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承章
承章 第二部 第一節
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研ぎあげたナイフを頸動脈に差し込んで、その奥まったところにある気管まで一息に断つと、ナイフを抜く時にこぽこぽと音がする―――耳をすませば。聞き取れるようになった最初から、それは気管から漏れた空気が流血を押しのける気泡の音だと知っていたが、今となっては余命すべてが断末魔の一瞬に沸騰しているように思えていた。特に、こうして手の中の獲物と目を合わせている時などは。
大蜥蜴は、爬虫類らしい無感動な愛嬌を目玉に残したまま絶命した。血を受けた鍋を手にさっさと別工程に移る調理係の旗司誓を尻目に、シゾーも地べたで解体作業に戻る。
大蜥蜴を仰向きにして、縛り上げていたロープを解き、尻尾を根元から切り落とす。手足の関節の軟骨に切れ込みを入れて挫き、四肢をもいだ。次いで、切開した頸部から丁字方向に刃物を滑らせ、肛門間際まで切り開く。見えてくる。まずは、見慣れた色。赤い……矛盾するような、鮮やかな、どす黒さ。
心臓。肺。腸。泌尿器。生殖器。あぶら。血。肉の管。赤裸々になったそれらを、股間の方向に向けて掻き出していき―――フックが仕込まれたナイフはこういう時に重宝する―――皿の上にすべて移して、肛門周囲を切断する。調理係の旗司誓はその皿を持ち上げると、ちょいちょいと四肢の先っぽも皿に放り込み、尻尾は大根のように地面から引きずり上げて持って行ってくれた。内臓は傷みやすいので、先に気を回してくれるのは助かる。尻尾の方は、スープを取るには大物すぎる気がしたが、無駄にはしなかろう。赤ん坊を丸呑みできそうなサイズの蜥蜴は、それなりに貴重だ。
となると、尻尾を落とすのは最後の方がよかったかもしれない。そうすれば、尾部まで一枚革を取ることが出来た。継ぎ目のない皮革は、より汎用性がある。大蜥蜴の頭を落とし、首から胴まで皮を剥いだところで思いついたとて、あとの祭りだが。
そうだ。気付いた時には、もう遅い。自分は今、我を忘れていた―――
「―――領、副頭領。副頭領?」
そこで、声を掛けられていたことに気付く。
シゾーは地面にへたり込んだまま、相手を仰ぎ見た。自分にとってはまだ馴染みの部類に入る、調理係の旗司誓のひとりである。年嵩の彼はシゾーの近くに立ちんぼして、控え目に労る眼差しでこちらを見おろしてきている。まあ眼差しについては、普段なら絶対にない視点から相手を見上げていたせいもあって、そう見えただけかも知れないが。
「さっさと手ぇ洗わにゃ、柄と手が血糊でくっついちまいますよ? ぼーっとして。大丈夫っすか?」
見えただけではなかったようだ。
目をやると、だらりとさがった腕の先に、ナイフをつかんだままの素の掌が繋がっている。シゾーは血を吸っていない砂を掴んで、そこへ揉み込んだ。何度も繰り返すうちに、あらかたの汚れは落ちてくれる。雹砂混じりのせいで、単に水洗いするより臭みも取れやすい。
それを見ながら、調理係がぼやく。
「疲れてるんですよ。ってぇか、疲れたんですよ。こんなデカブツ、ふんじばって生きたまま担いでくるから。おーい、こっちは終わったぞ」
呼集の声を受けて、調理場から数人がひょいと顔を出した。中でも若そうな青年が二人でやってきて、よっこらしょと掛け声で呼吸を合わせつつ、こんなデカブツを台所へと担いでいく。口輪にかけたロープを手に取り、生首を攫って行くのも忘れない。両者とも指やら足やらが半分ほどもないのに、上手いものだ。
シゾーが、血をこそげ落としたナイフ―――戦闘ではなく雑用に用いる私物だ―――を鞘に入れ、装備に戻すのを見て、調理係はじゃっかん目線を尖らせた。あとでちゃんと手入れするんでしょうね?
「なんなら持ってこさせます? 水」
彼の口から出てきた言葉は、やはり予想と違っていた。曖昧に首を振って、どこか気まずさを覚えながら、言い逃れる。
「……いえ……もう行きますから」
「裏まで辿り着くより先に、あんな暴れん坊の丸太を運んできた足腰にボロが出て、コケたりせにゃあいいのですが。いつもみたく現場で血抜きだけでもしてくりゃいいものを。一体全体、今回はどんな風の吹き回しで?」
「―――こないだ、戦闘があった時。潰した騎獣で、血込めの腸詰も作ったでしょう。それを食い逃したって、ぶーたれてるので。ザーニーイさんが」
嘘を吐くのは慣れたことだ。それも、慣れた嘘であるならば。笑う余裕さえある。
だからシゾーは、それを続けた。
「アンタはもっとイイとこ食べてんだから、ひと品くらい食い逃したってなんのこっちゃと思うんですけどね。食い物の恨みに引きずられて、これ以上デスクワークが滞ると、副頭領としては頭が痛いので。尻を蹴っとばすより、餌で釣ろうかと」
「あーあ。道理で。頭領、また食堂まで降りて来なくなったと思ったら」
「そう。ある意味恒例の、執務室に缶詰めの刑」
嘆息して、立ち上がる。
そうすると、いつもの風景を取り戻した視界に、いつものように調理係がいるだけだ。砂をはたいて、座っての作業に邪魔だった諸々を定位置に戻しながら、苦笑する。
「と、言う訳で。悪いんですけど、あれは血込めの腸詰にしてあげてください。眠気覚ましにスパイス倍ドンで。徹夜に発破かけてもらわないと」
「任せといてください。出前、要ります?」
「いえ。ごはんどきに取りに伺います。今のザーニーイさんに、ドアノブに触らせる逃げ口上を与えるわけにはいかない」
「上げ膳据え膳たぁ、痛み入る奉公っぷりですな」
「仕事です。くれぐれも滅私奉公だとは思わないように」
「ラジャーっす」
おどけるように、二本指でこめかみを擦る簡易敬礼を送ってくれる。
と、
「でも。正直ありがたいっすよ―――副頭領が時々、ここで、こうしてくれて」
いやに神妙になった口調に違和感を覚えて、シゾーはつと、調理係に目角をくれた。相手は去ろうとする出鼻を挫いてしまった詫びか、いやいやと片手を振ってみせたが―――それでも、気鬱をこぼして楽になる魅惑には勝てなかったようだ。ぽろりとこぼした。
「俺らは、なんてぇか、その……ここにいるしか、ないもんで」
本音だ。直感に抗えず、その場に棒立ちしてしまう。
調理係が、こちらに振ってみせた手。その手には薬指と小指がない。
「別に、給食仕事が嫌だとか、劣ってるったあ思わないです。けど、敵の目に切っ先を向けるのと、蒸かし芋の芽に爪楊枝を向けるのが、同じだって思えるほど図々しくもなれなくて。俺らは、だから……副頭領みてぇな人と、肩を並べてられる時間は、ありがたいんすわ」
「それは、」
偶然だ。
