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無力の力
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しおりを挟む「実は、先程カスパルさんの、ことを話されている、方々の話を…聞いてしまいました。」
まるで懺悔するかのような表情でぽつりと話し始めたシムの顔をそっと見下ろすカスパルは、やはり自分のことを悪く言う言葉に動揺してしまったのだろうと察した。
「ああ、なるほどな。
今は俺の事を悪く言う者も多いから、俺への陰口で嫌な思いをしてしまったんだな。
すまない」
そうカスパルが零すとシムは首を振った。
「違うんです!
悪く言っていた、訳では、ありません…。」
シムは一度区切り意を決したように一つ息を吐いて再び口を開く。
「カスパルさん、あなたと…い、一夜を、共に出来たらと言うお話を、貴族の女性方がしているのを、聞いてしまって…。」
「…俺と、一夜を共に?」
一瞬その言葉の意味を理解するのに時間を要してしまい、カスパルは固まった。
通常通りに捉えてよいのであればそれは間違いなく男女の蜜事という事になるが、その言葉がシムから出てくるとは思っておらずカスパルは驚いた。
「本当に、自分がそんな立場でも、ないことは重々分かっているんです。
でも…勝手な事ばかり仰って、いて、なんだか、あなたを馬鹿に…された様な気がして、嫌だった。
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あなたを直視する事が出来ませんでした。
そう言葉を終わらせた。
自分の愚かさに、震えるように息を吐くシムは苦しそうだった。
「…シム。」
カスパルはシムの独白を受け止めながら、自分自身の身体の奥がじわりじわりと熱くなるのを強く感じていた。
シムの苦しむ姿さえそれがカスパルに関する事だと思うと、後ろめたい様なほの暗い喜びがカスパルを熱くさせた。
カスパルはそんな獰猛で野性的な感情が自分にこんなにもある事に驚いた。
「…シム、俺のそういった行為を想像してしまって動揺したのか?」
シムはカスパルのいつもとは違う、低くそして腰に響く様な静かな大人の声に驚き顔を上げる。
そこには確かに微笑んではいるが、大きな獣の様に獲物をぎらぎらと見据えている眼差しにシムは静かに怯えた。
「…カスパルさん…?」
いつものカスパルではないのかと思ってしまうほど恐ろしい強者の空気を醸し出す。
今シムなどいとも簡単に殺せるのだろう、今カスパルの前で唐突に自分の非力さを実感せざるを得ず、シムは思わず息を飲んだ。
「俺が女を抱く想像は嫌だったのか、シム?」
何故その様な質問を、
そもそも自分がカスパルにした独白が無様すぎる、
自分の抱く気持ちに気づいて笑い物にするのも当たり前だ、
シムは目の前のカスパルから目を離せず息さえもするのを忘れた。
少しでも音を立てたら食われてしまいそうな緊張感があった。
今の質問に非常に辱められている様にも思い、様々な感情が波立っては溢れる様にシムの心をかき乱した。
嫌なんてそんな、思う権利はシムにない。
どうぞ好きなように気に入った女とまぐわえばいいのだ。
男女が愛し合うことが正常なのだから。
貴族であられる方は尚更。
自分と違い、良い妻を娶り家族を築き…その様な人生が約束された立場の男なのだから。
発するべき台詞は何十通りもシムの心に産まれる。
しかしシムがやっと発する事が出来た言葉は、そのどれでもない厚い心の殻から覗いてしまった本音だった。
「……っ、はい。
嫌でした……。」
その言葉を聞いたカスパルは優しく恐ろしい雰囲気を色気の様に漂わせ続けながら緩やかに微笑んだ。
その震えるシムの素直な言葉は何よりもカスパルの胸を鷲掴みにする。
カスパルは今、この時世界にシムと二人きりになってしまったのだろうかと錯覚するほど、ただの男として衝動に抗う力は到底残っていなかった。
「いい子だ。」
カスパルはそう低く静かに告げると、シムの目の前まで顔を不意に寄せる。
「…カ、……っ」
その余りの近さにシムは仰け反る様に頭を後退させようと動くも、カスパルの大きな手がシムの頭をいとも簡単に包み込み、それを許されなかった。
