青眼の烏と帰り待つ羊

鉄永

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1部

第一話

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 気持ちのいい午後だった。その日は土曜日で、小学校もお休み。
 ちひろはお気に入りの自転車に乗って、いつものように自分だけの秘密の場所に出かけることにした。
 数年前に廃業になった小さい個人経営の病院。
 うっそうとした森の手前にあるその廃病院は、裏庭への入り口を、子どもの腕ならあっさり通るフェンスの隙間から簡単に開錠できた。
 褒められたことではなかったが、不法侵入なんて言葉もまだ知らないちひろにとって、野生と化した花壇の残るそこは絶好の遊び場で、親に隠れてこっそり買った漫画や駄菓子を楽しむのに最適だった。
 …だというのに
「ひとがいる」
 大人の声がして、慌てて外に出て離れた位置からこっそりと正面をうかがうと、見慣れない車が停められており、正面玄関から出入りする人間が見えた。
 どうしよう、とちひろは眉を下げる。
 裏庭に隠したちひろの持ち物が見つかると叱られてしまうかもしれない。
 一度で運べる量ではないから、こっそりと侵入して少しずつ持ちだして、また新しい隠し場所を見つけなければ。


***


 大人たちが来てから数日、ちひろの持ち物の引っ越しは難航していた。
 もともと片付けは苦手で、要領がいい方ではない。
 だから、引っ越す先が決まっていないとか、今日は宿題もあるし時間がないだとか、何かと理由をつけて、ちひろはまた前のようにそこに通っては遊んだ。
 幸い建物の中からは見えず、あまり興味を持たれる場所ではなかったのだろう。
 人が建物を出入りする気配はするものの、ちひろの秘密基地が荒らされる様子はなかった。
 そんなあるとき、またこっそりと裏庭に入り込み、草陰の中に座り込みながら今日は何をしようかと考え始めたとき、どこからか少女のすすり泣く声が聞こえてきた。
 驚いて身を縮めて耳をすませる。
 その声はどうやら建物の小窓から聞こえてくるようだった。
 小窓は室外機に登ればちひろの身長でもぎりぎり手が届くほどの高さだ。
 一度周囲を確認してからちひろは室外機によじ登り、そっと小窓に手を伸ばす。
 小窓は開いているようだった。
 音を立てないように少しだけ開くと、少女がすすり泣く声がより鮮明に聞こえてくる。
 天井や床が少し見えて、暗く狭いその空間は、おそらく物置なのだろうと検討をつける。
 ちょっと悩んでから、踵をかかと持ち上げて小窓に頭を近付け、すすり泣く声に呼びかけた。
「もしもし」
 すると、少女の声はぴたりと止む。
「もしもし、こんにちは。どうしたの、なんで泣いてるの」
 ひそひそと秘密の話をするような声でちひろは続ける。もしかしたら自分と同じようにこっそりとここに忍び込んで遊び場にしている子なのかもしれないと思ったのだ。
「…ひ、ひとりに、なっちゃった、から」
 少女のか細い声で返答があった。涙交じりのその声は、おせっかいなちひろの気を大きくさせるには十分だった。
「出れなくなっちゃったの、それとも閉じこめられちゃったの?…なんでそこにいるの」
「で、でないの」
「なんで出ないの」
「出たらだめだから、じっとしてるの」
 今一つ理解できない返答にちひろは首をかしげる。
「変だよ」
「変かな?」
「うん、変。ね、わたしこっそり出してあげようか」
「こっそり…」
 やり方もわからないまま、顔も知らないその子を元気付けたくて、ちひろは鼻を膨らませる。半分くらいは、無謀な冒険心だった。
「でも、怒られちゃう」
「逃げちゃったら怒られないよ。私が今いるところ、誰も来ないの。一緒に隠れてたらいいよ」
 うん、名案だ。誰に怒られるのか、なんで怒られるのか、そういうところまで頭の回るちひろではなかった。
 しかしそれ以上に、少女は問題に感じていることがあるようで、「違うの」と弱弱よわよわしい声でちひろの提案を否定した。
「…兄さんが」
「にいさん」
「うん。私じゃなくて兄さんが怒られるの」
 もう一度、ちひろは口の中で耳慣れない『にいさん』という言葉を転がす。
 一人っ子の自分にはわからないその事情に「そっか…」とちひろは落胆する声しか出せない。
「ごめんね、ありがとう」
「ううん」
 なぐさめるつもりが慰められるようなその声に、肩を落とす。
 しかし、可愛らしい声のその少女の姿を見たいちひろは諦められなかった。
「あ、そうだ。あのね、あの、わたし考えてくる」
「え?」
「あなた、明日もそこにいる?」
「うん」
「おにいちゃんもいっしょに出たら、おにいちゃんも怒られないんだよね。わたし、おにいちゃんもいっしょに出られる計画を考えてくる!」
 いい考えだ、とちひろは胸を高鳴らせる。
 こっそり出てこっそり戻ればいいのだ。だってこんな目と鼻の先に自分の秘密基地もあるのだから。
 こっそり出入りする方法さえ見つけてしまえば、ここで三人で遊んで、怒られる前にまた戻ればいい。
「ほんとう?」
 子どもらしい単純な考えに自信を持ってしまったのは、少女の期待の混じった声に背を押されたからだった。
「うん、だから待ってて」
「ま、まっ…て、る」
「わたしね、ちひろ。みやげちひろ」
 また泣き出しそうなその震えた声に、「よろしくね」と、ちひろは努めて明るい声で返す。
「私、ゆき。とりづかゆき」
「ゆき」
 これまたかわいい名前だなぁとちひろは頬を緩ませる。
 さっそくどうやって二人を脱出させるか考えようと改めて小窓の奥を見て、さっきまでうっすら伺えていた部屋の中が見えないことに気付いた。
 どうやら日が落ちてきたらしい。慌てて室外機から降りようとして、「忘れてた」と閉め忘れそうになった小窓に手をかける。
「わたし、帰るね、ゆき。明日、明日も来るから、待ってて」
「うん、」
 ありがとう、と小声で付け足されたゆきの感謝に達成感を覚えながら小窓を閉め、室外機から飛び降りる。
 新しい友達、秘密の脱出。
 慣れた手つきでフェンスの隙間から鍵を閉め、自分の愛車に走り寄りながら、物語のようなその響きに心を弾ませる。
 もうすぐページの無くなりそうな自由帳は、今日からの計画でいっぱいになりそうだった。
 

*** 


 明るい声が無くなり、元のように閉じられた小窓をぼんやりと見る。
 急にまた不安と寂しさが募り、ゆきあざの残る腕をさすった。
 兄が帰ってきたら、あの子の、ちひろの話をしよう。きっと、喜んでくれる。


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