どれだって、今に始まったことではない。狩猟を始めた頃は、単なる自給自足の一部で、自分にあてがわれた仕事だった。あの頃の<彼に凝立する聖杯>は副頭領という肩書すらない寄せ集めで、後年に自分がそんな組織の役職を担うとは露とも思っていなかった。副頭領になってみれば、退屈しのぎや憂さ晴らしにできる手頃な手段が限られていた。それだけだ。調理係の古傷とて、そうだ……と思う。少なくとも、シゾーとは何の因果もない。
それでも今この時、彼を見ているのは、他ならぬ自分だった。シゾーは、彼を知っている。欠けた手指についてだけではない―――左足の親指から足の甲半分が抉れているせいで、重いものを持ち運ぶのが不得手な彼は、だからこそこうして調理場とシゾーの間に立った。ここがいいと、選んで。敬礼もそうだ。彼の意思で、こちらに向けられた。
「―――よかった、のなら、そうだといいと……思います」
食い下がるように、シゾーははぐらかそうとした。無意味であろうとも、そうしようと。
出来なかった以上、それよりも意味のある世辞に反射的に飛びつくしかなくとも。
「騎獣の件についても、協力ありがとうございました」
口にしながら、ほぞを噛む。この感謝そのものは、的外れではない……だが、そうすることで、相手の間合いから遠のくために利用したのだ。出汁に出来ると踏んで。
それでも、それを続けるしかない。どうすることも出来なかった。
「あの時は勘に任せただけでしたけど、頼んでおいて本当に良かったと思います」
「いや。俺らは、こんなことばっかやってるもんで……どうしても目に付いちまうだけで……」
「それがプロです。練達していることは、わざわざ誇らずとも、謙遜することはありません」
会話が途切れる。
他に言うこともないシゾーとは違い、調理係は言葉を失くしていたようだった。恐縮してか……感極まってか。堪能するように。
シゾーは、会釈した。
「では、僕はこれで」
「ありがとうございました。……あの、」
その逡巡は、とても短い。出し渋られてのことでも―――ない。
「また、いらしてください。いつでも」
「―――ええ。取り敢えずは、今日のごはんどきに」
深々と下げられた頭を背後に、歩き出す。
背中へ担ぎ直した斬騎剣が、いやに重い。理由は分かっていた。そこに結わえられた青い羽根の装飾は、今更あえて見るまでもない……そう思うのが、自分だけであるということ。そして、それについて感情が先行しなくなり、考える時間が増えた、今。今更であっても、辟易しても、放逐せず、ひとつひとつ、それらを承服する。
「……―――らしくないな。こんなのは。まるで……」
今に始まったことではなくとも。今にして、それを思う。
シゾーは顔を上げた。歩くまま、建物を顧る。
ここは飲食物の下ごしらえを行う棟で、食糧庫ならびに火を扱う台所とも繋がった、調理用の個建だった。ここでこしらえた料理が食堂に運ばれることになるのだが、間食くらいなら直接ここからつまんでいく連中もいる。ただ、先日の戦闘の直後からしばらくは、さすがに潰した動物の臭気が祟ったらしく、寄り付く者はいなかったようだ。だからこそ自分がいつも以上に顔を出したのが歓迎されたのかもしれない。
(……騎獣の件があった成り行きとは言え、俺も考えなしだったな。調理場の連中に肩入れしてるつもりもなかったにせよ、副頭領としてどう振る舞えば得策なのか……)
個性が集まれば、なにかしらにつけ優劣はつく。年齢、容姿、階級、知性、胆力、人徳、男根の見栄えおよび使用の頻度と練度、武勇伝の所有数や華々しさ。どの物差しがあてがわれるかは時流に因るが、<彼に凝立する聖杯>においてメンテナンスの役回りに回る者―――調理や掃除洗濯等の家事・建物や武器や水源の整備や保全・事務や経理等―――は、それとなく下に見られることが多い。脚光を浴びづらい裏方だからだろう。とは言え、彼らの多くは身障者であるので、どうしたところで五体満足な者より直接的なアタッカーには向かない。目や耳が潰れれば死角が増える。手足の指が欠ければ踏ん張りがきかなくなるので、走るフォームが崩れてトップ・スピードを出せなくなるし、刺突や斬撃に致命傷をたたき出すだけの威力を成せない。指に細工をして射手に転向する者や義賊に異動する者もいないではないが、なまじ過去の栄光に縋るでなく、鉛筆や小刀や雑巾に持ち替えて忍耐強く無傷の脳をフル活用してくれた方が果報なのが正直なところだ。組織も大きくなれば余り物の人材まで傘下に紛れ込むことになるのはしょうがないにせよ、福利厚生で義賊を設けているわけではないし、付け焼き刃な射手ばかり馬鹿のひとつ覚えで増えられても困る。依頼主の物騒事を肩代わりすることで支払われる身銭より、交差交易のポイントとして仲立ちすることによって得られる利潤の方が安定している上、黒字として展望があるのも事実だ……こんなことを知れば、短絡的な腕白坊主から順繰りに気炎を吐くだろうから、敢えて<彼に凝立する聖杯>の帳簿を開示したこともないが。
なんとはなしに、シゾーはその場で聞き入った。遠く……近く、砂がこすれる音をかき混ぜるように、緩急慌ただしい足音と、強弱入り乱れた笑い声と、取るに足らないいざこざが溶け合って、あわい旨味のような空気を醸している―――人々の陽気が発酵した、かぐわしさと温みだ。キャラバンを率いた一般人であれ、立ち寄り、行き交う魅力のあるフィールドとして、秩序に基づいた平穏と統制が行き届き、かつ守られている。月並みだと思うだろうか? 水があり、飢えず、清潔で、字の読み書きと計算の正しさに価値があり、親切な行いに二心を疑わずに済む、温和な治安……
それらは確かに、脚光ではなかろう―――陽光だ。日向に恵まれ、豊かさが育まれる土壌。本来ならば、悔踏区域外輪には自然発生することのない、人工的かつ稀有なシステム。
(そうか……―――そうだな。らしくなくなるってことだ。こんなのは)
シゾーは、ぽつりと独りごちた。ジンジルデッデを思い出していた。
「ここは平和だな」
そう思う。しみじみと……そう思ったのだ。
(食って飲まにゃあ心がすさみ・寝心地悪けりゃ身がすさむ、出してほっときゃ空気がすさみ・居心地悪けりゃ家すさむ―――って、よくジンジルデッデも歌ってたっけ。こっぴどく叱っては歌うんだよな。あいつときたら)
歩きながら、なんとはなしに旋律を口ずさんで―――
「なんともまあ、えらく所帯じみた都々逸ですな」
物陰に、彼はいた。
「ゾラージャ五席」
思わず呼ぶが。彼―――ゾラージャ部隊長第五席主席は、壁に凭れるようにして陣取るのが癖のようで、その姿勢のままシゾーへと簡易敬礼を向けてくる。薄茶の頭に派手な傷跡を咲かした、にしてはさほど野卑な気配のない、三十路がかりの猪首男。
「ども。背の二十重ある祝福に。副頭領」