一度目を愛しげに細めたカスパルは、シムの唇に自身の唇をゆっくりと重ね合わせた。
「っ…!」
シムは突然のカスパルの唇に目を白黒させ息を止めて強張る。
そうしていないと身体の中が得体の知れない力で沸騰してどうにかなってしまいそうだった。
カスパルの唇は少しカサついていて柔らかく熱く、シムの思考を容易に溶かしていく。
接吻というものをこの人生で経験すると思っていなかったシムは、人の唇の柔らかさとあたたかさに感じる劣情と背徳感に足が震える。
しかしシムは頭を抑え込まれている以上、目の前のカスパルの唇を一身に受け止める以外に術はなかった。
カスパルはそっと唇を離し、シムを見つめる。
「シム、まず俺はその様な下世話な噂をする女を抱いたりはしない。」
「……っ、…」
シムは未だ今起きた事の理解が全く追いつかず、自身の唇に震える手で触れる。
まだカスパルの唇の熱がシムの唇にはしっかりと残っており、じんじんと痺れるようだった。
「それに、そういった行為を愉しむ趣味もない。」
「っ何故、…、今…」
漸く絞り出す事が出来たシムの言葉は、言葉として成り立たないままや口から溢れ出す。
シムの混乱する頭では、今の接吻はシムの気持ちを知っていたカスパルが自分を揶揄ったとしか思えず、自分の気持ちがいつ知られてしまっていたのか、ずっと知っていて情で接してくれていたのか、恥ずかしさと惨めさと、そして好きな人と触れ合えた背徳的な熱がシムの中で渦巻いた。
何故俺を揶揄うのですか。
俺の気持ちを知っていたのですか。
何故優しくしてくれたのですか。
しかしカスパルはそんな動揺を重ねるシムを柔らかく見つめながら、思わぬ言葉を再開させた。
「…シム、俺は想い人が居るんだ。
しかし絶対に口に出してはいけない。
それは罪になるからだ。」
カスパルは困った様に微笑みながらも、その目は強くシムを見つめている。
「俺はその想い人が、理由はどうであれ自分の事を性的に意識してくれた事を知って
今、全ての柵を忘れて理性を手放してしそうになってしまった。
……分かるか、シム。」
シムはカスパルに見つめられながら、放心する様にただ見返す事しか出来ない。
言葉の理解が先程から遅くて仕方がない。
上手く頭が回らない。
今のカスパルの言葉も、全く真実味を帯びないお伽噺を聞いている心地だった。
しかし優しく噛み砕かれたカスパルの話は、時間が掛かったもののシムの心に漸くしっかり届く。
そして答えを導いた。
カスパルの想い人、それは
信じられない。
嘘に決まっている。
しかし、
「………カス、パルさん…………、それは」
漸くカスパルの名を吃りながら発する。
カスパルはゆっくりと口角を上げ、目を細めた。
感の鋭い方ではないシムにも言いたい事が伝わっている事を察し、頬が緩まずにはいられなかった。
しかし咄嗟に人の気配がした気がして、カスパルは一度ちらりと出入り口の扉の方を見やる。
シムから顔を離して距離を取った。
先程の危うい怖さと男の色気とはまるで違う、いつもの穏やかで太陽の様な雰囲気に戻っていた。
「混乱させてしまってすまない。
小風の遺体がなかったことを伝えられて良かった。
また共に街へ探しに行こう。」
カスパルはそう言って席を立った。
シムは未だ動揺したままカスパルを見上げる。
すっかりいつも通りになったカスパルにも頭が追いつけず、今までの出来事も、もしや白昼夢だったのではないかと勘違いしそうになる。
「…、……はい…、」
何とか首を縦に振ると、カスパルは歩き出した。
一度振り向きシムを再び見やる。
「…おやすみ、シム。」
その一言は先程とまた同じ、低く腰に響く様な声色だった。
シムはその言葉を耳で聴くだけで精一杯だ。
緊張と動揺とそのカスパルの声で、シムは心臓の鼓動が響き渡りだった。
カスパルは図書館の扉をゆっくり閉じて廊下に出る。
少し歩いた先の、辺りの暗く一寸先も見えない廊下で、不意にカスパルは立ち止まる。
「…ずっと聞いていたのですね?」
その顔は全く微笑んでいない。
その暗闇によく似合う、硬質で不穏な表情をしていた。
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