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第二章 毒
二
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起き上がるのが怠かった。一昨日香月への想いを悔いてからと言うものの、食事を喉に通すのがやっとだった。食事の時間は香月や春香たちに心配されないように表情を繕い、部屋に戻ってはずっと寝台の上に横になっていた。敷布の布地に触れてはその細かな網目を見つめ、眠くもないのに目を閉じている。
出かけなければならない用があれば、どうにか身だしなみを整えては出掛けた。しかり莉莉が遊びにきても遊びに混ざることはできなかったし、香月に何か買い与えてやるために外に出ることはできそうになかった。
布団の中で息をひそめていると、香月の優しい声ばかりが頭に蘇った。幼い頃「かわいいわね」と言って頭を撫でてくれた手を、だいすきと言って抱きしめてくれた優しい体温を思い出す。その度に自分が誰からも恋心を向けられたことがないと言う香月の目を思い出して、とめどなく涙が零れた。
「坊。なんだ、熱か」
陽が昇ってもだらだらと布団をかぶっていると、突然掛布を剥がされた。涙で塗れた頬も濡れた敷布を誤魔化す間もなく、明るい陽が雪月の目を射貫く。陽光の眩しさに手のひらで顔を覆っていると、目の前に立つ初老の人物は一つ息を吐いた。雪月のことを坊と呼ぶのは、この辺りで一人しかいない。楊家お抱えの薬師である天佑だ。
「坊が珍しいもんだ。お前の父さんが心配していたぞ」
どうやら珂雪が雪月の体調を心配して、天佑を呼んだらしかった。しかし心の病は、天佑の作る薬では治せないのは知っている。
「いいえ。これは熱でも病でもないのです」
「気鬱か」
「ええ」
布団に寝転がりながら答えると、彼はふうんと一つだけ呟く。一人にしてくれるのかと思い再び目を閉じたが、彼はどういうわけか雪月の腕を掴んだ。
「なら儂の仕事を手伝え。今日は人手に苦労しているんだ」
「せめて寝かせてください」
「気鬱を多少楽にする薬はある。ただ、それよりかお前に必要なのは気晴らしだ」
薬はその後で出してやる。そう言って天佑は雪月の腕を引っ張る。抵抗するも、若くはないのにその力は強く、雪月を放って帰ることはないと分かった。
「自分で起きます。起きますから、引っ張らないでください」
どうにか立ち上がると、立ち眩みでふらついた。雪月が歩けるようになるまで、天佑は腕組みをしながらとはいえ待っていてくれた。
「ああ、お医者様」
天佑の屋敷は楊家の裏にある。裏門を通れば目の前が彼の屋敷の門なのだが、その門の前に母子が立っていた。母親は天佑の姿を見るなり顔を輝かせたが、雪月の姿に気が付くとさっと頭を下げた。
「雪月様の用が先ですね」
「いや、私の用は先を争うものではない。またこの子の具合が悪いのか」
「ええ。熱はほとんど下がったのですが、鼻が苦しそうで」
「先に診てもらうと良い。天佑殿」
「坊は今日はただの小間使いだ。子が先は当たり前さね」
母親は雪月の顔色の悪さに気が付いたのか戸惑っていたが、子が口で息をしているのを見て、再び雪月に頭を下げた。
「あっかんべ、って、そうそう」
彼の屋敷の中は、薬棚が天井高くまで積み上げられていて、それぞれの棚に違う生薬が入れられている。触診や問診などを行うこの場所は整理整頓されているのだが、別の部屋に行くと書物で散らかっているのを雪月は知っていた。大方この後書物の片づけをさせられるのだろう。
