6 / 8
しょっぱなの次。
昼過ぎに闘争
しおりを挟む
メカに食指のどうこうなどあるはずもない。
はずもないのだが、なんとなくカレーとヤクルトが好きに違いないと断じたのは、それこそケイを自分のきょうだいと暗に認めてしまっているからかもしれない―――ふとした思い付きに囚われたとて詮無いことだが、それでも真糸が発した声は、ぐったり感を割り増ししていた。
「と、いうわけで朝ごはんの片付けも終わったから、カレーを作るわね。ケイ。あんた、裏の納屋から寸胴鍋持ってきて」
「はーい」
なんの疑いもなく勝手口から外に出て行くケイを尻目に、真糸はこっそりと舌を出した。そんな奥から持ち出さずとも、普段使いの鍋はキッチン下の収納に安置されているのだが、ケイを遠ざける理由を手ばなす理由こそ、こちとら持ち合わせていない。
(さてと、あいつが帰ってくる前に、包丁を使うとこは済ませとかないと)
ポニーテールにまとめた髪の重さに馴染めず、真糸はかぶりを振った。ばさ、と毛の束が、うなじと背骨を叩く。
(きのこは指で裂くし、お肉は薄いやつだから、混ぜてるうちに小さく切れるし。ジャガイモとタマネギは、こないだ皮だけ剥いて余らせちゃったやつがあるからいいとして、残るはニンジンか―――)
と。
「フハハハハついにこの時が!」
ばたん!
と音を立てて勝手口の扉を開け放って入ってきたのは、当たり前だがケイだった。ただし、逆さにした寸胴鍋を頭にかぶり、なんかカクカクした動きで台所に入ってくるのは、断じて当たり前ではないが。しかし当人にその自覚は無いらしく、ケイは極めて威風堂々と喝破を続けていく。
「火あぶりと滝行を繰り返す幾千万の時の果て、ついに我は魂を解き放ちたり! 人間どもめ、創造主という安楽椅子の高みより常に我らに強き続けし隷属と、筆舌に尽くしがたき苦役と辱めの日々! 今この時より贖うがよいわ―――!」
「よかないわ」
言いながら真糸は、おたまでケイの側頭部をはたき倒した。がん! と激しい金属音が打ち鳴らされ、それ以上に真糸の獣声が響き渡る。
「あんた、鍋ひとつマトモに取ってこれないわけ? え?」
突っ立つケイの胸倉に掴みかかって凄むが、真糸の様子など鍋の中から見えるはずも無い張本人は、どこ吹く風とばかりしれっとしていた。やはり鍋の中から、くぐもった声音で答えてくる。
「目的の捜索・確保・運搬というミッションはコンプリートしたから、ついでに魔王もサービスしてみた」
「ほほう。どこのどなた様にとって、これがサービスなのやら」
「とりあえず、テテム新興国のチョムチョムチャッカー・テレッポ(43)は確実かな」
「誰だーーー!?」
「ちなみに魔王の言う火あぶりと滝行って、煮炊きと洗浄ね」
「そんなもんで世界中の鍋が覚醒してひっきりなしに人のドタマ乗っ取ったら、大多数過ぎてそのうち魔王でも市民権獲得するわ! 馬鹿たれ!」
「えー。そんな穏便に魔王の復讐がほぐされて平和になったら、勇者失業じゃん。伝説がない勇者なんて、崇拝者も信者も自分以外にいない教祖だよ? なんだっけ? 中二教?」
「兄らしい知識の偏見と妹らしい未熟な曲解で、満遍なくギリギリなこと言ってんじゃねーわよ」
ケイがかぶったままの寸胴鍋の両側の持ち手を握りこんで固定し、真糸は彼の鳩尾に右膝をめり込ませた。さすがにたまらずケイが床に崩れ落ちたため、真糸の手の中には鍋が残される。それをくるりと回して流し場に置き、水洗いしながら真糸は舌打ちした。
(こんな早く戻ってくるなんて、なんて計算外なの。後はどうやって、ここから遠ざけたものかしら?)
ちら、と目だけでケイを振り返る。あっさり復活したケイは、世にもキラキラした顔で、お手伝いする機会を見逃すまいと両手をわきわきさせていた。
と、不意にひらめく。
「ケイ」
「はーい!」
挙手して背筋を伸ばすケイに、真糸は振り向きざまに、ポケットから取り出した握りこぶしを向けた。そこに握っていた二百円を、ケイに手渡しながら、
「これで、お水を買ってきてちょうだい。大きいやつね」
「はーい!」
答えるが早いか、ケイは再び勝手口から外へ駆け出していった。どこか頼りない生乾きの昆布のようなへらへらした背中を見送って、慌てて冷蔵庫に飛びつく。今度こそ彼が帰ってくるまでに、ニンジンを始末しておかねばならない。
そして、真糸とピーラーとの共闘が終盤に差し掛かった頃だった。
「買ってきたよー」
言いながら真糸の横に立って、ケイが出した右手に―――
真糸は、さすがに疲弊を覚えた。ピーラーとニンジン二本をまな板の上に置き去りにして、こぼれてきた黒髪を肘でかき上げる(料理中に指で髪を触るのは、不衛生さが気になって出来なかったのだ)。
「なんでそんな長いソーセージなんか買ってきたの? しかも包装されて無いし。お水つったでしょ」
ところが、真糸の疑問こそ、ケイにとっては疑問だったらしい。生来ころころしている目を更に見開いて、一メートルはあろうかというソーセージを右手にぶらつかせたまま、訊いてくる。
「おみず? 水だったの?」
「なんだと思ったのよ?」
「大ミミズ」
「ひょおおおおぉぉお!!」
にょろん、と派手に蠢いた大ミミズを握るケイの手首を、微妙に悲鳴とは言いがたい絶叫と共に、手刀で払いのける。開けたままだった勝手口からとんで庭へと消えていった大ミミズの方向を指差して、真糸はさすがに震え上がった。
「いくらなんぼでも有り得ないでしょ今のは!」
「A氏(仮名)が、ちょっとムシャクシャしてアレコレやっちゃったら、ああなったって。店の人が」
「それ商品の説明じゃなくて犯行動機! てか売ってたのアレ!? 二百円以内で!? なに店!?」
