世間知らずの魔塔主は優しい娼婦を溺愛する

今泉香耶

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9-2.独り占め(2)

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(ああ、それも夢のようだわ。夢を見ていたのに、今度は違う夢を見させてもらうのかしら。でも……)

 夢から覚めたら次の夢を見ればいい。でも、この娼館を出た場所で、現実に戻った後で夢から覚めたら。もう一度夢を見られるのだろうか。バネッサはとりとめもなく、ぐるぐると考え続けた。

(違うわ。夢から覚めるんだわ。ここから出たら。だって、ここが娼館だから、彼はわたしのところに通ってくれているわけで……娼婦じゃなくなったわたしに……何か価値があるのかしら?)

 考えて考えて。どうしても、最後には不安になる言葉が浮かんでくる。どうしてだろう。彼は自分を好きだと言ってくれているのに、なんだか漠然とした不安が心の中で広がっていく。

「どうしよう、コンラート」

「バネッサ?」

「わたし……わたし、娼館から出ようと思ってお金を貯めていたけど、いざそれが目の前にやって来たら、なんだか……そうね、怖いの」

 彼女のその言葉に驚いたようにコンラートは目を見開いた。

「どうして?」

 その理由を聞かれても、バネッサにはすぐには答えられなかった。何か漠然としていて、ただ「怖い」と感じたのは事実だ。けれど、何かを答えなければと思って、バネッサは曖昧なことを口にする。

「どうしてって……どうしても……それに……わたしとあなたじゃ、住んでいる世界が違うもの」

「それは、何の理由にもなりませんよ」

 コンラートの言葉は正しい。バネッサも心の中では「確かにそうだ」と思っていたけれど、なんとなく逃げたくなって、あやふやな言葉を返してしまった。だが、彼はそんな彼女の逃げを許さない。

「バネッサ。あのね。わたしはね」

 コンラートはバネッサの手を取った。そっと手の甲を撫でられる。彼の赤い瞳がバネッサを射抜くようにまっすぐ彼女に向けられる。最初に見た時は、少し怯えたその瞳。だが、今、彼のその目を見れば、怯えではなく「綺麗だ」と、この場に関係がないことをバネッサは思った。

「本当は、あなたに言うことを聞かせることは、簡単に出来るんです。あなたも知っているように、わたしはそのう、それなりのね。魔法使いなのでね。いや、それなり以上といえばそれなり以上か」

「そう……そうね」

 彼が何を言いたいのかバネッサは理解を出来なかったが、なんとかうなずき返す。

「うん。だけど、それじゃ意味がないと思うから……多分。多分ね。その……わたしは、よく、人の心がわからないので、勘違いしているかもしれませんが」

「え……」

「わたしの側近? なんていうんだ? まあいいや。色々世話をしてくれる男性にも怒られた。簡単に身請けを考えるなって。なんでみんなシンプルに考えられないんだろう。わたしはあなたと一緒にいたくてここに通っているんだし、それに使う金を先に払って、あなたがここから出てわたしの所に来てくれれば、それは同じことじゃないのかなぁ~って……でも、どうも違うみたいだ。きっと。だから、えーっと……」

 考えながら話しているコンラート。あまり言葉がうまく出ないようで、ううん、とうなりながら説明をする。その様子をバネッサは黙って見つめていた。

「さっきあなたが言ったように、わたしがあなたを好きなだけじゃ駄目なんですよね? ねえ、じゃあ、もっとわたしのことを好きになって。身請けをされてもいいと思うぐらいに、あなたがわたしに夢中になるのはどうしたらいいんだろう……もう一度出会いからやり直したらいいのかな?」

 その言葉にバネッサは驚いた。彼の声音は本気だったからだ。そうだ。きっと彼はその気になったら「やり直し」を出来るのだろう。それが、時を戻して、というほどの大がかりなものではないと思うが、記憶を何か改ざんして。

「コンラート」

「本当は、簡単なんだ。わたしが魔塔の主だと言えば。魔法でねじ伏せれば。それだけで、簡単にあなたはわたしのものになる。だけど、あなたは今日までずっときちんとここで働いて来たんでしょう。だから、ここを出る時も、正しく出ていきたいのかと思って……だから、身請けっていう制度を使おうと思ったんだけど」

 そう言ってコンラートは静かに微笑んだ。それを見つめながら、ああ、優しい笑みだ、と思うバネッサ。

「わたし……」

 体の内側がかあっと熱くなる。客の前で、こんな風に感情的になってはいけないと思うけれど、もうその抑えは効かない。バネッサの瞳に、熱いものがこみあげてくる。

 彼のことが好きだ。いつからどう好きになったのかはわからない。夢を見させる仕事なのに、ずっと彼に夢を見させてもらっていたのだと思う。だったら、覚めないうちに、彼の手をとってここから出て。衝動的にそう思ってみるが、それを引き留める自分もいる。

(でも、身請けでここを出て? その後は?)

 バネッサは繰り返し考えてしまう。夢から覚めたらどうなるんだろう。怖い。いや、でも、ここから出ることが先だ……いや、でも、そんなことを考えたら「そのために」彼と体を重ねたようにも思えてしまう。そんな下心はなかった……いや、下心はあった。今更そんなきれいごとは言えない。でも……。

 突然のことにぐるぐると脳内を色んな事が駆け巡り、うまく言葉を続けられなくなるバネッサ。彼女のその様子を見たコンラートは

「やっぱり、わたしからの身請けは嬉しくないですか?」

と言って軽く小首をかしげた。嬉しくないわけがない。けれど、その言葉を咄嗟に口にすることが憚られた。

「ちょっと、突然のことで驚いてしまって……」

「わたしじゃなければ、よかった?」

「いいえ。あなただから……あなただから、こんなに色々と考えてしまっているんだと思う」

 バネッサのその言葉の意味は曖昧だ。コンラートにすべてが伝わるわけではないと彼女はわかっていたが、それ以外にうまく言葉が出なかった。

 だが、コンラートはわざわざそれについて深くは追わず「そうですか」と軽く返す。

「今はその……ちょっとだけ、時間を頂戴」

「わかりました」

 バネッサは、そっとコンラートの首に両腕を絡ませた。既に何度も、いや、何十回もしているキス。だが、深く唇を重ねずに、そっと可愛らしく、彼の下唇をついばむ。彼はいつも深いキスをしてくるが、彼女からのその可愛らしいキスを受けて「あはっ」と笑う。

「可愛い人だな。ね、もう一度だけ、そのキスをしてくれませんか」

 返事もせずに、もう一度彼の下唇をついばむと、次は、彼からも同じく、そっと彼女の唇に優しいキスが返ってくる。

「ああ、こんなキスもいいものですね……違うな。あなたから与えられるものは、なんでもいいんだ」

「まあ」

「今日も、あまり時間がないのでもうすぐ帰りますが……それまで、あなたを抱きしめていてもいいですか?」

「もちろんよ」

 コンラートは彼女を膝の上にのせて、ぎゅっと抱きしめた。すぐに飽きるのではないかとバネッサは思ったが、彼は飽きずに彼女を抱いている。そしてまた、彼女も彼の温もりを感じながら瞳を閉じた。

 なんだか言葉は不要のような気がして、互いに黙ったまま、残りの時間を静かに過ごしたのだった。
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