「ああ。背の……二十重ある祝福に。こちらこそ」
紋切型に返してから、不審に思う。
まるで出合い頭に交わしただけのような口ぶりだが、そんな筈もなかった。調理棟から近い、要塞の裏手に当たるこの砂地は、手水設備がひとつあるだけの殺風景な屠殺場である。さっきは血をこぼさないために調理場近くで大蜥蜴をばらしたが、<彼に凝立する聖杯>の敷地内で血抜きを行う場合は、可能な限りこの区画で行う取り決めとなっている。当たり前だが、あちこちで好き勝手に血みどろにされては、風紀上も衛生上もたまったものではないからだ。
となるとゾラージャは、シゾーがここに来るのを待っていたということになる。どこから物見高く見ていたのか知らないが、解体を終えたシゾーが手を洗いに来るのを見越して、ここにいたのだ。まがいなりにも医術を学んだ者、なおかつ副頭領の立場の者が、そうしないことはなかろうと踏んで。
怪訝ではあるものの、煙たがって邪険にする証拠としては薄いし、毛嫌いする筋合いの相手でもない。手ぐすね引いて待っていたという体でもなさそうだったので、とりあえず牽制するでもなく与太話を続けてみる。
「色恋モノの方が似合いますか?」
「そいつァ勘弁だ。またウチに居着かなくなる。副頭領のロン毛は金輪際見たかねぇや」
「見たことないでしょう。あんた」
「思い浮かべただけで似合いそうだから、実際に目にしたかねぇんですよ。あんたら義理の親子のくせして、女顔どころか髪の丈までペアルックすか」
「義理の親については余計です」
「おっと、口が滑ったか。クワバラくわばら。そうカリカリせんでくださいよ。おっかねえ」
鼻に皺が寄るが、あくまで相手に邪気がないのでは噛みつく気も失せる。両手をひらつかせて降参してみせるゾラージャを睨みやるものの、長続きはしなかった。ため息でいらつきを吹き払って、手水設備へと進む。
設備といっても、大それたものではない。せいぜい、掘っ立て小屋から突き出した屋根の下に、風呂桶になりそうな大きさの水瓶が置かれているだけだ。掃除道具などが入っている小屋には用がないので、シゾーは水瓶に引っ掛けられていた杓子で、瓶から水を汲んだ。この水とて沸かしたものではないので、飲用には向かない。温度も冷えていた―――凍らせる冷たさではなく、肌の温もりを吸い込む無情な虚ろさ。位置的にどうしても陰が籠りがちで、常夜の夜気と夜露が抜けないこともあるが、なによりここは人の都合で生殺与奪を繰り返す場所である。重苦しさは、死の気配が吹き溜まったがゆえの内圧の高さであり、しんとした静寂も、清浄な静謐のように高貴なものではなく、忌まれたなりの孤独だった。ここには自分たちしかいない。
手を流しながら、話しかける。
「僕がここにいるのがよく分かりましたね」
「俺も好きなもんで。ここらへん」
「物好きな」
「俺は酒よりメシが好きでね。次は何が食えるんだかって、想像するだけでマッチョが三割増しになるんすよ」
「ぜひとも部下へ方法のレクチャーを。健康的で反作用も副作用も無さそうな素晴らしいドーピングです」
「はは。そりゃもう、ご下命とあらば」
そのあたりで、手を洗い終えた。
シゾーが杓子を戻してゾラージャに向き直ると、彼もまた背中で壁を蹴って直立する。本腰を入れたという見せつけだろう。壁の露で湿った背中を掻いて、間延びしていた声はそのままに、言ってくる。
「部下といや、エニイージーなんすけど―――あと、例の嬢ちゃん」
聞かざるを得ない。
ついに後継第二階梯の護衛任務について稟請が成されたのかという懸念が頭をよぎるが、顔に出ていたようだ。ゾラージャが、すげなく否定してくる。
「まあ、エニイージーは今のとこ泣きついて来ちゃいねぇから、嬢ちゃんの護衛任務そのものにゃあ心配はしとりません。それについちゃあ取り越し苦労ですわ」
「そうですか」
「むしろ、そのことが憂慮される」
黙っていると、ゾラージャが念押ししてきた。
「好ましかァない事態ですな」
「…………」
が、把握の的確さはそこまでのようだった。ゾラージャは、もっともらしく顔つきだけは愁眉を寄せて、腕組みした手の片方でとんとんと己の肘を突いている。まるで解答に窮した学童が、ペン先で机をつつくように。もったいつけるでもなく、純粋にたどり着かない千鳥足の靴音のように、言葉もまたもたもたと紡がれていく。
「嬢ちゃんが、キティ・ボーイなんてあだ名で呼ばれるようになってきたこと……知ってますかい? 副頭領」
「初耳です」
「エニイージーもね、気にして立ち回っちゃくれとるんですが。あいつ自身あの通りド直線の真正直な性分しとるもんですから。方便ならなんとか嘘は吐けても、建前となると身につかんようで」
「つまり?」
「嘘は、建前があって矛盾するからこそ、大なり小なり持ちつ持たれつで成立するのが道理でしょう。あんにゃろう、お前のためだっつう面構えをすることに自分自身が納得できとらんから、役にのめり込めんようで」
「……つっけんどんにお姫様扱いして蚊帳の外へ出せない、と?」
「まずもって、あの嬢ちゃんからしてツッケンドンなオヒメサマじゃないでしょうよ。蚊帳の外から、そっち楽しそうだから入れてよ入れてよーときたもんだ。俺もウチの連中も、初めて会った時は顎外れっかと思った」
何を思い出したのか、ゾラージャは肩を落として明らかな困り顔を作った。副頭領から同情を買おうとしたにしては、目の方向があらぬ遠くを向いている。その頃には、それは回りくどい近況報告でなく、悩ましい気さくな独り言に転じていた。
「口まわしやアクセントだって、<風青烏>の連中の方が鼻につくくれぇだ。あの嬢ちゃん、本当に、ただの子どもだものなぁ―――……俺らも元々、よそよそしくするのにゃ慣れてねぇですし。また、ぱっと笑うんだよ、あの子。喋っても、動いても、なんかする度に。あれを見ちまうとなぁ。冷たくできねぇんすよ。ホントに数えで十五かって思うくらい、歪んだとこもねぇですし」
「僕としては癪に障る一方ですが」
「はハ」
一蹴したシゾーに、から笑いするしかなくなったらしい。ゾラージャがまたしても頭の両側に諸手を上げつつ―――今度は降参というよりも厄払いの身のこなしに見えたが―――、ひるんだ様子で、ぎこちない破顔を固める。
「でしたら、副頭領が嬢ちゃんの護衛に付きますかい?」
「……ああ―――そうですね」
そこに来て、気付いた。
シゾーは、声を沈めた。低く―――意図的に。
「話し向きによっては」
「話? へえ。そいつは、どこのやっこさんと?」
「差し当たっては、―――」
一拍。
腹を決める。シゾーは目線をゾラージャから、彼の肩越しに奥へと伸ばした。
「僕の、義父さんと」
まるで当然のように、フラゾアインはそこにいた。
