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第二章 毒
六
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それからしばらく、多くの者たちが争うように香月に婚約を申し込んでくるようになった。父と顔を突き合わせて、どの人なら相応しいか、家のためになるかを考えていった。珂雪は香月のために、雪月は自分のために、厳しく相手を選んだ。そうして選ばれた相手を、雪月は蹴落としていった。恋慕であったり、妬み恨みであったり、そういった情は積極的に利用した。都での人付き合いは今までもよくしていたし、領地に問題を持ち込まないために人間関係の把握に努めていたおかげで、苦労はすれどもうまくやり遂げることができた。誰もが私欲をむき出しにし、雪月の言葉に耳を傾けていくのはいっそ愉快で、香月の婚約者の家の状況が傾いたり、結婚する相手を変えざるを得なくなったりしていく度に、胸の内に甘い痛みが走るのだった。
宴会に誘われたのは、そんな時だった。家同士の交流という名目であったが、相手が香月を連れてきてほしいと言って引かないのだ。実際の目的は香月との婚約を取り付けることだろう。よほど自信でもあるのか、それとも彼女の美しさで酒を呷ろうとしているのか。それは分からないが、気持ちよく参加できる宴になりそうにないのは確かだった。しかし、相手の家はこちらより格が上だ。婚約という名目であればともかく、宴会という名目では断れないのであった。
からからと馬車に揺られ、相手の家に向かう。夕日の降り注ぐ馬車の中で、珂雪と香月は外を見ている。珂雪は不安を押し込めるように外をじっと見つめているのに対して、香月はただ暇を持て余したように外を見ていて、雪月は二人の間に視線を落とした。外の景色を見る気分にはなれなかった。香月の小さく折られた足とそれを半分隠している服の裾が目に入って、それから大きく息を吐いた。
「よく来てくれたな」
相手―朱家の屋敷に着くと、すでに当主もその息子もすでに酒に酔っていた。料理もとっくに食べすすめられているようで、父と顔を見合わせる。父が断れなくてすまない、と言っているような気がした。
「香月は俺の隣に座ると良い」
「まあ。私、男の人の隣に座ってはいけないとお父様に言われているのです。どうしましょう」
さっと空気が凍り付く。朱家二人の視線が珂雪の方を向いて、父がたじろいだ。雪月はよく言ってくれたと思う一方で、この発言は如何なものかと内心頭を抱えた。しかし香月は特にそれを気にするわけでもなく、「そういうことだから、ごめんなさいね」と珂雪と雪月の間に座り、ふわりと微笑む。その微笑みは豪勢な料理を食べられることからくるものではあると想像がついたが、朱家にとっては理由が何でも構わないらしかった。頬をぽっと染めて、「それなら仕方ないなあ」と笑っている。
朱家は華藍の建国のときからずっと皇族一家を支えている一族だ。それに対し楊家は歴史が浅い。この国では家の格はその歴史の長さで決まるのだが、格が高いからといって人柄にまで優れているとは限らない。彼等は皇族たちから何度も忠告され、罰されているのに関わらず領民から厳しく税を取り立て、余分に取り立てた分を私財にしている。私欲のために賄賂を渡すのも受け取るのも当たり前に行っており、領民のための統治を心がけている楊家からすれば関わりを持ちたくないのだ。朱家も賄賂には応じない楊家のことは厄介に思っているだろうに、それでも宴会に呼び出したのは香月が欲しいからに違いなかった。これは相当用心しなければならない。
「朱家の料理人が腕によりをかけて作った品だ。好きなだけ食べると良い」
機嫌を直した当主が偉ぶった口調で言い、楊家たちはお決まりの有難がる台詞を吐く。香月だけは料理を素直に喜んでいるようだったが、どうしてそんなに警戒心がないのだと胃が痛くなった。
「雪月、あなたこれ好きでしょう。よそってあげるから、お皿貸して」
「え、はい」
「あとこれとこれもよそってあげるわね」