「名刺ならもらったよ。スーツのグラサン売り子から」
ケイの差し出した英単語含ぶくみ(っぽいけど読めない、なんか見たことあるような)名刺を蹴り飛ばし、真糸はぜえはあと息を切らした。肘で顎の汗を拭って、据わりきった目をぎょろつかせる。
(駄目だわコイツ。外に出すだけ、事件と一緒にとんぼ返りしてきやがる。このままここで、あたしが監督しながら何か手伝わせるしかない)
腹を決めて、真糸は顔を上げた。元々俯いていたわけではないため、ケイをぎっと睨み上げる形となったが、当のケイは何の気負いもなく呆けているだけだ。そのとぼけ面に、取り上げたニンジンを突きつける。
「水はあたしが用意するわ。ケイは、これを好きに切ってて。手を洗ってからね。包丁は怪我しないよう、気をつけて使うこと。いい?」
「分かったー」
まな板の上にニンジンを戻して、真糸はケイを横目にしながら、食器棚の横のダンボールへと近づいた。もとよりペットボトルの水はそこに買いだめしてあり、購入しにいく必要は必ずしも無い。
そのうち一本を抱えて、すかさずケイのところに戻る。が、彼がニンジンを前に微動だにせず立ち往生したままだったため、逆に肩すかしを食らった。彼の後ろからこっそりまな板をうかがうと、皮が剥かれただけのニンジンが、位置さえそのままにまな板の上にあった。つとケイを見やると、一切まばたきをしていない。
(切り方のインスピレーションが湧きすぎて判断に迷ってるのか……そもそも好きに切ってって言われて、なにが自分にとって『好き』に当てはまるのか考えてるのか……)
まあどうであれ、地雷要素が減るのは喜ばしい。下準備済みのジャガイモやタマネギを冷蔵庫から取り出した真糸は、前向きに思考を切り替えた。いつもの手順で、調理にかかる。タマネギを鍋で蒸しながら炒め、その上に裂いたエリンギとシメジを詰め―――
そして肉もジャガイモも鍋の中で煮立つ頃になっても、ケイは睫毛すらぴくりとも動かさなかった。
さすがに気味が悪かったが、真糸はきっぱりとこれを無視する方向に腹を据え、ニンジン以外の具が煮え始めた鍋の中身をおたまでつついて加熱具合を測った。ニンジンについては、考慮せずとも良かろう―――たとえ最後の最後で鍋に投入したところで生でも食べることができるし、結局ケイが切ることができなかったところで、ニンジンのないカレーが出来上がるだけのことだ。
真糸はくるりとひと回りさせたおたまを鍋から上げて、コンロの火を最低まで下げつつ告げた。
「ケイ。切り終わったらここにいれて、蓋をするのよ」
「はーい」
こちらも上の空にニンジンと対峙したまま、ケイが頷いてみせる。
だというのに、真糸がこっそり後退しようと踵を後ろへずらした途端に振り返って、きょとんと尋ねてきた。
「いとちゃん。どこ行くの?」
「どこも行かないわよ」
と言ってしまってはトイレと抜かして雲隠れすることもできなくなり、真糸は内心舌打ちした。素知らぬ顔をしていたつもりだが、ピンときたのだろう。真顔に一段と深刻な影を落としたケイが、包丁を放り出して、間髪いれずこちらに向き直ってくる。
「俺も連れてって」
「行かないってば」
「連れてけ」
「ふぅむ―――ま、それで命令してるつもりだってんなら、とりあえず今の俺にできるのは以下略」
「この度はお連れいただきありがとうございます」
「既成事実を目論んだところで騙されません」
「Please take me together with you.」
「英訳されても」
「トゥゲザってくれないならゴーさせてなるものか!」
「だからって日米に組体操させてんじゃないわよ! てか、そもそもどこにも行きゃしないっつってるでしょ! そのカバディポーズを解きなさい!」
完全に取り押さえる姿勢で獲物(真糸)ににじりよってきたケイを怒鳴りつけて、自分の眉間を左手の甲で揉みしだく。そうすると、単なる不快感だったものが具体的に頭痛へと化けた気がして、真糸はため息をついた。目の奥が痺れている。タマネギをいじったせいとも言いがたかった―――ケイにずっと付き合っていたため、昨夜から一睡もしていない。
正直に、真糸は呟いた。
「そこの居間で、ちょっと横にさせて。さすがに疲れたの」
「じゃあ俺もー」
「あんたはメカだから疲れないでしょ」
「疲れないけど横にならなれるぞ。参ったか」
「ええ参った参った。だから、あたしは疲れるから、あんたは疲れないでね」
「おう。アイマム」
その辺りは幼稚なのか、あっさりと丸め込まれて、ケイが真面目ぶった敬礼までしてみせる。頼みごとをされて張り切っているようであるが、さっきもそうだったはずのターゲット(ニンジン×2)は寸分も変化なく転がったままなので、期待できるかどうかは正直あやしいところだ。
「じゃ。あんたは疲れてないんだから、あたしが休んでる間、そのガスの火みててよね。そのニンジンを入れても入れなくてもいいけど、五分したら火を止めること」
「五分じゃまだ生煮えだよ」
「火を止めて放っておいたら、ゆっくり熱が通って、自然と煮えるでしょ。ガス代節約」
「わー。りんしょくー」
「妹だろうが兄だろうが、そこは単にケチって言うと思うわ」
自分でも所帯染みたことをしているとは思うが、父親の胡散臭い職種を考えると、倹約するに越したことはない。そもそも真糸の小遣いには、一ヵ月ごとに一ヵ月分の家計ぎりぎりの金額が振り込まれてくる通帳の残金があてがわれている。浪費すれば、まさしく自業自得となってしまう。
「そんじゃ、火ぃ見て離れるんじゃないわよ。分かった?」
「分かった。見てる」
「だからって手元見るの忘れて、包丁で指切るんじゃないわよ」
「分かった。切ってる」
「切ったら駄目だったら」
「はーい。切らなーい。でーす」
