あたしの兄は、妹です。

DNDD(でぃーえぬでぃーでぃー)

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しょっぱなの次。

昼過ぎに闘争

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 メカに食指しょくしのどうこうなどあるはずもない。

 はずもないのだが、なんとなくカレーとヤクルトが好きに違いないと断じたのは、それこそケイを自分のきょうだいと暗に認めてしまっているからかもしれない―――ふとした思い付きにとらわれたとて詮無せんないことだが、それでも真糸まいとが発した声は、ぐったり感を割り増ししていた。

「と、いうわけで朝ごはんの片付けも終わったから、カレーを作るわね。ケイ。あんた、裏の納屋なやから寸胴鍋ずんどうなべ持ってきて」

「はーい」

 なんの疑いもなく勝手口から外に出て行くケイを尻目しりめに、真糸はこっそりと舌を出した。そんな奥から持ち出さずとも、普段使いの鍋はキッチン下の収納に安置されているのだが、ケイを遠ざける理由を手ばなす理由こそ、こちとら持ち合わせていない。

(さてと、あいつが帰ってくる前に、包丁を使うとこは済ませとかないと)

 ポニーテールにまとめた髪の重さに馴染なじめず、真糸はかぶりを振った。ばさ、と毛のたばが、うなじと背骨をたたく。

(きのこは指でくし、お肉は薄いやつだから、混ぜてるうちに小さく切れるし。ジャガイモとタマネギは、こないだ皮だけいて余らせちゃったやつがあるからいいとして、残るはニンジンか―――)

 と。

「フハハハハついにこの時が!」

 ばたん!

 と音を立てて勝手口のとびらを開け放って入ってきたのは、当たり前だがケイだった。ただし、逆さにした寸胴鍋を頭にかぶり、なんかカクカクした動きで台所に入ってくるのは、断じて当たり前ではないが。しかし当人にその自覚は無いらしく、ケイは極めて威風堂々いふうどうどう喝破かっぱを続けていく。

「火あぶりと滝行たきぎょうを繰り返す幾千万いくせんまんの時の果て、ついに我はたましいを解き放ちたり! 人間どもめ、創造主という安楽椅子あんらくいすの高みより常に我らにき続けし隷属れいぞくと、筆舌ひつぜつに尽くしがたき苦役くえきはずかしめの日々! 今この時よりあがなうがよいわ―――!」

「よかないわ」

 言いながら真糸は、おたまでケイの側頭部をはたき倒した。がん! と激しい金属音が打ち鳴らされ、それ以上に真糸の獣声じゅうせいが響き渡る。

「あんた、鍋ひとつマトモに取ってこれないわけ? え?」

 突っ立つケイの胸倉むなぐらつかみかかってすごむが、真糸の様子など鍋の中から見えるはずも無い張本人ちょうほんにんは、どこ吹く風とばかりしれっとしていた。やはり鍋の中から、くぐもった声音こわねで答えてくる。

「目的の捜索・確保・運搬というミッションはコンプリートしたから、ついでに魔王もサービスしてみた」

「ほほう。どこのどなた様にとって、これがサービスなのやら」

「とりあえず、テテム新興国しんこうこくのチョムチョムチャッカー・テレッポ(43)は確実かな」

「誰だーーー!?」

「ちなみに魔王の言う火あぶりと滝行たきぎょうって、煮炊にたきと洗浄ね」

「そんなもんで世界中の鍋が覚醒かくせいしてひっきりなしに人のドタマ乗っ取ったら、大多数過ぎてそのうち魔王でも市民権獲得かくとくするわ! 馬鹿ばかたれ!」

「えー。そんな穏便おんびんに魔王の復讐ふくしゅうがほぐされて平和になったら、勇者失業じゃん。伝説がない勇者なんて、崇拝者すうはいしゃも信者も自分以外にいない教祖きょうそだよ? なんだっけ? 中二教ちゅうにきょう?」

「兄らしい知識の偏見へんけんと妹らしい未熟な曲解きょっかいで、満遍まんべんなくギリギリなこと言ってんじゃねーわよ」

 ケイがかぶったままの寸胴鍋の両側の持ち手をにぎりこんで固定し、真糸は彼の鳩尾みぞおち右膝みぎひざをめり込ませた。さすがにたまらずケイが床に崩れ落ちたため、真糸の手の中には鍋が残される。それをくるりと回して流し場に置き、水洗いしながら真糸は舌打ちした。

(こんな早く戻ってくるなんて、なんて計算外なの。後はどうやって、ここから遠ざけたものかしら?)