シゾーの変化を察知して振り返ったゾラージャが、慌てふためいて上半身だけ後ずさりさせたが、それを気の毒だとは思わない。早く慣れろと諦めるだけだ―――練成魔士にも、体形さえ合う服ならば何を着たところで気に留めない破滅的なセンスにも、つまりはゼラ・イェスカザという存在そのものに。
横槍されておいて気を害するでもなく、そそくさと退散するゾラージャと入れ違いに、ゼラがこちらへ歩いてきた。途中から、ほどいたターバンを片手に纏めつつ、もう片手で遠出用の外套の襟を緩めている。ものが小児向けの古着なので、まるきり暑がりの子どもが癇癪を起こして脱ぎ捨てているような有り様だが、本人が無頓着な限りはどうしようもない。
敢えて近寄る気も起らず―――まさか義親子水入らずで抱擁と団欒を満喫させてやらんがためにゾラージャが席を外した訳もあるまい―――、目前で立ち止まるのを待つ。
そこに来て、ふとゼラが口を開いた。
「お疲れ様のようで」
「お互い様のようで」
言われたことに、嫌味を返したつもりはなかったが。
それでも何らかの予兆は感じ取ったのか、不機嫌以外の元凶に根差して、事務的に眉根を寄せた。養父の勘に応えるように、口火を切る。
「あいつが前代未聞の発作を起こした」
ゼラが硬直した。その顔に、はっきりと不吉な影が横切る。疲弊し落ちくぼんだ目元と唇の皺に、陰影がつきやすかっただけのことだろうが。
それでも早めに不吉には蹴りをつけたい。口早にシゾーは、後を継いだ。
「俺が打てる手は根こそぎ打った。もう山は越えた。そろそろ出れるだろうと、俺は診てる。猶予があるなら、まだ二日欲しい」
「二日も?」
「それだけ今回は異常だった。二日はあいつの回復だけじゃなくて、容体の判断猶予も兼ねてる」
「分かりました。わたしもこれから診ましょう」
「深刻なのはそこじゃない」
きびすを返しかけたゼラの横顔が、険しさを刺されたせいで、はっきりと余裕をなくしてシゾーを振り返る。それを見返す己の心象は、奇妙なほど凪いでいた。これもまた、不吉の予兆かも分からないが―――嵐の前の静けさのような。
(いや。違うかな)
この無心は、大蜥蜴を解体した時のそれによく似ている。取り返しがつかないと分かっていて、封を破るということ。
告げる―――
「発作を解決するために、キルル・ア・ルーゼの手を借りた」
肝を潰されたゼラの豹変を待たず、シゾーは畳みかけた。
「言っただろ。俺が打てる手は根こそぎ打ったんだ。手の借り賃は―――」
瞬間。
ずだん! という激しい音を理解したのが、真っ先だった。
衝撃は遅れてやってきた。そして痛み。やがて息苦しさ。何の魔法か、あるいは抜きん出た体術か―――とにかく背中から仰向けに転がされたシゾーは、なすすべもなくゼラに襟首を掴まれていた。関節を極められるようなこともなく、単に胸倉を靴底で踏みつけられているだけだが、大の字のまま動けない。動く燃料になるような衝動も湧いてこない……少なくとも、今のゼラに太刀打ちできそうな呵責などは。
こんな間近から目線で射すくめられるのは、いつぞやに頭突きを食らって以来のことかもしれない。黒瞳を溶かしそうな憤りの幾らかは自噴なのかも知れないが、吹き上がる矛先はまず間違いなくシゾーに向けられていた。襟首どころか、心臓を毟りたいのが本望だろう。軋る歯列の奥で、押し殺した怒声がしわがれている。
「打てる手だと―――それが打てる手だったと?」
「そうだ」
「軽率な浅知恵だ」
「そうだ」
「自棄に知恵を絞った挙句が、無謀か! 軽挙が……打てた―――手か!」
「そうだ」
「笑わせてくれる。わたしとしては、捨て鉢に博打を打ったとしか思えない」
「……そうなら、どれだけ良かったか」
「どういう意味だ」
「神様と違って、イカサマ出来りゃ勝ち目あるだろ。文句あるか?」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、睨み上げる。
なんなら激昂してくれたゼラから、もう一発二発喰らわせられても構いはしない。そのまま殺されるとしたらどうなるだろう? 思い出したのは、ついさっきの大蜥蜴の死相だった。自分も組み伏せて殺した相手がいる。都合の良いことに、ここは屠殺場だ。フックのついたナイフもある。血を抜かれてはらわたを削がれ、毛も皮もひん剥かれて燻製室にでも吊るされれば、三日三晩で干し肉になれる。これ以上の正義はない。平等で公平だ。食われて尻からひり出されてしまえ、糞が。
(なんで俺はこうなんだろうなア?)
嗤えてきた。そんな時だった。
「―――……君は万全を尽くし、頭領は山を越え、なおかつ死んでいない。誰も……死んでいない」
抑揚のないゼラの声が、開かない口唇から漏れ出す。亡霊にでも尋ねられた心地がしたが、シゾーは首肯した。首筋を締め上げられながらこなすにはなかなか至難なことだったが、どうにかやり遂げた。
途端に、拘束が失せる。機械的に五指を引き剥がし終えて、ゼラが身を起こした。そこいらに投げ捨てていた服とターバンを拾って、こちらに投げてくる。ばさばさと落ちた拍子に、からんでいた砂が降り―――焦土と入れ替えたばかりらしい軽い砂だった―――、シゾーは立て続けにくしゃみする羽目になった。自分の代わりに持てということだろうが、砂まみれになった汚れ物同士まとまっていろという遠回しな嫌がらせの意味だとも勘繰れた。いや。
手ひどく一本取られて、卑屈になってるだけだ。ゼラの声色は、悪びれたところもなく、真摯で真剣だった。
「借り賃で済むものか。負け金の取り立ては、これからやってくる。肝に銘じておきましょう。全員で」
「はい。義父さん」
直後。
「わたしはね。息子よ。怒ってはいない」
「…………」
薄気味悪さのあまり―――ひっくり返ったまま―――沈黙するのだが、説教は終わらなかった。平坦に、読み上げられてくる。
「ただ、行ったことは、返ってくるということを、君よりも知っている。自分ではなく、他人にまで降りかかる―――おしなべて、もっと悪い風にして。だから……取り立てがあるということを、全員で肝に銘じておかねばならない」
「まるで連帯保証人だけにはなるなって教訓にも聞こえますね。それだけなら」
「覚えていてくれるならそれでもいい。もう行きましょう。言い慣れないことにつき合わせました」
「…………はい。義父さん」
遅れてシゾーも、みすぼらしく立ち上がる。斬騎剣に打ち付けてしまった背が痛むが、むき出しのグラウンドではなかったせいか、痛手になって残るほどではないようだった。プライド以外は。
(くだらない。開く傷口でもあればよかったのか?)
矢先。
思いついたように、ゼラが口を衝いてくる―――やはり真面目に、更には真顔で。
「まさか、博打したさに、こんな手を打ったのではありませんでしょうね?」
今度こそ、シゾーは嗤ってしまった。博打だと?
