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しょっぱなの次。
夕方の匆匆(そうそう)
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なにも信じていなかったが、七分以上は経った。多分。
確かめたくとも、こんな時に限って腕時計すらしていない。直前まで料理をしていたのだから当然だし、そもそも何時間経とうがケイをしょっ引くまで帰れないことは分かりきっていたが。
「こなくそ……」
せき込んで真糸は、足を止めた。サラリーマンの帰宅には早く、専業主婦の夕飯の買出しには遅く、悪ガキが暗躍するには魅力が無い平凡な住宅街は閑散として、真糸以外に人影は見当たらない。ケイの姿すらない。
「見失った……あんにゃろ……」
ほぞをかんで、真糸は震える膝を両手で押さえつけた。汗を含んで振り乱し、ぼさぼさになった黒髪を背中に払う。べたりと予想外にへばりついた感触に一層の不快感を覚えながら、それでも視線だけは辺りをうかがっていた。
(どこよ。どこにいるの? あたしのブラジャー持ったツッカケ男が通りませんでしたか、なんて聞き込みできるはずないし)
錯誤した脳裏の具申をはねつけ、真糸はとにかく歩き出した。闇雲に探したところで意味はないだろうが、そもそもメカと人間の対決なのだから、はなから漠然と当てもない。というか、対決とも言いがたい。これは、かくれんぼだ。
(そうよ。もしもあいつが、あたしと、かくれんぼしてるつもりなら―――)
真糸が見つけることが可能な範囲で、真糸が見つけるまで隠れ続ける。物陰に。ほくそえみながら。
(ブラジャーを手に!)
ぐっと、拳を右手に沈黙する。
沈黙し、沈黙を過ぎ、真糸は絶望した。
(変態だーーーー!!)
頭を抱えて、うずくまる。
(変態よ紛れもない変態よ! 逃走に徹する下着ドロのほうがまだマシじゃない! 逃げてるんじゃなく、あいつはかくれんぼのつもりで、誰かに見つかるのを待ってるのよ! 見つける相手が警察だったら、どう言いながら引き取んの!? そいつは松蔭ケイで、あたしの兄で妹のメカなんですって―――誤解のない説明を心がけるほど、あたしへの誤解が比例しそうだし!!)
『妹』のことだ。たとえ頭にかぶって走り回っていたところで、遊んでいる以外の意図は全くないに違いない。問題は、誰がどう見ても、彼が立派な八頭身の青年だということ―――
「ふふ……んふふ……」
ゆらアり、と立ち尽くし、真糸は舌なめずりして、口元に残った唾液を手の甲で拭った。乾いた視線で、ありとあらゆる風景を記憶に固めていく。
「大丈夫よ―――だって。見つけちゃうものねえ……ケェエイ……このアフュンエウツッカイヴの雌豹! 松蔭真糸が!」
アフュンエウツッカイヴというのが何なのかは分からないが、まあそれっぽい強大無比な鋼鉄帝国の忌み名だろうと確信して、真糸は宣言を続けた。
「ぜぇえええええったいに許さないわ。ただでさえ人様のデリケートゾーンを無垢にからかってくれて―――言うに事欠いて、どっちのしりもでっかいですって? 同い年の目は引くわ、根も葉もないエロやかな憶測を呼ぶわ、買うしかない下着は紐のとことかが妙にババくさいレースだわ―――ねぇエえ!!」
半ば愚痴になりつつあったせりふを無理やり切り替えて、怒号を発する。
「とうに殺意はフルゲージなのよ。ジェノサイドモードに切り替わるのも気後れしないわ。いとちゃーんとか、おねーちゃーんとか言って、しゃしゃり出て来なさい。今回という今回は―――」
「おねーさまー!」
「ケェエエエエエエェイ!!」
思いがけぬ標的からの呼びかけに、振り向きざまに構えて―――
ふと、気づいたことがある。
(おねぇっ、サマ―――!?)
わきあがる戦慄が、嫌な予感と共に、真糸の皮下をあわ立てた。
と同時に、悟ってもいた。これはきっと、予感だけで終わってくれない!
「わっふ❤」
「みひゃ!?」
背後。少女の歓声と同じくして、悲鳴を上げる。
というか、過敏に縮こまった肺臓が上げた奇声を、聞かざるをえなかったというか。死角の真後ろから抱きつかれただけだと、分かってはいた―――としても、真糸の腰を羽交い絞めにしてさすってくる掌の感触に、否応無く臓腑がすくみあがる。
真糸のそれを見越しての行動だろうに、背後から抱きついて離れない少女は、まるでその反応が予想外の幸運だったかのように嬉しげだった。
「あん、もう。なぁんて可愛らしいお声なのかしら。みひゃ、ですって。ああ、夏休みの間、夢寐にも忘れられなんだですのよ。おねえさまぁ♪」
「ハ・ナ・シ・ナ・サ・うィィイイイイイ!」
「おふ。続きまして、とってもロボ風味なおねえさま。シャープなお色気がまた素敵」
恥辱に赤く染まる頬肉を内側から噛みながら、真糸は相手の派手にロールしたツインテールを押しのけた。が、びくともしない。はじめから後の先を取るつもりで抱きつかれたのなら心構えも違ったのだろうが、こうまで唐突に打たれ弱いところをがっちり極められてしまっては、指一本すら力めない。わきわきとまさぐってくる指に総毛立つことで手一杯の状態では、逃げ出すことも不可能だった。足は、半歩すら動かせない。いや、動く―――力の抜けた膝が、地面に落ちる―――
だが、実際に地面に落ちたのは、真糸ではなく少女の方だった。彼女はぺたりと尻餅をついて、ぽかんとこちらを見上げている……
「俺のだぞ。お前なんかお前のくせに。ばぁか」
その声にはっとして、真糸は目を凝らした。自分は、座ってなどいない。どころか、立っていた時より視座が高かった。見回すまでも無く、すぐ真横にケイの顔がある。身体の前面に食い込むタンクトップの感触を考えると、すぐに合点がいった。
「た、助かったわ。ケイ。ありがと」
「ん」
ぶすっと頷いて、小動物の後ろ首でも捕まえるように真糸をぶら下げていた手を、ケイが離した。ぼて、と落とされたアスファルトに踏ん張って、その優男面を見上げる。確かにケイだ。