天佑は都で名の知られた医師であり薬師だったようだ。しかし頑固で融通の利かない性格で、それが発端の揉め事により都を追放されたとのことだ。そして露頭に迷っていた彼を拾ったのが楊家だったというわけだ。病弱な母を診てくれる人を近くに置いておきたいという父の「お願い」だったそうだが、天佑は拾ってくれた恩を返すと言って、領民たちの診察もしてくれている。
子の舌の様子をよく観察し、それから母親に子の様子を聞き、それから彼は薬棚を開ける。複数の生薬を混ぜ合わせて、母親に渡した。「これで楽になるだろう」
天佑によく礼を言って、母子は屋敷を後にした。残された雪月はほっと息を吐く。あまり人に会いたい気分ではなかったのだが、天佑に連れ出された以上は仕方ない。今日は他の領民にも会うことになるだろう。
「天佑殿、ありがとうございます」
「なあに。仕事をしたまでよ」
次は坊の仕事だぞ。彼はそう言って部屋の隅に保管されていた箱を引き寄せた。雪月が蓋を開けるとそこには蜜柑が入っている。
「陳皮を作れと」
「ん。その後そこの部屋を片付けてくれ」
今日は薬作りもか。普段なら「またか」と思うだけだが、今はそれが怠かった。
陳皮は蜜柑の皮を干して作る生薬である。天佑は蜜柑をほとんど食べないため、中身の処分に困って雪月を呼ぶのだが、「働かざる者食うべからず」と言わんばかりに、蜜柑の皮を干すところまでを押し付けてくるのだ。まだ子どもだった頃は蜜柑が食べられるからと喜んで手伝っていたが、もう果物に釣られる歳でもない。しかも蜜柑を貰えると嬉しかったのは、香月と分けて食べるものが増えるからだ。香月と顔を合わせたくもないのにこんな報酬をちらつかせられても、気持ちが上向くはずはなかった。
「何があったかは知らんが、まあ食えばそれなりに良くなるもんよ」
「それは医術ですか」
「いんや、お前の父さんの言葉だ。まずは食べようというのは」
そういえばそうだった。春香が寝込んだときも、香月が身体を壊したときも、珂雪はどうにか食事をさせようと工夫を凝らし、侍女にあれこれと指示を出している。雪月が落ち込んだときは食卓にいつもより豪勢なものが並んで、「好きなだけ食べなさい」と彼は微笑むのだった。楊家と頻繁に関わっている天佑は、その辺りのことをよく知っている。だから気鬱で動けなくなっている雪月をわざわざ連れ出したのだろう。素直に食べさせてくれないのは、普段らしさを装おうとしているからなのだろうが、その気持ちはありがたいと思った。
「食いきれなければ砂糖漬けにでもしておけ。お前は酒を飲んだら、果物しか受け付けなくなるだろう」
「返す言葉もありません」
砂糖漬けにしたとしても、この量は楊家でも食べきれないだろう。いつも通り領民に分けてしまおうか。そう思っていると、天佑が冗談めかして笑った。
「にしても坊がそれほど落ち込むとはな。さては女か」
雪月に何かあると、やたら女に結び付けてくるのは彼の悪い癖だ。都を追放されたときに妻に逃げられたそうなのだが、それが引け目となっているようで、人を揶揄うときは必ずと言っていいほど女を引き合いに出してくる。いつもは雪月が「何を言っているのですか」と返すから、冗談は冗談として成立していたのだが、今回は違った。
「悪い冗談はよしてもらえますか」
雪月の反応から、彼は違和感を感じ取ったらしかった。そして雪月の気鬱が女絡みだったことに気が付き、慌てて部屋の隅に積んであった箱から棗を取り出す。詫びの品である。
「本当に女絡みだとは思わなかった。許せ」
「その棗は生薬の材料でしょう」
「そうだが」
「ならば生薬に使ってください」
私は気にしませんから。そう雪月がはっきり言うと、天佑はそれでは気が済まないという顔をして、自らの指先をいじった。
「お前ほどの美貌は世にも珍しい。落ちない女がいるとは思わなんだ」
「私とて叶わぬ相手はいるのですよ」
「既婚者か」
