されど誰(た)が為の恋は続く

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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承章

承章 第二部 第一節

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 ぎあげたナイフを頸動脈けいどうみゃくに差し込んで、その奥まったところにある気管まで一息ひといきに断つと、ナイフを抜く時にこぽこぽと音がする―――耳をすませば。聞き取れるようになった最初から、それは気管から漏れた空気が流血を押しのける気泡の音だと知っていたが、今となっては余命すべてが断末魔だんまつまの一瞬に沸騰しているように思えていた。特に、こうして手の中の獲物と目を合わせている時などは。

 大蜥蜴とかげは、爬虫類はちゅうるいらしい無感動な愛嬌を目玉に残したまま絶命した。血を受けた鍋を手にさっさと別工程に移る調理係の旗司誓きしせいを尻目に、シゾーも地べたで解体作業に戻る。

 大蜥蜴とかげ仰向あおむきにして、縛り上げていたロープを解き、尻尾しっぽを根元から切り落とす。手足の関節の軟骨に切れ込みを入れてくじき、四肢をもいだ。次いで、切開した頸部から丁字方向に刃物を滑らせ、肛門間際まで切り開く。見えてくる。まずは、見慣れた色。赤い……矛盾するような、鮮やかな、どす黒さ。

 心臓。肺。腸。泌尿器。生殖器。あぶら。血。肉のくだ赤裸々せきららになったそれらを、股間の方向に向けてき出していき―――フックが仕込まれたナイフはこういう時に重宝する―――皿の上にすべて移して、肛門周囲を切断する。調理係の旗司誓はその皿を持ち上げると、ちょいちょいと四肢の先っぽも皿に放り込み、尻尾は大根のように地面から引きずり上げて持って行ってくれた。内臓は傷みやすいので、先に気を回してくれるのは助かる。尻尾の方は、スープを取るには大物すぎる気がしたが、無駄にはしなかろう。赤ん坊を丸呑まるのみできそうなサイズの蜥蜴とかげは、それなりに貴重だ。

 となると、尻尾を落とすのは最後の方がよかったかもしれない。そうすれば、尾部まで一枚革を取ることが出来た。ぎ目のない皮革ひかくは、より汎用性がある。大蜥蜴とかげの頭を落とし、首から胴まで皮をいだところで思いついたとて、あとの祭りだが。

 そうだ。気付いた時には、もう遅い。自分は今、我を忘れていた―――

「―――領、副頭領。副頭領?」

 そこで、声を掛けられていたことに気付く。

 シゾーは地面にへたり込んだまま、相手をあおぎ見た。自分にとってはまだ馴染なじみの部類に入る、調理係の旗司誓のひとりである。年嵩としかさの彼はシゾーの近くに立ちんぼして、控え目にいたわ眼差まなざしでこちらを見おろしてきている。まあ眼差しについては、普段なら絶対にない視点から相手を見上げていたせいもあって、そう見えただけかも知れないが。

「さっさと手ぇ洗わにゃ、柄と手が血糊ちのりでくっついちまいますよ? ぼーっとして。大丈夫っすか?」

 見えただけではなかったようだ。

 目をやると、だらりとさがった腕の先に、ナイフをつかんだままの素のてのひらつながっている。シゾーは血を吸っていない砂をつかんで、そこへみ込んだ。何度も繰り返すうちに、あらかたの汚れは落ちてくれる。雹砂ひょうさ混じりのせいで、単に水洗いするよりくさみも取れやすい。

 それを見ながら、調理係がぼやく。

「疲れてるんですよ。ってぇか、疲れたんですよ。こんなデカブツ、ふんじばって生きたまま担いでくるから。おーい、こっちは終わったぞ」

 呼集こしゅうの声を受けて、調理場から数人がひょいと顔を出した。中でも若そうな青年が二人でやってきて、よっこらしょと掛け声で呼吸を合わせつつ、こんなデカブツ・・・・・・・を台所へと担いでいく。口輪にかけたロープを手に取り、生首をさらって行くのも忘れない。両者とも指やら足やらが半分ほどもないのに、上手いものだ。

 シゾーが、血をこそげ落としたナイフ―――戦闘ではなく雑用に用いる私物だ―――を鞘に入れ、装備に戻すのを見て、調理係はじゃっかん目線をとがらせた。あとでちゃんと手入れするんでしょうね?