「あ、んた。どこにいたの」
「そこらへん」
と、彼が塀の上を指す。
「そんなの、あたしが気付かないはず無いじゃない」
「ねこの横に、ねこっぽくいたもん」
「ねこ……」
つられて思いついたのは、どういうわけか、自宅のそこかしこで見かける桃色にゃんこシリーズだった。ぱっちりした目元。細い眉。小作りの口。黒と濃い桃色を基調としたカラーリング―――
そこまで来て真糸は、それが目の前の実物であることを思い知った。
「!」
一気に悪寒を取り戻して、後ずさる。自分以外の誰が―――言ってしまえば、とうに起立していたその少女が―――何らかのアクションを取ったということはないが。
「ああああ、あのね? ひおちゃん。あなた様は世界有数のド金持ちのくせに、こーんな平民のねぐら地帯になんの御用があっていらっしゃったのかしら?」
ケイの後ろにこそこそと身を隠しつつ、しどろもどろに彼女に呼びかける。ケイの軟弱な体躯に真糸のひそむスペースがそれほどあったわけではないが、それでも相手の姿がかなり隔てられ、安い安堵が膨らんだ。
まあそれくらいに、その少女……火織が小柄だったということだ。背丈も小さく、体つきもほっそりしている。ただし、それを補って余りある豪勢な巻き毛に加え、黒とピンクのゴシックミニワンピース―――という服装があるのかどうだかしらないが、まあそんなアレ―――を着て、やけくそに厚底の靴を履いているせいか、縦にも横にも差し引きはゼロといったところだろう。顔立ちは愛らしい。ただし、愛らしさに紛らわされてはいけないものもある。絶対に。
たとえばそれは、こんなことだ。真糸の腰を砕いたことに対する悪気など露とも見せず、ただにこにこと天使の笑顔を垂れ流しながら、肘上丈の手袋をした掌でもって優雅に隠した口から告げられてくる言葉。
「ええ、おねえさま。本来なら、人肌恋しゅうなる二学期からますますおねえさまと懇親すべく、こうして前もって奇跡のランデヴーを演出しにきたに決まっているところですけど」
「ああああああ……奇跡は人造できるぅ……」
脳裏を駆け抜けたキュルンゲヘルム・コッコマチンコーチンのダンディな決め顔幻影(第十五回放送仕様でヒゲ薄め)に、気分的にはらはらと涙をこぼしながら、真糸はうなった。ケイの背中にすがり付いて、どうにか道路にへたばるのだけは回避するが、だからといって脱力感そのものはどうしようもない。
と、はたと気付いて、真糸は目をぱちくりさせた。
「本来なら?」
「それなんですのよ、おねえさま。大変! 大変ですわ!」
血相を変え、火織が飛び跳ねた。細い両腕をめいっぱい振り回し、肩を膨らませながら、
「このあたりに不審者がいるという電話連絡網が回ってまいりましたの。それでわたくし、いてもたってもいられなくなって」
「電話連絡網?」
「ええ。なんでもその不審者、某女子中学生を四六時中つけ回して膝枕を強要した挙句に脱衣中に侵入、のみならず力尽くで抱きすくめ無理やり己の指をしゃぶらせ、果ては使用済みの下着を持ち逃げしたとか」
「それアンタお抱えの秘密部隊からの電話連絡網でしょ! どこよ! どこに仕掛けたの盗聴器!」
ばたばたと身体を探るが、特別変わって指に触れるものはなかった。そのことが逆に寒気を煽るが、当の火織は確実に変態レベルを底上げする脚色が成された報告に心を奪われているらしく、こちらの様子を見もせずに復讐を誓っている。
「おねえさまったら強気に見えて押しに弱いですし、口先ではノーと言うくせに面倒見の良さと器用貧乏さ加減は群を抜いてますでしょう。なあなあで変質者でさえ受け入れてしまわれるんじゃないかしらって、わたくしとっても心配ですの。お分かりでしょ?」
「そーねー。受け入れちゃったナンバーワン当人から言われると、否定もできないわねー」
「いやだわ、おねえさま。わたくしがナンバーワンだなんて。ぽっ」
「なんのワンだと思ってんの!?」
赤らめたかんばせを片手に凭れさせながら虚空に流し目を送る火織に怒鳴るが、聞いていないのは明らかだった。彼女は途端に打って変わって厳しい感情を燃え上がらせた目を、ぎっとつり上げる。
「ともあれその不審者、即刻狩り出して血祭りに上げないと、必ずや後顧の憂いとなりましょう。とりあえず対戦車ミサイルを手配いたしました」
「とりあえず!?」
「あとは不審者をロックオンするのみですわ。さてお姉さま、その不審者の姿かたちを教えてくださらない? それをもとに、四名まで容疑者を絞り込みます。順繰りに弾頭を使い切りましょう。使い終わればまた四発」
「あああぁぁぁ……」
「ねー」
ついに地面へと崩れた真糸に、ケイが呼びかけた。
彼は、真糸が掴んだままでいる自分のトレーナーが、さながらペーパーホルダーから引き出されすぎた便所紙のようなぎりぎりの伸び方をしていることも、意に介した様子はない。なにせ、ぴっと人差し指を差し向け、その先っぽと微妙な渋面を向けたのは、その少女に対してだったのだから。
「こいつなに?」
「こっ? なっ?」
と、絶句する火織など歯牙にもかけず手を引っ込め、そのまま真糸の左手をかっさらう。そして彼女を引っ張るようにして、アスファルトから立たせながら、
「もう行こ。いーじゃん。こんな邪魔な虫」
お邪魔虫という単語を破滅的に言い間違えながら、その上その過ちに全く気付かずに、ケイがつないだ手をぶらつかせてみせた。ケイとしては、かくれんぼを中断させ、さらに真糸の注意を横取りし続ける少女に対して、幼稚な対抗心があるだけなのだろうが。
ただしケイは容姿的には幼稚さなどカケラもない青年であり、敵視された少女はその容姿に相応しい以上に幼稚だった。見ず知らずの男に、初対面で真正面から睥睨され、火織の眉間にじわじわと危険な小皺が増えていく。
(やばい)
直感して、真糸は慌てて口を開いた。
「ええとね。聞いて。この子はあたしの学校の、部活の後輩で、」
「私立掬有志学園中等部、第一学年四組出席番号六番、姓を城香月、名を火織と申します」