天佑がはっとしたように言う。既婚者ではないのだが、本当のことを言う訳にはいかない。だから嘘をつくことにした。
「そうです。最近夏家に嫁入りした、菊花という女性がいるでしょう」
「儂には他の家のことは分からん」
「いるのです。その方を、私はお慕いしていたのです」
嘘をつくときは、胸の奥を締め付けるような不快感がある。それは喉をせり上がってきて、やがて舌の上でじわじわと毒を広げる。それを静かに飲み込んで、雪月は眉を下げた。悲しそうな表情に見える様に、そっと笑ってみせる。
「仕方ないのです。結ばれる相手は、私ではなかったのです」
そう、仕方がないのだ。そもそも結婚なんて自由になるはずがないのだ。継ぐべき家を持っている以上は、家のために結婚するのが当たり前だ。子を授かり、その子どもに家と土地を継がせなければならない。それがこの地域における結婚の役割だ。好ましく思っていた相手と結ばれる方が稀だし、婚姻の際に初めて顔を合わせるなんてことも珍しくない。結ばれた相手と情を築ければまだ良いが、冷めた関係にしかならないこともある。だから想い人と結ばれることも、想いが叶うことも、期待してはいけないのだ。想いが叶ったところで、待ち受けるのは別れだけなのだから。
香月とは姉弟であろうがなかろうが、結ばれることはない。そう思ったら少しだけ気が楽になった。
「菊花とやらとは、どこで出会ったんだ」
「会ってはいませんよ。見惚れたのです」
あまり詮索するものではありませんよ。そう言って、先ほど言われた通りに蜜柑を向き始める。剥いた蜜柑はその場でひとつ食べた。
蜜柑の皮を干し、片付いていない書物をどうにか片付けていると、見慣れぬ箱がでてきた。厳重に鍵がかけられたそれが何だか尋ねると、天佑は「触るな」とぴしゃりと言う。
「それは儂がやっとの思いで取り返した毒だ。下手に触るとろくなことにならんぞ」
「毒、ですか」
「解毒の方法がもっと解明されてもよかろう。そのために集めた毒だ」
都を追い出されたときに没収されたがな。彼は自嘲気味に笑った。どうやら高い金を払って取り返したらしい。
「儂がここにきたのは坊が生まれる前だ。中の毒がどうなってるかは分からん」
「どうするのですか」
「まずは鼠にでも飲ませるさね」
天佑が箱をさっと隠す。その場所を目で追ってしまう自分に気が付いて、雪月は小さく唾を飲んだ。思ってはいない。死にたいなんて、思ってはいない。だけどあれ喰らえば楽になるのだと一瞬でも思ってしまったことが、恐ろしかった。自分がどんな立場であれど、香月とは結ばれることはないし、想い合ったところで引き裂かれる。そう思ったときに楽になったような気は確かにしたけれど、心の奥底に巣食う悲しみが消えたわけではないのだった。
「坊、無理はするな」
再び気持ちの沈んだ雪月に、天佑は軽く笑った。
「ほれ、これがお前用の薬だ。飲みすぎるなよ」
「ああ、ありがとうございます」
蜜柑と薬を抱えて、屋敷の門を出る。楊家の屋敷の門をくぐろうとすると、香月が丁度こちらに歩いてきたところだった。
「迎えに行こうとしたところだったの」
数日ぶりに、香月とまともに顔を合わせた。その瞳はあの日自分が何を言ったのかを覚えていないとばかりに澄んでいて、それが恨めしかった。だけどこうして心配してくれたことが嬉しくて、同時に喜んでいる自分に嫌気が差す。心がふわりふわりと浮き上がっては、それを許すまいとする自分が杭を打ちこんでくる。
「蜜柑、あとで一緒に食べましょうね」
