かないんですか?」
「気が変わった。無理に抱いてもおまえの信用を失うだけだ。おまえが、私を愛すと決めたなら抱く」
 彼は葵から離れ、最後に手の甲にキスをした。
「その時が来たら、おまえの希望するように激しく抱いてやろう」
「希望してませんって!」
 イルブランドは笑い、そして寝室を出て行った。まだ昼間なので、きっと仕事に戻ったのだろう。部屋に残された葵は、一人ベッドの上で丸まって眉を寄せた。
「うぅ、恥ずかしいぃ」
 恋愛初心者には、あまりにも刺激が強かった。


つづく

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