真糸の言葉尻をすっぱ抜き、火織は一気に言葉を継いだ。さっきまで顔で燻らせていた不愉快さを慣れたように引っ込めて、朗々と残りを嘯いていく。
「どうぞ御用入りの際は、ひお、とやわらかくお呼びくださいませ。おねえさまには、兄の火呼ともども、部活動のみならず学園生活のはしばしでお世話になっておりますの。ところで城香月とお耳にあそばして当然あなたさまも思い当たったでしょうけど、ええもちろん、あの城香月グループに間違いありませんことよ。最新コンピューターから葱ミックスたこやき粉まで、世界に羽ばたく日の本ジャポンの大成金オブ城香月。ご存じでしょ?」
「なんで?」
せりふごと相手のプライドをざっくり辻斬りして、ただしそんな惨状などカケラも知ったことでないとぼけ顔で、ケイが真糸に振り返った。
「『城香月』だったら知ってないと駄目なの?」
「あんたはのっけからダメダメだったから、今更気にするこたぁないわよ」
「くっ……!」
ひどく口惜しげに手袋の甲を噛んだ火織の双眸に、攻撃色が満ちていく。自分の手札が無効だったことが、こちらの思った以上に少女の癇に障ったらしい。どうにか取り戻した自己紹介でさえ、しどろもどろに痞えている。
「ま、まぁなんであれ、お目にかかれて光栄ですわ。ええと―――ねぇおねえさま」
そこで火織が、世にも冷めた顔つきで、ケイを指差した。人差し指の先っぽで。ぴっと。
「こいつなに?」
「こ!」
「ぶあっ。うざっ」
硬直したケイの横で一瞬ものすごく正直になりかけたが、それでも寸でのところで踏みとどまり、真糸は意識して息を呑み込んだ。冷静に場を見極めようとして……冷静になったところで手の打ち様がない窮地に、呑み込んでいた息を重苦しく吐き出さざるを得ない。
(どーすりゃいいのよ)
ケイを火織にどう紹介すべきか、見当もつかない。
紹介せず、有耶無耶にして脱兎をはかるのは論外だった。ないがしろにされた相手が電話連絡網上に上げられた不審者と同一人物だと分かれば、火織は迷うことなく排除しにかかるに違いない。恐れていたのは、火織が本気で対戦車ミサイルを発射することそれ自体よりも、指向されたケイがその殺戮兵器を平然と握りつぶすに違いないという確信だった。真糸は玄朗佐を父としては見放していたが、天才として甘く見てはいない……妹である兄、などというややこしい設定さえ楽々と受諾してしまったケイのスペックである。真糸が見ていないところで、へそからビームでも出していたところで疑問はない。あるけど。
それはそれとして、「いやあ。このたび、あほがあほを量産しちゃいまして」などと正直に話せたものでもないし、かといって都合よく偽装できそうな親類縁者に心当たりはない。ケイの外見からすれば真糸とは血縁設定に無い方が火織の納得を呼ぶかもしれないが、相手こそ自分と親しくしている―――と認めざるをえない―――後輩である。たかがしれた真糸の交友関係上に突如としてケイのようなモノがふってわくなど、疑問を覚えるなという方が無理だ。そしてそうなったが最後、正直に話していたほうがマシだったと後悔に焼かれる未来がもたらされるのが手に取るように分かる。
「あの。その、ね。ひおちゃん、彼はね」
間を埋めるために、真糸はケイと少女の間に及び腰で入りつつ、あてどなくうめき続けた。少なくとも、それが続く限りはそうしているつもりだったのだが。
なんの前触れもなかった。自分の前歯が自分の声でも舌でもなく、ケイの掌の肉を噛んだのは。
「もあ?」
「はじめまして。ケイと申します」
彼女の口を手で塞いだまま、ケイがやたらにこやかに言葉を肩代わりした。急な展開に面食らって、抗う機すら失った真糸は、それだけを見れば非常に好感が持てる好青年らしい形に輪郭と声を形作っているケイを、ただ見るしかない―――
「もちろんケイは名前で、」
と、彼は言い続けたのだが。
続いたのはそれだけだった。一瞬で真顔に戻り、冷徹に囁く。
「姓は、松蔭です」
そして、世界が凍った。
と言うのが正しいのか自信はないが、なんにせよ急激に凍結したかのようにぴくりともしなくなった火織に気圧され、こちらも固まる。
なにがなんだか、とにかく置いてけぼりにされたまま数秒を浪費して、火織が怪訝な表情をひくつかせ始めてから、更なる数十秒―――火織の口元から、呆然とした呟きがこぼれ落ちた。
「しょ、う……」
「しょういん♪」
ケイがにっこりと、リズミカルに復唱してみせる。と。
途端、無音の致命打でも食らったかのようにのけ反って、火織が後ずさりした。演技ぶった仕草でふらついて、そのまま卒倒しそうな気配ではあったが、どうにか二歩くらいで持ち直したらしい。そこで踏みとどまってみせる。
「ひ、ひおちゃん?」
呼びかけたが、答えない。少女はどこか違う世界に片足を突っ込んでいる霞がかった両眼で、かなり赤く侵食が進んだ蒼穹を仰いで、チョーカーを巻いた喉を反らした。上空をじーじーと横切るアブラゼミをわざわざ見たかったはずもないだろうが、それを名残惜しく見送っているのかと疑うくらいたっぷりと沈黙してから言ってくる。
「わたくしが、我がグループの総力を投じて調べ上げた限り、松蔭という苗字は、かの玄朗佐エンペラーキングに連なる一族数名のみ……」
「ンなことに総力!? てかエンペラーキングって何!?」
叫ぶとさすがに気付いたらしい。けろっとして、火織が目をまるくする。
「あらま。義理のお父様には持ちうる限りの敬重を念じて、とりあえず階級をギャラクシーに特進。当然ですわ」
「発明家がどんなギャラクシーで出世したらエンペラーなキング!?」
「だというのに、ああ!」
音速で哀れな歌劇調を取り戻して、火織が大仰に頭を振ってみせた。巻かれた髪が、ばいんばいんとばねの様に伸び縮みする。
「ケイですって! ああ、なんて軽薄極まりない名前! 名前だけでなく、形だけでも籍を入れるなどという軽挙妄動、徹頭徹尾のユル軽かるぽんち! 軽薄! ケイだけに! ぷっ!」
「え!? そこツボ!?」
無視できずに声に出してから、真糸ははたと気付いた。
(籍?)