しかし香月に優しく微笑まれて、己を嫌う心が掻き消えた。いつものように優しく手を差し伸べてもらうのを待っている様子も、雪月の手がふさがっていると気が付いて赤くなる頬も、荷物を少し持とうかと尋ねてくる唇も、何もかもが可愛らしくて、優美に見えた。心の奥がうずいて、やはり香月が好きだと思った。だけど夜になって独り寝台に横たわると、その喜びが嘘のように消えてしまって、やはり香月を諦めたいと思った。
出かけなければならない用があれば、どうにか身だしなみを整えては出掛けた。しかり莉莉が遊びにきても遊びに混ざることはできなかったし、香月に何か買い与えてやるために外に出ることはできそうになかった。
布団の中で息をひそめていると、香月の優しい声ばかりが頭に蘇った。幼い頃「かわいいわね」と言って頭を撫でてくれた手を、だいすきと言って抱きしめてくれた優しい体温を思い出す。その度に自分が誰からも恋心を向けられたことがないと言う香月の目を思い出して、とめどなく涙が零れた。
「坊。なんだ、熱か」
陽が昇ってもだらだらと布団をかぶっていると、突然掛布を剥がされた。涙で塗れた頬も濡れた敷布を誤魔化す間もなく、明るい陽が雪月の目を射貫く。陽光の眩しさに手のひらで顔を覆っていると、目の前に立つ初老の人物は一つ息を吐いた。雪月のことを坊と呼ぶのは、この辺りで一人しかいない。楊家お抱えの薬師である天佑だ。
「坊が珍しいもんだ。お前の父さんが心配していたぞ」
どうやら珂雪が雪月の体調を心配して、天佑を呼んだらしかった。しかし心の病は、天佑の作る薬では治せないのは知っている。
「いいえ。これは熱でも病でもないのです」
「気鬱か」
「ええ」
布団に寝転がりながら答えると、彼はふうんと一つだけ呟く。一人にしてくれるのかと思い再び目を閉じたが、彼はどういうわけか雪月の腕を掴んだ。
「なら儂の仕事を手伝え。今日は人手に苦労しているんだ」
「せめて寝かせてください」
「気鬱を多少楽にする薬はある。ただ、それよりかお前に必要なのは気晴らしだ」
薬はその後で出してやる。そう言って天佑は雪月の腕を引っ張る。抵抗するも、若くはないのにその力は強く、雪月を放って帰ることはないと分かった。
「自分で起きます。起きますから、引っ張らないでください」
どうにか立ち上がると、立ち眩みでふらついた。雪月が歩けるようになるまで、天佑は腕組みをしながらとはいえ待っていてくれた。
「ああ、お医者様」
天佑の屋敷は楊家の裏にある。裏門を通れば目の前が彼の屋敷の門なのだが、その門の前に母子が立っていた。母親は天佑の姿を見るなり顔を輝かせたが、雪月の姿に気が付くとさっと頭を下げた。
「雪月様の用が先ですね」
「いや、私の用は先を争うものではない。またこの子の具合が悪いのか」
「ええ。熱はほとんど下がったのですが、鼻が苦しそうで」
「先に診てもらうと良い。天佑殿」
「坊は今日はただの小間使いだ。子が先は当たり前さね」
母親は雪月の顔色の悪さに気が付いたのか戸惑っていたが、子が口で息をしているのを見て、再び雪月に頭を下げた。
「あっかんべ、って、そうそう」
彼の屋敷の中は、薬棚が天井高くまで積み上げられていて、それぞれの棚に違う生薬が入れられている。触診や問診などを行うこの場所は整理整頓されているのだが、別の部屋に行くと書物で散らかっているのを雪月は知っていた。大方この後書物の片づけをさせられるのだろう。
天佑は都で名の知られた医師であり薬師だったようだ。しかし頑固で融通の利かない性格で、それが発端の揉め事により都を追放されたとのことだ。そして露頭に迷っていた彼を拾ったのが楊家だったというわけだ。病弱な母を診てくれる人を近くに置いておきたいという父の「お願い」だったそうだが、天佑は拾ってくれた恩を返すと言って、領民たちの診察もしてくれている。
子の舌の様子をよく観察し、それから母親に子の様子を聞き、それから彼は薬棚を開ける。複数の生薬を混ぜ合わせて、母親に渡した。「これで楽になるだろう」
