されど誰(た)が為の恋は続く

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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承章

承章 第一部 第十節

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 陸路の移動手段として最も一般的なのは徒歩であるが、次点として普及しているのは馬で、普及するのが今後も難しかろうと目されるのが騎獣きじゅうだ。

 馬は耕作・運搬・栄養源などで民間の需要も高いが、騎獣の性向や特性はおおよそ軍閥ぐんばつで、その点をおいて最も公的組織の所有に向いているとされる。ただしそれは、向き不向きという相性程度の話であって、民間人の飼育や利用といった行為そのものに触法性はなく―――その際に満たすべき条件は法的に定められてはいるものの―――、金満きんまん趣味のもと愛玩あいがんしている貴族もいるし、貸し出し業者も存在している。街の貸し出し業者は、義賊が副業で行っているものが大多数を占める。純粋に危険な旅路を警戒して騎手ごと借り入れていく商会や旅人を当てにしての商売というよりも、旗司誓きしせいからの預け入れや、彼らとの連絡手段の確保が目的だ。騎獣は成育環境によって体質の偏りが著しく現れるので、三戒域さんかいいきと市街の近郊で飼い慣らしておく意味は大きい。ついでに、義賊は准公的組織であるし、なにより准軍閥だ。

 なので、馬で出立したキアズマが、騎獣を連れて帰ってきたこと―――しかも二匹に旗司誓を乗せて!―――に、馬丁ばていまゆと肩をそびやかしただけだった。壁の門番と同じ反応だ……いや、連中は、もう少しあけすけな軽口を叩いてくれたが。要は、こういったケースは、珍しいとはいえ、無いこともない―――つまりは、厄介事だということだ。このあいだ、頭領ならびに部隊長第一席主席へ貸し出された一匹と、エニイージーに貸し出された一匹は、砂育ちの荒くれ仲間どもと違って戦禍せんか余韻よいんにナイーブな怯えを見せていたので、帰路への操舵におしなべて従順だったし、それ以外に大きな事件も無かったのだが、返してくれる保障も期限の見通しも立たないまま馬を貸し出してきたというのは、まあ厩番うまやばんとしては厄介事だ。繰り返しになるが、純粋に危険な旅路を警戒して騎手ごと騎獣を借り入れていく商会や旅人は当てにできるビジネスでなく、民間の需要が高いのは馬なのだから。

「農繁期でもなし、補填ほてんが利く範囲だろう? 必要な書類はとりあえず俺が代筆して、優駿ゆうしゅんを返しにきた旗司誓から後日きちんと正式なものを発行してもらえば良い」

 厩番うまやばん鬱蒼うっそうとした前髪の隙間から、それ以上に鬱屈うっくつした眼差しをキアズマに寄越してきた。

「……雹砂ひょうさを踏ませたか無いんですよ。しかも大の男の相乗りで何日もとなると。蹄鉄工ていてつこうは呼ぶだけで金が要るんだ」

「それこそ農繁期でもなし、補填が利く範囲だろう?」

「ええ。ですからね、ゼロ何ケタやら名前やら書いた紙っぺらを印籠いんろうに、悪用するこたぁやめてくれって言ってんです。俺ぁパリアが心配だ」

 パリアが馬の名前だとキアズマが気付いたのは、事務所で貸し出し書類に目を通してからになる。

 もう幾らか手続きをこなせば送迎してくれるのは分かっていたが、乗馬すると物思いまで悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんから持ち込みそうな気がしていた。なけなしの作業を片づけて、徒歩にて戻ることにする。