「ありがとう、ございます」
この宴会は朱家を立てる場だと事前に説明したのに、香月は家で豪勢な食事が出たときと同じように雪月の世話を焼きたがった。朱家の皆に同じことをするならともかく、これでは雪月が特別扱いされているように見えてしまう。ほどほどのところで「後は自分でよそうから大丈夫ですよ」と伝えると、香月はほんの少し残念そうに「そう」と呟いた。自分の分を自分でよそって、黙々と食べようとする。
「香月、俺の分も頼む」
案の定と言うべきか、朱家の息子は香月に給仕を求めた。どれを取ってほしいのですか、と聞き返す香月に、彼は何でもいいから取ってほしいと言う。香月は怪訝そうに自分の近くにあった料理をいくつかよそって、彼に渡した。それを受け取る彼がわざわざ香月の手に触ったのを見て、ぞわりと肌が粟立った。一瞬彼はにやにやと笑って香月を見たが、彼女は特段気にするわけでもなく、今度こそ料理に集中しようとしている。良いのか悪いのか悩んだが、警戒心が薄すぎることは後で注意すべきだろう。珂雪も同じことを考えているようで、箸がちっとも進んでいなかった。時折腹のあたりを擦っている。
「それにしても香月は美しいなあ」
酒が進むにつれて、朱家の当主も息子も香月の容姿を褒めたたえるようになった。月のようだとか、花のようだ、とか、聞き飽きた台詞を何度も吐き、香月に酌と給仕をするように求めた。美人の注ぐ酒は美味い、美人がよそう料理は美味い、彼等はそう言って酒を呷った。
早く香月を連れて帰りたい。こんなところに香月を居させたくない。そう思い帰る機会を計ってはいたが、酒に溺れた人間の機嫌を損ねるとろくなことにならない。どうしたものかと悩んでいると、あろうことか朱家の息子が香月に裸足を見せろと言い出したのだった。
足を見せることの意味を、彼等は理解しているのだろうか。纏足は女の象徴だ。形を変えられた足を見せるのは夫くらいなもので、婚約も結んでいない相手に見せるものではない。足の大きさは女としての美しさを表すもので、見合いのときに女を見定めるときに使われこそすれども、わざわざ今裸足を見せることはないだろう。足の大きさなんて関係なく彼等は香月を欲しがっている。それなのに裸足を見せろと言うのは、この場で香月を辱めたいと言っているようなものではないのか。
「姉様、聞こえなかったことにしてください」
耳打ちすれども、朱家の人間の笑い声に掻き消されたらしい。香月は「靴を履いたままでなら」と立ち上がり、静かに服の裾を持ち上げた。珂雪が香月の袖を引く。
ゆっくりと薄桃色の衣装が持ち上げられていく。ところどころに金の装飾がされた小さな靴の全体が次第に露わになっていき、くるぶしが薄っすら見えたところで、香月は手を止めた。白い足首が、覗いている。雪月がそろりと視線を朱家にうつすと、息子は大きく目を見開いて、その足をじっと見つめていた。最初は魅入られていたようなそれが、次第に歪な笑みを作る。女の裸を見る男はきっとこんな顔をするのだろうと、雪月は思った。
「これは紛うことなき金蓮だ」
「ああ、足までこれほど美しいとは」
朱家はげらげらと笑っている。その息が酒臭いと思い、誤魔化すように自分も酒を一口含む。やはり、味が分からない。
香月は金蓮ではない。元々の足も大きくはないし、金蓮にしようと思えば出来たのだろうが、幼い雪月はそれを怖がった。足を小さくしようとすればするほど香月は痛みを訴える。折った指の骨を潰すために春香に手を引かれて歩く香月を、何度抱きかかえてやりたいと思ったことか。しかしその頃の雪月にはそんな力はなくて、痛みのあまりに蹲っていたとしても、夜も眠れないと泣いていたとしても、少しも助けてやることはできなかった。阿片を吸えば痛みが楽になるらしいと知った時は歓喜したが、それは一つ間違えれば人を壊すものだとすぐに教えられた。だから珂雪たちに泣いて頼んだのだ。もうねえさまにいたいことをしないで、と。珂雪は纏足がなぜ必要かを雪月に説こうとしたが、春香がそれを止めた。春香が身体を弱くしたのは、金蓮にしようとして足が膿んだのがきっかけだ。香月をそれで喪うのを、彼女は恐れた。それからは無理に金蓮にするのはやめになり、ただの纏足にするのみに留まった。しかし香月に惚れ込んだ人は、皆揃って香月を金蓮と言う。美しければ何でも良いと彼等が主張しているようで、その言葉を聞く度に苛立ちに近い何かを感じてしまう。
