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第1章
隣のやさぐれさん(2)
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三杯目の氷は、音もなく、底の方でゆっくりと崩れていった。
熱の抜けたグラスを片手に、ぼんやりと周囲の景色を見る。
串皿のネギまはとっくに冷めていて、タレの縁が少し乾き始めていた。
店内のざわめきも、耳の奥でくぐもって聞こえる。
人の声はあるのに、言葉の意味は届いてこない。まるで、少し遠い場所にいるような感覚だった。
岡崎。
そう呼ばれていた男は、いつのまにか隣を離れて、テーブル席へ移っていた。
隣の席はすっかりその存在の気配を無くしている。
ただの偶然。
偶然、隣に座っただけ。肘がぶつかっただけ。
名前を知っただけの、他人。
──それだけのはずだった。
けれど、なぜか彼の、岡崎と呼ばれた男の笑い声だけがときどき、耳の奥で反響する。
その軽さや調子の良さが、どこか肌の表面をかすめていくような、妙な引っかかりを残していた。
またどっと笑い声。
岡崎という名の男が、なにか冗談でも言ったのだろう。
その声だけが、妙にあとを引いた。
⸻
なんとなく、もう十分だった。
今日の憂鬱も、人に会いたくなかった気持ちも、飲み干したグラスの底に沈めたような気がして、そろそろ帰ろうとカウンターに手をつく。
会計を伝え、財布を取り出したそのとき──
肩から掛けていた鞄のストラップが、コートのボタンに引っかかった。
「あっ……」
引っぱった瞬間、手の力がずれて、鞄がするりと落ちる。
がさ、と鈍い音。店内は決して静かではないのに、やけに響いた気がした。
慌ててしゃがみこむと、先に手が伸びていた。
スーツの袖から覗いた手首、短く整えられた爪、節の浮いた骨ばった指。
「よいしょっと……はいよ」
目線と同じ高さに岡崎がいた。
少し頬が赤く、目元に熱の名残りがある。
落ちた鞄を片手で拾い上げ、そしてそのすぐ横に転がっていたキーホルダーにも手が行って、しまったと思ってしまう。
いつつけたのかも忘れてしまった変な形のキーホルダー。友人と旅先なにかの景品でもらった記憶のあるキーホルダー。
眠そうな、お地蔵さんのような、でも妙にぐったりとしたフォルム。目の焦点が合っておらず、見る人によっては不気味とすら思われかねない。
(うわ……よりによってこれを拾われるなんて)
心のなかで顔をしかめつつ、わたしは咄嗟にそれを隠すこともできなかった。
「…あっごめんなさい。…ありがとうございます」
早く受け取ってしまいたいのに気にもせず岡崎は、それを二本の指で摘まんで、まじまじと見たあと──ふっと、鼻で笑う。
「これ……なんか……顔やべえな。
あれじゃん。ひと晩明けたときの俺みたい。魂ぬけてる時のやつ」
ぶ。想像してしまって、口元が引きつる。
なんとか笑いを堪えながら、「すみません」とだけ返した。恥ずかしさは消えていた。
岡崎はそのまま軽く肩をすくめて、キーホルダーをそっとこちらの手のひらに戻す。
「ほい。落とし物。ちゃんと回収ぅ」
少しだけ酔いがまわっているのか、口調がさっきよりくだけている。けれど、それは不快に感じなかった。
「……これ、なんてキャラ? 名前とか、ある?」
「さあ……ないと思います。旅行先でもらったやつらなんで」
「名前ないのか。じゃあ、俺が勝手に命名してやろう」
と、急にうーんと考えこむように顎に手を添え、真面目な顔になって言う。そしてこれだ!というように目の前に人差し指を立てる。
「“やさぐれさん”にしよう。“やさぐれ地蔵”」
「……はあ」
なんだそれ。なんだこの男。
「いや、意外とアリじゃない? 俺この顔、わりと好きかも。親近感あるし」
目の前の男はこちらの表情にも気付かず嬉しそうににやにやしている。
わたしの手の中で、ぐったりした“やさぐれさん”が揺れる。
いつもより、ほんの少しだけ存在感があるように見えた。
なんでもない会話。
でも、この人との会話は不思議とあとに残る。
「んじゃ、その“やさぐれさん”、俺だと思って大事にしてな」
「え?」
「いやいや、冗談です。いまの。冗談なんで。気にしないで」
クッと笑いながら、くるりと踵を返す。片手をひらひらさせて。
どこか柔らかな身のこなしで、トイレにでもいくのだろう、歩き出す岡崎。
その背中はふわりと軽く、肩の力の抜けた歩き方に、なぜか目が離せなかった。
すれ違いざま、ふんわりとしたお酒のにおいと、ほんのりシャボン玉の柔軟剤の香りが混じる。
その一瞬さえ、やけに鮮やかに、胸のどこかに残った。
⸻
外に出ると、夜の気配が頬にまとわりついてきた。
湿った空気と、氷の余韻が混ざる。
ああ、また余計な記憶が残ってしまったなと思う。
どうでもいいキーホルダーと、それを拾ってくれた手の温度。
酔っ払い男と、“やさぐれさん”。
思い出すたび、どこかがふっと沈む。
きっと忘れるのだろう。
今夜の出来事なんて、明日には日常に上書きされてしまうのだろう。
