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無力の力
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しおりを挟むシムはレインの提案を有り難く辞退して扉を閉める。
危険だ危険だと心配をかけてくれたが、シムはもうその気持ちだけで十分心を温めてもらった気分だった。
先程昇って来た階段を下ると、慌ただしい音がそれぞれの扉や窓から聞こえてくる。
集合住宅の玄関を通過し教わった通りに通りを左に進むと、その慌ただしさは街に伝播したように嫌な賑わい方をしていた。
「読んだか?次の暴動は只じゃ済まないぞ…!」
「反政府達は何をしてるんだ!
早く王族を引き摺り下ろさないと俺達が死んじまう!」
皆口々に知り合いなのかそうでないのか、近くの人達と声を潜める事もなく話し合う。
その者達の手には一様に号外の紙が握り締められている。
シムはその飛び交う言葉や人達を縫う様にしてひたすら宮廷の方へと進む。
ラナダの兄、レインが教えてくれた通り、まずい状況になれば走ってでも逃げる。
それ以外はきょろきょろと辺りを見ない方が得策だろうとシムは学んだ。
レインは少年ながらに常に堂々としている。
勿論きょろきょろと辺りを見たり隙を見せない。
恐らくこの街では少しでも街の住民たちが怪しむ行動を取れば、直ぐにまずい状況へと直結してしまうのだろうと察する。
シムはなるべく辺りを見ずに、耳を澄ませながら慎重かつ堂々と歩く様に心がけた。
ラナダと本当に遠くまで歩いて来たのだろう、大分歩を進めてから漸く宮廷の形をした影が道の先に見えて来た。
と言ってももう既に夜の為、宮廷から溢れる窓からの光が眩しく映えていた。
宮廷に近付くに連れて先程よりは大胆に不穏な会話をする者達とすれ違わなくはなったが、その代わり白い軍服とえんじ色の軍服を身に纏った者達が数名うろうろと巡回している光景と何度か出くわす回数が増えてきた。
街の片隅の方がよっぽど不穏な雰囲気だったのを思い出し、そちらに目を光らせればいいのに、と心の中で首を傾げた。
恐らく宮廷を最優先に守る警備網なのだろうか、同じ街とは思えない程に空気も人々も違う事を味わい、複雑な気分を抱きながら漸く宮廷の裏口前まで到着する事が出来た。
最後に背後を振り返り、シムを見る者がいないか確認し、従業員用の門に向かって走り出した。
夜、宮廷の一角にある清潔な寝室の備え付けられた洗面室が灯っていた。
そこには細い背中の少女が苦しそうに蹲っていた。
「おぇっ…うぅ……はぁ、はぁ」
少女ジェーンは青ざめたまま窶れた顔を歪める。
ジェーンは殆ど毎晩この洗面室とベッドを行ったり来たりしてはやっと飲み込むことが出来た食事を吐き出していた。
終わりの見えない重度の悪阻は、少女ながらに身篭ったことによる身体への負荷が体調として現れており、その悪阻にジェーンはほとほと苦しめられていた。
もともと身体つきも細く、下腹部が膨らんで来ている事も良く分かってきた。
自身のお腹を摩りながら上体を起こす。
もう胃の中の物もなくなり、口を拭いながら再びベッドに戻る。
力が切れた様にベッドに倒れこみながら寝室の窓から溢れる月の光の線を見つめた。
ジェーンはこの悪阻が幾分かマシになり次第、テューリンゲンに帰るつもりでいた。
その為に大切にしていた自身の服や雑貨などは置いていく算段で必要最低限なものを常に鞄に纏めてベッドの下に仕舞っていた。
しかしジェーンに決定的に欠けている事はテューリンゲンまでの足であった。
人脈も資金もないジェーンにはこっそりテューリンゲンまで送ってくれる信用のおける人物は居なかった。
唯一頼れそうな大人は一応お頭に思い浮かぶ。シムとカスパルだ。
しかしシムにはお金もないだろうし、せっかく庭師としての腕を買われているのに、自分の事情で宮廷から離れてほしくない。
カスパルも、護衛軍統括長の身で、自分の個人的な願いを叶えてくれるはずがない。