 王裾街おうきょがいを囲う壁、その門のひとつからほど近いところに、この厩舎きゅうしゃはあった。

 王襟街おうきんがい王裾街おうきょがいの位置関係は、大雑把に例えるならば、目玉焼きの黄身・白身である。その白身の外縁が、壁だ―――大昔には、黄身の外縁にも壁が設置されていたらしいが、今は取り壊されて、ふにゃふにゃした円環状の大通りの基礎になっている―――が、この壁は、街壁であると同時に、文字通り家屋の“外壁”として利用している居宅も多い。平屋か長屋で、住み人は大半が農民だ。彼らは朝の開門と共に家畜を連れて門外へ赴き、門限を破らぬよう仕事を終えて帰宅する。このサイクルは厩舎きゅうしゃのそれと重なるところが多い上、厩肥きゅうひを払い下げる当てが常にあるということでもあり、収穫期には顧客の潜在窟せんざいくつともなってくれる。ついでに言うなら、門を利用しない商人はいないし、門を利用しない旅人も―――公的には―――いない。門が近ければ、門番をしている警察も近い。暮らしやすく、客が行き交い、治安も悪くない、そんな上等の立地にある厩舎きゅうしゃ

(確かに、雹砂ひょうさを踏ませたくなくなるやも知れん。しかもするのが、旗司誓ともなれば)

 街路を進みながら、キアズマはひとりごちた。

 街は中央に近づくにつれ、階層を増した建築が増え、建造物としても大きくなっていく。それはまさしく頂点にある王冠に向かって平伏す民草の群れのようだった。なかでもここは、その裾……いわゆる王裾街である。石材や煉瓦れんがを組んで作られた街並みは機能美が低く、いつものようにごちゃごちゃと整理されない喧騒けんそうと生活の臭いを垂れ流している。昼を過ぎて、街道沿いの商店も、店頭にひとりふたりの客を足留めするくらいには繁盛しているらしかった。当然のことながら合法の商店ばかりで、夜になれば非合法な屋台や路傍敷ろぼうしき―――地べたに敷いた敷布に品を陳列して売り買いする者のことを指すが、まっとうと思われる品であっても、盗掘品なのか遺留品なのかは推して知るべし―――も数を増すものの、積極的な摘発より、都合が良ければ見逃されることが多い。警官としても、長ったらしい夜回りを絶好調でこなせる葉巻が端金はしたかねと隠語で手に入るなら、権力をかさに着た脅し文句よりも損得勘定が幅を利かせる。さすがに昼下がりとあっては、路上に平穏に流れていく会話に物騒ぶっそうさは皆無かいむだが。

「ああ。そうだ。女房がよ。余計なとこまで目端めはしが効くったらありゃしねぇ―――」

「……ねえ彼氏。ひとり? ふたりになってあげるから、このお花を買って、わたしに贈ってちょうだいな―――」

「きゃははははは!」

「―――待ちやがれコルァこの糞坊主くそぼうずども! 毛も生えてねえ胸倉に銀貨られても知らねえぞ―――!」

「らっしゃい、いらっしゃーい。さあさ、ちまたで噂の一品。どうせ食うなら美味いのにしときなーア」

 呼び込みにつられて腹が減り、キアズマはその流れの露店に立ち寄って、主に声を掛けた。香味かぐわしい、パン巻き肉の店である。背丈の低い店主は、まずはキアズマの剣を提げた腰間ようかんに気付いて気配をこわばらせ、ついで顔を上げるとキアズマの赤毛頭に息を呑んだ。店主の傷を浅く済ませるために、ありふれた口調で口早に注文して代金を払う。相手は恐る恐るそれを受け取ると、受け取った紙幣―――辺境で流通する金属貨幣でなく、我が国が発行している公用金券―――がまがい物でないことをざっと確かめてから、どんな客に応じるよりも手際よく調理を終えた。壷に漬け込まれていた肉を鉄板の上で焼き、焼き色がついたそれを油紙の上に引き上げてから、鉄板に残っていたたれの焦げ目に、薄い横長のパンを敷く。それをひっくり返し、程よく肉汁を吸った焼き目の上に肉を戻して、はしからくるくると巻いた。これを、肉を置いていた油紙でくるんで渡してくれる。