玄朗佐がその程度のことをちょろまかしていたところで、今更驚きはしないが。火織のイントネーションは、なにやら別のニュアンスを感じる。
「とにかく許しませんことよ! ケイとやら!」
真糸が理解を手繰り寄せるのも待たず、火織から下された最後通牒が意識をさらった。
びし、とケイに細っこい指を突きつけて、少女は自分より頭ひとつ分以上高いところにある呆け顔に向かって、唾を飛ばしていく。
「あなたの松蔭家への婿入りなどという恐ろしい策謀に気付きませなんだのは、確かにわたくしのミス! とはいえ、そんなものは無効なのです―――おねえさまはとうの昔に、城香月火呼という我が家の立派な男子とご婚約あそばしておられるのですからっ!」
「おられませんし!?」
真糸は悲鳴を上げた。いい加減、誰でもいいからここに通りかかって正気と客観視を差し挟んでくれやしないかと儚く呪いながら、自分もまた火織に巻き込まれるようにわめき散らす。
「冗談じゃないわよ! ちょっとひおちゃん、あなたまだあたしとあのコンコンチキくっつけようとか企んでんの!?」
「これは果たし状です! お受けなさい!」
やはり聞く耳持たず、火織が片方の手袋を脱ぎ捨てた。そしてそれを、振りかぶるポーズも甚しくケイめがけ投げつけて―――
ケイが真糸をさっと前方に差し出したため、真糸の鼻面に、ぺしと命中して落ちる。だけ。
慈悲ない沈黙へと、全員で沈み込む。
真糸は義務感じみた何かに背を押され、尋ねた。真糸の両肩を押さえて楯にしたままのケイへと。
「どして避けたの?」
「なんかばっちい」
「きいいいいいぃぃぃ!」
とんでもない金切り声に、ぎょっとして真糸は火織へと振り返った。少女は握りこぶしを自分の胸に押し当てて、唇を噛んでいる。足を踏み鳴らそうとしたらしいが、マイクロミニでは破廉恥なことになると知っていたらしい。下着が見えない程度にジャンプすることで衝動を代行させて、やたら陳腐な毒々しさのある啖呵を切る。
「このような侮辱、忘れませんことよ! しっかと覚えてらっしゃい!」
「忘れません、のに覚える? 忘れるから覚えとくんでしょ。うっわ。おたんちん」
「きじゃあああぁぁぁ!」
人類にあるまじき威嚇音でせりふを引き裂き、火織が顔面をケイに突き合わせる。ちょっと考えればケイの方が道理が通らないことを言っているのが分かりそうなものだが、血がのぼった少女の頭こそ、そんな論理など投げ出してしまっているらしい。
とはいえ、布告後に物申すのも無粋と断じたのだろう。苛立しげに細腕を戦慄かせながらも罵声をしまって、少女がきびすを返した。そして、つきあたりの角を曲がって姿を見失った直後―――火織を乗せたハイヤーか外車か、とにかくそんなものの排気音が物陰から聞こえてくる。こんな道幅も無い隘路で、高級車がどこをどう走り抜けられるのかは謎だが、それでも騒音は数秒で遠ざかって消えてしまった。
よって自然と、真糸はケイと共に路上に取り残されたことを、意識せずにいられなかった。
どうしようもなく、彼に声をかける。
「ケイ」
「分かってる。ごめん」
「は?」
わけの分からない謝罪に唖然とした真糸に対するケイの理屈は、やはりわけが分からなかった。
「よく考えたら、おとーさんだって胸が尻だよね。てか全身あんだけ腫れるまで叩かれたら、腫れる前に死ぬし。てことは叩かれる場所じゃないわけで、ならいとちゃんが馬鹿だって証拠にはならないよね」
げんなりと、同意する。
「そーね。あんたなんか叩いたところで腫れないしね」
「お詫びに、不可能を超えて俺だけは叩いて腫らしてみせるね!」
「もうちょっと高次元の目的で不可能を超えなさいよ! ヒーローの皆さんがどんだけ苦労して世界救ったりしてると思ってんの!?」
それだけは譲れず叱りつけてから、真糸は気付いた。半眼で、右手をケイに差し伸べる。
「そうだった。胸で思い出した。あんた、あたしの下着どこやったの。返しなさい」
「?」
対するケイは、気楽なものだった。言ってくる。
「いとちゃん、もしかして、まだ洗濯してない?」
「は?」
「洗濯するって言ってたじゃん。だから俺、戻ってちゃんと洗濯機に入れてから、いとちゃんを追っかけてったんだよ」
「あっそ……」
言葉も無い。
局部で律儀なケイの幼児性に眩暈を覚えて、真糸は眉の間の皮を指でつまみあげた。皮膚が伸びたところで、心因性の頭の痛みは剥がれてくれやしないが。
「ていうか。そんな話じゃなくて。なんであんた、あんな変な自己紹介したの?」
単に名乗るだけで済ませておけば、これほどまでこじれることはなかったかもしれない。
だとしてもやはりケイは、ぽけっと答えてくるだけだった。
「あのちっちゃいの、城香月って自慢したから」
「は?」
「なんだよそんなん。俺なんか、いとちゃんとおそろいだもんね。べー」
火織が立ち去った路地に向けて、舌先をれろれろさせているケイを、ぽかんと見上げるうちに―――
何となく気付いて、そして気付いた以上は無視もできず、真糸はそれを声に出してケイに念押しした。
「あのね。あの子、どうもあたしとあんたが結婚してるって思っちゃったらしいのよ」
「なんで?」
間髪いれず聞き返され、返答に窮する。視線を地面に落としたところで正当が落っこちているわけもないが、それでもたっぷりそこに視線を泳がせて……やはり真糸が口にしたのは、解答でなく回答にすぎなかった。
「そういや十四歳って、結婚できないわね」
「きょーだいも、義理のじゃないと結婚できないしねー」
「メカともね」
「義理じゃないしねー」
当たり前のように、ケイがそう続ける。
真糸は再度、彼を見上げた。松蔭ケイ。
そしていつものように、内側から爆ぜる感情が言葉になるのを待つ。いつものようでなかったのは、こみあげてきたのが、必ずしも逆上とはいいかねる生温い圧迫感だったことだろうけれども。
「そんじゃあ、メカでもないかもね」
これだってまた当然、馬鹿げた話なのだろうが。
だったところで、それだけだ。
うなじを掻く。かゆみを覚えたわけではないが、どことなく目線をよそ見させておけるシチュエーションが欲しかった。
歩き出す。並んでこようとするケイに逆らわず、真糸は隣に場所を空けた。そのまま歩きながら、当たり前のことを口にする。
「帰ェるわよ」
「おっさんくさー」
「うっさい」
話は、それで終わった。
言葉なんてものは、いくらでも終わる。そしてまたいくらでも始まって、また次が始まる。
確かめたくとも、こんな時に限って腕時計すらしていない。直前まで料理をしていたのだから当然だし、そもそも何時間経とうがケイをしょっ引くまで帰れないことは分かりきっていたが。
「こなくそ……」
せき込んで真糸は、足を止めた。サラリーマンの帰宅には早く、専業主婦の夕飯の買出しには遅く、悪ガキが暗躍するには魅力が無い平凡な住宅街は閑散として、真糸以外に人影は見当たらない。ケイの姿すらない。
「見失った……あんにゃろ……」
ほぞをかんで、真糸は震える膝を両手で押さえつけた。汗を含んで振り乱し、ぼさぼさになった黒髪を背中に払う。べたりと予想外にへばりついた感触に一層の不快感を覚えながら、それでも視線だけは辺りをうかがっていた。
(どこよ。どこにいるの? あたしのブラジャー持ったツッカケ男が通りませんでしたか、なんて聞き込みできるはずないし)
錯誤した脳裏の具申をはねつけ、真糸はとにかく歩き出した。闇雲に探したところで意味はないだろうが、そもそもメカと人間の対決なのだから、はなから漠然と当てもない。というか、対決とも言いがたい。これは、かくれんぼだ。
(そうよ。もしもあいつが、あたしと、かくれんぼしてるつもりなら―――)
真糸が見つけることが可能な範囲で、真糸が見つけるまで隠れ続ける。物陰に。ほくそえみながら。
(ブラジャーを手に!)