「なんなら持ってこさせます? 水」

 彼の口から出てきた言葉は、やはり予想と違っていた。曖昧あいまいに首を振って、どこか気まずさを覚えながら、言い逃れる。

「……いえ……もう行きますから」

「裏まで辿たどり着くより先に、あんな暴れん坊の丸太を運んできた足腰にボロが出て、コケたりせにゃあいいのですが。いつもみたく現場で血抜きだけでもしてくりゃいいものを。一体全体、今回はどんな風の吹き回しで?」

「―――こないだ、戦闘があった時。潰した騎獣きじゅうで、血込ちごめの腸詰ちょうづめも作ったでしょう。それを食い逃したって、ぶーたれてるので。ザーニーイさんが」

 嘘をくのは慣れたことだ。それも、慣れた嘘であるならば。笑う余裕さえある。

 だからシゾーは、それを続けた。

「アンタはもっとイイとこ食べてんだから、ひと品くらい食い逃したってなんのこっちゃと思うんですけどね。食い物の恨みに引きずられて、これ以上デスクワークが滞ると、副頭領としては頭が痛いので。尻をっとばすより、えさで釣ろうかと」

「あーあ。道理で。頭領、また食堂まで降りて来なくなったと思ったら」

「そう。ある意味恒例こうれいの、執務室に缶詰めの刑」

 嘆息たんそくして、立ち上がる。

 そうすると、いつもの風景を取り戻した視界に、いつものように調理係がいるだけだ。砂をはたいて、座っての作業に邪魔だった諸々もろもろを定位置に戻しながら、苦笑する。

「と、言うわけで。悪いんですけど、あれは血込めの腸詰にしてあげてください。眠気覚ましにスパイス倍ドンで。徹夜に発破かけてもらわないと」

「任せといてください。出前、ります?」

「いえ。ごはんどきに取りにうかがいます。今のザーニーイさんに、ドアノブに触らせる逃げ口上を与えるわけにはいかない」

ぜんえ膳たぁ、痛み入る奉公っぷりですな」

「仕事です。くれぐれも滅私めっし奉公だとは思わないように」

「ラジャーっす」

 おどけるように、二本指でこめかみを擦る簡易敬礼を送ってくれる。

 と、

「でも。正直ありがたいっすよ―――副頭領が時々、ここで、こうしてくれて」

 いやに神妙しんみょうになった口調に違和感を覚えて、シゾーはつと、調理係に目角をくれた。相手は去ろうとする出鼻をくじいてしまったびか、いやいやと片手を振ってみせたが―――それでも、気鬱きうつをこぼして楽になる魅惑には勝てなかったようだ。ぽろりとこぼした。

「俺らは、なんてぇか、その……ここにいるしか、ないもんで」

 本音だ。直感にあらがえず、その場に棒立ちしてしまう。

 調理係が、こちらに振ってみせた手。その手には薬指と小指がない。

「別に、給食仕事が嫌だとか、おとってるったあ思わないです。けど、敵の目に切っ先を向けるのと、蒸かしいもの芽に爪楊枝つまようじを向けるのが、同じだって思えるほど図々ずうずうしくもなれなくて。俺らは、だから……副頭領みてぇな人と、肩を並べてられる時間は、ありがたいんすわ」

「それは、」

 偶然だ。

 どれだって、今に始まったことではない。狩猟しゅりょうを始めた頃は、単なる自給自足の一部で、自分にあてがわれた仕事だった。あの頃の<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>は副頭領という肩書すらない寄せ集めで、後年に自分がそんな組織の役職を担うとはつゆとも思っていなかった。副頭領になってみれば、退屈しのぎやさ晴らしにできる手頃な手段が限られていた。それだけだ。調理係の古傷ふるきずとて、そうだ……と思う。少なくとも、シゾーとは何の因果もない。