「ありがとう」

 店主は、あんぐりと口を開けてキアズマを見送ってくれた。

 味は求めていなかったが、かぶりつけば予想よりも美味い。それを火種にしたように、空腹感が湧いた。甘辛いあぶらとたれを吸ってしっとりとしたパンに、焼けた肉の旨味うまみからんで、ひと口ひと口飲み下すごとに残りが名残惜なごりおしくなる。食べ歩きながら、キアズマは街路を進んだ。貧民窟ひんみんくつを引き離してこの辺りまで来れば、風紀は格段に良くなる。少なくとも、パン巻き肉を食べ終わったこの油紙をそこらへんに捨てたところで、紙をかじってえをしのごうとした浮浪児が暗がりからい出てくることもない。

(まあ、今となっては―――の話ではあるか)

 戦後八年も過ぎればという感慨よりも、<風青烏ロゾ>を立ち上げた頃に比べればという懐旧の方が、己の中で勝ってしまうのも仕方ない。キアズマは剣を撫でて、返す掌でうなじを掻いた。行きずりの男がひとり、キアズマの手つきに気付いたようで、胡乱そうに剣に目を留め……ついで赤毛頭に気づいたのか、ぐっと顔を伏せて手前の角を曲がっていった。近づかないためなら遠回りも辞さないと。

 倦厭けんえんについては、これだけで済むようになったとも言えるし、これから先が長いともいえる。赤い体毛をした平民も、いないではない―――それでも、それこそキアズマがこの界隈かいわいに根を下ろし始めた当初は、赤毛頭をひけらかしながら刃物を提げて土足のまま往来を行く成人男子など、チンピラしかいなかった。良くてもギャング……悪ければ貴族の部屋住み……どちらにせよ、進んで関わればろくなことにはなるまいと、警戒されたのも当然と言える。理解できる。今となっては。

(今となっては、か)

 そこに、たどり着く。

 王裾街おうきょがいの一角。よくある商店街から、やや外れて奥まったところにある、石積み連棟れんとう建築の、かどの一棟。その一から三階までが、キアズマが買い取った区画だった。その一階が、<風青烏ロゾ>の事務所である。庭もないので、入るにはドア一枚開けるだけで済む。ドアのノッカーとドアベルは自分達で取り付けた。思えば<風青烏ロゾ>の初仕事がそれだったおかげで、周辺住民の戦々恐々は、程なく解かれたように思う―――悪党もどきの腐れ貴族が、吹き溜まりに手ずから日曜大工を施すわけがない、と。アシューテティからの又聞きだが。

 ノッカーでト・トとドアを叩いてから、中に入る。こうしないと戸板で部下の尻を不意打ちすることもあるのだが、今は事務所内に一人しか残っていなかった。無論のこと、部下である。彼はキアズマの姿を認めると、いた様子でデスクから立ち上がった。挨拶もそこそこに、間際まで来て耳打ちしてくる。

「あの。あの人、待ってます。奥で」

「あの人とな?」

 そらとぼけたのは、思いつくアテがなかったからではなく、アテが的中していることを露骨に表している部下の渋面に応じるのに一拍置きたかったからだったのだが。願いむなしく、間髪開けずに念押しされる。

「いつもの。全額前払いの」

「……了解した」

 不承不承うなずくと、部下はそれすらもどかしげに、キアズマを目線で奥へと促した。かなり長いこと待たせているらしい。今日は朝焼けを待たずに直接悔踏かいとう区域くいき外輪がいりんへ出向いたので、もしかしたら半日以上待たせている可能性もあった。それを悪いと思うようになったキアズマは、やはりこれも、今となってはの話だ……と感じる。昔は、半日だろうが半年だろうが知ったことではなかった。彼は―――彼らは、そういうものだと思っていた。