ぐっと、拳を右手に沈黙する。
沈黙し、沈黙を過ぎ、真糸は絶望した。
(変態だーーーー!!)
頭を抱えて、うずくまる。
(変態よ紛れもない変態よ! 逃走に徹する下着ドロのほうがまだマシじゃない! 逃げてるんじゃなく、あいつはかくれんぼのつもりで、誰かに見つかるのを待ってるのよ! 見つける相手が警察だったら、どう言いながら引き取んの!? そいつは松蔭ケイで、あたしの兄で妹のメカなんですって―――誤解のない説明を心がけるほど、あたしへの誤解が比例しそうだし!!)
『妹』のことだ。たとえ頭にかぶって走り回っていたところで、遊んでいる以外の意図は全くないに違いない。問題は、誰がどう見ても、彼が立派な八頭身の青年だということ―――
「ふふ……んふふ……」
ゆらアり、と立ち尽くし、真糸は舌なめずりして、口元に残った唾液を手の甲で拭った。乾いた視線で、ありとあらゆる風景を記憶に固めていく。
「大丈夫よ―――だって。見つけちゃうものねえ……ケェエイ……このアフュンエウツッカイヴの雌豹! 松蔭真糸が!」
アフュンエウツッカイヴというのが何なのかは分からないが、まあそれっぽい強大無比な鋼鉄帝国の忌み名だろうと確信して、真糸は宣言を続けた。
「ぜぇえええええったいに許さないわ。ただでさえ人様のデリケートゾーンを無垢にからかってくれて―――言うに事欠いて、どっちのしりもでっかいですって? 同い年の目は引くわ、根も葉もないエロやかな憶測を呼ぶわ、買うしかない下着は紐のとことかが妙にババくさいレースだわ―――ねぇエえ!!」
半ば愚痴になりつつあったせりふを無理やり切り替えて、怒号を発する。
「とうに殺意はフルゲージなのよ。ジェノサイドモードに切り替わるのも気後れしないわ。いとちゃーんとか、おねーちゃーんとか言って、しゃしゃり出て来なさい。今回という今回は―――」
「おねーさまー!」
「ケェエエエエエエェイ!!」
思いがけぬ標的からの呼びかけに、振り向きざまに構えて―――
ふと、気づいたことがある。
(おねぇっ、サマ―――!?)
わきあがる戦慄が、嫌な予感と共に、真糸の皮下をあわ立てた。
と同時に、悟ってもいた。これはきっと、予感だけで終わってくれない!
「わっふ❤」
「みひゃ!?」
背後。少女の歓声と同じくして、悲鳴を上げる。
というか、過敏に縮こまった肺臓が上げた奇声を、聞かざるをえなかったというか。死角の真後ろから抱きつかれただけだと、分かってはいた―――としても、真糸の腰を羽交い絞めにしてさすってくる掌の感触に、否応無く臓腑がすくみあがる。
真糸のそれを見越しての行動だろうに、背後から抱きついて離れない少女は、まるでその反応が予想外の幸運だったかのように嬉しげだった。
「あん、もう。なぁんて可愛らしいお声なのかしら。みひゃ、ですって。ああ、夏休みの間、夢寐にも忘れられなんだですのよ。おねえさまぁ♪」
「ハ・ナ・シ・ナ・サ・うィィイイイイイ!」
「おふ。続きまして、とってもロボ風味なおねえさま。シャープなお色気がまた素敵」
恥辱に赤く染まる頬肉を内側から噛みながら、真糸は相手の派手にロールしたツインテールを押しのけた。が、びくともしない。はじめから後の先を取るつもりで抱きつかれたのなら心構えも違ったのだろうが、こうまで唐突に打たれ弱いところをがっちり極められてしまっては、指一本すら力めない。わきわきとまさぐってくる指に総毛立つことで手一杯の状態では、逃げ出すことも不可能だった。足は、半歩すら動かせない。いや、動く―――力の抜けた膝が、地面に落ちる―――
だが、実際に地面に落ちたのは、真糸ではなく少女の方だった。彼女はぺたりと尻餅をついて、ぽかんとこちらを見上げている……
「俺のだぞ。お前なんかお前のくせに。ばぁか」
その声にはっとして、真糸は目を凝らした。自分は、座ってなどいない。どころか、立っていた時より視座が高かった。見回すまでも無く、すぐ真横にケイの顔がある。身体の前面に食い込むタンクトップの感触を考えると、すぐに合点がいった。
「た、助かったわ。ケイ。ありがと」
「ん」
ぶすっと頷いて、小動物の後ろ首でも捕まえるように真糸をぶら下げていた手を、ケイが離した。ぼて、と落とされたアスファルトに踏ん張って、その優男面を見上げる。確かにケイだ。
「あ、んた。どこにいたの」
「そこらへん」
と、彼が塀の上を指す。
「そんなの、あたしが気付かないはず無いじゃない」
「ねこの横に、ねこっぽくいたもん」
「ねこ……」
つられて思いついたのは、どういうわけか、自宅のそこかしこで見かける桃色にゃんこシリーズだった。ぱっちりした目元。細い眉。小作りの口。黒と濃い桃色を基調としたカラーリング―――
そこまで来て真糸は、それが目の前の実物であることを思い知った。
「!」
一気に悪寒を取り戻して、後ずさる。自分以外の誰が―――言ってしまえば、とうに起立していたその少女が―――何らかのアクションを取ったということはないが。
「ああああ、あのね? ひおちゃん。あなた様は世界有数のド金持ちのくせに、こーんな平民のねぐら地帯になんの御用があっていらっしゃったのかしら?」
ケイの後ろにこそこそと身を隠しつつ、しどろもどろに彼女に呼びかける。ケイの軟弱な体躯に真糸のひそむスペースがそれほどあったわけではないが、それでも相手の姿がかなり隔てられ、安い安堵が膨らんだ。