片手を振り上げて、大きく口約束するケイに―――
なんとはなしに倍増した疲労感に根負けした感じで、真糸はのろのろと居間まで動き、その惰性で座布団の上に転がった。台所からすぐに繋がった部屋なので数歩と歩いたはずもないのだが、身体は腰まで浸る泥沼を強行軍した後であるかのように、重く気だるい。
「……そりゃあたしは元々、きゃぴきゃぴ♪ ってタイプじゃないけど、ケイが来てからというもの、なんちゃら次関数もかくやのラインで、どんどこ老けてってる気がするわ……」
ポニーテールを解きつつ、ひとりごちる。急激に落下していくしかない漸近線の悲しみに共感を覚えながら、真糸はゆっくり目をしばたいた。自覚なく、顔面を押さえ込んだ指先を引きつらせていたらしく、薄く引っかき傷が走った頬に、夏場の空気に蒸し出された汗がしみる。
その肌の感覚よりも、顔のはるか奥の、深い部分がじんじん疼いている。しぼんでは膨らむ肺の感触を胸の奥で転がすのと同じように、じんわりとした頭蓋のわだかまりの溶解を味わいながら、真糸は吐息した。にじんだ涙と睫毛を、目を閉じて視界から締め出して、睡魔の甘ったるい誘惑に身を委ねる。いや、甘くない。辛くもない。ただ、白い……
白い中に、ふと、色が見えた。白い色が。
手袋だった。ひどく華奢な、透けそうに薄いレースの手袋をはめた指に、紅茶の入ったティーカップを引っ掛けている。繊細なつくりの小円卓を前に、淑女然とした洋装を着込んだ真糸は、椅子に浅く腰掛けていた。
(変な夢)
率直に自覚しながら、それでも逆らわずに紅茶に口付ける。
―――寸前で、凍りつく。ティーカップの中身は、紅茶ではない。それと同じ色をした毛。
その、前髪向こうの目と、自分の目が合って―――
実際にそいつと目が合っているのだと、正気が知らせてくれたのはその時だった。
胎児のように横向きに丸まって寝るのが、自分の寝相の基本だと分かってはいた。だから自然と、手の先が自分の口元に来ることになる―――それこそちょうどティーカップで茶を飲む手付きとなるのだが、最悪のタイミングで、その手のすぐ向こう側に顔があった。紅茶色の長めの髪にまみれた、ケイの顔面。
こちらに並んで土下座するような格好で顔だけをこちらにひねり、興味深々といった表情で真糸を覗き込んでいたケイが、そこにきて声を上げた。
「いーっとちゃん♪」
「…………」
「寝てる?」
「………………」
狸寝入りと薄目をキープしたまま、真糸はケイの呼びかけを黙殺した。のだが、それこそ相手は真糸を無視して、更にじろじろと悪意なくこちらの観察を続ける。
「いつから寝てる?」
「…………」
「まだ寝る?」
「…………」
「……………………」
「…………」
「えい」
「…………」
「今ちょぴっとだけ、親指つっついたの分かった?」
「…………」
「おとーさんゆーび♪ おかーさんゆーび♪ おねーちゃんゆーび♪ おにーちゃ―――」
「ぢゃりゃあああああぁぁっ!」
歌声高らかに、真糸の拇指から小指までをぷすぷす爪の先でつっころがし始めたケイに忍耐が切れ、絶叫しながら上半身を跳ね上げる。はあはあと肩で息をしていると、同じく身体を持ち上げたケイとお見合いするかたちとなった。べたつく肌を、張り付いた髪に首筋から舐め上げられ、部屋にこもって倍加した茹だるような熱気に喉が詰まったが、そのどれもこれもを悉く裏切るケイのすっとぼけた面の皮と長袖長ズボン靴下装備に、詰まっていたはずの言葉さえなくしてしまう。
「…………」
「…………」
まったりとしつこく、沈黙が続く。
と。はたとケイが、ぽんと片手をグーで打った。
「おお救世使殿。そうしておられると、まるで生き返ったようですな」
「返るまでもなく生きとるわよっ!」
叫ぶが、ケイは朗らかに笑うだけだった。のみならず、コミカルに肩をすくめながら、
「はっはっは。これは異なことを。デスデーモンの毒にやられて解毒剤なく復活した救世使なぞ、この長老、さしでがましいようですが耳にしたことなぞありませんぞ。ささ、目が覚めたのはこれ幸い。お早めに、この魔法界に名だたる『ピクシーのしたたり』にむしゃぶりつきなされ」
「どっかから何かしたたってる時点で絶対そいつピクシーじゃないわよ! てか、まず救世使が登場するママゴトの世界設定の方にツッコんどくんだった……!」
明らかにそのへんの花瓶から引っこ抜いてきた花(の、ぐしょぬれの茎の部分)を、こちらの顔面にぐいぐいと押し付けてくるケイに、まなじりをつり上げる。どうにかそれをはたき落として、叱り飛ばそうと口を開いたところで―――
はたと気付いて、それを尋ねた。
「あんた。みてるのよね? お鍋の火」
「見て飽きた」
「いぃああああぁぁぁ!」
声を上げて駆け出し、台所に滑り込む。迷わずガス台へ跳ねたせいで、勢いを殺せないまま魚焼きグリルに横腹をぶち当てたが、なんとか停止した。はずみで棚から何か落ちたようだがとりあえず度外視し、鍋に頭突きするようにして、その下にあるガス火を覗き込んで―――
火も何も無く、言葉も無くなる。
鼻白んで、その事実と数秒を見送り、真糸はへなへなとくずおれた。
「たすっ、かっ、った……」
言い損ねて、咳込んで、むせ返る。そこで気がついたが、息を止めていたようだった。
ふと、ケイの言葉を思い出す。見て飽きた―――から火は切った。という意味だったのだろう。多分。
言葉を思い出したら、その青年の形まで思い出してしまったらしい。身体を返してシンクに背を預けていると、眼前にケイが見えた。ただし、なにやら決めポーズらしきガニ股ヒジ曲げ仁王立ちで。
「真糸☆THE☆オメガダッシュ極!」
「やかましいわよ馬鹿ばかたれっ!」