「姉様、もういいでしょう。座ってください」
「いや、香月、待て。靴を脱げ」
「今何と仰った」
雪月の鋭い言葉に、息子は赤い顔で嗤う。
「香月に靴を脱げと言ったのだ。そこに酒を注いで飲む」
妓女の靴に酒を注いで飲むという下品な遊びが、都では流行っているらしい。それは雪月も知ってはいた。しかし妓女でもない香月にそれを要求するとは思ってはいなかった。香月はきっとその遊びの存在を知らないだろうが、言葉に含まれた響きを嫌なものと理解したらしかった。呆然と立ち尽くして、それから雪月の方を見てきた。どうしたらいいのかに困り果てて、助けを求めているような顔だった。
何だか、目が醒めたような気がした。
「姉様、帰りましょう。父様、良いですね」
「うむ。それが良い」
「そういうわけだ。姉様を妓女扱いする輩との酒も縁談もお断りだ。帰らせてもらう」
立ち上がり、香月の手を掴む。その指先が震えていたことにやっと気が付いて、もっと早くこの決断をできなかったことが悔やまれた。はやく彼女の手を包んで、ただ静かに休ませてあげたかった。
「か、帰るの?」
「それ以外に何がありますか」
「後で大変なことになるくらいなら」
「いいえ。良いのです、後の事など」
戸惑っている香月の背中を押して、戸に向かって歩いていく。その様子を唖然として眺めていた朱家も、香月が一度振り返ると怒りを露わにした。
「貴様ら、折角俺が接待してやったのに」
特に息子の怒りは激しく、罵倒だけでは済まなかった。目の前にあった杯を掴むと、衝動のまま香月に向かって投げてきたのだ。咄嗟に雪月が庇うと、酒が頭からかかって、遅れて硬い盃が肩に当たった。
「ね、ねえ雪月」
「これくらいなんともありません。帰りますよ」
朱家はまだ何か喚き散らしていたが、酒を飲み過ぎたせいか追いかけてくるそぶりを見せることはなかった。騒ぎを聞きつけた朱家の使用人に引き留められる前に、馬車に急ぐ。
慌てて歩き出そうとした香月が、纏足のせいで転びかける。重心が傾き切る前に雪月がそれを支え、そのまま横抱きに抱えあげた。足の先が裾から覗いて、小さな靴が露わになる。この先にある素足を彼らに見せるなど、許せそうになかった。
怒声を置き去りにして屋敷を小走りに出て、ゆっくり休んでいたであろう御者を起こして馬車を走らせた。二度とこの場所に香月を連れてくるような真似はすまい。
「雪月、家についたら着替えを用意するわ。ごめんなさい、私を庇ったせいで」
「酒を投げる彼が悪いのです。姉様が気にすることではありません」
珂雪もそれに頷いた。あそこで庇わなければ、酒を被って身体の線が露わになっていたはずだ。胸や腹のかたちを彼らに見られては、香月に恥ずかしい思いをさせることになる。男の雪月が酒を被るほうがよっぽど良いのだ。
「香月、家についたら温かい湯を用意してあげなさい。雪月はもう随分酔ってしまったようだから」
「お酒を被ってしまったものね。大変、果物も剥いてあげるわ」
父はもっと早く連れ出してやれなくて済まないと香月に謝った。それに対して香月は「本当にこれで良かったのかしら」と言うのだ。父がその理由を尋ねると、香月は首を傾げた。
「朱家はみんな怖い人たちです。逆らったらどうなるか分からないってお母様が言っていたわ」
ならば自分が捧げられて家の安寧を保ったほうが良いのではなかったのか。香月が言いたいのは、そういうことだった。自分のことを何だと思っているのかと思った。家族に大切に育てられていて、使用人にも可愛がられていて、どうしてそんなことが言えるのだろう。結婚が家のためにするものとはいえ、自分を犠牲にするように仕向けたことなど、一度もないではないか。
珂雪の方を見ると、彼はひどく狼狽えていた。若い頃の美しさを残した頬が固くなっていて、唇が噛み締められている。それから彼は額に手を当ててじっと悩んだ後、「香月、お父さんはね」と口にした。