まあそれくらいに、その少女……火織が小柄だったということだ。背丈も小さく、体つきもほっそりしている。ただし、それを補って余りある豪勢な巻き毛に加え、黒とピンクのゴシックミニワンピース―――という服装があるのかどうだかしらないが、まあそんなアレ―――を着て、やけくそに厚底の靴を履いているせいか、縦にも横にも差し引きはゼロといったところだろう。顔立ちは愛らしい。ただし、愛らしさに紛らわされてはいけないものもある。絶対に。
たとえばそれは、こんなことだ。真糸の腰を砕いたことに対する悪気など露とも見せず、ただにこにこと天使の笑顔を垂れ流しながら、肘上丈の手袋をした掌でもって優雅に隠した口から告げられてくる言葉。
「ええ、おねえさま。本来なら、人肌恋しゅうなる二学期からますますおねえさまと懇親すべく、こうして前もって奇跡のランデヴーを演出しにきたに決まっているところですけど」
「ああああああ……奇跡は人造できるぅ……」
脳裏を駆け抜けたキュルンゲヘルム・コッコマチンコーチンのダンディな決め顔幻影(第十五回放送仕様でヒゲ薄め)に、気分的にはらはらと涙をこぼしながら、真糸はうなった。ケイの背中にすがり付いて、どうにか道路にへたばるのだけは回避するが、だからといって脱力感そのものはどうしようもない。
と、はたと気付いて、真糸は目をぱちくりさせた。
「本来なら?」
「それなんですのよ、おねえさま。大変! 大変ですわ!」
血相を変え、火織が飛び跳ねた。細い両腕をめいっぱい振り回し、肩を膨らませながら、
「このあたりに不審者がいるという電話連絡網が回ってまいりましたの。それでわたくし、いてもたってもいられなくなって」
「電話連絡網?」
「ええ。なんでもその不審者、某女子中学生を四六時中つけ回して膝枕を強要した挙句に脱衣中に侵入、のみならず力尽くで抱きすくめ無理やり己の指をしゃぶらせ、果ては使用済みの下着を持ち逃げしたとか」
「それアンタお抱えの秘密部隊からの電話連絡網でしょ! どこよ! どこに仕掛けたの盗聴器!」
ばたばたと身体を探るが、特別変わって指に触れるものはなかった。そのことが逆に寒気を煽るが、当の火織は確実に変態レベルを底上げする脚色が成された報告に心を奪われているらしく、こちらの様子を見もせずに復讐を誓っている。
「おねえさまったら強気に見えて押しに弱いですし、口先ではノーと言うくせに面倒見の良さと器用貧乏さ加減は群を抜いてますでしょう。なあなあで変質者でさえ受け入れてしまわれるんじゃないかしらって、わたくしとっても心配ですの。お分かりでしょ?」
「そーねー。受け入れちゃったナンバーワン当人から言われると、否定もできないわねー」
「いやだわ、おねえさま。わたくしがナンバーワンだなんて。ぽっ」
「なんのワンだと思ってんの!?」
赤らめたかんばせを片手に凭れさせながら虚空に流し目を送る火織に怒鳴るが、聞いていないのは明らかだった。彼女は途端に打って変わって厳しい感情を燃え上がらせた目を、ぎっとつり上げる。
「ともあれその不審者、即刻狩り出して血祭りに上げないと、必ずや後顧の憂いとなりましょう。とりあえず対戦車ミサイルを手配いたしました」
「とりあえず!?」
「あとは不審者をロックオンするのみですわ。さてお姉さま、その不審者の姿かたちを教えてくださらない? それをもとに、四名まで容疑者を絞り込みます。順繰りに弾頭を使い切りましょう。使い終わればまた四発」
「あああぁぁぁ……」
「ねー」
ついに地面へと崩れた真糸に、ケイが呼びかけた。
彼は、真糸が掴んだままでいる自分のトレーナーが、さながらペーパーホルダーから引き出されすぎた便所紙のようなぎりぎりの伸び方をしていることも、意に介した様子はない。なにせ、ぴっと人差し指を差し向け、その先っぽと微妙な渋面を向けたのは、その少女に対してだったのだから。
「こいつなに?」
「こっ? なっ?」
と、絶句する火織など歯牙にもかけず手を引っ込め、そのまま真糸の左手をかっさらう。そして彼女を引っ張るようにして、アスファルトから立たせながら、
「もう行こ。いーじゃん。こんな邪魔な虫」
お邪魔虫という単語を破滅的に言い間違えながら、その上その過ちに全く気付かずに、ケイがつないだ手をぶらつかせてみせた。ケイとしては、かくれんぼを中断させ、さらに真糸の注意を横取りし続ける少女に対して、幼稚な対抗心があるだけなのだろうが。
ただしケイは容姿的には幼稚さなどカケラもない青年であり、敵視された少女はその容姿に相応しい以上に幼稚だった。見ず知らずの男に、初対面で真正面から睥睨され、火織の眉間にじわじわと危険な小皺が増えていく。
(やばい)
直感して、真糸は慌てて口を開いた。
「ええとね。聞いて。この子はあたしの学校の、部活の後輩で、」
「私立掬有志学園中等部、第一学年四組出席番号六番、姓を城香月、名を火織と申します」
真糸の言葉尻をすっぱ抜き、火織は一気に言葉を継いだ。さっきまで顔で燻らせていた不愉快さを慣れたように引っ込めて、朗々と残りを嘯いていく。
「どうぞ御用入りの際は、ひお、とやわらかくお呼びくださいませ。おねえさまには、兄の火呼ともども、部活動のみならず学園生活のはしばしでお世話になっておりますの。ところで城香月とお耳にあそばして当然あなたさまも思い当たったでしょうけど、ええもちろん、あの城香月グループに間違いありませんことよ。最新コンピューターから葱ミックスたこやき粉まで、世界に羽ばたく日の本ジャポンの大成金オブ城香月。ご存じでしょ?」