 それでも今この時、彼を見ているのは、他ならぬ自分だった。シゾーは、彼を知っている。欠けた手指しゅしについてだけではない―――左足の親指から足の甲半分がえぐれているせいで、重いものを持ち運ぶのが不得手ふえてな彼は、だからこそこうして調理場とシゾーの間に立った。ここがいいと、選んで。敬礼もそうだ。彼の意思で、こちらに向けられた。

「―――よかった、のなら、そうだといいと……思います」

 食い下がるように、シゾーははぐらかそうとした。無意味であろうとも、そうしようと。

 出来なかった以上、それよりも意味のある世辞せじに反射的に飛びつくしかなくとも。

騎獣きじゅうの件についても、協力ありがとうございました」

 口にしながら、ほぞを噛む。この感謝そのものは、的外まとはずれではない……だが、そうすることで、相手の間合いから遠のくために利用したのだ。出汁だしに出来ると踏んで。

 それでも、それを続けるしかない。どうすることも出来なかった。

「あの時は勘に任せただけでしたけど、頼んでおいて本当に良かったと思います」

「いや。俺らは、こんなことばっかやってるもんで……どうしても目に付いちまうだけで……」

「それがプロです。練達していることは、わざわざ誇らずとも、謙遜けんそんすることはありません」

 会話が途切れる。

 他に言うこともないシゾーとは違い、調理係は言葉を失くしていたようだった。恐縮してか……感極かんきわまってか。堪能たんのうするように。

 シゾーは、会釈えしゃくした。

「では、僕はこれで」

「ありがとうございました。……あの、」

 その逡巡しゅんじゅんは、とても短い。出ししぶられてのことでも―――ない。

「また、いらしてください。いつでも」

「―――ええ。えずは、今日のごはんどきに」

 深々と下げられた頭を背後に、歩き出す。

 背中へ担ぎ直した斬騎剣ざんきけんが、いやに重い。理由は分かっていた。そこに結わえられた青い羽根の装飾は、今更あえて見るまでもない……そう思うのが、自分だけであるということ。そして、それについて感情が先行しなくなり、考える時間が増えた、今。今更であっても、辟易へきえきしても、放逐ほうちくせず、ひとつひとつ、それらを承服する。

「……―――らしくないな。こんなのは。まるで……」

 今に始まったことではなくとも。今にして、それを思う。

 シゾーは顔を上げた。歩くまま、建物をかえりみる。

 ここは飲食物の下ごしらえを行う棟で、食糧庫ならびに火を扱う台所とも繋がった、調理用の個建こだてだった。ここでこしらえた料理が食堂に運ばれることになるのだが、間食くらいなら直接ここからつまんでいく連中もいる。ただ、先日の戦闘の直後からしばらくは、さすがに潰した動物の臭気がたたったらしく、寄り付く者はいなかったようだ。だからこそ自分がいつも以上に顔を出したのが歓迎されたのかもしれない。

(……騎獣きじゅうの件があった成り行きとは言え、俺も考えなしだったな。調理場の連中に肩入れしてるつもりもなかったにせよ、副頭領としてどう振る舞えば得策なのか……)

 個性が集まれば、なにかしらにつけ優劣はつく。年齢、容姿、階級、知性、胆力たんりょく、人徳、男根だんこんの見栄えおよび使用の頻度と練度、武勇伝の所有数や華々はなばなしさ。どの物差しがあてがわれるかは時流にるが、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>においてメンテナンスの役回りに回る者―――調理や掃除洗濯等の家事・建物や武器や水源の整備や保全・事務や経理等―――は、それとなく下に見られることが多い。脚光きゃっこうを浴びづらい裏方だからだろう。とは言え、彼らの多くは身障者しんしょうしゃであるので、どうしたところで五体満足な者より直接的なアタッカーには向かない。目や耳が潰れれば死角が増える。手足の指が欠ければ踏ん張りがきかなくなるので、走るフォームが崩れてトップ・スピードを出せなくなるし、刺突や斬撃に致命傷をたたき出すだけの威力を成せない。指に細工をして射手に転向する者や義賊に異動する者もいないではないが、なまじ過去の栄光にすがるでなく、鉛筆や小刀や雑巾に持ち替えて忍耐にんたい強く無傷の脳をフル活用してくれた方が果報かほうなのが正直なところだ。組織も大きくなれば余り物の人材まで傘下さんかまぎれ込むことになるのはしょうがないにせよ、福利厚生で義賊をもうけているわけではないし、な射手ばかり馬鹿のひとつ覚えで増えられても困る。依頼主の物騒事ぶっそうごとを肩代わりすることで支払われる身銭より、交差交易こうさこうえきのポイントとして仲立ちすることによって得られる利潤りじゅんの方が安定している上、黒字として展望があるのも事実だ……こんなことを知れば、短絡的たんらくてき腕白わんぱく坊主から順繰りに気炎を吐くだろうから、えて<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の帳簿を開示したこともないが。