「お父さんもお母さんも、お前の幸せを願っているんだよ。確かに結婚は家のためのものだけれど、お前の幸せを踏みにじる結婚は家のためにならないんだ。だってこの家を作っているのはお父さんとお母さんと雪月とお前と紅花だ。皆が悲しむような結婚は悪いものだよ」
長々と喋らない珂雪が、珍しく言葉を長く紡いだ。幼子に語り掛けるような優しさはあれども、そこには悲しみがありありと浮かんでいて、彼が気の毒になった。世間では女の価値は軽く、香月の持つ価値観は何らおかしなものではない。だけど二人だけの子を大切に大切に守ってきた珂雪にとっては、刃のようなものに違いなかった。
「後のことはお父さんと雪月で何とかするよ。良い相手はお父さんたちで探すから、お前は安心して待っていなさい」
珂雪は香月の頭を撫でた。香月が幼い頃によくしていた仕草だ。彼にとって香月はまだ子どもなのだと思う一方で、いつになったら彼女を大人に扱うのだろうと疑問に思った。
「二人とも、今日はゆっくり休みなさい」
疲れたような父の言葉に、雪月も香月もただ頷いた。
家に帰ってから着替えやら水やら果物やら、香月は雪月の世話を焼こうとした。そこに紅花が慌ててやってきて、焦っている二人にあれこれと世話を焼かれて、余計に疲れた。酒臭さは落ちはしたが、鼻の奥にこびりついた匂いはとれそうになくて、気分の悪さを堪えながらしばらくを過ごした。
香月も疲れたらしく、紅花に勧められるままさっさと眠ってしまった。彼女が深い眠りについたであろう時間に珂雪の部屋を尋ねると、小さな話し声がした。春香の声だ。
「今日は本当に、大変でしたのね」
「そうなんだよ。雪月が帰ると決めてくれて良かった」
珂雪は家の体裁を気にかけて、その決断を先延ばしにしてしまったのだと零した。悔いるようなその言葉に、春香は優しく語り掛ける。
「まだ、あなたと雪月でこの土地を支えているのです。あなたが家を守って、雪月が香月を守る、それで良いではないですか」
「でもなあ、私とて親なのだよ」
「親の気持ちばかりを優先できないのが領主でしょう。あなたができない部分は、雪月がきちんとやってくれますよ」
「だけど、馬車で香月が言ったことを思うと、私は何かを間違えてしまったのではないかと思ってしまうのだよ」
珂雪が弱音を吐くのは春香だけだった。雪月に弱みを見せることはあれども、弱った事は言わない。いつも父であろうとする。しかし春香の前では立派に振る舞おうとする男にもなり、本心を零すただの人間にもなり、二人の子を持つ父にもなり、ひとつの形を取ろうとしない。春香がそんな珂雪の姿をどれも愛おしそうに撫でているのを、雪月は知っていた。珂雪が弱っているところに、雪月は混じったことはない。混じれば彼は「父」の姿になる。だからこういう時は襖の反対側に隠れて、彼等の会話をただ静かに聞くのが常だった。
「香月のこと、きちんと守ってあげないといけないなあ。これから大変になる」
「朱家からの縁談は断れそうですか」
「どうにか断ってみせるよ。どうにか、ね」
珂雪の声に強い意志が宿っている。しかし、自信は感じられなかった。方法が分からずに困り果てているのだということは想像がついた。朱家のことだ、怒りのまま楊家を取り潰そうと画策して、止めて欲しければ香月を寄こせと言うのだろう。香月とこの土地の両方を守るためには、降りかかってくる出来事のすべてに対処しなければならない。途方もない話だ。
彼等が消えてくれたら、楽になるのに。ふと、そんな考えが浮かんだ。しかしそれが彼等を死なせることだと気が付いてから、慌てて首を振った。こんなことを、両親のすぐ近くで考えていることがおぞましかった。
足音を立てないように、そっと父の部屋から離れる。今晩は、眠れそうになかった。