「そんなもん、シゾー・イェスカザと契約した時から懲りてるさ」
「孝行息子ですねえ。究極の親不孝なことに」
「…………」
切り返されたのは予想外だった。しかも、とびきりの当てつけだ。
さすがに黙り込むのだが、ゼラは許してはくれなかった。即座に告げてくる。
「とにかくまずは、頭領のところへ。様子を診なければ。事態を整理し、共有しなければね……わたしとしても、あの子にすぐにでも報告したいことがあります」
「ああ―――お揃いですね。義父さん。嫌なことに」
「お揃い?」
「嫌なことに」
繰り返す。当てつけへの意趣返しにもならないが。
身体をはたいて砂を落とし、髪をかき上げる。これだって砂を落としたかっただけなのに、否応なく左耳のリングピアスは揺れることになった。いつだって揺れていたのは確かだ……ただ、今は、やりこめられたような間の悪さを覚えていた。思えば、ペアルックかとからかわれたことさえ間が悪い―――こんな今を予言してでは、絶対に無かろうとも、だ。間が悪い。それとも、
(こんな程度で当たってくれるくらいが、ちょうどいいものなのかも知れない)
引き金を引く。当たり外れも関係なく、損得も数えず、因果もなく、引き金を引く。なのに、当たるか外れるかで損得が分かれ、因果が生ずる。だとしても―――引き金は引かれる。どこかにあり、誰かが―――引く。必ず。どこにでもあり、自分であれ―――どの時にも―――引いたのだから。
(そうだ。シゾー・イェスカザに予言されるなら、この程度の不運でいい)
彼がシゾー・イェスカザとして予言されたあの瞬間から、こうして世界がこのように構築された。のであれば。
こうして皮肉ることすら、この世界を崩壊させるトリガーかも分からないなら。この程度で充分だ。
シゾーはせめてもの意地を込めて、にやりと口の端をつり上げた。はったりだったが、これで泣き言を終いにする。
「だって僕もザーニーイさんに報告がありますし、どうせ義父さんの方だって悪い知らせなんでしょう?」
大蜥蜴は、爬虫類らしい無感動な愛嬌を目玉に残したまま絶命した。血を受けた鍋を手にさっさと別工程に移る調理係の旗司誓を尻目に、シゾーも地べたで解体作業に戻る。
大蜥蜴を仰向きにして、縛り上げていたロープを解き、尻尾を根元から切り落とす。手足の関節の軟骨に切れ込みを入れて挫き、四肢をもいだ。次いで、切開した頸部から丁字方向に刃物を滑らせ、肛門間際まで切り開く。見えてくる。まずは、見慣れた色。赤い……矛盾するような、鮮やかな、どす黒さ。
心臓。肺。腸。泌尿器。生殖器。あぶら。血。肉の管。赤裸々になったそれらを、股間の方向に向けて掻き出していき―――フックが仕込まれたナイフはこういう時に重宝する―――皿の上にすべて移して、肛門周囲を切断する。調理係の旗司誓はその皿を持ち上げると、ちょいちょいと四肢の先っぽも皿に放り込み、尻尾は大根のように地面から引きずり上げて持って行ってくれた。内臓は傷みやすいので、先に気を回してくれるのは助かる。尻尾の方は、スープを取るには大物すぎる気がしたが、無駄にはしなかろう。赤ん坊を丸呑みできそうなサイズの蜥蜴は、それなりに貴重だ。
となると、尻尾を落とすのは最後の方がよかったかもしれない。そうすれば、尾部まで一枚革を取ることが出来た。継ぎ目のない皮革は、より汎用性がある。大蜥蜴の頭を落とし、首から胴まで皮を剥いだところで思いついたとて、あとの祭りだが。
そうだ。気付いた時には、もう遅い。自分は今、我を忘れていた―――
「―――領、副頭領。副頭領?」
そこで、声を掛けられていたことに気付く。
シゾーは地面にへたり込んだまま、相手を仰ぎ見た。自分にとってはまだ馴染みの部類に入る、調理係の旗司誓のひとりである。年嵩の彼はシゾーの近くに立ちんぼして、控え目に労る眼差しでこちらを見おろしてきている。まあ眼差しについては、普段なら絶対にない視点から相手を見上げていたせいもあって、そう見えただけかも知れないが。
「さっさと手ぇ洗わにゃ、柄と手が血糊でくっついちまいますよ? ぼーっとして。大丈夫っすか?」
見えただけではなかったようだ。
目をやると、だらりとさがった腕の先に、ナイフをつかんだままの素の掌が繋がっている。シゾーは血を吸っていない砂を掴んで、そこへ揉み込んだ。何度も繰り返すうちに、あらかたの汚れは落ちてくれる。雹砂混じりのせいで、単に水洗いするより臭みも取れやすい。
それを見ながら、調理係がぼやく。
「疲れてるんですよ。ってぇか、疲れたんですよ。こんなデカブツ、ふんじばって生きたまま担いでくるから。おーい、こっちは終わったぞ」
呼集の声を受けて、調理場から数人がひょいと顔を出した。中でも若そうな青年が二人でやってきて、よっこらしょと掛け声で呼吸を合わせつつ、こんなデカブツを台所へと担いでいく。口輪にかけたロープを手に取り、生首を攫って行くのも忘れない。両者とも指やら足やらが半分ほどもないのに、上手いものだ。
シゾーが、血をこそげ落としたナイフ―――戦闘ではなく雑用に用いる私物だ―――を鞘に入れ、装備に戻すのを見て、調理係はじゃっかん目線を尖らせた。あとでちゃんと手入れするんでしょうね?
「なんなら持ってこさせます? 水」
彼の口から出てきた言葉は、やはり予想と違っていた。曖昧に首を振って、どこか気まずさを覚えながら、言い逃れる。
「……いえ……もう行きますから」
「裏まで辿り着くより先に、あんな暴れん坊の丸太を運んできた足腰にボロが出て、コケたりせにゃあいいのですが。いつもみたく現場で血抜きだけでもしてくりゃいいものを。一体全体、今回はどんな風の吹き回しで?」
「―――こないだ、戦闘があった時。潰した騎獣で、血込めの腸詰も作ったでしょう。それを食い逃したって、ぶーたれてるので。ザーニーイさんが」
嘘を吐くのは慣れたことだ。それも、慣れた嘘であるならば。笑う余裕さえある。
だからシゾーは、それを続けた。
「アンタはもっとイイとこ食べてんだから、ひと品くらい食い逃したってなんのこっちゃと思うんですけどね。食い物の恨みに引きずられて、これ以上デスクワークが滞ると、副頭領としては頭が痛いので。尻を蹴っとばすより、餌で釣ろうかと」
「あーあ。道理で。頭領、また食堂まで降りて来なくなったと思ったら」
「そう。ある意味恒例の、執務室に缶詰めの刑」
嘆息して、立ち上がる。
そうすると、いつもの風景を取り戻した視界に、いつものように調理係がいるだけだ。砂をはたいて、座っての作業に邪魔だった諸々を定位置に戻しながら、苦笑する。
「と、言う訳で。悪いんですけど、あれは血込めの腸詰にしてあげてください。眠気覚ましにスパイス倍ドンで。徹夜に発破かけてもらわないと」
「任せといてください。出前、要ります?」
「いえ。ごはんどきに取りに伺います。今のザーニーイさんに、ドアノブに触らせる逃げ口上を与えるわけにはいかない」
「上げ膳据え膳たぁ、痛み入る奉公っぷりですな」
「仕事です。くれぐれも滅私奉公だとは思わないように」
「ラジャーっす」
おどけるように、二本指でこめかみを擦る簡易敬礼を送ってくれる。
と、
「でも。正直ありがたいっすよ―――副頭領が時々、ここで、こうしてくれて」
いやに神妙になった口調に違和感を覚えて、シゾーはつと、調理係に目角をくれた。相手は去ろうとする出鼻を挫いてしまった詫びか、いやいやと片手を振ってみせたが―――それでも、気鬱をこぼして楽になる魅惑には勝てなかったようだ。ぽろりとこぼした。
「俺らは、なんてぇか、その……ここにいるしか、ないもんで」
本音だ。直感に抗えず、その場に棒立ちしてしまう。