 なんとはなしに、シゾーはその場で聞き入った。遠く……近く、砂がこすれる音をかき混ぜるように、緩急かんきゅう慌ただしい足音と、強弱入り乱れた笑い声と、取るに足らないいざこざが溶け合って、あわい旨味うまみのような空気をかもしている―――人々の陽気が発酵はっこうした、かぐわしさとぬくみだ。キャラバンをひきいた一般人であれ、立ち寄り、行き交う魅力のあるフィールドとして、秩序に基づいた平穏と統制が行き届き、かつ守られている。月並みだと思うだろうか? 水があり、えず、清潔で、字の読み書きと計算の正しさに価値があり、親切な行いに二心を疑わずに済む、温和な治安……

 それらは確かに、脚光ではなかろう―――陽光だ。日向ひなたに恵まれ、豊かさが育まれる土壌。本来ならば、悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんには自然発生することのない、人工的かつ稀有けうなシステム。

(そうか……―――そうだな。らしくなくなるってことだ。こんなのは)

 シゾーは、ぽつりとひとりごちた。ジンジルデッデを思い出していた。

「ここは平和だな」

 そう思う。しみじみと……そう思ったのだ。

(食って飲まにゃあ心がすさみ・寝心地悪けりゃ身がすさむ、出してほっときゃ空気がすさみ・居心地悪けりゃ家すさむ―――って、よくジンジルデッデも歌ってたっけ。こっぴどくしかっては歌うんだよな。あいつときたら)

 歩きながら、なんとはなしに旋律せんりつを口ずさんで―――

「なんともまあ、えらく所帯じみた都々逸どどいつですな」

 物陰に、彼はいた。

「ゾラージャ五席」

 思わず呼ぶが。彼―――ゾラージャ部隊長第五席主席しゅせきは、壁にもたれるようにして陣取るのがくせのようで、その姿勢のままシゾーへと簡易敬礼を向けてくる。薄茶の頭に派手な傷跡を咲かした、にしてはさほど野卑やひな気配のない、三十路みそじがかりの猪首いのくび男。

「ども。二十重はたえある祝福しゅくふくに。副頭領」

「ああ。背の……二十重ある祝福に。こちらこそ」

 紋切型もんきりがたに返してから、不審に思う。

 まるで出合いがしらに交わしただけのような口ぶりだが、そんなはずもなかった。調理棟から近い、要塞ようさいの裏手に当たるこの砂地は、手水ちょうず設備がひとつあるだけの殺風景な屠殺場とさつばである。さっきは血をこぼさないために調理場近くで大蜥蜴とかげをばらしたが、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の敷地内で血抜きを行う場合は、可能な限りこの区画で行う取り決めとなっている。当たり前だが、あちこちで好き勝手に血みどろにされては、風紀上も衛生上もたまったものではないからだ。

 となるとゾラージャは、シゾーがここに来るのを待っていたということになる。どこから物見高ものみだかく見ていたのか知らないが、解体を終えたシゾーが手を洗いに来るのを見越して、ここにいたのだ。まがいなりにも医術を学んだ者、なおかつ副頭領の立場の者が、そうしないことはなかろうと踏んで。