 事務所の一角、軽く衝立で仕切られた応接のための区画に、その男はいた。机を挟んで、二人掛け用のソファが二対。その手前で立っている。キアズマの気配を感じて立ち上がったのだろうが、半日以上こうして直立不動だったところで驚きはしない。

 しっかりと仕立てられた正装で雰囲気を正した、若さのない―――かといって老けこんでいるでもない、赤毛の男。彼は個性のない目鼻立ちをこちらに向けると、深々と一礼してきた。

「お久しゅうございます。キアズマ様」

「……ああ」

 曖昧に応じて、キアズマは相手が頭を下げているうちに一瞥いちべつを流した。机の上に出されていた茶には、手を触れた形跡もない。やはり、ソファに腰掛けたあとすらなくとも不思議ではない。

 そこまで確認する間もなく顔を上げた相手に、キアズマは確認した。依頼主について。

「今回は、どなたのお呼びかな?」

「筆頭は御母堂ごぼどう様さまにございます」

 つまりは、母だけではない。

「そうか」

 それ以外、言葉もない。

「では参ろうか」

 更にはそれ以外に、出来ることもない。キアズマは、男と共に衝立から出た。わけ知り顔の部下と目配せを交わした隙に、男にすっと先を行かれ、ドアを開けられてしまう。かといって、相手は、出ていくでもない。かしこまって、キアズマに道を開けている。

「…………」

 こうなると、男に改めて何事かを言うのも躊躇ためらわれた。居心地悪くドアを抜けて、男と共に歩き出す。男は何も言わずについてきた。初回こそ、六頭立ての馬車を四頭の乗獣じょうじゅうつないで最寄りの大通りに留めておくという純潔貴族のお出迎えらしいことを仕出かしてくれたが、最近はない。どういった交通手段で彼が<風青烏ロゾ>事務所まで来ているのかは知らないが、事務所から実家へ向かうキアズマの徒歩に、あれ以降は無言で追従してくれる。

 いや、無言なのは、単なる運動量の変化のせいか。振り向けば、キアズマの早歩きに黙々とついてくるその顔つきはやや苦悶くもんがかり、息が上がり始めていた。それでも、ペースが落ちるでもない。声を掛ける。

健脚けんきゃくとなったものよな」

「このお役目も……たまわりましてから、長うございますがゆえに……」

「はは。泥を噛ませて壊した下足げそくの代金は、しっかりとネモ・ンルジアッハに請求したまえ」

 背後からの返事はない。何を考えてのことかは分からない。軽口に恐れ多いと思ってのことか、下足の代金などと言い出した純潔貴族に度肝どぎもを抜かれたか。あっかんべーをしていたせいで舌が使えない、くらいのユーモアがあればいいと思いはするが、そのような男に純潔貴族の宮仕えが勤まるはずもない―――たとえそれが、家出した挙句にチャンバラ稼業を自営しだした危なっかしい末子を様子見したいがために半日を棒に振ることになる役目であったとしても。

 大通りまで進んで、流れの馬車を借りた。御者ぎょしゃは弱腰で口数の少ない男だったが、腕は良かった。威勢や肩肘を張るでもなく、王襟街おうきんがいへと馬頭を向ける。

 王裾街おうきょがいから王襟街おうきんがいに入るにつれ、人通りは減る。言うなれば、ここは下町ではない。群れるならば大邸宅の大広間、たわむれるならば午後から夜明けまでというルーチンを主とする彼らの世話をする者ばかりが道路を行く。通りすがりの、縮小輜重しちょう業者―――貴族に大掛かりな珍品でも納入した帰りか―――らしき青年が、キアズマ一行へ目礼もくれいをくれてきた。角度的に、剣が見えなかったらしい。気にせず先を行く。

 やがて、門構えがのきを連ねるようになり、門番の姿が垣間見えるようになる。それを過ぎると門番の姿がなくなり、前庭が一気に広大になる。そこに立つ邸宅は、成金なりきんの豪邸よりも一見小さくなったように見えて、単なる遠近法がもたらした錯覚だ。それも超えると―――