宴会に誘われたのは、そんな時だった。家同士の交流という名目であったが、相手が香月を連れてきてほしいと言って引かないのだ。実際の目的は香月との婚約を取り付けることだろう。よほど自信でもあるのか、それとも彼女の美しさで酒を呷ろうとしているのか。それは分からないが、気持ちよく参加できる宴になりそうにないのは確かだった。しかし、相手の家はこちらより格が上だ。婚約という名目であればともかく、宴会という名目では断れないのであった。
からからと馬車に揺られ、相手の家に向かう。夕日の降り注ぐ馬車の中で、珂雪と香月は外を見ている。珂雪は不安を押し込めるように外をじっと見つめているのに対して、香月はただ暇を持て余したように外を見ていて、雪月は二人の間に視線を落とした。外の景色を見る気分にはなれなかった。香月の小さく折られた足とそれを半分隠している服の裾が目に入って、それから大きく息を吐いた。
「よく来てくれたな」
相手―朱家の屋敷に着くと、すでに当主もその息子もすでに酒に酔っていた。料理もとっくに食べすすめられているようで、父と顔を見合わせる。父が断れなくてすまない、と言っているような気がした。
「香月は俺の隣に座ると良い」
「まあ。私、男の人の隣に座ってはいけないとお父様に言われているのです。どうしましょう」
さっと空気が凍り付く。朱家二人の視線が珂雪の方を向いて、父がたじろいだ。雪月はよく言ってくれたと思う一方で、この発言は如何なものかと内心頭を抱えた。しかし香月は特にそれを気にするわけでもなく、「そういうことだから、ごめんなさいね」と珂雪と雪月の間に座り、ふわりと微笑む。その微笑みは豪勢な料理を食べられることからくるものではあると想像がついたが、朱家にとっては理由が何でも構わないらしかった。頬をぽっと染めて、「それなら仕方ないなあ」と笑っている。
朱家は華藍の建国のときからずっと皇族一家を支えている一族だ。それに対し楊家は歴史が浅い。この国では家の格はその歴史の長さで決まるのだが、格が高いからといって人柄にまで優れているとは限らない。彼等は皇族たちから何度も忠告され、罰されているのに関わらず領民から厳しく税を取り立て、余分に取り立てた分を私財にしている。私欲のために賄賂を渡すのも受け取るのも当たり前に行っており、領民のための統治を心がけている楊家からすれば関わりを持ちたくないのだ。朱家も賄賂には応じない楊家のことは厄介に思っているだろうに、それでも宴会に呼び出したのは香月が欲しいからに違いなかった。これは相当用心しなければならない。
「朱家の料理人が腕によりをかけて作った品だ。好きなだけ食べると良い」
機嫌を直した当主が偉ぶった口調で言い、楊家たちはお決まりの有難がる台詞を吐く。香月だけは料理を素直に喜んでいるようだったが、どうしてそんなに警戒心がないのだと胃が痛くなった。
「雪月、あなたこれ好きでしょう。よそってあげるから、お皿貸して」
「え、はい」
「あとこれとこれもよそってあげるわね」
「ありがとう、ございます」
この宴会は朱家を立てる場だと事前に説明したのに、香月は家で豪勢な食事が出たときと同じように雪月の世話を焼きたがった。朱家の皆に同じことをするならともかく、これでは雪月が特別扱いされているように見えてしまう。ほどほどのところで「後は自分でよそうから大丈夫ですよ」と伝えると、香月はほんの少し残念そうに「そう」と呟いた。自分の分を自分でよそって、黙々と食べようとする。
「香月、俺の分も頼む」
案の定と言うべきか、朱家の息子は香月に給仕を求めた。どれを取ってほしいのですか、と聞き返す香月に、彼は何でもいいから取ってほしいと言う。香月は怪訝そうに自分の近くにあった料理をいくつかよそって、彼に渡した。それを受け取る彼がわざわざ香月の手に触ったのを見て、ぞわりと肌が粟立った。一瞬彼はにやにやと笑って香月を見たが、彼女は特段気にするわけでもなく、今度こそ料理に集中しようとしている。良いのか悪いのか悩んだが、警戒心が薄すぎることは後で注意すべきだろう。珂雪も同じことを考えているようで、箸がちっとも進んでいなかった。時折腹のあたりを擦っている。
「それにしても香月は美しいなあ」