でも。 ほんのしばらくはこの夜の名残りが、きっと抜けそうになかった。
熱の抜けたグラスを片手に、ぼんやりと周囲の景色を見る。
串皿のネギまはとっくに冷めていて、タレの縁が少し乾き始めていた。
店内のざわめきも、耳の奥でくぐもって聞こえる。
人の声はあるのに、言葉の意味は届いてこない。まるで、少し遠い場所にいるような感覚だった。
岡崎。
そう呼ばれていた男は、いつのまにか隣を離れて、テーブル席へ移っていた。
隣の席はすっかりその存在の気配を無くしている。
ただの偶然。
偶然、隣に座っただけ。肘がぶつかっただけ。
名前を知っただけの、他人。
──それだけのはずだった。
けれど、なぜか彼の、岡崎と呼ばれた男の笑い声だけがときどき、耳の奥で反響する。
その軽さや調子の良さが、どこか肌の表面をかすめていくような、妙な引っかかりを残していた。
またどっと笑い声。
岡崎という名の男が、なにか冗談でも言ったのだろう。
その声だけが、妙にあとを引いた。
⸻
なんとなく、もう十分だった。
今日の憂鬱も、人に会いたくなかった気持ちも、飲み干したグラスの底に沈めたような気がして、そろそろ帰ろうとカウンターに手をつく。
会計を伝え、財布を取り出したそのとき──
肩から掛けていた鞄のストラップが、コートのボタンに引っかかった。
「あっ……」
引っぱった瞬間、手の力がずれて、鞄がするりと落ちる。
がさ、と鈍い音。店内は決して静かではないのに、やけに響いた気がした。
慌ててしゃがみこむと、先に手が伸びていた。
スーツの袖から覗いた手首、短く整えられた爪、節の浮いた骨ばった指。
「よいしょっと……はいよ」
目線と同じ高さに岡崎がいた。
少し頬が赤く、目元に熱の名残りがある。
落ちた鞄を片手で拾い上げ、そしてそのすぐ横に転がっていたキーホルダーにも手が行って、しまったと思ってしまう。
いつつけたのかも忘れてしまった変な形のキーホルダー。友人と旅先なにかの景品でもらった記憶のあるキーホルダー。
眠そうな、お地蔵さんのような、でも妙にぐったりとしたフォルム。目の焦点が合っておらず、見る人によっては不気味とすら思われかねない。
(うわ……よりによってこれを拾われるなんて)
心のなかで顔をしかめつつ、わたしは咄嗟にそれを隠すこともできなかった。
「…あっごめんなさい。…ありがとうございます」
早く受け取ってしまいたいのに気にもせず岡崎は、それを二本の指で摘まんで、まじまじと見たあと──ふっと、鼻で笑う。
「これ……なんか……顔やべえな。
あれじゃん。ひと晩明けたときの俺みたい。魂ぬけてる時のやつ」
ぶ。想像してしまって、口元が引きつる。
なんとか笑いを堪えながら、「すみません」とだけ返した。恥ずかしさは消えていた。
岡崎はそのまま軽く肩をすくめて、キーホルダーをそっとこちらの手のひらに戻す。
「ほい。落とし物。ちゃんと回収ぅ」
少しだけ酔いがまわっているのか、口調がさっきよりくだけている。けれど、それは不快に感じなかった。
「……これ、なんてキャラ? 名前とか、ある?」
「さあ……ないと思います。旅行先でもらったやつらなんで」
「名前ないのか。じゃあ、俺が勝手に命名してやろう」
と、急にうーんと考えこむように顎に手を添え、真面目な顔になって言う。そしてこれだ!というように目の前に人差し指を立てる。
「“やさぐれさん”にしよう。“やさぐれ地蔵”」
「……はあ」
なんだそれ。なんだこの男。
「いや、意外とアリじゃない? 俺この顔、わりと好きかも。親近感あるし」
目の前の男はこちらの表情にも気付かず嬉しそうににやにやしている。
わたしの手の中で、ぐったりした“やさぐれさん”が揺れる。
いつもより、ほんの少しだけ存在感があるように見えた。
なんでもない会話。
でも、この人との会話は不思議とあとに残る。
「んじゃ、その“やさぐれさん”、俺だと思って大事にしてな」
「え?」
「いやいや、冗談です。いまの。冗談なんで。気にしないで」
クッと笑いながら、くるりと踵を返す。片手をひらひらさせて。
どこか柔らかな身のこなしで、トイレにでもいくのだろう、歩き出す岡崎。
その背中はふわりと軽く、肩の力の抜けた歩き方に、なぜか目が離せなかった。
すれ違いざま、ふんわりとしたお酒のにおいと、ほんのりシャボン玉の柔軟剤の香りが混じる。
その一瞬さえ、やけに鮮やかに、胸のどこかに残った。
⸻
外に出ると、夜の気配が頬にまとわりついてきた。
湿った空気と、氷の余韻が混ざる。
ああ、また余計な記憶が残ってしまったなと思う。
どうでもいいキーホルダーと、それを拾ってくれた手の温度。
酔っ払い男と、“やさぐれさん”。
思い出すたび、どこかがふっと沈む。
きっと忘れるのだろう。
今夜の出来事なんて、明日には日常に上書きされてしまうのだろう。
でも。 ほんのしばらくはこの夜の名残りが、きっと抜けそうになかった。
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