調理係が、こちらに振ってみせた手。その手には薬指と小指がない。
「別に、給食仕事が嫌だとか、劣ってるったあ思わないです。けど、敵の目に切っ先を向けるのと、蒸かし芋の芽に爪楊枝を向けるのが、同じだって思えるほど図々しくもなれなくて。俺らは、だから……副頭領みてぇな人と、肩を並べてられる時間は、ありがたいんすわ」
「それは、」
偶然だ。
どれだって、今に始まったことではない。狩猟を始めた頃は、単なる自給自足の一部で、自分にあてがわれた仕事だった。あの頃の<彼に凝立する聖杯>は副頭領という肩書すらない寄せ集めで、後年に自分がそんな組織の役職を担うとは露とも思っていなかった。副頭領になってみれば、退屈しのぎや憂さ晴らしにできる手頃な手段が限られていた。それだけだ。調理係の古傷とて、そうだ……と思う。少なくとも、シゾーとは何の因果もない。
それでも今この時、彼を見ているのは、他ならぬ自分だった。シゾーは、彼を知っている。欠けた手指についてだけではない―――左足の親指から足の甲半分が抉れているせいで、重いものを持ち運ぶのが不得手な彼は、だからこそこうして調理場とシゾーの間に立った。ここがいいと、選んで。敬礼もそうだ。彼の意思で、こちらに向けられた。
「―――よかった、のなら、そうだといいと……思います」
食い下がるように、シゾーははぐらかそうとした。無意味であろうとも、そうしようと。
出来なかった以上、それよりも意味のある世辞に反射的に飛びつくしかなくとも。
「騎獣の件についても、協力ありがとうございました」
口にしながら、ほぞを噛む。この感謝そのものは、的外れではない……だが、そうすることで、相手の間合いから遠のくために利用したのだ。出汁に出来ると踏んで。
それでも、それを続けるしかない。どうすることも出来なかった。
「あの時は勘に任せただけでしたけど、頼んでおいて本当に良かったと思います」
「いや。俺らは、こんなことばっかやってるもんで……どうしても目に付いちまうだけで……」
「それがプロです。練達していることは、わざわざ誇らずとも、謙遜することはありません」
会話が途切れる。
他に言うこともないシゾーとは違い、調理係は言葉を失くしていたようだった。恐縮してか……感極まってか。堪能するように。
シゾーは、会釈した。
「では、僕はこれで」
「ありがとうございました。……あの、」
その逡巡は、とても短い。出し渋られてのことでも―――ない。
「また、いらしてください。いつでも」
「―――ええ。取り敢えずは、今日のごはんどきに」
深々と下げられた頭を背後に、歩き出す。
背中へ担ぎ直した斬騎剣が、いやに重い。理由は分かっていた。そこに結わえられた青い羽根の装飾は、今更あえて見るまでもない……そう思うのが、自分だけであるということ。そして、それについて感情が先行しなくなり、考える時間が増えた、今。今更であっても、辟易しても、放逐せず、ひとつひとつ、それらを承服する。
「……―――らしくないな。こんなのは。まるで……」
今に始まったことではなくとも。今にして、それを思う。
シゾーは顔を上げた。歩くまま、建物を顧る。
ここは飲食物の下ごしらえを行う棟で、食糧庫ならびに火を扱う台所とも繋がった、調理用の個建だった。ここでこしらえた料理が食堂に運ばれることになるのだが、間食くらいなら直接ここからつまんでいく連中もいる。ただ、先日の戦闘の直後からしばらくは、さすがに潰した動物の臭気が祟ったらしく、寄り付く者はいなかったようだ。だからこそ自分がいつも以上に顔を出したのが歓迎されたのかもしれない。
(……騎獣の件があった成り行きとは言え、俺も考えなしだったな。調理場の連中に肩入れしてるつもりもなかったにせよ、副頭領としてどう振る舞えば得策なのか……)
個性が集まれば、なにかしらにつけ優劣はつく。年齢、容姿、階級、知性、胆力、人徳、男根の見栄えおよび使用の頻度と練度、武勇伝の所有数や華々しさ。どの物差しがあてがわれるかは時流に因るが、<彼に凝立する聖杯>においてメンテナンスの役回りに回る者―――調理や掃除洗濯等の家事・建物や武器や水源の整備や保全・事務や経理等―――は、それとなく下に見られることが多い。脚光を浴びづらい裏方だからだろう。とは言え、彼らの多くは身障者であるので、どうしたところで五体満足な者より直接的なアタッカーには向かない。目や耳が潰れれば死角が増える。手足の指が欠ければ踏ん張りがきかなくなるので、走るフォームが崩れてトップ・スピードを出せなくなるし、刺突や斬撃に致命傷をたたき出すだけの威力を成せない。指に細工をして射手に転向する者や義賊に異動する者もいないではないが、なまじ過去の栄光に縋るでなく、鉛筆や小刀や雑巾に持ち替えて忍耐強く無傷の脳をフル活用してくれた方が果報なのが正直なところだ。組織も大きくなれば余り物の人材まで傘下に紛れ込むことになるのはしょうがないにせよ、福利厚生で義賊を設けているわけではないし、付け焼き刃な射手ばかり馬鹿のひとつ覚えで増えられても困る。依頼主の物騒事を肩代わりすることで支払われる身銭より、交差交易のポイントとして仲立ちすることによって得られる利潤の方が安定している上、黒字として展望があるのも事実だ……こんなことを知れば、短絡的な腕白坊主から順繰りに気炎を吐くだろうから、敢えて<彼に凝立する聖杯>の帳簿を開示したこともないが。
なんとはなしに、シゾーはその場で聞き入った。遠く……近く、砂がこすれる音をかき混ぜるように、緩急慌ただしい足音と、強弱入り乱れた笑い声と、取るに足らないいざこざが溶け合って、あわい旨味のような空気を醸している―――人々の陽気が発酵した、かぐわしさと温みだ。キャラバンを率いた一般人であれ、立ち寄り、行き交う魅力のあるフィールドとして、秩序に基づいた平穏と統制が行き届き、かつ守られている。月並みだと思うだろうか? 水があり、飢えず、清潔で、字の読み書きと計算の正しさに価値があり、親切な行いに二心を疑わずに済む、温和な治安……
それらは確かに、脚光ではなかろう―――陽光だ。日向に恵まれ、豊かさが育まれる土壌。本来ならば、悔踏区域外輪には自然発生することのない、人工的かつ稀有なシステム。
(そうか……―――そうだな。らしくなくなるってことだ。こんなのは)
シゾーは、ぽつりと独りごちた。ジンジルデッデを思い出していた。
「ここは平和だな」
そう思う。しみじみと……そう思ったのだ。
(食って飲まにゃあ心がすさみ・寝心地悪けりゃ身がすさむ、出してほっときゃ空気がすさみ・居心地悪けりゃ家すさむ―――って、よくジンジルデッデも歌ってたっけ。こっぴどく叱っては歌うんだよな。あいつときたら)
歩きながら、なんとはなしに旋律を口ずさんで―――
「なんともまあ、えらく所帯じみた都々逸ですな」
物陰に、彼はいた。
「ゾラージャ五席」
思わず呼ぶが。彼―――ゾラージャ部隊長第五席主席は、壁に凭れるようにして陣取るのが癖のようで、その姿勢のままシゾーへと簡易敬礼を向けてくる。薄茶の頭に派手な傷跡を咲かした、にしてはさほど野卑な気配のない、三十路がかりの猪首男。
「ども。背の二十重ある祝福に。副頭領」
「ああ。背の……二十重ある祝福に。こちらこそ」
紋切型に返してから、不審に思う。
まるで出合い頭に交わしただけのような口ぶりだが、そんな筈もなかった。調理棟から近い、要塞の裏手に当たるこの砂地は、手水設備がひとつあるだけの殺風景な屠殺場である。さっきは血をこぼさないために調理場近くで大蜥蜴をばらしたが、<彼に凝立する聖杯>の敷地内で血抜きを行う場合は、可能な限りこの区画で行う取り決めとなっている。当たり前だが、あちこちで好き勝手に血みどろにされては、風紀上も衛生上もたまったものではないからだ。