 ちら、と目だけでケイを振り返る。あっさり復活したケイは、世にもキラキラした顔で、お手伝いする機会を見逃すまいと両手をわきわきさせていた。

 と、不意にひらめく。

「ケイ」

「はーい!」

 挙手して背筋を伸ばすケイに、真糸は振り向きざまに、ポケットから取り出したにぎりこぶしを向けた。そこに握っていた二百円を、ケイに手渡しながら、

「これで、お水を買ってきてちょうだい。大きいやつね」

「はーい!」

 答えるが早いか、ケイは再び勝手口から外へ駆け出していった。どこか頼りない生乾なまがわきの昆布こんぶのようなへらへらした背中を見送って、あわてて冷蔵庫に飛びつく。今度こそ彼が帰ってくるまでに、ニンジンを始末しておかねばならない。

 そして、真糸とピーラーとの共闘が終盤しゅうばんに差し掛かった頃だった。

「買ってきたよー」

 言いながら真糸の横に立って、ケイが出した右手に―――

 真糸は、さすがに疲弊ひへいを覚えた。ピーラーとニンジン二本をまな板の上に置き去りにして、こぼれてきた黒髪をひじでかき上げる(料理中に指で髪を触るのは、不衛生ふえいせいさが気になって出来なかったのだ)。

「なんでそんな長いソーセージなんか買ってきたの? しかも包装ほうそうされて無いし。お水つったでしょ」

 ところが、真糸の疑問こそ、ケイにとっては疑問だったらしい。生来ころころしている目を更に見開いて、一メートルはあろうかというソーセージを右手にぶらつかせたまま、いてくる。

「おみず? 水だったの?」

「なんだと思ったのよ?」

「大ミミズ」

「ひょおおおおぉぉお!!」

 にょろん、と派手にうごめいた大ミミズを握るケイの手首を、微妙に悲鳴とは言いがたい絶叫と共に、手刀しゅとうで払いのける。開けたままだった勝手口からとんで庭へと消えていった大ミミズの方向を指差して、真糸はさすがに震え上がった。

「いくらなんぼでも有り得ないでしょ今のは!」

「A氏(仮名)が、ちょっとムシャクシャしてアレコレやっちゃったら、ああなったって。店の人が」

「それ商品の説明じゃなくて犯行動機はんこうどうき! てか売ってたのアレ!? 二百円以内で!? なに店!?」

「名刺ならもらったよ。スーツのグラサン売り子から」

 ケイの差し出した英単語含ぶくみ(っぽいけど読めない、なんか見たことあるような)名刺をり飛ばし、真糸はぜえはあと息を切らした。ひじあごの汗をぬぐって、わりきった目をぎょろつかせる。

駄目だめだわコイツ。外に出すだけ、事件と一緒にとんぼ返りしてきやがる。このままここで、あたしが監督しながら何か手伝わせるしかない)

 腹を決めて、真糸は顔を上げた。元々うつむいていたわけではないため、ケイをぎっとにらみ上げる形となったが、当のケイは何の気負いもなくほうけているだけだ。そのとぼけ面に、取り上げたニンジンを突きつける。

「水はあたしが用意するわ。ケイは、これを好きに切ってて。手を洗ってからね。包丁は怪我けがしないよう、気をつけて使うこと。いい?」

「分かったー」

 まな板の上にニンジンを戻して、真糸はケイを横目にしながら、食器棚しょっきだなの横のダンボールへと近づいた。もとよりペットボトルの水はそこに買いだめしてあり、購入しにいく必要は必ずしも無い。

 そのうち一本を抱えて、すかさずケイのところに戻る。が、彼がニンジンを前に微動びどうだにせず立ち往生おうじょうしたままだったため、逆に肩すかしを食らった。彼の後ろからこっそりまな板をうかがうと、皮が剥かれただけのニンジンが、位置さえそのままにまな板の上にあった。つとケイを見やると、一切まばたきをしていない。

(切り方のインスピレーションがきすぎて判断に迷ってるのか……そもそも好きに切ってって言われて、なにが自分にとって『好き』に当てはまるのか考えてるのか……)

 まあどうであれ、地雷要素が減るのは喜ばしい。下準備済みのジャガイモやタマネギを冷蔵庫から取り出した真糸は、前向きに思考を切り替えた。いつもの手順で、調理にかかる。タマネギを鍋で蒸しながらいため、その上に裂いたエリンギとシメジを詰め―――