酒が進むにつれて、朱家の当主も息子も香月の容姿を褒めたたえるようになった。月のようだとか、花のようだ、とか、聞き飽きた台詞を何度も吐き、香月に酌と給仕をするように求めた。美人の注ぐ酒は美味い、美人がよそう料理は美味い、彼等はそう言って酒を呷った。
早く香月を連れて帰りたい。こんなところに香月を居させたくない。そう思い帰る機会を計ってはいたが、酒に溺れた人間の機嫌を損ねるとろくなことにならない。どうしたものかと悩んでいると、あろうことか朱家の息子が香月に裸足を見せろと言い出したのだった。
足を見せることの意味を、彼等は理解しているのだろうか。纏足は女の象徴だ。形を変えられた足を見せるのは夫くらいなもので、婚約も結んでいない相手に見せるものではない。足の大きさは女としての美しさを表すもので、見合いのときに女を見定めるときに使われこそすれども、わざわざ今裸足を見せることはないだろう。足の大きさなんて関係なく彼等は香月を欲しがっている。それなのに裸足を見せろと言うのは、この場で香月を辱めたいと言っているようなものではないのか。
「姉様、聞こえなかったことにしてください」
耳打ちすれども、朱家の人間の笑い声に掻き消されたらしい。香月は「靴を履いたままでなら」と立ち上がり、静かに服の裾を持ち上げた。珂雪が香月の袖を引く。
ゆっくりと薄桃色の衣装が持ち上げられていく。ところどころに金の装飾がされた小さな靴の全体が次第に露わになっていき、くるぶしが薄っすら見えたところで、香月は手を止めた。白い足首が、覗いている。雪月がそろりと視線を朱家にうつすと、息子は大きく目を見開いて、その足をじっと見つめていた。最初は魅入られていたようなそれが、次第に歪な笑みを作る。女の裸を見る男はきっとこんな顔をするのだろうと、雪月は思った。
「これは紛うことなき金蓮だ」
「ああ、足までこれほど美しいとは」
朱家はげらげらと笑っている。その息が酒臭いと思い、誤魔化すように自分も酒を一口含む。やはり、味が分からない。
香月は金蓮ではない。元々の足も大きくはないし、金蓮にしようと思えば出来たのだろうが、幼い雪月はそれを怖がった。足を小さくしようとすればするほど香月は痛みを訴える。折った指の骨を潰すために春香に手を引かれて歩く香月を、何度抱きかかえてやりたいと思ったことか。しかしその頃の雪月にはそんな力はなくて、痛みのあまりに蹲っていたとしても、夜も眠れないと泣いていたとしても、少しも助けてやることはできなかった。阿片を吸えば痛みが楽になるらしいと知った時は歓喜したが、それは一つ間違えれば人を壊すものだとすぐに教えられた。だから珂雪たちに泣いて頼んだのだ。もうねえさまにいたいことをしないで、と。珂雪は纏足がなぜ必要かを雪月に説こうとしたが、春香がそれを止めた。春香が身体を弱くしたのは、金蓮にしようとして足が膿んだのがきっかけだ。香月をそれで喪うのを、彼女は恐れた。それからは無理に金蓮にするのはやめになり、ただの纏足にするのみに留まった。しかし香月に惚れ込んだ人は、皆揃って香月を金蓮と言う。美しければ何でも良いと彼等が主張しているようで、その言葉を聞く度に苛立ちに近い何かを感じてしまう。
「姉様、もういいでしょう。座ってください」
「いや、香月、待て。靴を脱げ」
「今何と仰った」
雪月の鋭い言葉に、息子は赤い顔で嗤う。
「香月に靴を脱げと言ったのだ。そこに酒を注いで飲む」
妓女の靴に酒を注いで飲むという下品な遊びが、都では流行っているらしい。それは雪月も知ってはいた。しかし妓女でもない香月にそれを要求するとは思ってはいなかった。香月はきっとその遊びの存在を知らないだろうが、言葉に含まれた響きを嫌なものと理解したらしかった。呆然と立ち尽くして、それから雪月の方を見てきた。どうしたらいいのかに困り果てて、助けを求めているような顔だった。
何だか、目が醒めたような気がした。
「姉様、帰りましょう。父様、良いですね」
「うむ。それが良い」
「そういうわけだ。姉様を妓女扱いする輩との酒も縁談もお断りだ。帰らせてもらう」
立ち上がり、香月の手を掴む。その指先が震えていたことにやっと気が付いて、もっと早くこの決断をできなかったことが悔やまれた。はやく彼女の手を包んで、ただ静かに休ませてあげたかった。