となるとゾラージャは、シゾーがここに来るのを待っていたということになる。どこから物見高く見ていたのか知らないが、解体を終えたシゾーが手を洗いに来るのを見越して、ここにいたのだ。まがいなりにも医術を学んだ者、なおかつ副頭領の立場の者が、そうしないことはなかろうと踏んで。
怪訝ではあるものの、煙たがって邪険にする証拠としては薄いし、毛嫌いする筋合いの相手でもない。手ぐすね引いて待っていたという体でもなさそうだったので、とりあえず牽制するでもなく与太話を続けてみる。
「色恋モノの方が似合いますか?」
「そいつァ勘弁だ。またウチに居着かなくなる。副頭領のロン毛は金輪際見たかねぇや」
「見たことないでしょう。あんた」
「思い浮かべただけで似合いそうだから、実際に目にしたかねぇんですよ。あんたら義理の親子のくせして、女顔どころか髪の丈までペアルックすか」
「義理の親については余計です」
「おっと、口が滑ったか。クワバラくわばら。そうカリカリせんでくださいよ。おっかねえ」
鼻に皺が寄るが、あくまで相手に邪気がないのでは噛みつく気も失せる。両手をひらつかせて降参してみせるゾラージャを睨みやるものの、長続きはしなかった。ため息でいらつきを吹き払って、手水設備へと進む。
設備といっても、大それたものではない。せいぜい、掘っ立て小屋から突き出した屋根の下に、風呂桶になりそうな大きさの水瓶が置かれているだけだ。掃除道具などが入っている小屋には用がないので、シゾーは水瓶に引っ掛けられていた杓子で、瓶から水を汲んだ。この水とて沸かしたものではないので、飲用には向かない。温度も冷えていた―――凍らせる冷たさではなく、肌の温もりを吸い込む無情な虚ろさ。位置的にどうしても陰が籠りがちで、常夜の夜気と夜露が抜けないこともあるが、なによりここは人の都合で生殺与奪を繰り返す場所である。重苦しさは、死の気配が吹き溜まったがゆえの内圧の高さであり、しんとした静寂も、清浄な静謐のように高貴なものではなく、忌まれたなりの孤独だった。ここには自分たちしかいない。
手を流しながら、話しかける。
「僕がここにいるのがよく分かりましたね」
「俺も好きなもんで。ここらへん」
「物好きな」
「俺は酒よりメシが好きでね。次は何が食えるんだかって、想像するだけでマッチョが三割増しになるんすよ」
「ぜひとも部下へ方法のレクチャーを。健康的で反作用も副作用も無さそうな素晴らしいドーピングです」
「はは。そりゃもう、ご下命とあらば」
そのあたりで、手を洗い終えた。
シゾーが杓子を戻してゾラージャに向き直ると、彼もまた背中で壁を蹴って直立する。本腰を入れたという見せつけだろう。壁の露で湿った背中を掻いて、間延びしていた声はそのままに、言ってくる。
「部下といや、エニイージーなんすけど―――あと、例の嬢ちゃん」
聞かざるを得ない。
ついに後継第二階梯の護衛任務について稟請が成されたのかという懸念が頭をよぎるが、顔に出ていたようだ。ゾラージャが、すげなく否定してくる。
「まあ、エニイージーは今のとこ泣きついて来ちゃいねぇから、嬢ちゃんの護衛任務そのものにゃあ心配はしとりません。それについちゃあ取り越し苦労ですわ」
「そうですか」
「むしろ、そのことが憂慮される」
黙っていると、ゾラージャが念押ししてきた。
「好ましかァない事態ですな」
「…………」
が、把握の的確さはそこまでのようだった。ゾラージャは、もっともらしく顔つきだけは愁眉を寄せて、腕組みした手の片方でとんとんと己の肘を突いている。まるで解答に窮した学童が、ペン先で机をつつくように。もったいつけるでもなく、純粋にたどり着かない千鳥足の靴音のように、言葉もまたもたもたと紡がれていく。
「嬢ちゃんが、キティ・ボーイなんてあだ名で呼ばれるようになってきたこと……知ってますかい? 副頭領」
「初耳です」
「エニイージーもね、気にして立ち回っちゃくれとるんですが。あいつ自身あの通りド直線の真正直な性分しとるもんですから。方便ならなんとか嘘は吐けても、建前となると身につかんようで」
「つまり?」
「嘘は、建前があって矛盾するからこそ、大なり小なり持ちつ持たれつで成立するのが道理でしょう。あんにゃろう、お前のためだっつう面構えをすることに自分自身が納得できとらんから、役にのめり込めんようで」
「……つっけんどんにお姫様扱いして蚊帳の外へ出せない、と?」
「まずもって、あの嬢ちゃんからしてツッケンドンなオヒメサマじゃないでしょうよ。蚊帳の外から、そっち楽しそうだから入れてよ入れてよーときたもんだ。俺もウチの連中も、初めて会った時は顎外れっかと思った」
何を思い出したのか、ゾラージャは肩を落として明らかな困り顔を作った。副頭領から同情を買おうとしたにしては、目の方向があらぬ遠くを向いている。その頃には、それは回りくどい近況報告でなく、悩ましい気さくな独り言に転じていた。
「口まわしやアクセントだって、<風青烏>の連中の方が鼻につくくれぇだ。あの嬢ちゃん、本当に、ただの子どもだものなぁ―――……俺らも元々、よそよそしくするのにゃ慣れてねぇですし。また、ぱっと笑うんだよ、あの子。喋っても、動いても、なんかする度に。あれを見ちまうとなぁ。冷たくできねぇんすよ。ホントに数えで十五かって思うくらい、歪んだとこもねぇですし」
「僕としては癪に障る一方ですが」
「はハ」
一蹴したシゾーに、から笑いするしかなくなったらしい。ゾラージャがまたしても頭の両側に諸手を上げつつ―――今度は降参というよりも厄払いの身のこなしに見えたが―――、ひるんだ様子で、ぎこちない破顔を固める。
「でしたら、副頭領が嬢ちゃんの護衛に付きますかい?」
「……ああ―――そうですね」
そこに来て、気付いた。
シゾーは、声を沈めた。低く―――意図的に。
「話し向きによっては」
「話? へえ。そいつは、どこのやっこさんと?」
「差し当たっては、―――」
一拍。
腹を決める。シゾーは目線をゾラージャから、彼の肩越しに奥へと伸ばした。
「僕の、義父さんと」
まるで当然のように、フラゾアインはそこにいた。
シゾーの変化を察知して振り返ったゾラージャが、慌てふためいて上半身だけ後ずさりさせたが、それを気の毒だとは思わない。早く慣れろと諦めるだけだ―――練成魔士にも、体形さえ合う服ならば何を着たところで気に留めない破滅的なセンスにも、つまりはゼラ・イェスカザという存在そのものに。
横槍されておいて気を害するでもなく、そそくさと退散するゾラージャと入れ違いに、ゼラがこちらへ歩いてきた。途中から、ほどいたターバンを片手に纏めつつ、もう片手で遠出用の外套の襟を緩めている。ものが小児向けの古着なので、まるきり暑がりの子どもが癇癪を起こして脱ぎ捨てているような有り様だが、本人が無頓着な限りはどうしようもない。
敢えて近寄る気も起らず―――まさか義親子水入らずで抱擁と団欒を満喫させてやらんがためにゾラージャが席を外した訳もあるまい―――、目前で立ち止まるのを待つ。
そこに来て、ふとゼラが口を開いた。
「お疲れ様のようで」
「お互い様のようで」
言われたことに、嫌味を返したつもりはなかったが。
それでも何らかの予兆は感じ取ったのか、不機嫌以外の元凶に根差して、事務的に眉根を寄せた。養父の勘に応えるように、口火を切る。
「あいつが前代未聞の発作を起こした」