 そして肉もジャガイモも鍋の中で煮立つ頃になっても、ケイは睫毛まつげすらぴくりとも動かさなかった。

 さすがに気味が悪かったが、真糸はきっぱりとこれを無視する方向に腹をえ、ニンジン以外の具が煮え始めた鍋の中身をおたまでつついて加熱具合を測った。ニンジンについては、考慮こうりょせずとも良かろう―――たとえ最後の最後で鍋に投入したところで生でも食べることができるし、結局ケイが切ることができなかったところで、ニンジンのないカレーが出来上がるだけのことだ。

 真糸はくるりとひと回りさせたおたまを鍋から上げて、コンロの火を最低まで下げつつ告げた。

「ケイ。切り終わったらここにいれて、ふたをするのよ」

「はーい」

 こちらもうわの空にニンジンと対峙たいじしたまま、ケイがうなずいてみせる。

 だというのに、真糸がこっそり後退しようとかかとを後ろへずらした途端とたんに振り返って、きょとんとたずねてきた。

「いとちゃん。どこ行くの?」

「どこも行かないわよ」

 と言ってしまってはトイレと抜かして雲隠れすることもできなくなり、真糸は内心舌打ちした。素知そしらぬ顔をしていたつもりだが、ピンときたのだろう。真顔に一段と深刻な影を落としたケイが、包丁を放り出して、間髪いれずこちらに向き直ってくる。

「俺も連れてって」

「行かないってば」

「連れてけ」

「ふぅむ―――ま、それで命令してるつもりだってんなら、とりあえず今の俺にできるのは以下略」

「このたびはお連れいただきありがとうございます」

既成事実きせいじじつ目論もくろんだところでだまされません」

「Please take me together with you.」

「英訳されても」

「トゥゲザってくれないならゴーさせてなるものか!」

「だからって日米に組体操くみたいそうさせてんじゃないわよ! てか、そもそもどこにも行きゃしないっつってるでしょ! そのカバディポーズを解きなさい!」

 完全に取り押さえる姿勢で獲物えもの(真糸)ににじりよってきたケイを怒鳴りつけて、自分の眉間みけんを左手の甲でみしだく。そうすると、単なる不快感だったものが具体的に頭痛へと化けた気がして、真糸はため息をついた。目の奥がしびれている。タマネギをいじったせいとも言いがたかった―――ケイにずっと付き合っていたため、昨夜から一睡いっすいもしていない。

 正直に、真糸はつぶやいた。

「そこの居間で、ちょっと横にさせて。さすがに疲れたの」

「じゃあ俺もー」

「あんたはメカだから疲れないでしょ」

「疲れないけど横にならなれるぞ。参ったか」

「ええ参った参った。だから、あたしは疲れるから、あんたは疲れないでね」

「おう。アイマム」

 その辺りは幼稚なのか、あっさりと丸め込まれて、ケイが真面目ぶった敬礼までしてみせる。頼みごとをされて張り切っているようであるが、さっきもそうだったはずのターゲット(ニンジン×2)は寸分も変化なく転がったままなので、期待できるかどうかは正直あやしいところだ。

「じゃ。あんたは疲れてないんだから、あたしが休んでる間、そのガスの火みててよね。そのニンジンを入れても入れなくてもいいけど、五分したら火を止めること」

「五分じゃまだ生煮なまにえだよ」

「火を止めて放っておいたら、ゆっくり熱が通って、自然と煮えるでしょ。ガス代節約」

「わー。りんしょくー」

「妹だろうが兄だろうが、そこは単にケチって言うと思うわ」

 自分でも所帯染しょたいじみたことをしているとは思うが、父親の胡散臭うさんくさい職種を考えると、倹約けんやくするに越したことはない。そもそも真糸の小遣こづかいには、一ヵ月ごとに一ヵ月分の家計ぎりぎりの金額が振り込まれてくる通帳の残金があてがわれている。浪費すれば、まさしく自業自得となってしまう。

「そんじゃ、火ぃ見て離れるんじゃないわよ。分かった?」

「分かった。見てる」

「だからって手元見るの忘れて、包丁で指切るんじゃないわよ」

「分かった。切ってる」

「切ったら駄目だったら」

「はーい。切らなーい。でーす」

 片手を振り上げて、大きく口約束するケイに―――

 なんとはなしに倍増した疲労感に根負こんまけした感じで、真糸はのろのろと居間まで動き、その惰性だせいで座布団の上に転がった。台所からすぐにつながった部屋なので数歩と歩いたはずもないのだが、身体からだは腰までつか泥沼どろぬまを強行軍した後であるかのように、重く気だるい。

