されど誰(た)が為の恋は続く

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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転章

転章 第一部 第三節

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 悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんの夜は、浅瀬と深瀬がある。

 特にこんな雲の厚い空模様とくれば、それは顕著けんちょになる特徴と言えた。最たる深瀬は、夜半より一歩手前。星明りが充分にともる直前の暗さは、一寸先すら見失うやみと言うよりも、底抜けのうろ穴に指先を突き込むのを恐怖するような深奥だった。周囲ではなく、知らないうちに踏み込んだ先から自分が失われるのを予感させるような―――そらおそろしさ うそざむさ。

(便所にしたって、もうちょっと早いか遅いかして目ぇ覚ませばよかったのになあ。俺)

 ふてくされて、エニイージーは生あくびした。寝床にとんぼがえりするにもまりの悪い目のえ方をしてしまい、なんとなく前庭のグラウンドに出ている。惰性で星を探して、そのまま空へと目を寄越よこした。

(え?)

 それが見えた。

 ただし、奇妙な迷い星だ。えらい低空で、ちか・ちかと遅い明滅めいめつを繰り返しながら、水平に右から左へと移動し……ふと、止まる。

(あ。なんだ。要塞ようさいにいる……誰かの提灯ランプか)

 廊下を歩く者が眼前にげた明かりが、各所にもうけられた窓に差し掛かるたびに、こちらへとれてくるのだろう。倹約けんやくというよりか、火をつけたり消したりするうちに尿意に負けるのも馬鹿らしいので、手ぶらで行って帰ってきたエニイージーには、その微細びさいな光源さえ目に留まったのだ。得心するまま、ほっと息をく。

 のだが。その燈心とうしんがある高さは、三階の位置だった。しかも、そこで停止して以降、じっと動かない。

「……―――」

 嫌な山勘やまかんしびれを切らして、エニイージーは要塞ようさいへ向かった。

 夕飯時を過ぎてしまえば、一階廊下ですら定点灯火ていてんとうかは落とされる。物置や書庫に使われている二階は言うまでもないし、三階に住んでいるのは頭領以下三人だけというのが実質のところなので、上層階に燈明とうみょうがあること自体がまれなことだと言えた。しかも、動かないとくれば、余計にわけがわからない。移動に差し支える暗闇くらやみを押しのけるための懐中行燈かいちゅうあんどんだろうに。

 視力よりも、手足の感覚と記憶を辿たどりながら、三階まで行きついた。

 廊下に出ると、やはり明かりがいている。その人の……手元に。

「―――頭領!」

 遭逢そうほうした幸運に上滑うわすべりして、大きく喜色を発してしまった。

 その はしゃぎ声に驚くよりも、茫漠ぼうばくとした納得に思索を破られたように。ザーニーイが、立ち尽くしていた窓際から、首から上だけ振り返らせてくる。つぶぞろいした目鼻めはなの中で、痛み切った金髪ばかりが提灯ランプからこぼれた光を吸い込み、その肌色より白々しらじらとして陶磁器じみて見えた。

 駆け寄ってくるエニイージーへと、遅れて呼びかけがやってきた。

「エニイージーか」

「どうしたんですか?」

 それとて思わずだったが、いてしまう。顔を見るのが二、三週間余りぶりだったこともあるが、なによりザーニーイは―――無表情だった。しかも、表情筋さえ動かせないほど疲弊ひへいしている風体である。まさか、ともし火に照らされずとも白髪しらがになってしまったのかと疑うほど、消耗しょうもうしてけ込んでいた。閉居へいきょして枯座こざしきりにデスクワークにつとめるという負担の大きさは、多少役が付いた程度の平社員には忖度そんたくすることしかできないにせよ、心配は心配だった。それゆえだったのだが。