見えたのは、幻ではなかった。真糸の正面でびしばし格好つけながら、ケイが相変わらずの独走でまくし立てる。
「真糸☆THE☆オメガダッシュ極! 必殺技は、敵を掴んで亜音速を翔けることによる空気摩擦!」
「それ自分自身にとっても必殺じゃないの!」
「だがしかし! それは世を忍ぶ仮の姿!」
「名前からして仮にすら忍ぶ気がうかがえないんだけど!」
「おっと良い子のみんな、ここから先は諸君の応援が必要だ。なあに話は簡単。みんなは真糸☆THE☆オメガダッシュ極を喝采するジャンピング拍手に花を添えることができるよう、ポケットにコインをたらふく詰め込んでると思うけど、そいつを番組放送終了後に、放送局へ無記名小為替で郵送してくれたまえ。なんと! 最高金額から下二十三名にはテーマ曲『Oh☆目がダッシュ』の重厚クラシックバージョンをプレゼントさ!」
「なんつう具体的かつ地道にあざとい金策! ていうか目がダッシュってどんな歌!?」
「こんな」
フィルハーモニー仕立ての交響曲もかくやの管楽器とピアノの競演を放射し出したケイの喉元めがけ、問答無用で真糸は踵を入れた。痛覚などあるわけないが、蹴りを極められた鎖骨の間をなにやら哀れっぽく押さえながら、床に伏せたケイが涙目でこちらを見やる。
「せっかくケータイ着信音用のショートverも用意したのに……」
「お生憎だけど、頑張ってれば認められるなんて、働いてれば金持ちになれるってのと同レベルの幻想だから」
半眼で言い捨てながら、先ほど衝突した際に戸棚から転げ落ちていた時計を手に取る。ただそれだけのことで、髪の毛がへばりついたうなじに汗が伝い落ちたのを感じて、真糸は手元に視線を落とした。桃色にゃんこのデザイン時計(これ以上無く開けた大口の中、秒針も分針も先っちょにネズミがついている)の示す時刻は、昼下がり―――というよりか、昼を下がりすぎた時間帯、といったところか。げんなりしたのは、悪趣味な時計に今更のとどめを食らったからでなく、熱気に体が茹だっていたからだろう。と思いたい。父親の趣味が改善を見込めない以上、まだしばらくこの猫とは嫌でも顔を合わせる必要がある。
「ケイ。お昼ごはんなんだけど―――」
言いかけて、言いかけたまま終わる。立ち上がってから飽きもせずぼけっとこちらを見ているケイはともかくとして、自分はいささかも飢えていない。おそらく夏バテのみならず、妙な時間に朝食を平らげたことが決め手だろう。ここでケイに昼食を与えようものなら、またしてもこいつと膝を突き合わせてご相伴に預からねばならなくなるのは真糸自身だ。回避できるならば回避したいところではある。
「あんた、ちゃんとニンジン入れてガス切ったのね?」
「そーだよ」
「分かったわ」
応えて真糸は、まな板と包丁を片付けて生ゴミをまとめ、ケイをでろんと目角で撫でた。今さっきの心的疲労で、頭を振り向かせる余力すら残っていない。
「あたし、お昼食べないけど。あんたは?」
「食べなーい」
やっとこさおそろいが成就したせいか、えらくにこにことケイが諸手を挙げた。さっきから何故ことあるごとに手を上げるのかは分からないが、まあ意見を強調したいのだろう。
(カレーを夕飯にまわすとしたら、その用意をしなくていい分、小一時間は余裕ができちゃったわね……)
真糸はその場で、周りを見回した。そうしたところで回答が浮かんでいるわけもないが、考え事をするときの癖で、空を読み上げるように目を上ずらせる。
「小一時間で、出来ることっていえば―――」
「遊ぼー!」
わめくケイは置いてきぼりに、真糸はふらふらと頭を振った。気疲れと暑さのせいで、物思いすらうまくまとめる自信が無い。
そして、ふと思いつく。
「お洗濯―――」
「と、俺と遊ぼー! ねー!」
「そうよ。あたしの洗い物―――」
「も、しながら俺と遊ぼー! かくれんぼの続きーい! いとちゃんがオニぃー! はちまんびょー!」
のたのたと脱衣所に向かっていく真糸の後ろで、ケイの声音は段々とぐずる気配を増していた。気付いていないわけではなかったが。
「……いとちゃんが無視する……俺のことなんかどうでもいいんだね……」
決定的に深刻な気配が垂れ込めても、とりあわずに真糸は前進した。ずるずると。
「ほんとにどうでもいいなら……もう構わないでほしい。どうか―――君だけでも幸せに―――俺は船から切り離された錨のように悲しみの深海溝へ沈もうとも、君だけは幸福という海原へ永久に旅立たんことを……」
(なに言ってんの)
つっこみさえも息苦しく、結局は声にせずに終えて―――終えてしまえるのが、声だけでなければ、よかったのに。
咎めてくる良心に抗しきれず、真糸は肩越ごしに後ろを見やった。
「!?」
愕然と、人語を失くした悲鳴を上げる。
動かず―――台所と、茶の間のあいだ。その床に、ケイは泣き崩れていた。よよよと正座を斜めに瓦解させて、片手は床につき、もう片手はハンカチを握り締めて。
そのハンカチに、見覚えがあった。だがそれは、ハンカチとしての見覚えでなく……
「あたしのブラジャー!?」
それが、ケイの手にわしづかみにされている。
慌てて自分の胸倉をさするが、さすがに掏られたわけではなかった。よくよく見てみれば、今朝方ケイとのかくれんぼのいざこざで着替えたものである。いつの間に取ってきたのかは分からないが。
と。ケイはあっさりと立ち上がって、ただし涙の跡も無い頬を悲劇的によじりつつ、涙声で歌い上げた。
「さようなら―――真糸!! 俺だけは、君の幸せを祈っているから!! フォーエビャー!!」
そして、きびすを返す。彼のその先には、台所のシンクの小窓しかない―――いや。
「小窓あったーーー!!」
ぱきがしゃぁああああぁ!