「なんで?」
せりふごと相手のプライドをざっくり辻斬りして、ただしそんな惨状などカケラも知ったことでないとぼけ顔で、ケイが真糸に振り返った。
「『城香月』だったら知ってないと駄目なの?」
「あんたはのっけからダメダメだったから、今更気にするこたぁないわよ」
「くっ……!」
ひどく口惜しげに手袋の甲を噛んだ火織の双眸に、攻撃色が満ちていく。自分の手札が無効だったことが、こちらの思った以上に少女の癇に障ったらしい。どうにか取り戻した自己紹介でさえ、しどろもどろに痞えている。
「ま、まぁなんであれ、お目にかかれて光栄ですわ。ええと―――ねぇおねえさま」
そこで火織が、世にも冷めた顔つきで、ケイを指差した。人差し指の先っぽで。ぴっと。
「こいつなに?」
「こ!」
「ぶあっ。うざっ」
硬直したケイの横で一瞬ものすごく正直になりかけたが、それでも寸でのところで踏みとどまり、真糸は意識して息を呑み込んだ。冷静に場を見極めようとして……冷静になったところで手の打ち様がない窮地に、呑み込んでいた息を重苦しく吐き出さざるを得ない。
(どーすりゃいいのよ)
ケイを火織にどう紹介すべきか、見当もつかない。
紹介せず、有耶無耶にして脱兎をはかるのは論外だった。ないがしろにされた相手が電話連絡網上に上げられた不審者と同一人物だと分かれば、火織は迷うことなく排除しにかかるに違いない。恐れていたのは、火織が本気で対戦車ミサイルを発射することそれ自体よりも、指向されたケイがその殺戮兵器を平然と握りつぶすに違いないという確信だった。真糸は玄朗佐を父としては見放していたが、天才として甘く見てはいない……妹である兄、などというややこしい設定さえ楽々と受諾してしまったケイのスペックである。真糸が見ていないところで、へそからビームでも出していたところで疑問はない。あるけど。
それはそれとして、「いやあ。このたび、あほがあほを量産しちゃいまして」などと正直に話せたものでもないし、かといって都合よく偽装できそうな親類縁者に心当たりはない。ケイの外見からすれば真糸とは血縁設定に無い方が火織の納得を呼ぶかもしれないが、相手こそ自分と親しくしている―――と認めざるをえない―――後輩である。たかがしれた真糸の交友関係上に突如としてケイのようなモノがふってわくなど、疑問を覚えるなという方が無理だ。そしてそうなったが最後、正直に話していたほうがマシだったと後悔に焼かれる未来がもたらされるのが手に取るように分かる。
「あの。その、ね。ひおちゃん、彼はね」
間を埋めるために、真糸はケイと少女の間に及び腰で入りつつ、あてどなくうめき続けた。少なくとも、それが続く限りはそうしているつもりだったのだが。
なんの前触れもなかった。自分の前歯が自分の声でも舌でもなく、ケイの掌の肉を噛んだのは。
「もあ?」
「はじめまして。ケイと申します」
彼女の口を手で塞いだまま、ケイがやたらにこやかに言葉を肩代わりした。急な展開に面食らって、抗う機すら失った真糸は、それだけを見れば非常に好感が持てる好青年らしい形に輪郭と声を形作っているケイを、ただ見るしかない―――
「もちろんケイは名前で、」
と、彼は言い続けたのだが。
続いたのはそれだけだった。一瞬で真顔に戻り、冷徹に囁く。
「姓は、松蔭です」
そして、世界が凍った。
と言うのが正しいのか自信はないが、なんにせよ急激に凍結したかのようにぴくりともしなくなった火織に気圧され、こちらも固まる。
なにがなんだか、とにかく置いてけぼりにされたまま数秒を浪費して、火織が怪訝な表情をひくつかせ始めてから、更なる数十秒―――火織の口元から、呆然とした呟きがこぼれ落ちた。
「しょ、う……」
「しょういん♪」
ケイがにっこりと、リズミカルに復唱してみせる。と。
途端、無音の致命打でも食らったかのようにのけ反って、火織が後ずさりした。演技ぶった仕草でふらついて、そのまま卒倒しそうな気配ではあったが、どうにか二歩くらいで持ち直したらしい。そこで踏みとどまってみせる。
「ひ、ひおちゃん?」
呼びかけたが、答えない。少女はどこか違う世界に片足を突っ込んでいる霞がかった両眼で、かなり赤く侵食が進んだ蒼穹を仰いで、チョーカーを巻いた喉を反らした。上空をじーじーと横切るアブラゼミをわざわざ見たかったはずもないだろうが、それを名残惜しく見送っているのかと疑うくらいたっぷりと沈黙してから言ってくる。
「わたくしが、我がグループの総力を投じて調べ上げた限り、松蔭という苗字は、かの玄朗佐エンペラーキングに連なる一族数名のみ……」
「ンなことに総力!? てかエンペラーキングって何!?」
叫ぶとさすがに気付いたらしい。けろっとして、火織が目をまるくする。
「あらま。義理のお父様には持ちうる限りの敬重を念じて、とりあえず階級をギャラクシーに特進。当然ですわ」
「発明家がどんなギャラクシーで出世したらエンペラーなキング!?」
「だというのに、ああ!」
音速で哀れな歌劇調を取り戻して、火織が大仰に頭を振ってみせた。巻かれた髪が、ばいんばいんとばねの様に伸び縮みする。
「ケイですって! ああ、なんて軽薄極まりない名前! 名前だけでなく、形だけでも籍を入れるなどという軽挙妄動、徹頭徹尾のユル軽かるぽんち! 軽薄! ケイだけに! ぷっ!」
「え!? そこツボ!?」
無視できずに声に出してから、真糸ははたと気付いた。
(籍?)