 怪訝けげんではあるものの、けむたがって邪険じゃけんにする証拠としては薄いし、毛嫌いする筋合すじあいの相手でもない。手ぐすね引いて待っていたというていでもなさそうだったので、とりあえず牽制けんせいするでもなく与太話よたばなしを続けてみる。

「色恋モノの方が似合いますか?」

「そいつァ勘弁だ。またウチに居着かなくなる。副頭領のロン毛は金輪際こんりんざい見たかねぇや」

「見たことないでしょう。あんた」

「思い浮かべただけで似合いそうだから、実際に目にしたかねぇんですよ。あんたら義理の親子のくせして、女顔おんながおどころか髪のたけまでペアルックすか」

「義理の親については余計です」

「おっと、口がすべったか。クワバラくわばら。そうカリカリせんでくださいよ。おっかねえ」

 鼻にしわが寄るが、あくまで相手に邪気がないのでは噛みつく気も失せる。両手をひらつかせて降参してみせるゾラージャをにらみやるものの、長続きはしなかった。ため息でいらつきを吹き払って、手水ちょうず設備へと進む。

 設備といっても、大それたものではない。せいぜい、掘っ立て小屋から突き出した屋根の下に、風呂桶になりそうな大きさの水瓶みずがめが置かれているだけだ。掃除道具などが入っている小屋には用がないので、シゾーは水瓶に引っ掛けられていた杓子しゃくしで、瓶から水をんだ。この水とてかしたものではないので、飲用には向かない。温度も冷えていた―――凍らせる冷たさではなく、肌の温もりを吸い込む無情なうつろさ。位置的にどうしてもかげこもりがちで、常夜とこよ夜気やきと夜露が抜けないこともあるが、なによりここは人の都合で生殺与奪せいさつよだつを繰り返す場所である。重苦しさは、死の気配が吹き溜まったがゆえの内圧の高さであり、しんとした静寂も、清浄な静謐せいひつのように高貴なものではなく、まれたなりの孤独だった。ここには自分たちしかいない。

 手を流しながら、話しかける。

「僕がここにいるのがよく分かりましたね」

「俺も好きなもんで。ここらへん」

物好ものずきな」

「俺は酒よりメシが好きでね。次は何が食えるんだかって、想像するだけでマッチョが三割増しになるんすよ」

「ぜひとも部下へ方法のレクチャーを。健康的で反作用も副作用も無さそうな素晴らしいドーピングです」

「はは。そりゃもう、ご下命かめいとあらば」

 そのあたりで、手を洗い終えた。

 シゾーが杓子しゃくしを戻してゾラージャに向き直ると、彼もまた背中で壁をって直立する。本腰を入れたという見せつけだろう。壁の露で湿った背中を掻いて、間延びしていた声はそのままに、言ってくる。

「部下といや、エニイージーなんすけど―――あと、例のじょうちゃん」

 聞かざるを得ない。

 ついに後継こうけい第二階梯かいていの護衛任務について稟請りんせいが成されたのかという懸念けねんが頭をよぎるが、顔に出ていたようだ。ゾラージャが、すげなく否定してくる。

「まあ、エニイージーは今のとこ泣きついて来ちゃいねぇから、嬢ちゃんの護衛任務そのものにゃあ心配はしとりません。それについちゃあ取り越し苦労ですわ」

「そうですか」

「むしろ、そのことが憂慮ゆうりょされる」

 黙っていると、ゾラージャが念押ししてきた。

「好ましかァない事態ですな」

「…………」

 が、把握の的確さはそこまでのようだった。ゾラージャは、もっともらしく顔つきだけは愁眉しゅうびを寄せて、腕組みした手の片方でとんとんと己のひじを突いている。まるで解答にきゅうした学童が、ペン先で机をつつくように。もったいつけるでもなく、純粋にたどり着かない千鳥足ちどりあしの靴音のように、言葉もまたもたもたとつむがれていく。

「嬢ちゃんが、キティ・ボーイなんてあだ名で呼ばれるようになってきたこと……知ってますかい? 副頭領」

「初耳です」

「エニイージーもね、気にして立ち回っちゃくれとるんですが。あいつ自身あの通りド直線の真正直な性分しょうぶんしとるもんですから。方便ほうべんならなんとか嘘はけても、建前たてまえとなると身につかんようで」