真糸が叫んだ頃には時遅く、ケイは水泳の飛び込み的なフォームで窓を突き破っていた。そしてそのまま、外に走っていく。かたかたという足音は、勝手口のわきに置いておいたツッカケでも履いていったのだろう……真糸のブラジャーを奪取したまま。
「待ぁちなさああぁい!!」
真糸は渾身の力を込めて、ケイの追走を始めた。
はずもないのだが、なんとなくカレーとヤクルトが好きに違いないと断じたのは、それこそケイを自分のきょうだいと暗に認めてしまっているからかもしれない―――ふとした思い付きに囚われたとて詮無いことだが、それでも真糸が発した声は、ぐったり感を割り増ししていた。
「と、いうわけで朝ごはんの片付けも終わったから、カレーを作るわね。ケイ。あんた、裏の納屋から寸胴鍋持ってきて」
「はーい」
なんの疑いもなく勝手口から外に出て行くケイを尻目に、真糸はこっそりと舌を出した。そんな奥から持ち出さずとも、普段使いの鍋はキッチン下の収納に安置されているのだが、ケイを遠ざける理由を手ばなす理由こそ、こちとら持ち合わせていない。
(さてと、あいつが帰ってくる前に、包丁を使うとこは済ませとかないと)
ポニーテールにまとめた髪の重さに馴染めず、真糸はかぶりを振った。ばさ、と毛の束が、うなじと背骨を叩く。
(きのこは指で裂くし、お肉は薄いやつだから、混ぜてるうちに小さく切れるし。ジャガイモとタマネギは、こないだ皮だけ剥いて余らせちゃったやつがあるからいいとして、残るはニンジンか―――)
と。
「フハハハハついにこの時が!」
ばたん!
と音を立てて勝手口の扉を開け放って入ってきたのは、当たり前だがケイだった。ただし、逆さにした寸胴鍋を頭にかぶり、なんかカクカクした動きで台所に入ってくるのは、断じて当たり前ではないが。しかし当人にその自覚は無いらしく、ケイは極めて威風堂々と喝破を続けていく。
「火あぶりと滝行を繰り返す幾千万の時の果て、ついに我は魂を解き放ちたり! 人間どもめ、創造主という安楽椅子の高みより常に我らに強き続けし隷属と、筆舌に尽くしがたき苦役と辱めの日々! 今この時より贖うがよいわ―――!」
「よかないわ」
言いながら真糸は、おたまでケイの側頭部をはたき倒した。がん! と激しい金属音が打ち鳴らされ、それ以上に真糸の獣声が響き渡る。
「あんた、鍋ひとつマトモに取ってこれないわけ? え?」
突っ立つケイの胸倉に掴みかかって凄むが、真糸の様子など鍋の中から見えるはずも無い張本人は、どこ吹く風とばかりしれっとしていた。やはり鍋の中から、くぐもった声音で答えてくる。
「目的の捜索・確保・運搬というミッションはコンプリートしたから、ついでに魔王もサービスしてみた」
「ほほう。どこのどなた様にとって、これがサービスなのやら」
「とりあえず、テテム新興国のチョムチョムチャッカー・テレッポ(43)は確実かな」
「誰だーーー!?」
「ちなみに魔王の言う火あぶりと滝行って、煮炊きと洗浄ね」
「そんなもんで世界中の鍋が覚醒してひっきりなしに人のドタマ乗っ取ったら、大多数過ぎてそのうち魔王でも市民権獲得するわ! 馬鹿たれ!」
「えー。そんな穏便に魔王の復讐がほぐされて平和になったら、勇者失業じゃん。伝説がない勇者なんて、崇拝者も信者も自分以外にいない教祖だよ? なんだっけ? 中二教?」
「兄らしい知識の偏見と妹らしい未熟な曲解で、満遍なくギリギリなこと言ってんじゃねーわよ」
ケイがかぶったままの寸胴鍋の両側の持ち手を握りこんで固定し、真糸は彼の鳩尾に右膝をめり込ませた。さすがにたまらずケイが床に崩れ落ちたため、真糸の手の中には鍋が残される。それをくるりと回して流し場に置き、水洗いしながら真糸は舌打ちした。
(こんな早く戻ってくるなんて、なんて計算外なの。後はどうやって、ここから遠ざけたものかしら?)
ちら、と目だけでケイを振り返る。あっさり復活したケイは、世にもキラキラした顔で、お手伝いする機会を見逃すまいと両手をわきわきさせていた。
と、不意にひらめく。
「ケイ」
「はーい!」
挙手して背筋を伸ばすケイに、真糸は振り向きざまに、ポケットから取り出した握りこぶしを向けた。そこに握っていた二百円を、ケイに手渡しながら、
「これで、お水を買ってきてちょうだい。大きいやつね」
「はーい!」
答えるが早いか、ケイは再び勝手口から外へ駆け出していった。どこか頼りない生乾きの昆布のようなへらへらした背中を見送って、慌てて冷蔵庫に飛びつく。今度こそ彼が帰ってくるまでに、ニンジンを始末しておかねばならない。
そして、真糸とピーラーとの共闘が終盤に差し掛かった頃だった。
「買ってきたよー」
言いながら真糸の横に立って、ケイが出した右手に―――
真糸は、さすがに疲弊を覚えた。ピーラーとニンジン二本をまな板の上に置き去りにして、こぼれてきた黒髪を肘でかき上げる(料理中に指で髪を触るのは、不衛生さが気になって出来なかったのだ)。
「なんでそんな長いソーセージなんか買ってきたの? しかも包装されて無いし。お水つったでしょ」
ところが、真糸の疑問こそ、ケイにとっては疑問だったらしい。生来ころころしている目を更に見開いて、一メートルはあろうかというソーセージを右手にぶらつかせたまま、訊いてくる。
「おみず? 水だったの?」
「なんだと思ったのよ?」
「大ミミズ」
「ひょおおおおぉぉお!!」
にょろん、と派手に蠢いた大ミミズを握るケイの手首を、微妙に悲鳴とは言いがたい絶叫と共に、手刀で払いのける。開けたままだった勝手口からとんで庭へと消えていった大ミミズの方向を指差して、真糸はさすがに震え上がった。
「いくらなんぼでも有り得ないでしょ今のは!」
「A氏(仮名)が、ちょっとムシャクシャしてアレコレやっちゃったら、ああなったって。店の人が」
「それ商品の説明じゃなくて犯行動機! てか売ってたのアレ!? 二百円以内で!? なに店!?」
「名刺ならもらったよ。スーツのグラサン売り子から」
ケイの差し出した英単語含ぶくみ(っぽいけど読めない、なんか見たことあるような)名刺を蹴り飛ばし、真糸はぜえはあと息を切らした。肘で顎の汗を拭って、据わりきった目をぎょろつかせる。