 当の本人は気付いていないのか、そっけなく問いを投げ返してくるだけだ。

「お前こそ。どうした? こんなとこまで。こんな夜更けに。夜間警邏けいらじゃねえだろ」

「俺は、その」

 触れられなくとも、声は届く……燐光りんこう宵闇よいやみの、紫紺しこんの境界線まで来て、立ち止まる。

 エニイージーは、恐縮して頭を下げた。

「安心したくて。だから。ありがとうございました。頭領」

「うん?」

「下から見てたら、ここの明かりが動かなくなったもんだから、なにかあったのかと……ここにいてくれたのが、頭領で良かった」

「そうか」

「なに見てたんですか?」

 冷やかすでもないが。話題を転じながら姿勢を戻すと、ザーニーイもまた窓へ碧眼へきがんを向けていた。熟視じゅくしというには焦点をしぼらない眼差まなざしをそこに触れさせながら、不明瞭ふめいりょうつぶやいてくる。

「ああ。ちょっと……ぼーっとな。見てみてた、だけさ」

「外を、ですか? 明かり入ってちゃ、硝子板がらすいたのせいで反射して、あんま見えないでしょ?」

「そうだな。消さなくちゃな」

 と言いつつ、提灯ランプもそのままだが。ザーニーイもまた、立っているだけだ。

「?」

 エニイージーの不審が、せりふへとつむぎ上がる前に。

 ふと、彼は謎めいた自嘲じちょうで、口許くちもとほころばす。

「もしかしたら、お前なら見えるかな?」

「なに言ってんですか。頭領の燐眼りんがんで無理なのに、俺の ふたつっきゃない目ン玉じゃ歯が立たないっすよ。しかも夜目やめだし。こうくもってちゃ、目をらしたところで、見えて星屑ほしくずくらいですって」

「星もくずか。こうなっては。そうだな。人のくずとは―――違うものかな。そいつは。どこからくずになるんだろう? 星だったはずだ。人だった……はずだ」

「頭領?」

「なあ」

「はい」

「お前は、俺をどう思う?」

「頭領を? どうって―――」

 さすがに戸惑うのだが、それは問いかけそのものについてではなかった。

 エニイージーは、固唾かたずんだ。躊躇ためらいはあったが、覚悟を決めて、それを舌に乗せる。

「まさか……霹靂へきれきでも、緊張してるんですか? 革命に」

「かくめい?」

 反問してくる頭領に、自信をもって念押しする。画然かくぜんたる思いを込めて、ひと言ひと言、んで含めるように。

「革命ですよ。俺たちがやるから、国が変わる……その日を、招くんですから。頭領。これは、頭領だから出来た革命です。俺は、そう思っています―――頭領を」

「……そうか。エニイージー。お前には、いつも気付かされる」

「え?」

 ひとり合点に片を付けるように、ザーニーイが居住まいを変える。かかとめぐらしてこちらに向き直ると、直前までの流れを手折たおって、一見無関係に思える四方山よもやまを尋ねてきた。

「ついでに聞いていいか?」

「はい。もちろん」

「しなきゃよかったことって、なにかあるか? 生きてきた―――今までに」

「そりゃまあ、……山ほどありますよ。自分でも嫌になるくれえに、たらふく」

 情けない話ではあるが。エニイージーは白状がてら、頭髪にみ込んであるバンダナをいた。

 このバンダナのみどりの色味とて、燐眼りんがんうたわれる当人を目の前にしては、選別の根拠からしてたらふく・・・・の一部になってしまうだろうから、それについては知らんぷりして別の供儀くぎを供える。

雑巾ぞうきん入れっぱのままバケツの水を替えんの忘れてて、次の日めちゃくちゃクッサくしちまったり。計算間違いに気づいてなくて、返してもらった釣銭つりせんを損してたり。今朝なんか見もしねえで塩瓶しおびんかたむけたら、満杯にしたばっかだったらしく、目玉焼きの上にどわーっと。それをびんに戻そうとしたら、ったばっかなのに湿気しけらせることすんじゃねぇって厨房ちゅうぼう係から大目玉食らっちまうし。踏んだりったりにダブルのパンチで」

「そうか。まあ、……そんなもんだよな」

「目玉焼きよりも大目玉だったっすよ。食べたけど。しょっぱかったー。あ。大目玉の方じゃなくて目玉焼きの方が。まあハートはしなしなだったっすけど。塩かけられたみたく」