「つまり?」

「嘘は、建前があって矛盾するからこそ、大なり小なり持ちつ持たれつで成立するのが道理でしょう。あんにゃろう、お前のためだ・・・・・・っつう面構えをすることに自分自身が納得できとらんから、役にのめり込めんようで」

「……つっけんどんにお姫様扱いして蚊帳かやの外へ出せない、と?」

「まずもって、あの嬢ちゃんからしてツッケンドンなオヒメサマじゃないでしょうよ。蚊帳の外から、そっち楽しそうだから入れてよ入れてよーときたもんだ。俺もウチの連中も、初めて会った時はあご外れっかと思った」

 何を思い出したのか、ゾラージャは肩を落として明らかな困り顔を作った。副頭領から同情を買おうとしたにしては、目の方向があらぬ遠くを向いている。その頃には、それは回りくどい近況報告でなく、悩ましい気さくなひとり言に転じていた。

「口まわしやアクセントだって、<風青烏ロゾ>の連中の方が鼻につくくれぇだ。あの嬢ちゃん、本当に、ただの子どもだものなぁ―――……俺らも元々、よそよそしくするのにゃ慣れてねぇですし。また、ぱっと笑うんだよ、あの子。しゃべっても、動いても、なんかする度に。あれを見ちまうとなぁ。冷たくできねぇんすよ。ホントに数えで十五かって思うくらい、ゆがんだとこもねぇですし」

「僕としてはしゃくさわる一方ですが」

「はハ」

 一蹴いっしゅうしたシゾーに、から笑いするしかなくなったらしい。ゾラージャがまたしても頭の両側に諸手を上げつつ―――今度は降参というよりも厄払やくばらいの身のこなしに見えたが―――、ひるんだ様子で、ぎこちない破顔はがんを固める。

「でしたら、副頭領が嬢ちゃんの護衛に付きますかい?」

「……ああ―――そうですね」

 そこに来て、気付いた。

 シゾーは、声をしずめた。低く―――意図的に。

「話し向きによっては」

「話? へえ。そいつは、どこのやっこさんと?」

「差し当たっては、―――」

 一拍。

 腹を決める。シゾーは目線をゾラージャから、彼の肩越かたごしに奥へと伸ばした。

「僕の、義父とうさんと」

 まるで当然のように、フラゾアインはそこにいた。

 シゾーの変化を察知して振り返ったゾラージャが、慌てふためいて上半身だけ後ずさりさせたが、それを気の毒だとは思わない。早く慣れろとあきらめるだけだ―――練成魔士れんせいましにも、体形さえ合う服ならば何を着たところで気に留めない破滅的なセンスにも、つまりはゼラ・イェスカザという存在そのものに。

 横槍よこやりされておいて気を害するでもなく、そそくさと退散するゾラージャと入れ違いに、ゼラがこちらへ歩いてきた。途中から、ほどいたターバンを片手にまとめつつ、もう片手で遠出用の外套がいとうえりゆるめている。ものが小児向けの古着なので、まるきり暑がりの子どもが癇癪かんしゃくを起こして脱ぎ捨てているような有り様だが、本人が無頓着むとんちゃくな限りはどうしようもない。

 えて近寄る気も起らず―――まさか義親子おやこ水入らずで抱擁ほうよう団欒だんらん満喫まんきつさせてやらんがためにゾラージャが席を外したわけもあるまい―――、目前で立ち止まるのを待つ。