玄朗佐がその程度のことをちょろまかしていたところで、今更驚きはしないが。火織のイントネーションは、なにやら別のニュアンスを感じる。
「とにかく許しませんことよ! ケイとやら!」
真糸が理解を手繰り寄せるのも待たず、火織から下された最後通牒が意識をさらった。
びし、とケイに細っこい指を突きつけて、少女は自分より頭ひとつ分以上高いところにある呆け顔に向かって、唾を飛ばしていく。
「あなたの松蔭家への婿入りなどという恐ろしい策謀に気付きませなんだのは、確かにわたくしのミス! とはいえ、そんなものは無効なのです―――おねえさまはとうの昔に、城香月火呼という我が家の立派な男子とご婚約あそばしておられるのですからっ!」
「おられませんし!?」
真糸は悲鳴を上げた。いい加減、誰でもいいからここに通りかかって正気と客観視を差し挟んでくれやしないかと儚く呪いながら、自分もまた火織に巻き込まれるようにわめき散らす。
「冗談じゃないわよ! ちょっとひおちゃん、あなたまだあたしとあのコンコンチキくっつけようとか企んでんの!?」
「これは果たし状です! お受けなさい!」
やはり聞く耳持たず、火織が片方の手袋を脱ぎ捨てた。そしてそれを、振りかぶるポーズも甚しくケイめがけ投げつけて―――
ケイが真糸をさっと前方に差し出したため、真糸の鼻面に、ぺしと命中して落ちる。だけ。
慈悲ない沈黙へと、全員で沈み込む。
真糸は義務感じみた何かに背を押され、尋ねた。真糸の両肩を押さえて楯にしたままのケイへと。
「どして避けたの?」
「なんかばっちい」
「きいいいいいぃぃぃ!」
とんでもない金切り声に、ぎょっとして真糸は火織へと振り返った。少女は握りこぶしを自分の胸に押し当てて、唇を噛んでいる。足を踏み鳴らそうとしたらしいが、マイクロミニでは破廉恥なことになると知っていたらしい。下着が見えない程度にジャンプすることで衝動を代行させて、やたら陳腐な毒々しさのある啖呵を切る。
「このような侮辱、忘れませんことよ! しっかと覚えてらっしゃい!」
「忘れません、のに覚える? 忘れるから覚えとくんでしょ。うっわ。おたんちん」
「きじゃあああぁぁぁ!」
人類にあるまじき威嚇音でせりふを引き裂き、火織が顔面をケイに突き合わせる。ちょっと考えればケイの方が道理が通らないことを言っているのが分かりそうなものだが、血がのぼった少女の頭こそ、そんな論理など投げ出してしまっているらしい。
とはいえ、布告後に物申すのも無粋と断じたのだろう。苛立しげに細腕を戦慄かせながらも罵声をしまって、少女がきびすを返した。そして、つきあたりの角を曲がって姿を見失った直後―――火織を乗せたハイヤーか外車か、とにかくそんなものの排気音が物陰から聞こえてくる。こんな道幅も無い隘路で、高級車がどこをどう走り抜けられるのかは謎だが、それでも騒音は数秒で遠ざかって消えてしまった。
よって自然と、真糸はケイと共に路上に取り残されたことを、意識せずにいられなかった。
どうしようもなく、彼に声をかける。
「ケイ」
「分かってる。ごめん」
「は?」
わけの分からない謝罪に唖然とした真糸に対するケイの理屈は、やはりわけが分からなかった。
「よく考えたら、おとーさんだって胸が尻だよね。てか全身あんだけ腫れるまで叩かれたら、腫れる前に死ぬし。てことは叩かれる場所じゃないわけで、ならいとちゃんが馬鹿だって証拠にはならないよね」
げんなりと、同意する。
「そーね。あんたなんか叩いたところで腫れないしね」
「お詫びに、不可能を超えて俺だけは叩いて腫らしてみせるね!」
「もうちょっと高次元の目的で不可能を超えなさいよ! ヒーローの皆さんがどんだけ苦労して世界救ったりしてると思ってんの!?」
それだけは譲れず叱りつけてから、真糸は気付いた。半眼で、右手をケイに差し伸べる。
「そうだった。胸で思い出した。あんた、あたしの下着どこやったの。返しなさい」
「?」
対するケイは、気楽なものだった。言ってくる。
「いとちゃん、もしかして、まだ洗濯してない?」
「は?」
「洗濯するって言ってたじゃん。だから俺、戻ってちゃんと洗濯機に入れてから、いとちゃんを追っかけてったんだよ」
「あっそ……」
言葉も無い。
局部で律儀なケイの幼児性に眩暈を覚えて、真糸は眉の間の皮を指でつまみあげた。皮膚が伸びたところで、心因性の頭の痛みは剥がれてくれやしないが。
「ていうか。そんな話じゃなくて。なんであんた、あんな変な自己紹介したの?」
単に名乗るだけで済ませておけば、これほどまでこじれることはなかったかもしれない。
だとしてもやはりケイは、ぽけっと答えてくるだけだった。
「あのちっちゃいの、城香月って自慢したから」
「は?」
「なんだよそんなん。俺なんか、いとちゃんとおそろいだもんね。べー」
火織が立ち去った路地に向けて、舌先をれろれろさせているケイを、ぽかんと見上げるうちに―――
何となく気付いて、そして気付いた以上は無視もできず、真糸はそれを声に出してケイに念押しした。
「あのね。あの子、どうもあたしとあんたが結婚してるって思っちゃったらしいのよ」
「なんで?」
間髪いれず聞き返され、返答に窮する。視線を地面に落としたところで正当が落っこちているわけもないが、それでもたっぷりそこに視線を泳がせて……やはり真糸が口にしたのは、解答でなく回答にすぎなかった。
「そういや十四歳って、結婚できないわね」
「きょーだいも、義理のじゃないと結婚できないしねー」
「メカともね」
「義理じゃないしねー」
当たり前のように、ケイがそう続ける。
真糸は再度、彼を見上げた。松蔭ケイ。
そしていつものように、内側から爆ぜる感情が言葉になるのを待つ。いつものようでなかったのは、こみあげてきたのが、必ずしも逆上とはいいかねる生温い圧迫感だったことだろうけれども。
「そんじゃあ、メカでもないかもね」
これだってまた当然、馬鹿げた話なのだろうが。
だったところで、それだけだ。
うなじを掻く。かゆみを覚えたわけではないが、どことなく目線をよそ見させておけるシチュエーションが欲しかった。
歩き出す。並んでこようとするケイに逆らわず、真糸は隣に場所を空けた。そのまま歩きながら、当たり前のことを口にする。
「帰ェるわよ」
「おっさんくさー」
「うっさい」
話は、それで終わった。
言葉なんてものは、いくらでも終わる。そしてまたいくらでも始まって、また次が始まる。
0
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