「か、帰るの?」
「それ以外に何がありますか」
「後で大変なことになるくらいなら」
「いいえ。良いのです、後の事など」
戸惑っている香月の背中を押して、戸に向かって歩いていく。その様子を唖然として眺めていた朱家も、香月が一度振り返ると怒りを露わにした。
「貴様ら、折角俺が接待してやったのに」
特に息子の怒りは激しく、罵倒だけでは済まなかった。目の前にあった杯を掴むと、衝動のまま香月に向かって投げてきたのだ。咄嗟に雪月が庇うと、酒が頭からかかって、遅れて硬い盃が肩に当たった。
「ね、ねえ雪月」
「これくらいなんともありません。帰りますよ」
朱家はまだ何か喚き散らしていたが、酒を飲み過ぎたせいか追いかけてくるそぶりを見せることはなかった。騒ぎを聞きつけた朱家の使用人に引き留められる前に、馬車に急ぐ。
慌てて歩き出そうとした香月が、纏足のせいで転びかける。重心が傾き切る前に雪月がそれを支え、そのまま横抱きに抱えあげた。足の先が裾から覗いて、小さな靴が露わになる。この先にある素足を彼らに見せるなど、許せそうになかった。
怒声を置き去りにして屋敷を小走りに出て、ゆっくり休んでいたであろう御者を起こして馬車を走らせた。二度とこの場所に香月を連れてくるような真似はすまい。
「雪月、家についたら着替えを用意するわ。ごめんなさい、私を庇ったせいで」
「酒を投げる彼が悪いのです。姉様が気にすることではありません」
珂雪もそれに頷いた。あそこで庇わなければ、酒を被って身体の線が露わになっていたはずだ。胸や腹のかたちを彼らに見られては、香月に恥ずかしい思いをさせることになる。男の雪月が酒を被るほうがよっぽど良いのだ。
「香月、家についたら温かい湯を用意してあげなさい。雪月はもう随分酔ってしまったようだから」
「お酒を被ってしまったものね。大変、果物も剥いてあげるわ」
父はもっと早く連れ出してやれなくて済まないと香月に謝った。それに対して香月は「本当にこれで良かったのかしら」と言うのだ。父がその理由を尋ねると、香月は首を傾げた。
「朱家はみんな怖い人たちです。逆らったらどうなるか分からないってお母様が言っていたわ」
ならば自分が捧げられて家の安寧を保ったほうが良いのではなかったのか。香月が言いたいのは、そういうことだった。自分のことを何だと思っているのかと思った。家族に大切に育てられていて、使用人にも可愛がられていて、どうしてそんなことが言えるのだろう。結婚が家のためにするものとはいえ、自分を犠牲にするように仕向けたことなど、一度もないではないか。
珂雪の方を見ると、彼はひどく狼狽えていた。若い頃の美しさを残した頬が固くなっていて、唇が噛み締められている。それから彼は額に手を当ててじっと悩んだ後、「香月、お父さんはね」と口にした。
「お父さんもお母さんも、お前の幸せを願っているんだよ。確かに結婚は家のためのものだけれど、お前の幸せを踏みにじる結婚は家のためにならないんだ。だってこの家を作っているのはお父さんとお母さんと雪月とお前と紅花だ。皆が悲しむような結婚は悪いものだよ」
長々と喋らない珂雪が、珍しく言葉を長く紡いだ。幼子に語り掛けるような優しさはあれども、そこには悲しみがありありと浮かんでいて、彼が気の毒になった。世間では女の価値は軽く、香月の持つ価値観は何らおかしなものではない。だけど二人だけの子を大切に大切に守ってきた珂雪にとっては、刃のようなものに違いなかった。
「後のことはお父さんと雪月で何とかするよ。良い相手はお父さんたちで探すから、お前は安心して待っていなさい」
珂雪は香月の頭を撫でた。香月が幼い頃によくしていた仕草だ。彼にとって香月はまだ子どもなのだと思う一方で、いつになったら彼女を大人に扱うのだろうと疑問に思った。
「二人とも、今日はゆっくり休みなさい」
疲れたような父の言葉に、雪月も香月もただ頷いた。