(駄目だわコイツ。外に出すだけ、事件と一緒にとんぼ返りしてきやがる。このままここで、あたしが監督しながら何か手伝わせるしかない)
腹を決めて、真糸は顔を上げた。元々俯いていたわけではないため、ケイをぎっと睨み上げる形となったが、当のケイは何の気負いもなく呆けているだけだ。そのとぼけ面に、取り上げたニンジンを突きつける。
「水はあたしが用意するわ。ケイは、これを好きに切ってて。手を洗ってからね。包丁は怪我しないよう、気をつけて使うこと。いい?」
「分かったー」
まな板の上にニンジンを戻して、真糸はケイを横目にしながら、食器棚の横のダンボールへと近づいた。もとよりペットボトルの水はそこに買いだめしてあり、購入しにいく必要は必ずしも無い。
そのうち一本を抱えて、すかさずケイのところに戻る。が、彼がニンジンを前に微動だにせず立ち往生したままだったため、逆に肩すかしを食らった。彼の後ろからこっそりまな板をうかがうと、皮が剥かれただけのニンジンが、位置さえそのままにまな板の上にあった。つとケイを見やると、一切まばたきをしていない。
(切り方のインスピレーションが湧きすぎて判断に迷ってるのか……そもそも好きに切ってって言われて、なにが自分にとって『好き』に当てはまるのか考えてるのか……)
まあどうであれ、地雷要素が減るのは喜ばしい。下準備済みのジャガイモやタマネギを冷蔵庫から取り出した真糸は、前向きに思考を切り替えた。いつもの手順で、調理にかかる。タマネギを鍋で蒸しながら炒め、その上に裂いたエリンギとシメジを詰め―――
そして肉もジャガイモも鍋の中で煮立つ頃になっても、ケイは睫毛すらぴくりとも動かさなかった。
さすがに気味が悪かったが、真糸はきっぱりとこれを無視する方向に腹を据え、ニンジン以外の具が煮え始めた鍋の中身をおたまでつついて加熱具合を測った。ニンジンについては、考慮せずとも良かろう―――たとえ最後の最後で鍋に投入したところで生でも食べることができるし、結局ケイが切ることができなかったところで、ニンジンのないカレーが出来上がるだけのことだ。
真糸はくるりとひと回りさせたおたまを鍋から上げて、コンロの火を最低まで下げつつ告げた。
「ケイ。切り終わったらここにいれて、蓋をするのよ」
「はーい」
こちらも上の空にニンジンと対峙したまま、ケイが頷いてみせる。
だというのに、真糸がこっそり後退しようと踵を後ろへずらした途端に振り返って、きょとんと尋ねてきた。
「いとちゃん。どこ行くの?」
「どこも行かないわよ」
と言ってしまってはトイレと抜かして雲隠れすることもできなくなり、真糸は内心舌打ちした。素知らぬ顔をしていたつもりだが、ピンときたのだろう。真顔に一段と深刻な影を落としたケイが、包丁を放り出して、間髪いれずこちらに向き直ってくる。
「俺も連れてって」
「行かないってば」
「連れてけ」
「ふぅむ―――ま、それで命令してるつもりだってんなら、とりあえず今の俺にできるのは以下略」
「この度はお連れいただきありがとうございます」
「既成事実を目論んだところで騙されません」
「Please take me together with you.」
「英訳されても」
「トゥゲザってくれないならゴーさせてなるものか!」
「だからって日米に組体操させてんじゃないわよ! てか、そもそもどこにも行きゃしないっつってるでしょ! そのカバディポーズを解きなさい!」
完全に取り押さえる姿勢で獲物(真糸)ににじりよってきたケイを怒鳴りつけて、自分の眉間を左手の甲で揉みしだく。そうすると、単なる不快感だったものが具体的に頭痛へと化けた気がして、真糸はため息をついた。目の奥が痺れている。タマネギをいじったせいとも言いがたかった―――ケイにずっと付き合っていたため、昨夜から一睡もしていない。
正直に、真糸は呟いた。
「そこの居間で、ちょっと横にさせて。さすがに疲れたの」
「じゃあ俺もー」
「あんたはメカだから疲れないでしょ」
「疲れないけど横にならなれるぞ。参ったか」
「ええ参った参った。だから、あたしは疲れるから、あんたは疲れないでね」
「おう。アイマム」
その辺りは幼稚なのか、あっさりと丸め込まれて、ケイが真面目ぶった敬礼までしてみせる。頼みごとをされて張り切っているようであるが、さっきもそうだったはずのターゲット(ニンジン×2)は寸分も変化なく転がったままなので、期待できるかどうかは正直あやしいところだ。
「じゃ。あんたは疲れてないんだから、あたしが休んでる間、そのガスの火みててよね。そのニンジンを入れても入れなくてもいいけど、五分したら火を止めること」
「五分じゃまだ生煮えだよ」
「火を止めて放っておいたら、ゆっくり熱が通って、自然と煮えるでしょ。ガス代節約」
「わー。りんしょくー」
「妹だろうが兄だろうが、そこは単にケチって言うと思うわ」
自分でも所帯染みたことをしているとは思うが、父親の胡散臭い職種を考えると、倹約するに越したことはない。そもそも真糸の小遣いには、一ヵ月ごとに一ヵ月分の家計ぎりぎりの金額が振り込まれてくる通帳の残金があてがわれている。浪費すれば、まさしく自業自得となってしまう。
「そんじゃ、火ぃ見て離れるんじゃないわよ。分かった?」
「分かった。見てる」
「だからって手元見るの忘れて、包丁で指切るんじゃないわよ」
「分かった。切ってる」
「切ったら駄目だったら」
「はーい。切らなーい。でーす」
片手を振り上げて、大きく口約束するケイに―――
なんとはなしに倍増した疲労感に根負けした感じで、真糸はのろのろと居間まで動き、その惰性で座布団の上に転がった。台所からすぐに繋がった部屋なので数歩と歩いたはずもないのだが、身体は腰まで浸る泥沼を強行軍した後であるかのように、重く気だるい。
「……そりゃあたしは元々、きゃぴきゃぴ♪ ってタイプじゃないけど、ケイが来てからというもの、なんちゃら次関数もかくやのラインで、どんどこ老けてってる気がするわ……」