 こうなるわけだ。敷地を隔てる門や塀がなくなる。かつては周囲もこうだったらしいのだが、淪落りんらくにある多くの貴族が宅地を外部へ売り払った余り銭で他所よそへと移り住み、切り売りされた土地へ市民がぎゅうぎゅう詰めになる―――所謂いわゆる、上等住宅街になる―――のがメジャーな時代ばかりキアズマは記憶していた。市民は次々に家を建て、小分けに線引きしたとおりに門や塀を作ったので、ネモ族ンルジアッハ家の周りに勝手に囲いがひょこひょこ生えたようなものである。近年は、貴族の旧宅は学校や役所のような施設へ転用し、庭をぶつ切りにして住宅地として分譲ぶんじょうするのが主流らしいが、地位にも名誉にも満足した成金が次は血統を欲して没落貴族の子女と政略結婚した末、余分と感じた土地屋敷を売りに出すという古臭い典型も絶えたことがない。王襟街に住むというのは市民にとって根強いステータスであるらしいのだが、王の襟元えりもとたる品位も品格も継ぐことなく我欲の赴くままに蜂の巣―――羽虫にとっては大切な、壁で囲われた小さな小さな巣穴の密集地帯―――へと変貌へんぼうさせておきながら、なにを自慢するのかと思う。恥を知れと。つまるところ、彼らは恥知らずであり、貴族ではない。だから……こういった伝統的な装いを残す広大な庭は、王襟街において本当に稀有けうとなった。

 邸宅へと進むにつれ、鳥や家畜を育む草木のしげみや、それをうるおすための湖畔こはん揺蕩たゆたい、人目をもてなすために作り上げられた前庭が現れる。隅々すみずみまで手塩にかけられた花と緑が満ちている。噴水に溜められた水はんでいた。そんなことに気付くのは、ネモ・ンルジアッハにおいて、自分くらいのものだろう……キアズマとて、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>で無残な瓦礫と化した噴水を見るまでは、この装置を保つために連綿たる投資と努力が継ぎ足されてきたのだということを感じたことはなかった。

 この邸宅とて、そうだ。規模だけで言えば、<彼に凝立する聖杯アブフ・ヒルビリ>の城砦に見劣りしない。城とされるのは王の住まうデューバンザンガイツのみとなっている手前、城砦というのもはばかられるが、どこか無機質な白さと静けさが漂う当代の王城よりも、ネモ・ンルジアッハ家の方が華があった。これも、当代の君主にるところが大きいかもしれない。つまるところ、実父と実母は仲良く家を守ることに長けていた。もう少し踏み込むなら、破綻させずに済む按配あんばいを踏まえて好き勝手する足並みがそろっていたとも言える。愛人を愛し終えると帰ってくる。遊興を遊び終えると帰ってくる。息子もそうだと思っている。

 キアズマは、えりの中から上着うわぎの下へと、指を差し込んだ。まとめていた後ろ髪を引き出して、ひもを解く。くせのない直毛が、乾いた風呂敷のように風にあおられた。肩にかかり、二の腕の表面を流れ、背中を覆う。使いの男が、控えめながらも安堵あんどしたのを、その吐息に感じた。

 それから家族と過ごした時間―――つまりは夜になるまでの彼らの暇つぶし―――は、過ごしたなりに過ぎた。

 この子はいつまでたっても泥んこ遊びが好きなのね―――キアズマが粘土をねてはしゃいでいた時分から変わらない笑顔で、母は言う。筐底きょうていに入りびたっていた時も、義賊をやり出した時も、彼の土足を見ながら、ほほえましく思っている。

 まあ、いいんじゃないか、飽きがくるまでは―――キアズマが捨て猫を拾ってきた時分から変わらない笑顔で、父も言う。ツァッシとつるんでいた時も、アシューテティと一緒になった時も、彼の赤毛を見ながら、ほほえましく思っている。