 そこに来て、ふとゼラが口を開いた。

「お疲れ様のようで」

「お互い様のようで」

 言われたことに、嫌味を返したつもりはなかったが。

 それでも何らかの予兆は感じ取ったのか、不機嫌以外の元凶に根差して、事務的に眉根まゆねを寄せた。養父の勘にこたえるように、口火を切る。

「あいつが前代未聞の発作を起こした」

 ゼラが硬直した。その顔に、はっきりと不吉な影が横切る。疲弊ひへいし落ちくぼんだ目元とくちびるしわに、陰影がつきやすかっただけのことだろうが。

 それでも早めに不吉にはりをつけたい。口早くちばやにシゾーは、後をいだ。

「俺が打てる手は根こそぎ打った。もう山は越えた。そろそろ出れるだろうと、俺はてる。猶予があるなら、まだ二日欲しい」

「二日も?」

「それだけ今回は異常だった。二日はあいつの回復だけじゃなくて、容体ようだいの判断猶予も兼ねてる」

「分かりました。わたしもこれから診ましょう」

「深刻なのはそこじゃない」

 きびすを返しかけたゼラの横顔が、けわしさを刺されたせいで、はっきりと余裕をなくしてシゾーを振り返る。それを見返す己の心象は、奇妙なほどいでいた。これもまた、不吉の予兆かも分からないが―――あらしの前の静けさのような。

(いや。違うかな)

 この無心は、大蜥蜴とかげを解体した時のそれによく似ている。取り返しがつかないと分かっていて、ふうやぶるということ。

 げる―――

「発作を解決するために、キルル・ア・ルーゼの手を借りた」

 きもつぶされたゼラの豹変ひょうへんを待たず、シゾーはたたみかけた。

「言っただろ。俺が打てる手は根こそぎ打ったんだ。手のちんは―――」

 瞬間。

 ずだん! というはげしい音を理解したのが、真っ先だった。

 衝撃しょうげきは遅れてやってきた。そして痛み。やがて息苦しさ。何の魔法か、あるいは抜きん出た体術か―――とにかく背中から仰向あおむけに転がされたシゾーは、なすすべもなくゼラに襟首えりくびつかまれていた。関節をめられるようなこともなく、単に胸倉むなぐら靴底くつぞこで踏みつけられているだけだが、大の字のまま動けない。動く燃料になるような衝動もいてこない……少なくとも、今のゼラに太刀打たちうちできそうな呵責かしゃくなどは。

 こんな間近から目線で射すくめられるのは、いつぞやに頭突きを食らって以来のことかもしれない。黒瞳こくどうを溶かしそうないきどおりの幾らかは自噴なのかも知れないが、吹き上がる矛先ほこさきはまず間違いなくシゾーに向けられていた。襟首えりくびどころか、心臓をむしりたいのが本望だろう。きしる歯列の奥で、押し殺した怒声がしわがれている。

「打てる手だと―――それが打てる手だったと?」

「そうだ」

「軽率な浅知恵あさぢえだ」

「そうだ」

自棄じきに知恵をしぼった挙句が、無謀むぼうか! 軽挙が……打てた―――手か!」

「そうだ」

「笑わせてくれる。わたしとしては、ばち博打ばくちを打ったとしか思えない」

「……そうなら、どれだけ良かったか」

「どういう意味だ」

「神様と違って、イカサマ出来りゃ勝ち目あるだろ。文句あるか?」

 ぶっきらぼうに吐き捨てて、にらみ上げる。

 なんなら激昂げっこうしてくれたゼラから、もう一発二発らわせられても構いはしない。そのまま殺されるとしたらどうなるだろう? 思い出したのは、ついさっきの大蜥蜴とかげ死相しそうだった。自分も組み伏せて殺した相手がいる。都合の良いことに、ここは屠殺場とさつばだ。フックのついたナイフもある。血を抜かれてはらわたをがれ、毛も皮もひんかれて燻製室くんせいしつにでも吊るされれば、三日三晩で干し肉になれる。これ以上の正義はない。平等で公平だ。食われて尻からひり出されてしまえ、くそが。

(なんで俺はこうなんだろうなア?)