「そいつもまあ、だろうな」

「頭領も、あるんですか? そういうこと」

「あるよ―――ただ、」

 やはり、宵時よいどき四隣しりん寂寞せきばくに沿うような静けさで、ザーニーイは付け足してきた。

「俺は、昨日一昨日おとついより前からここにいたから今日明日あしただってこうしてる―――言わば、砂場のドサまわり上がりの、ならず者だからな。今しなきゃよかったってことを、その時に本当にひとつでも選択していなかったら、きっとここでお前と話してることもなかったろう」

「ええ? なら……ええと、ありがとうございます!」

「は?」

 急に口気こうきたぎらせたエニイージーに、きょとんとして目をしばたいてくる頭領。

 その無自覚へと焼き付けるように、形骸けいがいではない思いを―――心を込めて、ただただ述べるしかない。

「今になって嫌なことでも、その時は選んでくれてありがとうございました。だって、―――じゃないと俺、ここで旗司誓きしせいになれませんでしたから! 頭領に拾われて、今日まで来れて、俺……俺は……本当に、天職だったって……」

 意気込んだ独白がほとばしるにつれて、大元にある情念もまた腹の底から再燃する。目頭がうずいて、エニイージーはどうにか声を途切れさせた。興奮にかまけて、涙が浮かびそうになってしまっている。

(だせえ。ガキじゃあるまいに)

 粗相そそうこらえる部下を、どのように捉えたものか。ザーニーイは提灯ランプを持ち替えるついでに、目淵まぶちの動きもそこへ逸らした。エニイージーから遠ざける方にした灯火とうかに、過ぎた日をながめるゆるい眼光をひたしながら。

「……くたびれた貧民窟ひんみんくつの瀬戸際で、おびえ慣れた目をすることに諦め切っていた、せっぽちの―――あの、お前がな。あの時は、たまたまふところに余裕があった気まぐれで、しろがありそうな奴に一宿一飯いっしゅくいっぱんをくれてやるのも悪かねえかってだけだったが。そのお前が、寄寓きぐうするだけにとどまらず、旗司誓として隊の副座ふくざを勤め上げるようになって、騎獣きじゅうを扱える操舵そうだ手となり……目線の高さまで、こうして俺と大差なくなった。来年あたりにゃ、きっかり頭半分は追い越されちまうだろう」

「そんな―――」

「そうなるさ。シゾーがそうだった」

 ぎくりと動けなくなる。視線のひと振りさえ出来ないほど―――硬直する。

 ザーニーイは回顧かいこしていた。不言ふげんかんのそれは、確かなことだった。ただしそこに、エニイージーはいない。それを確信するしかなかった。だから、息継ぎさえ途絶してしまうほど……身動きが取れない。