 いやだなぁ、飽きがくるなんて、つまらないこと、キアズマに限ってしてくれるなよ―――キアズマがカーテンのたばに包まって眠ってしまっていたのを見つけた時分から変わらない笑顔で、きょうだいたちは言う。王裾街で義賊を運営し出した時も、更にはそこに家を持ってアシューテティと同棲どうせいし出した時も、彼の剣を見ながら、ほほえましく思っている。

 心の底から爪の先まで、余興の中に生きている……ネモ・ンルジアッハたちの笑いの中には、他意が無い。彼らは徹頭徹尾、キアズマが正気だと思っていない。彼が土の上を自ら歩き、剣を提げつつ砂臭すなくさい商売を転がして、鳥籠―――生活空間だけで全敷地を占める、女中部屋もない建物―――に平民の女をひとりだけ囲っているのは、彼らしい粋狂すいきょうだと楽しんでいる。例えばキアズマがオタマジャクシを食べたいと言い出したところで、彼らは受け入れるだろう。感興かんきょうをそそられたなら、ありとあらゆる種類のオタマジャクシを手に入れて、シェフから調理設備まで勢揃せいぞろいさせることさえありうる。気の毒なシェフは勤務内容に動転するだろうが、それが彼らだ。それだけだ。

 それだけだから、今でも、それを続けている。

 誰も彼も。そして自分も。

 だからこそ、心がふさぐことがある。

 こうして、のらりくらりと実家と関係することついて、アシューテティはなにも言わない……表立っては。だからどうだと言うわけではないが。

 愛と誇りについて。エニイージーが言っていた時に、思い出したのはアシューテティだった。彼女といたいと思う。いたいと思える相手が彼女であることを、誇らしく思っている。そして、彼女もそうだと信じている。自分がキアズマであるからだ。自分がキアズマ・ネモ・ンルジアッハでもあるからか?

 その問いの怖さに、首筋がすくむ。

 それでさえ、永遠に続けられる筈もなければ、今は他に出来ることもなく。

 キアズマは帰路にて、長く赤い後ろ髪を、ただ結い直した。そして、上着の中へと、しまった。隠したのかも分からなかった。分からないまま馬車は進んだ。そのうち王襟街おうきんがいが、王裾街おうきょがいに変わる……



     □ ■ □ ■ □ ■ □



 砂臭すなくさい―――これは、三戒域かいいきの住民に向けられる蔑称べっしょうであるが、実のところ見当外れな言いがかりではない。

 無論のこと、三戒域かいいきが異臭に満ちているのではない。真逆だった。ゼラに言わせると、悔踏かいとう区域くいきは、情報を失わせる性質が強い。そこから吹いてくる風も、ゆっくりながら、あらゆるものを根こそぎうばっていく―――湯はどこよりも早く水に帰るし、水はどこよりも早く空に帰る。死んだ者は雹砂ひょうさに掻き消され、骨のひとかけさえ残らない。髪は、まだ残りやすい……特に、若い乙女のそれならば。芽吹めぶき切らなかった命を吸ってながらえるのだと、胡乱うろんに囁く者もいる。

「おろしたての方が中古より長持ちするだけのことに、なにロマンスふかしてんだか。大方おおかたそいつら、次は、てめぇの髪は革命の時に血祭りにあげた連中の生き血を吸ったから赤いんだとでもぬかしやがるぜ。キアズマ」