残るはエリザベス女王ではあるが、自分の夫の子を妊娠した若い娘の話など絶対に聞き入れてくれないだろう。
そもそも、もしこの脱走が失敗に終わったとしたら全てが終わるのだ。
自分はもちろんのこと、脱走に協力した者もテューリンゲン一家も全員処刑されるだろう。
「どこに向かってももう地獄なのね…」
全ては自分の慢心の驕りから招いた事。
分かっていても一人で抱えるには重すぎ、あまりに心細い。
潰れてしまいそうだった。
国王はジェーンを無理矢理抱いた日から、一度も顔は見せに来ていない。
ジェーンも国王の顔などもう二度と見たくもないが、その気持ちと反するように、自分とは所詮この程度の存在と言う事実を叩きつけられている様で不愉快だった。
窓の外から沢山の爆発音が鳴り響いた夜も、誰一人として助けに来る者などいなかった。
経験したことのなかった不穏な衝撃にジェーンは洗面室に一晩逃げ込んで一人で泣いていた。
今この場に、あの夜優しさを与えてくれたシムが居てくれたらどれだけ心強いだろう。
大丈夫だと言って貰えたらどれだけ安心したろう。
考えれば考える程涙が止まらなかった。
シムもこの場所に中々近付けない事は十分理解はしているが、高くない背と凡庸な顔立ちの青年をジェーンは心から欲していた。
ジェーンの寝室に訪れる者は殆ど居ない。
毎朝と毎晩トレイに乗った食事を寝室の扉横にある小テーブルに置いていく従者が居るくらいだ。
その彼等も、ジェーンが寝た深夜に食器を片付けに来る。
食べていようが食べていまいが何も言われた事はない。
恐らくジェーンに対して話す事を許可されていないのだろう。
ジェーンは常に無音の部屋で一人きり孤独であった。
カスパルが様子を見に来ることも何度かあったが、カスパルに関しては入廷時に注意を受けていたにも関わらず無視した経緯もあり、顔を合わせるには気まずく、カスパルに心は開いていなかった。
既に時は耽り深夜、ジェーンは常態化した吐き気を感じながらもベッドに横たわっていた。
もうそろそろこの時間帯に食器を片付けに来る従者がそっと扉を開ける。
その音が聞こえたら目を閉じて寝たふりをいつもしていた。
徐々に近付いてくる足音を感知すると、ジェーンは一度扉の方を向いた後目を閉じ、眠ったふりをした。
いつもの様に静かに扉が開く音が聞こえる。
だがその足音はそこで立ち止まらず、ジェーンのいるベッドの方まで歩み寄る様に絨毯を踏む音が聞こえた。
いよいよジェーンの前まで足音は聞こえゆっくりと静止した。
この様な足音は聞いた事がない。
ジェーンは目を閉じ寝たふりをしたせいで今更開けることも出来ず、誰なのか分からない緊張で吐く息が震えそうだった。
「……良かった。
ご無事で……」
近付いてきた者がジェーンの頭上でぽつりと小さく呟く。
ジェーンはその声を知っていた。
一人きり孤独と戦うジェーンは、その言葉を自分にくれる人物を知っていた。
ジェーンは目を開き頭上の人物を見上げる。
そこには、安心した様に優しく微笑むシムが、月光に照らされジェーンを見下ろしていた。
「シムっ……!!」
ジェーンは直ぐに起き上がり目の前にいるシムに飛び付く。
シムは驚き慌てながらジェーンを支えて、困った様に眉を下げた。
「ジェーン様…!
起こしてしまって、すみません…。
お顔だけ、見て、すぐ去ろうと、思ったん、ですが…。」
ジェーンはシムの柔らかくもない身体に抱き着きながら強く目を瞑った。
会いに来てくれたシムに、柔らかい笑顔をくれるシムにジェーンは堪らなく安堵し、じわりと涙が滲む。
心細かったジェーンの心が、シムによってじんわりと温められていく。
兄が居たらこの様に甘えられる存在だったのだろうか。
シムの匂いを吸いながらそう思った。
「シムに会いたかった…!
本当に寂しかったの…!」
その言葉は嗚咽と混じって震えた。
シムは抱き着くジェーンの背中をゆっくりあやす様にさすった。
「会いに来れて、俺も安心、しました。」
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