天佑によく礼を言って、母子は屋敷を後にした。残された雪月はほっと息を吐く。あまり人に会いたい気分ではなかったのだが、天佑に連れ出された以上は仕方ない。今日は他の領民にも会うことになるだろう。
「天佑殿、ありがとうございます」
「なあに。仕事をしたまでよ」
次は坊の仕事だぞ。彼はそう言って部屋の隅に保管されていた箱を引き寄せた。雪月が蓋を開けるとそこには蜜柑が入っている。
「陳皮を作れと」
「ん。その後そこの部屋を片付けてくれ」
今日は薬作りもか。普段なら「またか」と思うだけだが、今はそれが怠かった。
陳皮は蜜柑の皮を干して作る生薬である。天佑は蜜柑をほとんど食べないため、中身の処分に困って雪月を呼ぶのだが、「働かざる者食うべからず」と言わんばかりに、蜜柑の皮を干すところまでを押し付けてくるのだ。まだ子どもだった頃は蜜柑が食べられるからと喜んで手伝っていたが、もう果物に釣られる歳でもない。しかも蜜柑を貰えると嬉しかったのは、香月と分けて食べるものが増えるからだ。香月と顔を合わせたくもないのにこんな報酬をちらつかせられても、気持ちが上向くはずはなかった。
「何があったかは知らんが、まあ食えばそれなりに良くなるもんよ」
「それは医術ですか」
「いんや、お前の父さんの言葉だ。まずは食べようというのは」
そういえばそうだった。春香が寝込んだときも、香月が身体を壊したときも、珂雪はどうにか食事をさせようと工夫を凝らし、侍女にあれこれと指示を出している。雪月が落ち込んだときは食卓にいつもより豪勢なものが並んで、「好きなだけ食べなさい」と彼は微笑むのだった。楊家と頻繁に関わっている天佑は、その辺りのことをよく知っている。だから気鬱で動けなくなっている雪月をわざわざ連れ出したのだろう。素直に食べさせてくれないのは、普段らしさを装おうとしているからなのだろうが、その気持ちはありがたいと思った。
「食いきれなければ砂糖漬けにでもしておけ。お前は酒を飲んだら、果物しか受け付けなくなるだろう」
「返す言葉もありません」
砂糖漬けにしたとしても、この量は楊家でも食べきれないだろう。いつも通り領民に分けてしまおうか。そう思っていると、天佑が冗談めかして笑った。
「にしても坊がそれほど落ち込むとはな。さては女か」
雪月に何かあると、やたら女に結び付けてくるのは彼の悪い癖だ。都を追放されたときに妻に逃げられたそうなのだが、それが引け目となっているようで、人を揶揄うときは必ずと言っていいほど女を引き合いに出してくる。いつもは雪月が「何を言っているのですか」と返すから、冗談は冗談として成立していたのだが、今回は違った。
「悪い冗談はよしてもらえますか」
雪月の反応から、彼は違和感を感じ取ったらしかった。そして雪月の気鬱が女絡みだったことに気が付き、慌てて部屋の隅に積んであった箱から棗を取り出す。詫びの品である。
「本当に女絡みだとは思わなかった。許せ」
「その棗は生薬の材料でしょう」
「そうだが」
「ならば生薬に使ってください」
私は気にしませんから。そう雪月がはっきり言うと、天佑はそれでは気が済まないという顔をして、自らの指先をいじった。
「お前ほどの美貌は世にも珍しい。落ちない女がいるとは思わなんだ」
「私とて叶わぬ相手はいるのですよ」
「既婚者か」
天佑がはっとしたように言う。既婚者ではないのだが、本当のことを言う訳にはいかない。だから嘘をつくことにした。
「そうです。最近夏家に嫁入りした、菊花という女性がいるでしょう」
「儂には他の家のことは分からん」
「いるのです。その方を、私はお慕いしていたのです」