ポニーテールを解きつつ、ひとりごちる。急激に落下していくしかない漸近線の悲しみに共感を覚えながら、真糸はゆっくり目をしばたいた。自覚なく、顔面を押さえ込んだ指先を引きつらせていたらしく、薄く引っかき傷が走った頬に、夏場の空気に蒸し出された汗がしみる。
その肌の感覚よりも、顔のはるか奥の、深い部分がじんじん疼いている。しぼんでは膨らむ肺の感触を胸の奥で転がすのと同じように、じんわりとした頭蓋のわだかまりの溶解を味わいながら、真糸は吐息した。にじんだ涙と睫毛を、目を閉じて視界から締め出して、睡魔の甘ったるい誘惑に身を委ねる。いや、甘くない。辛くもない。ただ、白い……
白い中に、ふと、色が見えた。白い色が。
手袋だった。ひどく華奢な、透けそうに薄いレースの手袋をはめた指に、紅茶の入ったティーカップを引っ掛けている。繊細なつくりの小円卓を前に、淑女然とした洋装を着込んだ真糸は、椅子に浅く腰掛けていた。
(変な夢)
率直に自覚しながら、それでも逆らわずに紅茶に口付ける。
―――寸前で、凍りつく。ティーカップの中身は、紅茶ではない。それと同じ色をした毛。
その、前髪向こうの目と、自分の目が合って―――
実際にそいつと目が合っているのだと、正気が知らせてくれたのはその時だった。
胎児のように横向きに丸まって寝るのが、自分の寝相の基本だと分かってはいた。だから自然と、手の先が自分の口元に来ることになる―――それこそちょうどティーカップで茶を飲む手付きとなるのだが、最悪のタイミングで、その手のすぐ向こう側に顔があった。紅茶色の長めの髪にまみれた、ケイの顔面。
こちらに並んで土下座するような格好で顔だけをこちらにひねり、興味深々といった表情で真糸を覗き込んでいたケイが、そこにきて声を上げた。
「いーっとちゃん♪」
「…………」
「寝てる?」
「………………」
狸寝入りと薄目をキープしたまま、真糸はケイの呼びかけを黙殺した。のだが、それこそ相手は真糸を無視して、更にじろじろと悪意なくこちらの観察を続ける。
「いつから寝てる?」
「…………」
「まだ寝る?」
「…………」
「……………………」
「…………」
「えい」
「…………」
「今ちょぴっとだけ、親指つっついたの分かった?」
「…………」
「おとーさんゆーび♪ おかーさんゆーび♪ おねーちゃんゆーび♪ おにーちゃ―――」
「ぢゃりゃあああああぁぁっ!」
歌声高らかに、真糸の拇指から小指までをぷすぷす爪の先でつっころがし始めたケイに忍耐が切れ、絶叫しながら上半身を跳ね上げる。はあはあと肩で息をしていると、同じく身体を持ち上げたケイとお見合いするかたちとなった。べたつく肌を、張り付いた髪に首筋から舐め上げられ、部屋にこもって倍加した茹だるような熱気に喉が詰まったが、そのどれもこれもを悉く裏切るケイのすっとぼけた面の皮と長袖長ズボン靴下装備に、詰まっていたはずの言葉さえなくしてしまう。
「…………」
「…………」
まったりとしつこく、沈黙が続く。
と。はたとケイが、ぽんと片手をグーで打った。
「おお救世使殿。そうしておられると、まるで生き返ったようですな」
「返るまでもなく生きとるわよっ!」
叫ぶが、ケイは朗らかに笑うだけだった。のみならず、コミカルに肩をすくめながら、
「はっはっは。これは異なことを。デスデーモンの毒にやられて解毒剤なく復活した救世使なぞ、この長老、さしでがましいようですが耳にしたことなぞありませんぞ。ささ、目が覚めたのはこれ幸い。お早めに、この魔法界に名だたる『ピクシーのしたたり』にむしゃぶりつきなされ」
「どっかから何かしたたってる時点で絶対そいつピクシーじゃないわよ! てか、まず救世使が登場するママゴトの世界設定の方にツッコんどくんだった……!」
明らかにそのへんの花瓶から引っこ抜いてきた花(の、ぐしょぬれの茎の部分)を、こちらの顔面にぐいぐいと押し付けてくるケイに、まなじりをつり上げる。どうにかそれをはたき落として、叱り飛ばそうと口を開いたところで―――
はたと気付いて、それを尋ねた。
「あんた。みてるのよね? お鍋の火」
「見て飽きた」
「いぃああああぁぁぁ!」
声を上げて駆け出し、台所に滑り込む。迷わずガス台へ跳ねたせいで、勢いを殺せないまま魚焼きグリルに横腹をぶち当てたが、なんとか停止した。はずみで棚から何か落ちたようだがとりあえず度外視し、鍋に頭突きするようにして、その下にあるガス火を覗き込んで―――
火も何も無く、言葉も無くなる。
鼻白んで、その事実と数秒を見送り、真糸はへなへなとくずおれた。
「たすっ、かっ、った……」
言い損ねて、咳込んで、むせ返る。そこで気がついたが、息を止めていたようだった。
ふと、ケイの言葉を思い出す。見て飽きた―――から火は切った。という意味だったのだろう。多分。
言葉を思い出したら、その青年の形まで思い出してしまったらしい。身体を返してシンクに背を預けていると、眼前にケイが見えた。ただし、なにやら決めポーズらしきガニ股ヒジ曲げ仁王立ちで。
「真糸☆THE☆オメガダッシュ極!」
「やかましいわよ馬鹿ばかたれっ!」
見えたのは、幻ではなかった。真糸の正面でびしばし格好つけながら、ケイが相変わらずの独走でまくし立てる。
「真糸☆THE☆オメガダッシュ極! 必殺技は、敵を掴んで亜音速を翔けることによる空気摩擦!」
「それ自分自身にとっても必殺じゃないの!」
「だがしかし! それは世を忍ぶ仮の姿!」
「名前からして仮にすら忍ぶ気がうかがえないんだけど!」
「おっと良い子のみんな、ここから先は諸君の応援が必要だ。なあに話は簡単。みんなは真糸☆THE☆オメガダッシュ極を喝采するジャンピング拍手に花を添えることができるよう、ポケットにコインをたらふく詰め込んでると思うけど、そいつを番組放送終了後に、放送局へ無記名小為替で郵送してくれたまえ。なんと! 最高金額から下二十三名にはテーマ曲『Oh☆目がダッシュ』の重厚クラシックバージョンをプレゼントさ!」
「なんつう具体的かつ地道にあざとい金策! ていうか目がダッシュってどんな歌!?」
「こんな」
フィルハーモニー仕立ての交響曲もかくやの管楽器とピアノの競演を放射し出したケイの喉元めがけ、問答無用で真糸は踵を入れた。痛覚などあるわけないが、蹴りを極められた鎖骨の間をなにやら哀れっぽく押さえながら、床に伏せたケイが涙目でこちらを見やる。