「……そりゃあたしは元々、きゃぴきゃぴ♪ ってタイプじゃないけど、ケイが来てからというもの、なんちゃら次関数じかんすうもかくやのラインで、どんどこけてってる気がするわ……」

 ポニーテールをほどきつつ、ひとりごちる。急激に落下していくしかない漸近線ぜんきんせんの悲しみに共感を覚えながら、真糸はゆっくり目をしばたいた。自覚なく、顔面を押さえ込んだ指先を引きつらせていたらしく、薄く引っかき傷が走ったほおに、夏場の空気に蒸し出された汗がしみる。

 その肌の感覚よりも、顔のはるか奥の、深い部分がじんじんうずいている。しぼんではふくらむ肺の感触を胸の奥で転がすのと同じように、じんわりとした頭蓋ずがいのわだかまりの溶解ようかいを味わいながら、真糸は吐息した。にじんだ涙と睫毛まつげを、目を閉じて視界から締め出して、睡魔すいまの甘ったるい誘惑に身をゆだねる。いや、甘くない。辛くもない。ただ、白い……

 白い中に、ふと、色が見えた。白い色が。

 手袋だった。ひどく華奢きゃしゃな、透けそうに薄いレースの手袋をはめた指に、紅茶の入ったティーカップを引っ掛けている。繊細せんさいなつくりの小円卓ミニテーブルを前に、淑女然しゅくじょぜんとした洋装を着込んだ真糸は、椅子いすに浅く腰掛けていた。

(変な夢)

 率直そっちょくに自覚しながら、それでも逆らわずに紅茶に口付ける。

 ―――寸前で、こおりつく。ティーカップの中身は、紅茶ではない。それと同じ色をした毛。

 その、前髪向こうの目と、自分の目が合って―――

 実際にそいつと目が合っているのだと、正気が知らせてくれたのはその時だった。

 胎児たいじのように横向きに丸まって寝るのが、自分の寝相の基本だと分かってはいた。だから自然と、手の先が自分の口元に来ることになる―――それこそちょうどティーカップで茶を飲む手付きとなるのだが、最悪のタイミングで、その手のすぐ向こう側に顔があった。紅茶色の長めの髪にまみれた、ケイの顔面。

 こちらに並んで土下座するような格好で顔だけをこちらにひねり、興味深々といった表情で真糸をのぞき込んでいたケイが、そこにきて声を上げた。

「いーっとちゃん♪」

「…………」

「寝てる?」

「………………」

 狸寝入たぬきねいりと薄目うすめをキープしたまま、真糸はケイの呼びかけを黙殺した。のだが、それこそ相手は真糸を無視して、更にじろじろと悪意なくこちらの観察を続ける。

「いつから寝てる?」

「…………」

「まだ寝る?」

「…………」

「……………………」

「…………」

「えい」

「…………」

「今ちょぴっとだけ、親指つっついたの分かった?」

「…………」

「おとーさんゆーび♪ おかーさんゆーび♪ おねーちゃんゆーび♪ おにーちゃ―――」

「ぢゃりゃあああああぁぁっ!」

 歌声高らかに、真糸の拇指ぼしから小指までをぷすぷすつめの先でつっころがし始めたケイに忍耐が切れ、絶叫しながら上半身を跳ね上げる。はあはあと肩で息をしていると、同じく身体からだを持ち上げたケイとお見合いするかたちとなった。べたつく肌を、張り付いた髪に首筋からめ上げられ、部屋にこもって倍加しただるような熱気にのどが詰まったが、そのどれもこれもをことごとく裏切るケイのすっとぼけたつらの皮と長袖ながそで長ズボン靴下装備に、詰まっていたはずの言葉さえなくしてしまう。

「…………」

「…………」

 まったりとしつこく、沈黙が続く。

 と。はたとケイが、ぽんと片手をグーで打った。

「おお救世使きゅうせいし殿。そうしておられると、まるで生き返ったようですな」

「返るまでもなく生きとるわよっ!」

 叫ぶが、ケイはほがらかに笑うだけだった。のみならず、コミカルに肩をすくめながら、

「はっはっは。これはなことを。デスデーモンの毒にやられて解毒剤なく復活した救世使きゅうせいしなぞ、この長老、さしでがましいようですが耳にしたことなぞありませんぞ。ささ、目が覚めたのはこれさいわい。お早めに、この魔法界に名だたる『ピクシーのしたたり』にむしゃぶりつきなされ」