家に帰ってから着替えやら水やら果物やら、香月は雪月の世話を焼こうとした。そこに紅花が慌ててやってきて、焦っている二人にあれこれと世話を焼かれて、余計に疲れた。酒臭さは落ちはしたが、鼻の奥にこびりついた匂いはとれそうになくて、気分の悪さを堪えながらしばらくを過ごした。
香月も疲れたらしく、紅花に勧められるままさっさと眠ってしまった。彼女が深い眠りについたであろう時間に珂雪の部屋を尋ねると、小さな話し声がした。春香の声だ。
「今日は本当に、大変でしたのね」
「そうなんだよ。雪月が帰ると決めてくれて良かった」
珂雪は家の体裁を気にかけて、その決断を先延ばしにしてしまったのだと零した。悔いるようなその言葉に、春香は優しく語り掛ける。
「まだ、あなたと雪月でこの土地を支えているのです。あなたが家を守って、雪月が香月を守る、それで良いではないですか」
「でもなあ、私とて親なのだよ」
「親の気持ちばかりを優先できないのが領主でしょう。あなたができない部分は、雪月がきちんとやってくれますよ」
「だけど、馬車で香月が言ったことを思うと、私は何かを間違えてしまったのではないかと思ってしまうのだよ」
珂雪が弱音を吐くのは春香だけだった。雪月に弱みを見せることはあれども、弱った事は言わない。いつも父であろうとする。しかし春香の前では立派に振る舞おうとする男にもなり、本心を零すただの人間にもなり、二人の子を持つ父にもなり、ひとつの形を取ろうとしない。春香がそんな珂雪の姿をどれも愛おしそうに撫でているのを、雪月は知っていた。珂雪が弱っているところに、雪月は混じったことはない。混じれば彼は「父」の姿になる。だからこういう時は襖の反対側に隠れて、彼等の会話をただ静かに聞くのが常だった。
「香月のこと、きちんと守ってあげないといけないなあ。これから大変になる」
「朱家からの縁談は断れそうですか」
「どうにか断ってみせるよ。どうにか、ね」
珂雪の声に強い意志が宿っている。しかし、自信は感じられなかった。方法が分からずに困り果てているのだということは想像がついた。朱家のことだ、怒りのまま楊家を取り潰そうと画策して、止めて欲しければ香月を寄こせと言うのだろう。香月とこの土地の両方を守るためには、降りかかってくる出来事のすべてに対処しなければならない。途方もない話だ。
彼等が消えてくれたら、楽になるのに。ふと、そんな考えが浮かんだ。しかしそれが彼等を死なせることだと気が付いてから、慌てて首を振った。こんなことを、両親のすぐ近くで考えていることがおぞましかった。
足音を立てないように、そっと父の部屋から離れる。今晩は、眠れそうになかった。
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けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
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――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
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生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
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お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
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龍の夫ヤトと人間の妻アズサ。夫婦は新年の儀を行うべく、二人きりで山の中の館にいた。新婚夫婦が寝室で二人きり、何も起きないわけなく……。独占欲つよつよヤンデレ気味な夫が妻を愛でる作品です。そこに愛はあります。ムーンライトノベルズにも掲載しています。
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