ゼラが硬直した。その顔に、はっきりと不吉な影が横切る。疲弊し落ちくぼんだ目元と唇の皺に、陰影がつきやすかっただけのことだろうが。
それでも早めに不吉には蹴りをつけたい。口早にシゾーは、後を継いだ。
「俺が打てる手は根こそぎ打った。もう山は越えた。そろそろ出れるだろうと、俺は診てる。猶予があるなら、まだ二日欲しい」
「二日も?」
「それだけ今回は異常だった。二日はあいつの回復だけじゃなくて、容体の判断猶予も兼ねてる」
「分かりました。わたしもこれから診ましょう」
「深刻なのはそこじゃない」
きびすを返しかけたゼラの横顔が、険しさを刺されたせいで、はっきりと余裕をなくしてシゾーを振り返る。それを見返す己の心象は、奇妙なほど凪いでいた。これもまた、不吉の予兆かも分からないが―――嵐の前の静けさのような。
(いや。違うかな)
この無心は、大蜥蜴を解体した時のそれによく似ている。取り返しがつかないと分かっていて、封を破るということ。
告げる―――
「発作を解決するために、キルル・ア・ルーゼの手を借りた」
肝を潰されたゼラの豹変を待たず、シゾーは畳みかけた。
「言っただろ。俺が打てる手は根こそぎ打ったんだ。手の借り賃は―――」
瞬間。
ずだん! という激しい音を理解したのが、真っ先だった。
衝撃は遅れてやってきた。そして痛み。やがて息苦しさ。何の魔法か、あるいは抜きん出た体術か―――とにかく背中から仰向けに転がされたシゾーは、なすすべもなくゼラに襟首を掴まれていた。関節を極められるようなこともなく、単に胸倉を靴底で踏みつけられているだけだが、大の字のまま動けない。動く燃料になるような衝動も湧いてこない……少なくとも、今のゼラに太刀打ちできそうな呵責などは。
こんな間近から目線で射すくめられるのは、いつぞやに頭突きを食らって以来のことかもしれない。黒瞳を溶かしそうな憤りの幾らかは自噴なのかも知れないが、吹き上がる矛先はまず間違いなくシゾーに向けられていた。襟首どころか、心臓を毟りたいのが本望だろう。軋る歯列の奥で、押し殺した怒声がしわがれている。
「打てる手だと―――それが打てる手だったと?」
「そうだ」
「軽率な浅知恵だ」
「そうだ」
「自棄に知恵を絞った挙句が、無謀か! 軽挙が……打てた―――手か!」
「そうだ」
「笑わせてくれる。わたしとしては、捨て鉢に博打を打ったとしか思えない」
「……そうなら、どれだけ良かったか」
「どういう意味だ」
「神様と違って、イカサマ出来りゃ勝ち目あるだろ。文句あるか?」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、睨み上げる。
なんなら激昂してくれたゼラから、もう一発二発喰らわせられても構いはしない。そのまま殺されるとしたらどうなるだろう? 思い出したのは、ついさっきの大蜥蜴の死相だった。自分も組み伏せて殺した相手がいる。都合の良いことに、ここは屠殺場だ。フックのついたナイフもある。血を抜かれてはらわたを削がれ、毛も皮もひん剥かれて燻製室にでも吊るされれば、三日三晩で干し肉になれる。これ以上の正義はない。平等で公平だ。食われて尻からひり出されてしまえ、糞が。
(なんで俺はこうなんだろうなア?)
嗤えてきた。そんな時だった。
「―――……君は万全を尽くし、頭領は山を越え、なおかつ死んでいない。誰も……死んでいない」
抑揚のないゼラの声が、開かない口唇から漏れ出す。亡霊にでも尋ねられた心地がしたが、シゾーは首肯した。首筋を締め上げられながらこなすにはなかなか至難なことだったが、どうにかやり遂げた。
途端に、拘束が失せる。機械的に五指を引き剥がし終えて、ゼラが身を起こした。そこいらに投げ捨てていた服とターバンを拾って、こちらに投げてくる。ばさばさと落ちた拍子に、からんでいた砂が降り―――焦土と入れ替えたばかりらしい軽い砂だった―――、シゾーは立て続けにくしゃみする羽目になった。自分の代わりに持てということだろうが、砂まみれになった汚れ物同士まとまっていろという遠回しな嫌がらせの意味だとも勘繰れた。いや。
手ひどく一本取られて、卑屈になってるだけだ。ゼラの声色は、悪びれたところもなく、真摯で真剣だった。
「借り賃で済むものか。負け金の取り立ては、これからやってくる。肝に銘じておきましょう。全員で」
「はい。義父さん」
直後。
「わたしはね。息子よ。怒ってはいない」
「…………」
薄気味悪さのあまり―――ひっくり返ったまま―――沈黙するのだが、説教は終わらなかった。平坦に、読み上げられてくる。
「ただ、行ったことは、返ってくるということを、君よりも知っている。自分ではなく、他人にまで降りかかる―――おしなべて、もっと悪い風にして。だから……取り立てがあるということを、全員で肝に銘じておかねばならない」
「まるで連帯保証人だけにはなるなって教訓にも聞こえますね。それだけなら」
「覚えていてくれるならそれでもいい。もう行きましょう。言い慣れないことにつき合わせました」
「…………はい。義父さん」
遅れてシゾーも、みすぼらしく立ち上がる。斬騎剣に打ち付けてしまった背が痛むが、むき出しのグラウンドではなかったせいか、痛手になって残るほどではないようだった。プライド以外は。
(くだらない。開く傷口でもあればよかったのか?)
矢先。
思いついたように、ゼラが口を衝いてくる―――やはり真面目に、更には真顔で。
「まさか、博打したさに、こんな手を打ったのではありませんでしょうね?」
今度こそ、シゾーは嗤ってしまった。博打だと?
「そんなもん、シゾー・イェスカザと契約した時から懲りてるさ」
「孝行息子ですねえ。究極の親不孝なことに」
「…………」
切り返されたのは予想外だった。しかも、とびきりの当てつけだ。
さすがに黙り込むのだが、ゼラは許してはくれなかった。即座に告げてくる。
「とにかくまずは、頭領のところへ。様子を診なければ。事態を整理し、共有しなければね……わたしとしても、あの子にすぐにでも報告したいことがあります」
「ああ―――お揃いですね。義父さん。嫌なことに」
「お揃い?」
「嫌なことに」
繰り返す。当てつけへの意趣返しにもならないが。
身体をはたいて砂を落とし、髪をかき上げる。これだって砂を落としたかっただけなのに、否応なく左耳のリングピアスは揺れることになった。いつだって揺れていたのは確かだ……ただ、今は、やりこめられたような間の悪さを覚えていた。思えば、ペアルックかとからかわれたことさえ間が悪い―――こんな今を予言してでは、絶対に無かろうとも、だ。間が悪い。それとも、
(こんな程度で当たってくれるくらいが、ちょうどいいものなのかも知れない)
引き金を引く。当たり外れも関係なく、損得も数えず、因果もなく、引き金を引く。なのに、当たるか外れるかで損得が分かれ、因果が生ずる。だとしても―――引き金は引かれる。どこかにあり、誰かが―――引く。必ず。どこにでもあり、自分であれ―――どの時にも―――引いたのだから。
(そうだ。シゾー・イェスカザに予言されるなら、この程度の不運でいい)
彼がシゾー・イェスカザとして予言されたあの瞬間から、こうして世界がこのように構築された。のであれば。
こうして皮肉ることすら、この世界を崩壊させるトリガーかも分からないなら。この程度で充分だ。
シゾーはせめてもの意地を込めて、にやりと口の端をつり上げた。はったりだったが、これで泣き言を終いにする。
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