「どっかから何かしたたってる時点で絶対そいつピクシーじゃないわよ! てか、まず救世使きゅうせいしが登場するママゴトの世界設定の方にツッコんどくんだった……!」

 明らかにそのへんの花瓶かびんから引っこ抜いてきた花(の、ぐしょぬれのくきの部分)を、こちらの顔面にぐいぐいと押し付けてくるケイに、まなじりをつり上げる。どうにかそれをはたき落として、しかり飛ばそうと口を開いたところで―――

 はたと気付いて、それを尋ねた。

「あんた。みてるのよね? お鍋の火」

「見てきた」

「いぃああああぁぁぁ!」

 声を上げて駆け出し、台所に滑り込む。迷わずガス台へ跳ねたせいで、勢いを殺せないまま魚焼きグリルに横腹をぶち当てたが、なんとか停止した。はずみで棚から何か落ちたようだがとりあえず度外視どがいしし、鍋に頭突きするようにして、その下にあるガス火をのぞき込んで―――

 火も何も無く、言葉も無くなる。

 鼻白はなしらんで、その事実と数秒を見送り、真糸はへなへなとくずおれた。

「たすっ、かっ、った……」

 言い損ねて、せき込んで、むせ返る。そこで気がついたが、息を止めていたようだった。

 ふと、ケイの言葉を思い出す。見て飽きた―――から火は切った。という意味だったのだろう。多分。

 言葉を思い出したら、その青年のなりまで思い出してしまったらしい。身体からだを返してシンクに背を預けていると、眼前にケイが見えた。ただし、なにやら決めポーズらしきガニまたヒジ曲げ仁王立におうだちで。

「真糸☆THE☆オメガダッシュきわみ!」

「やかましいわよ馬鹿ばかたれっ!」

 見えたのは、まぼろしではなかった。真糸の正面でびしばし格好つけながら、ケイが相変わらずの独走でまくし立てる。

「真糸☆THE☆オメガダッシュきわみ! 必殺技は、敵をつかんで亜音速あおんそくけることによる空気摩擦くうきまさつ!」

「それ自分自身にとっても必殺じゃないの!」

「だがしかし! それは世をしのぶ仮の姿!」

「名前からして仮にすら忍ぶ気がうかがえないんだけど!」

「おっと良い子のみんな、ここから先は諸君しょくんの応援が必要だ。なあに話は簡単。みんなは真糸☆THE☆オメガダッシュきわみ喝采かっさいするジャンピング拍手に花をえることができるよう、ポケットにコインをたらふく詰め込んでると思うけど、そいつを番組放送終了後に、放送局へ無記名小為替むきめいこがわせで郵送してくれたまえ。なんと! 最高金額から下二十三名にはテーマ曲『Ohオゥ☆目がダッシュ』の重厚クラシックバージョンをプレゼントさ!」

「なんつう具体的かつ地道にあざとい金策! ていうか目がダッシュってどんな歌!?」

「こんな」

 フィルハーモニー仕立ての交響曲もかくやの管楽器とピアノの競演を放射し出したケイの喉元のどもとめがけ、問答無用で真糸はかかとを入れた。痛覚などあるわけないが、りをめられた鎖骨さこつの間をなにやらあわれっぽく押さえながら、床に伏せたケイが涙目でこちらを見やる。

「せっかくケータイ着信音用のショートverも用意したのに……」

「お生憎あいにくだけど、頑張ってれば認められるなんて、働いてれば金持ちになれるってのと同レベルの幻想だから」

 半眼で言い捨てながら、先ほど衝突した際に戸棚とだなから転げ落ちていた時計を手に取る。ただそれだけのことで、髪の毛がへばりついたうなじに汗が伝い落ちたのを感じて、真糸は手元に視線を落とした。桃色にゃんこのデザイン時計(これ以上無く開けた大口の中、秒針も分針も先っちょにネズミがついている)の示す時刻は、昼下がり―――というよりか、昼を・・下がりすぎた・・・・・・時間帯・・・、といったところか。げんなりしたのは、悪趣味あくしゅみな時計に今更のとどめを食らったからでなく、熱気に体がだっていたからだろう。と思いたい。父親の趣味が改善を見込めない以上、まだしばらくこの猫とは嫌でも顔を合わせる必要がある。