 わらえてきた。そんな時だった。

「―――……君は万全を尽くし、頭領は山を越え、なおかつ死んでいない。誰も……死んでいない」

 抑揚よくようのないゼラの声が、開かない口唇こうしんから漏れ出す。亡霊にでも尋ねられた心地がしたが、シゾーは首肯しゅこうした。首筋を締め上げられながらこなすにはなかなか至難なことだったが、どうにかやり遂げた。

 途端に、拘束が失せる。機械的に五指ごしを引き剥がし終えて、ゼラが身を起こした。そこいらに投げ捨てていた服とターバンを拾って、こちらに投げてくる。ばさばさと落ちた拍子に、からんでいた砂が降り―――焦土しょうどと入れ替えたばかりらしい軽い砂だった―――、シゾーは立て続けにくしゃみする羽目はめになった。自分の代わりに持てということだろうが、砂まみれになった汚れ物同士まとまっていろという遠回しな嫌がらせの意味だとも勘繰かんぐれた。いや。

 手ひどく一本取られて、卑屈ひくつになってるだけだ。ゼラの声色は、悪びれたところもなく、真摯しんしで真剣だった。

「借り賃で済むものか。負け金の取り立ては、これからやってくる。きもめいじておきましょう。全員で」

「はい。義父とうさん」

 直後。

「わたしはね。息子よ。怒ってはいない」

「…………」

 薄気味悪うすきみわるさのあまり―――ひっくり返ったまま―――沈黙するのだが、説教は終わらなかった。平坦に、読み上げられてくる。

「ただ、行ったことは、返ってくるということを、君よりも知っている。自分ではなく、他人にまで降りかかる―――おしなべて、もっと悪い風にして。だから……取り立てがあるということを、全員で肝に銘じておかねばならない」

「まるで連帯保証人だけにはなるなって教訓にも聞こえますね。それだけなら」

「覚えていてくれるならそれでもいい。もう行きましょう。言い慣れないことにつき合わせました」

「…………はい。義父とうさん」

 遅れてシゾーも、みすぼらしく立ち上がる。斬騎剣ざんきけんに打ち付けてしまった背が痛むが、むき出しのグラウンドではなかったせいか、痛手になって残るほどではないようだった。プライド以外は。

(くだらない。開く傷口でもあればよかったのか?)

 矢先。

 思いついたように、ゼラが口をいてくる―――やはり真面目に、更には真顔で。

「まさか、博打したさに、こんな手を打ったのではありませんでしょうね?」

 今度こそ、シゾーはわらってしまった。博打だと?

「そんなもん、シゾー・イェスカザと契約した時からりてるさ」

「孝行息子ですねえ。究極の親不孝なことに」

「…………」

 切り返されたのは予想外だった。しかも、とびきりの当てつけだ。

 さすがに黙り込むのだが、ゼラは許してはくれなかった。即座に告げてくる。

「とにかくまずは、頭領のところへ。様子を診なければ。事態を整理し、共有しなければね……わたしとしても、あの子にすぐにでも報告したいことがあります」

「ああ―――おそろいですね。義父とうさん。嫌なことに」

「お揃い?」

「嫌なことに」

 繰り返す。当てつけへの意趣返いしゅがえしにもならないが。

 身体からだをはたいて砂を落とし、髪をかき上げる。これだって砂を落としたかっただけなのに、否応いやおうなく左耳のリングピアスは揺れることになった。いつだって揺れていたのは確かだ……ただ、今は、やりこめられたような間の悪さを覚えていた。思えば、ペアルックかとからかわれたことさえ間が悪い―――こんな今を予言してでは、絶対に無かろうとも、だ。間が悪い。それとも、

(こんな程度で当たってくれるくらいが、ちょうどいいものなのかも知れない)

 引き金を引く。当たり外れも関係なく、損得も数えず、因果もなく、引き金を引く。なのに、当たるか外れるかで損得が分かれ、因果がしょうずる。だとしても―――引き金は引かれる。どこかにあり、誰かが―――引く。必ず。どこにでもあり、自分であれ―――どの時にも―――引いたのだから。

(そうだ。シゾー・イェスカザに予言されるなら、この程度の不運でいい)

 彼がシゾー・イェスカザとして予言されたあの瞬間から、こうして世界がこのように構築された。のであれば。

 こうして皮肉ひにくることすら、この世界を崩壊させるトリガーかも分からないなら。この程度で充分だ。

 シゾーはせめてもの意地を込めて、にやりと口のをつり上げた。はったりだったが、これで泣き言をしまいにする。

「だって僕もザーニーイさんに報告がありますし、どうせ義父とうさんの方だって悪い知らせなんでしょう?」
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