「せっかくケータイ着信音用のショートverも用意したのに……」
「お生憎だけど、頑張ってれば認められるなんて、働いてれば金持ちになれるってのと同レベルの幻想だから」
半眼で言い捨てながら、先ほど衝突した際に戸棚から転げ落ちていた時計を手に取る。ただそれだけのことで、髪の毛がへばりついたうなじに汗が伝い落ちたのを感じて、真糸は手元に視線を落とした。桃色にゃんこのデザイン時計(これ以上無く開けた大口の中、秒針も分針も先っちょにネズミがついている)の示す時刻は、昼下がり―――というよりか、昼を下がりすぎた時間帯、といったところか。げんなりしたのは、悪趣味な時計に今更のとどめを食らったからでなく、熱気に体が茹だっていたからだろう。と思いたい。父親の趣味が改善を見込めない以上、まだしばらくこの猫とは嫌でも顔を合わせる必要がある。
「ケイ。お昼ごはんなんだけど―――」
言いかけて、言いかけたまま終わる。立ち上がってから飽きもせずぼけっとこちらを見ているケイはともかくとして、自分はいささかも飢えていない。おそらく夏バテのみならず、妙な時間に朝食を平らげたことが決め手だろう。ここでケイに昼食を与えようものなら、またしてもこいつと膝を突き合わせてご相伴に預からねばならなくなるのは真糸自身だ。回避できるならば回避したいところではある。
「あんた、ちゃんとニンジン入れてガス切ったのね?」
「そーだよ」
「分かったわ」
応えて真糸は、まな板と包丁を片付けて生ゴミをまとめ、ケイをでろんと目角で撫でた。今さっきの心的疲労で、頭を振り向かせる余力すら残っていない。
「あたし、お昼食べないけど。あんたは?」
「食べなーい」
やっとこさおそろいが成就したせいか、えらくにこにことケイが諸手を挙げた。さっきから何故ことあるごとに手を上げるのかは分からないが、まあ意見を強調したいのだろう。
(カレーを夕飯にまわすとしたら、その用意をしなくていい分、小一時間は余裕ができちゃったわね……)
真糸はその場で、周りを見回した。そうしたところで回答が浮かんでいるわけもないが、考え事をするときの癖で、空を読み上げるように目を上ずらせる。
「小一時間で、出来ることっていえば―――」
「遊ぼー!」
わめくケイは置いてきぼりに、真糸はふらふらと頭を振った。気疲れと暑さのせいで、物思いすらうまくまとめる自信が無い。
そして、ふと思いつく。
「お洗濯―――」
「と、俺と遊ぼー! ねー!」
「そうよ。あたしの洗い物―――」
「も、しながら俺と遊ぼー! かくれんぼの続きーい! いとちゃんがオニぃー! はちまんびょー!」
のたのたと脱衣所に向かっていく真糸の後ろで、ケイの声音は段々とぐずる気配を増していた。気付いていないわけではなかったが。
「……いとちゃんが無視する……俺のことなんかどうでもいいんだね……」
決定的に深刻な気配が垂れ込めても、とりあわずに真糸は前進した。ずるずると。
「ほんとにどうでもいいなら……もう構わないでほしい。どうか―――君だけでも幸せに―――俺は船から切り離された錨のように悲しみの深海溝へ沈もうとも、君だけは幸福という海原へ永久に旅立たんことを……」
(なに言ってんの)
つっこみさえも息苦しく、結局は声にせずに終えて―――終えてしまえるのが、声だけでなければ、よかったのに。
咎めてくる良心に抗しきれず、真糸は肩越ごしに後ろを見やった。
「!?」
愕然と、人語を失くした悲鳴を上げる。
動かず―――台所と、茶の間のあいだ。その床に、ケイは泣き崩れていた。よよよと正座を斜めに瓦解させて、片手は床につき、もう片手はハンカチを握り締めて。
そのハンカチに、見覚えがあった。だがそれは、ハンカチとしての見覚えでなく……
「あたしのブラジャー!?」
それが、ケイの手にわしづかみにされている。
慌てて自分の胸倉をさするが、さすがに掏られたわけではなかった。よくよく見てみれば、今朝方ケイとのかくれんぼのいざこざで着替えたものである。いつの間に取ってきたのかは分からないが。
と。ケイはあっさりと立ち上がって、ただし涙の跡も無い頬を悲劇的によじりつつ、涙声で歌い上げた。
「さようなら―――真糸!! 俺だけは、君の幸せを祈っているから!! フォーエビャー!!」
そして、きびすを返す。彼のその先には、台所のシンクの小窓しかない―――いや。
「小窓あったーーー!!」
ぱきがしゃぁああああぁ!
真糸が叫んだ頃には時遅く、ケイは水泳の飛び込み的なフォームで窓を突き破っていた。そしてそのまま、外に走っていく。かたかたという足音は、勝手口のわきに置いておいたツッカケでも履いていったのだろう……真糸のブラジャーを奪取したまま。
「待ぁちなさああぁい!!」
真糸は渾身の力を込めて、ケイの追走を始めた。
0
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
悪役断罪?そもそも何かしましたか?
SHIN
恋愛
明日から王城に最終王妃教育のために登城する、懇談会パーティーに参加中の私の目の前では多人数の男性に囲まれてちやほやされている少女がいた。
男性はたしか婚約者がいたり妻がいたりするのだけど、良いのかしら。
あら、あそこに居ますのは第二王子では、ないですか。
えっ、婚約破棄?別に構いませんが、怒られますよ。
勘違い王子と企み少女に巻き込まれたある少女の話し。
婚約破棄が聞こえません
あんど もあ
ファンタジー
私は、真実の愛に目覚めた王子に王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言されたらしいです。
私には聞こえないのですが。
王子が目の前にいる? どこに?
どうやら私には王子が見えなくなったみたいです。
※「承石灰」は架空の物質です。実在の消石灰は目に入ると危険ですのでマネしないでね!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる