文筆家殺人事件

花籠しずく

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 わたくしは橋口登美子と申します。橋口修の妻、と言ったほうが伝わるでしょうか。そうです、あの、作家の橋口修です。雑誌に掲載されれば、たちまちに人気を博し、艶やかな情景と細やかな心の動きの描写で知られる、一世を風靡している、あの作家です。ほら、そこらかしこに原稿用紙が散らばっているでしょう? 破られた紙も。あれは彼の書きかけなのですよ。まったくもう、片付けが出来ないのですから、わたくしが片付けをする他なく、困ってしまいます。どれがどの原稿なのか、分かれと言われてもそもそものことを教えてくださいませんし、女に小説が分かるはずがないだろうと言って嘲笑うのですから、すべてが矛盾しています。それでも、子をみんな結婚させるまで、彼の理不尽に耐えていたのですから、良いでしょう?

 巡査様は、なんだかわたくしを疑うような目をしていらっしゃいますね。なぜ女の細腕で、男の喉笛を掻き切ることが出来たのか、と言われましても。橋口の家は、江戸の頃は大名でしたので、ほら、隣の部屋に甲冑や刀が置いてあるのですよ。この短刀は、大名だった頃の橋口家が、遠くから嫁いできた女に持たせたものだそうで。女かて自分の身を守らねば武士の家には置けぬ、と言われたようで、その女は、それはもう、泣きながらこの短刀を振るって鍛錬したようでして、それでも、敵襲で殺されてしまったそうなのですが、彼女の霊がわたくしに乗り移ったのかもしれませんね。橋口の女たるもの、肝が据わっていなければ役に立たぬと、お義母様にも言われましたし。まあ、こんな話をしても、仕方のないのですけれど。

 まあまあ、それは、旦那様の代表作の「綾糸」の原稿ですよ。丁重に扱いなさい。血で汚したらどうするおつもりですか。あなた方にそれの価値がお分かりで?

 なぜ、わたくしの部屋に新作の原稿があり、旦那様の部屋のみに完成原稿があるか、でしょうか。筆跡が同じ。ええ、そうです。その原稿は、わたくしが書いているものですので。ええ、わたくしは、彼の自害を手伝っただけにございます。彼は、己の作品が世に全く出ぬというのに、わたくしの作品が売れに売れることがそれはそれは口惜しく、もう死んでしまいたいと言いましたので、それならば毒をお出ししましょうか、と冗談で申し上げたところ、そうしてくれと本気で言いますので、ならばとお茶を用意して差し上げました。彼に言われた通りのお茶を出しましたところ、どうやら、死ぬほどの量ではなかったようなのです。それで仕方なく、喉笛をを切って差し上げたのです。わたくしの原稿が血で汚れてしまったのは、とてもむなしいですが。そこにあるのは、もう雑誌に載って、売れているものですから、まあ、良いでしょう。

 わたくしは、江戸の終わりに生を受けたわりに、両親は進んだ考え方を持った人でして、わたくしが兄と弟の本を読むのを窘めることはありませんでした。お琴とお裁縫、お料理さえ、きちんと練習していれば、他の事をしても怒らない質で、女に学問など要らぬ、と言われたことはありませんでした。わたくしに関心がなかった、と言われてしまえば、それまでなのですが、結果的に進んでいたのですから、良いのです。他のおなごは、女に学問など、と言われて取り上げられていることがしばしばあり、今でも、女学校は花嫁修業の場ですから、まあ、世の中の言う「女のための教養」など、その程度のものです。しかしわたくしは、男の読む書物を、それこそ貪るように読んできましたので、生家の商売を継げと言われたら、継いだと思います。たださすがに、商売に女が混ざると、どこも良い顔をしませんし、笑ってきますので、わたくしは大人しく、父の決めた縁談に従いました。そうして橋口様の妻になりました。

 旦那様は、わたくしと比べて、あまり教養のある方ではありませんでした。一般の男性からすれば、まあ、侯爵としてやっていける程度に政治を理解していますから、無教養とは言えないのですが、親に言われたことをそのまま学んできてしまったような、特に向上心のない人でしたので、わたくしからすれば、怠惰に思えました。旦那様が本を一冊本を読む間に、わたくしは同じ作者の本を三冊読みました。旦那様が考える政治に、口を出して、同等に言い合えるだけの学がありました。しかし旦那様の矜持は、ひどく、ひどく、傷ついたようでした。わたくしは、姉に、学が身についたとしても男にひけらかしてはならない、それは下品で意地の悪いことである、と言われていたのですが、すっかり失念していたのです。やがて旦那様は、わたくしに出来ないこと、本を作ることを始めようとしたのです。彼はどうやら、自分が素晴らしい一作を書き上げてから、わたくしにも書かせ、わたくしには出来ないだろうと嘲笑うつもりのようでした。旦那様は案外、負けず嫌いでした。

 わたくしはそれまで、自分が本を書く、という発想を持たずに過ごしてきました。里見八犬伝もなんでも読んできましたのに、なぜ自分が書こうと思わなかったのか、不思議に思いました。もとより、暇つぶしに空想に耽ることもありましたので、小説を書く、というのは、特別、難しいことではありませんでした。

 ――穏やかに降り積もる春の空気に、瞳子がほうと息を吐くと、喜助の頬がゆるりと色づいた。そんな書き出しに、旦那様はぎょっと目を見開きました。旦那様の書くものは、言い方は悪いのですが、幼稚でした。娯楽の読み物としても浅く、文学としても浅い。それに対して、わたくしは常日頃から本を読み、そこで疑問に思ったこと苛立ったこと嬉しかったことを覚えていましたし、交友関係を制限される中でも、数少ない縁を大事にしていましたので、人間としての厚み、というべきでしょうか。それが明らかに、旦那様より勝っていました。

 旦那様はわたくしの原稿にじっと目を通しました。じぃっと原稿を見つめていました。静かに、静かに、わたくしの原稿と己の原稿を比べ、断髪した髪をぐしゃりぐしゃりと掴みました。それから冷え切った目でわたくしを見つめ、わたくしの原稿を破り捨てようとしてやめ、己の原稿を破り捨てました。その切れ端をわたくしの口に押し込もうとし、嫌がるわたくしに何度も平手打ちをし、それからやっと、わたくしの部屋を出ていきました。それからしばらくしないうちに、雑誌に、わたくしの小説が掲載されていました。彼の名前でした。

 こんな世ですから、女が女の名前で何かできるとは遠い夢の話ですし、出来たとすれば、それは後世に語り継がれるであろう人になりますので、わたくしがそうはなれるとは思っていませんでした。きっとそういう方は旦那さんに恵まれているのでしょう。わたくしの旦那様のように、功績を何の相談もせず、腹いせのように奪ってくる人もいるのですから、まあ、なんとも生きづらい世の中でございます。そして同時に、女に負けるなんて情けない、という想いも、男性を生きづらくさせるのでしょうね。旦那様はそうして、少しずつ、すこしずつ、壊れていきました。

 彼はまず、自分の名で大きな偉業を成し遂げたことを、喜びました。わたくしを殴りながら喜びました。それから、わたくしに小説を書くように言いました。それは旦那様の虚栄心でした。なんでもいいから、自分の功績でなくとも、世間様からちやほやされ、愛されたい……。そんな思いがあったようでした。まあ、彼も小説に拘りましたので、彼なりに小説を書き、頭の中でうごめき、命を持つ言葉を紡ぐことを愛おしく思っていたのでしょうけれど、虚栄心は彼のそんな気持ちをいたぶって遊んでいるようでした。一方、わたくしは自信に満ち溢れていました。功績を奪われたことは、当然、悔しくはあるのですが、それが旦那様の名前であっても、称えられているのはわたくしの作品です。わたくしなのです。正直に申し上げますと、旦那様を殺して差し上げたい、という気持ちはございましたが、それをしたところで、わたくしの作品が世に出ることはありませんので、堪えて、わたくしの作品が評価される喜びを享受することにしました。わたくしは黙々と小説を書きました。子育ても終わっていましたし、家を継がせた息子はほとんど仕事やら遊びやらで家にいませんでしたし、息子の嫁もお茶会が好きなようでしたし、家事のたいていは女中たちに任せていましたので、わたくしは執筆だけに専念していられました。二番目に書き上げた「丹花のくちびる」もそれはそれは評価していただけまして、旦那様は鋭い評価の書かれた雑誌を勇んでわたくしの前に出したのですが、わたくしが素直に喜ぶものでしたから、わたくしを殴りました。わたくしが悔しがるところを望んでいたようでした。

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