嘘をつくときは、胸の奥を締め付けるような不快感がある。それは喉をせり上がってきて、やがて舌の上でじわじわと毒を広げる。それを静かに飲み込んで、雪月は眉を下げた。悲しそうな表情に見える様に、そっと笑ってみせる。
「仕方ないのです。結ばれる相手は、私ではなかったのです」
そう、仕方がないのだ。そもそも結婚なんて自由になるはずがないのだ。継ぐべき家を持っている以上は、家のために結婚するのが当たり前だ。子を授かり、その子どもに家と土地を継がせなければならない。それがこの地域における結婚の役割だ。好ましく思っていた相手と結ばれる方が稀だし、婚姻の際に初めて顔を合わせるなんてことも珍しくない。結ばれた相手と情を築ければまだ良いが、冷めた関係にしかならないこともある。だから想い人と結ばれることも、想いが叶うことも、期待してはいけないのだ。想いが叶ったところで、待ち受けるのは別れだけなのだから。
香月とは姉弟であろうがなかろうが、結ばれることはない。そう思ったら少しだけ気が楽になった。
「菊花とやらとは、どこで出会ったんだ」
「会ってはいませんよ。見惚れたのです」
あまり詮索するものではありませんよ。そう言って、先ほど言われた通りに蜜柑を向き始める。剥いた蜜柑はその場でひとつ食べた。
蜜柑の皮を干し、片付いていない書物をどうにか片付けていると、見慣れぬ箱がでてきた。厳重に鍵がかけられたそれが何だか尋ねると、天佑は「触るな」とぴしゃりと言う。
「それは儂がやっとの思いで取り返した毒だ。下手に触るとろくなことにならんぞ」
「毒、ですか」
「解毒の方法がもっと解明されてもよかろう。そのために集めた毒だ」
都を追い出されたときに没収されたがな。彼は自嘲気味に笑った。どうやら高い金を払って取り返したらしい。
「儂がここにきたのは坊が生まれる前だ。中の毒がどうなってるかは分からん」
「どうするのですか」
「まずは鼠にでも飲ませるさね」
天佑が箱をさっと隠す。その場所を目で追ってしまう自分に気が付いて、雪月は小さく唾を飲んだ。思ってはいない。死にたいなんて、思ってはいない。だけどあれ喰らえば楽になるのだと一瞬でも思ってしまったことが、恐ろしかった。自分がどんな立場であれど、香月とは結ばれることはないし、想い合ったところで引き裂かれる。そう思ったときに楽になったような気は確かにしたけれど、心の奥底に巣食う悲しみが消えたわけではないのだった。
「坊、無理はするな」
再び気持ちの沈んだ雪月に、天佑は軽く笑った。
「ほれ、これがお前用の薬だ。飲みすぎるなよ」
「ああ、ありがとうございます」
蜜柑と薬を抱えて、屋敷の門を出る。楊家の屋敷の門をくぐろうとすると、香月が丁度こちらに歩いてきたところだった。
「迎えに行こうとしたところだったの」
数日ぶりに、香月とまともに顔を合わせた。その瞳はあの日自分が何を言ったのかを覚えていないとばかりに澄んでいて、それが恨めしかった。だけどこうして心配してくれたことが嬉しくて、同時に喜んでいる自分に嫌気が差す。心がふわりふわりと浮き上がっては、それを許すまいとする自分が杭を打ちこんでくる。
「蜜柑、あとで一緒に食べましょうね」
しかし香月に優しく微笑まれて、己を嫌う心が掻き消えた。いつものように優しく手を差し伸べてもらうのを待っている様子も、雪月の手がふさがっていると気が付いて赤くなる頬も、荷物を少し持とうかと尋ねてくる唇も、何もかもが可愛らしくて、優美に見えた。心の奥がうずいて、やはり香月が好きだと思った。だけど夜になって独り寝台に横たわると、その喜びが嘘のように消えてしまって、やはり香月を諦めたいと思った。
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