 あの頃ツァッシと呼ばれていた陰気な男は、伸び放題になっていた黒髪の奥からキアズマの頭をやぶにらみにして、どんよりと吐き捨てた。昔の話だが。

 まあ、つまりはそういうことだ。悔踏区域の空気は蝕む。臭気も例外ではない。となると、様々なにおいに満ちた市街にて、外輪がいりんから来たばかりの旗司誓きしせいとすれ違った場合、不快な違和感をかき立てられるのである。言ってみればその時の旗司誓は強力な脱臭剤のようなもので、通行人はすれ違いざまに前触れなく無臭の空気に放り込まれて、すぐににおいの坩堝るつぼに吐き出されることになるからだ。鼻に目くらましを食らったようなものである。しかも、寝起きに何気ない生活音が大きく感じられる時のように、なんてことのないはずのにおいが、恐ろしく不愉快に感じられてしまう。その急な上下動こそ、砂臭いと言わせる元凶なのだ、と。

(さすがに、もう馴染なじんでおるだろうか?)

 夕暮れ。王裾街おうきょがいにある我が家を目前にして、路上でふと立ち止まる。

 そこに来て、キアズマは自分が、事務所に寄らずに我が家へ顔を出そうとしていることに気付いた。事務所がある一階の上、二階および三階がキアズマの居宅だが、道理を通すならば先に職場に顔を出し、ゼラに付けた部下と馬がしばらく抜ける穴埋めの段取りをつけるべきだろう。分かり切っている。

(気が滅入っているな)

 失笑してしまう。

 それを甘えに、彼は再び歩き出した。

 程なく、辿たどり着く。

 ―――その風景に、腹は立たなかった。今日は気が滅入っていたから。

 事務所のドアの前で、彼女がこちらに背を向けて屈んでいる。アシューテティ……ただそれだけのアシューテティ。どうやら、建物と路傍ろぼうのへりの雑草をむしっているようだ。黄色い小花を咲かせる草の名をキアズマは知らないが、彼女は懸命けんめいにそれを選り好みして残しながらの草むしりをおこたらない。今はまばらだが、いずれ建物沿いに黄色のラインが浮かび上がる日が来るのだろう。楽しみだな、と思う……少なくとも、彼女がそれを楽しみだと思っているうちは。

 靴音を察したのだろう。彼女が肩越しに振り向いてきた。更には、笑いかけてきた。立ちあがる。

「おかえりなさい」

 言いながら、汚れた手をはたいている。草にはもう見向きもしないで。

 彼女は、キアズマを出迎えるために数歩進んだ。彼の手前で立ち止まろうとしたらしかった。

 それを読んだキアズマが大きく踏み込んだため、結局は正面からぶつかった。

「あた。ふえ?」

 分かりやすく悪態をつく彼女を、そのまま抱きすくめる。

「へ、ちょ―――なに? どうしたの?」

「うん」

 歯の浮くようなせりふを囁くのは容易たやすい。言葉は知っている。言ったこともある。

 だからこそ無言で、抱きすくめ続ける。

 土の付いた指先をうろつかせていたアシューテティが、観念したかのようにキアズマを抱擁ほうようし返してきた。尋ねてくる。

「どうしたの?」

「うん」

「どうか、したの?」

「うん」

「そっか―――どうかしちゃったのか」

「うん」

「あの。こんな時間にひとりで草むしりなんてしててごめんね。でも、まだ<風青烏ロゾ>に人もいるし、ドアの周りなら、ちょっとくらいいいかって。あなたの過保護に盾突たてついてのことじゃないのよ。傷つけるつもりもなかったの」

「うん」

「それにね。あたしね。あのことなら、もう怒ってないのよ。いつもの悪ふざけなのに、わたしもちょっと大人気おとなげなかったし……」

「うん」

「それに、あの悪戯いたずら。料理の手順を守ってるからって安心してないで、ちゃんと作ってる途中で味を見ないとねって意味でしょ。また不味くなってきてたのね、あなたの肥えた舌には」

「まさか」

 そこにきて、やっとこさキアズマは否定した。己のほおを、彼女の首筋にこすりつける。えりのない服―――ネグリジェ以外で―――を着る時には必ず襟巻きをするようにと口酸っぱく言っているのに、今日も彼女はあっけらかんと気に留めなかったようだ。それが今日は格別に心地よい。温かな人肌が、鼻先でほのかに香る。