「来年、そのまた次の年……そのあかつきに、お前は、どんな大人になるんだろうな?」

 だからこそ、今度こそは懐古かいこではなく未来を含んで、こちらを向いてくれた―――凝固を解いてくれた、その人に。

「俺は、」

 エニイージーは、宣誓せんせいした。

「頭領に肩を並べるくらいの旗司誓になります。なってみせますから、だから―――その時まで、見ていてください。頭領。俺が、すぐに、そこまで行くさまを」

 じっと……そのまま、物音すら失くして、しばし。

 ザーニーイは、深く首肯しゅこうした。笑むでもないが、穏当な真面目まじめさを帯びた目線で、無言の感投詞かんとうしにおわせた。

「ありがとう……お前の旗幟きしならば、俺も信じられると―――そう思えた」

「ありがとうございます。俺も、双頭三肢そうとうさんし青鴉あおからすを信じています」

 と。

 鼻息荒く赤面して拳骨げんこつを固めるエニイージーとは裏腹に、沈着とした物腰を更に沈み込ませて、ザーニーイが答弁はしまいとばかりに首を横振りしてみせた。

「にしたって……もうそろそろ休め。俺も、明日にして―――もう、行くからよ」

「明日にして?」

 ふと引っかかって、き返す。

「もしかして、ここで誰か待ってたんですか?」

「あ。ああ、いや―――待ってたって程じゃないさ」

「まさか、ゼラさん? どっか怪我けがしたんですか?」

「違う」

 否定そのものでなく、断定の強さと敏捷びんしょうさに、ぴんとくる。

 素知そしらぬ顔で、エニイージーはかまをかけた。

「あ。医者なら、副頭領を―――」

「野郎は関係ねえ!」

 声をあららげてまで、中絶ちゅうぜついてから。

 まるでそれ自体が失策だったとばかり、遺憾いかんを込めた舌打ちをして。すごめた剣幕けんまくに引きずられるように、ザーニーイが叱咤しったを飛ばしてくる。

「あのな。こればっかりは くどいほど言ってるが、お前はせねえくれえにシゾーにだきゃあ風当たりが強すぎだ。いやしくも副頭領相手に―――蛇蝎だかつじゃねえんだぞ。そこまで根っからにされちゃ、俺だってたまったもんじゃねえ。逐一ちくいちどやしつけるにしたって追っつくかってんだ」

「すみません」

「いいか、食えねえ奴にゃあ関わんな。こんな時まで、……いい加減にしやがれ」

「すみません」

「たりめぇだ畜生、くさくささせやがって……まっぴらだ。食傷しょくしょうにしたって、煮しめた小言こごとなんざ食えたもんじゃねえっつの。いいか。あいつ見かけても、このことは黙っとけよ。じゃあな。二十重はたえある祝福しゅくふくを」

「はい。背に二十重ある祝福を」

 そのまま、提灯ランプと共に廊下の奥へと去っていく背中を見送って。

 その足取りの滑らかさこそ、ぎくしゃくと蹌踉そうろうめく肢体したいに気を抜けない状態なのだと、語るに落ちていた。そう……見えた。

 見えたからこそ、またしても暗闇くらやみにひとりだけ。その空間に釣り合う陰気な激昂げっこうを、エニイージーは―――隠密おんみつながら、食い殺し損ねてしまった。

「神経質になってたのは……今ばっかりは、頭領の方じゃないですか」

 そして再び、こぶしを固める。ただし今回は、まごつくことのない、別の激情に駆られて。

(あの野郎―――なにしやがった。医者見習いのあんたさえらないくらいのかすり傷なら、ゼラさんの魔術が必要なわけねえ。だのに……だと言うのに、それでもな。頭領は今、あんたを回護かいごしていたぞ。ゼラさんの部屋を訪ねるみたいな、直接的な動きさえ遠慮するくらいに。幼馴染おさななじみだからってだけで。今回すら!)

 シゾー・イェスカザ。しき確証として、これはもう死活的だ。邪推じゃすいだとたかくくっていられる余地などない―――不倶戴天ふぐたいてん怨敵おんてきに、とうに立つ瀬など残されていない。それほどまでに、ありとあらゆる渉猟しょうりょうは、これについては し尽してきた。

(あいつのことだ……ぜってえ、なにかを、革命のおりに仕出かすぞ。それは、三年前よりも非道ひどうに違いない、外道げどうななにかだ)

 それを滅却めっきゃくできるのは、眼識がんしきを練ってきた自分だけだ。ザーニーイその人までもが、こうまでシゾーの肩を持つ姿勢を固めているのだから、これは当然の成り行きと言える。頭領は悪くない。ただ、昔からの眷顧けんこそむかず、人情家の兄貴風に吹かれるまま子分を手塩てしおにかけているだけだ―――それが、昔馴染むかしなじみの弟分から、筺底きょうてい蒼炎ツァッシゾーギに化けてしまっていようとも、肩を貸しているがゆえに死角となってしまっている。がら空きのわき腹に、本物の懐刀ふところがたなを差し込まれても、いつも通りに信じたままだから無防備でいる。三年より前から、そうだったように。

 エニイージーは、窓から外を見上げた。頭領が見ていた悔踏区域外輪かいとうくいきがいりんの空は、やみくもまれて、在天ざいてんしているはずの月のおぼろすら失っている。

(今はもう、そんな昔とは違う。俺がいる。頭領には、俺がいるんだ。俺が、なにがあっても、なにがなんでも―――!)

 確固としたそれに、なお確かなものを足したくて、エニイージーは残りを声に変えた。情を立てた。誓いを立てた。みさおを立てた。人を立てた。旗のように。

「俺だけは、……いますから。絶対に。だから、頭領。俺だけは。そばで、ずっと」

 いつだって大切にしてきた大切なものを、ずっと大切にしていく。これまでと変わらず、これからも。それはたった、それだけのこと。
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