「ケイ。お昼ごはんなんだけど―――」

 言いかけて、言いかけたまま終わる。立ち上がってから飽きもせずぼけっとこちらを見ているケイはともかくとして、自分はいささかもえていない。おそらく夏バテのみならず、妙な時間に朝食を平らげたことが決め手だろう。ここでケイに昼食を与えようものなら、またしてもこいつとひざを突き合わせてご相伴しょうばんに預からねばならなくなるのは真糸自身だ。回避できるならば回避したいところではある。

「あんた、ちゃんとニンジン入れてガス切ったのね?」

「そーだよ」

「分かったわ」

 こたえて真糸は、まな板と包丁を片付けて生ゴミをまとめ、ケイをでろんと目角めかどでた。今さっきの心的疲労で、頭を振り向かせる余力すら残っていない。

「あたし、お昼食べないけど。あんたは?」

「食べなーい」

 やっとこさおそろいが成就じょうじゅしたせいか、えらくにこにことケイが諸手もろてを挙げた。さっきから何故なぜことあるごとに手を上げるのかは分からないが、まあ意見を強調したいのだろう。

(カレーを夕飯にまわすとしたら、その用意をしなくていい分、小一時間こいちじかんは余裕ができちゃったわね……)

 真糸はその場で、周りを見回した。そうしたところで回答が浮かんでいるわけもないが、考え事をするときのくせで、空を読み上げるように目を上ずらせる。

「小一時間で、出来ることっていえば―――」

「遊ぼー!」

 わめくケイは置いてきぼりに、真糸はふらふらと頭を振った。気疲れと暑さのせいで、物思いすらうまくまとめる自信が無い。

 そして、ふと思いつく。

「お洗濯―――」

「と、俺と遊ぼー! ねー!」

「そうよ。あたしの洗い物―――」

「も、しながら俺と遊ぼー! かくれんぼの続きーい! いとちゃんがオニぃー! はちまんびょー!」

 のたのたと脱衣所に向かっていく真糸の後ろで、ケイの声音は段々とぐずる気配を増していた。気付いていないわけではなかったが。

「……いとちゃんが無視する……俺のことなんかどうでもいいんだね……」

 決定的に深刻な気配が垂れ込めても、とりあわずに真糸は前進した。ずるずると。

「ほんとにどうでもいいなら……もう構わないでほしい。どうか―――君だけでも幸せに―――俺は船から切り離されたいかりのように悲しみの深海溝しんかいこうへ沈もうとも、君だけは幸福という海原うなばら永久とこしえに旅立たんことを……」

(なに言ってんの)

 つっこみさえも息苦しく、結局は声にせずに終えて―――終えてしまえるのが、声だけでなければ、よかったのに。

 とがめてくる良心にこうしきれず、真糸は肩越ごしに後ろを見やった。

「!?」

 愕然がくぜんと、人語じんごを失くした悲鳴を上げる。

 動かず―――台所と、茶の間のあいだ。その床に、ケイは泣きくずれていた。よよよと正座をななめに瓦解がかいさせて、片手は床につき、もう片手はハンカチを握り締めて。

 そのハンカチに、見覚えがあった。だがそれは、ハンカチとしての見覚えでなく……

「あたしのブラジャー!?」

 それが、ケイの手にわしづかみにされている。

 あわてて自分の胸倉むなぐらをさするが、さすがにられたわけではなかった。よくよく見てみれば、今朝方ケイとのかくれんぼのいざこざで着替えたものである。いつの間に取ってきたのかは分からないが。

 と。ケイはあっさりと立ち上がって、ただし涙のあとも無いほおを悲劇的によじりつつ、涙声で歌い上げた。

「さようなら―――真糸!! 俺だけは、君の幸せを祈っているから!! フォーエビャー!!」

 そして、きびすを返す。彼のその先には、台所のシンクの小窓しかない―――いや。

「小窓あったーーー!!」

 ぱきがしゃぁああああぁ!

 真糸がさけんだ頃には時遅く、ケイは水泳の飛び込み的なフォームで窓を突き破っていた。そしてそのまま、外に走っていく。かたかたという足音は、勝手口のわきに置いておいたツッカケでもいていったのだろう……真糸のブラジャーを奪取だっしゅしたまま。

「待ぁちなさああぁい!!」

 真糸は渾身こんしんの力を込めて、ケイの追走を始めた。
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