「俺がアッシェに、かまってほしかっただけのこと―――なんだよ」

 不意に、くすりと彼女が笑った。

「たまにだけど。なんであなたって、もういいのに、まだ許して欲しそうにするのかしら? 甘えたがりなの? もうとっくにひとり立ちした男でしょ?」

「ひとり立ちした男だと? そのような猛者もさ、<楽園崩壊ロワイエゲシア>以前から誰一人とて存在するものか。あのアークレンスタルジャット・アーギルシャイアでさえ、恋人をこいねがって東奔西走とうほんせいそうしたと言うのに」

「あはは。そうっちゃそうね」

「それに、俺ばかりそのように言われるのは、ええと……あれだ。ずるい」

「ずるい?」

「俺がこうなのは、アッシェの悪趣味でもあるのだから」

「悪趣味?」

「甘ったれに文句を言うなら、甘やかす前にそれを言って、それからは断固甘やかすべきではない。こんなに抱っこさせておいてからに」

「あらごめんなさい。あたし、誰にでも優しいから」

「嫌だ。れた男に甘いだけだ」

「それだけ言える様になれば充分ね」

 そうしてぽんぽんと、彼女はキアズマの背をはたいた。

 背中はこれで泥だらけだ。笑ってしまうが、それさえ悪くないと思える。キアズマはアシューテティを解放した。すると、彼女がふと思い出したていで、こぶしから立てた一本指を自分のこめかみにやる。

「あ。そう言えば、お義父とうさんが仕事の話したそうだったよ。体調も悪くなさそうだったし、早めに行ったげて。事務所には伝えておいてあげる」

「うん」

「あ。ねえ」

「うん?」

「あなたの暇をみて、気分転換しましょうよ。一緒に買い物なんてどう?」

「たやすい御用だ。ちょうど上等住宅街路で、新たな店が開店しているのを見かけた」

「……そんな馬車に乗ってのお出かけなら、雨の日でいいわよ」

 どことなくむくれた彼女が事務所に入るのを見届けて、キアズマは三階へ向かった。そして同時に、昼間の風景を思い出していた。

 陽光を吸い込んだ洗濯物が、昼餉ひるげの煙を含んでやわらかく膨らむ。その下を、さほどえた様子もない子どもが走り抜ける。それを追いかけたり怒鳴ったりするのは、警官ではなく、度を越して親切な顔見知りの大人だ。買い出しし、井戸端会議にきょうじ、些細な不幸に脅かされることのない盤石ばんじゃくな日常を送る人々。八年だ……八年かけてアシューテティが見ることができた風景は、キアズマが通りかかるだけで枯れる。彼らは、キアズマを見ない―――赤毛頭をひけらかしながら刃物を提げて土足のまま往来を行く成人男子でありながら、チンピラでもギャングでも平民でもないのなら、当たりさわりなく関知かんちせず見ない振りをするしかない。老若男女ろうにゃくなんにょがそうするし、その万人の盤石を壊すようなことをキアズマは試せない。今となっては。

 聞かれることのない泣き言を白状する。

「アシューテティ……君がいるんだ。俺くらい、他は諦めたって許されるさ。そう思わないかい?」

 とん・とん、と階段を上る。彼女が遠ざかり、彼女が義父と呼ぶ彼へと近づく。薫陶くんとうを受けたような心地は、これだけでもう続かない。―――いや。違う。

 彼女に触れた後で、彼に会うのは気が重い。いや。違う……

 いや―――キアズマは繰り返して認めた―――彼に限ってではない。彼に会う時に限って生ずる、後ろめたさではない。

 自明だ。自明だった。自分は未だ、誰も彼もに対して、この罪悪感をぬぐえずにいる。

 おそらくそれは、三年前から、確実に。

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