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前編
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アスファルトを叩く雨の音で、ふと我に返った。
ガラス窓の向こう、灰色に沈む街を眺める。スマートフォンの画面には、まだ返信できていない業務メッセージの通知がいくつも浮かんでいた。
『水野さん、あの件どうなりましたか?』
『本日中にご対応お願いします』
ため息が、乾いた唇から漏れ出る。
私、水野雫(みずの しずく)は、都会の片隅で働くごく普通のOL。ただ、普通と少し違うのは、心の水差しがもうずっと前に空っぽになってしまっていることだった。仕事のプレッシャー、終わりの見えない残業、希薄な人間関係。潤いのない毎日が、私の心を少しずつ、しかし確実にすり減らしていく。
「……もう、無理かもしれない」
ポツリと呟いた声は、誰に届くでもなくオフィスに吸い込まれていく。
その翌日、私はほとんど衝動的に有給休暇の申請ボタンを押していた。
向かったのは、都心から電車を乗り継いだ先にある古都の、通称「紫陽花寺」。梅雨のこの時期だけ、境内が色とりどりの紫陽花で埋め尽くされると、雑誌の片隅で見た記憶があった。何かにすがるような気持ちで、私は改札を抜けた。
しとしとと降り続く雨が、古い石畳を濡らしている。土と緑の匂いが混じった空気を吸い込むと、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける気がした。
青、紫、白、淡い桃色。雨粒をまとってきらきらと輝く紫陽花の花々は、まるで宝石のようだ。周りの拝観客が早々に傘をさしたり、屋根のある東屋へ移動したりする中、私はその美しさに心を奪われ、雨に濡れるのも構わずに立ち尽くしていた。
冷たい雨が、頬を伝う。それが涙なのか雨なのか、もうどうでもよかった。
その時、ふと、石段の先にある小道に、私以外の人影があることに気づいた。
私と同じように、傘もささずに佇む一人の青年。
雨に濡れても気にする様子が全くないどころか、まるで彼自身がこの雨の景色の一部であるかのように、静かにそこに馴染んでいる。淡い色の着物を着たその姿は、現代の時間の流れから切り取られたかのようだった。
目が合うと、彼は穏やかに微笑んだ。
「雨の日の紫陽花は、一層色が深くなると思いませんか?」
凛として、けれどどこか優しい声。それは不思議と、雨音に遮られることなく、真っ直ぐに私の耳に届いた。
これが、時雨(しぐれ)さんと私の、出会いだった。
その日から、私の生活は少しだけ変わった。
雨が降ると、そわそわと心が落ち着かなくなるのだ。天気予報をこまめにチェックし、雨マークを見つけると、まるで約束があるかのように心が躍る。
会社を早退したり、休日になったりすると、私は吸い寄せられるようにあの寺へ向かった。
すると、彼はいつもそこにいた。
紫陽花の小道で、あるいは本堂の縁側で。まるで私が来るのを待っていたかのように、静かに微笑んでくれる。
「また、雨が降りましたね」
「はい。……降って、よかったです」
二人で並んで雨音を聞きながら、他愛もない話をした。時雨さんは自分のことをほとんど語らなかったけれど、植物や天気、この土地に伝わる古い物語には詳しかった。彼の話を聞いていると、ささくれ立っていた心が穏やかになっていくのがわかる。
ある日のこと。降りしきる雨を見ながら、私はぽつりと胸の内を漏らしていた。
「私の心、なんだかずっと乾いてしまっているみたいで。毎日、何かに追われて、大事なものが零れ落ちていく感覚がするんです」
時雨さんは、私の言葉を遮るでもなく、静かに聞いてくれた。そして、しばらくの沈黙の後、優しい声でこう言った。
「乾いてしまったなら、雨が潤すまでここで休んでいけばいい」
その言葉は、乾ききった土に染み込む水のように、私の心にじんわりと広がっていった。ああ、そうか。私は、休んでよかったんだ。
彼に会えるのは決まって雨の日だけ。彼岸花のように、決して交わらない世界線の上にいるような、不思議な関係。それでも、雨が降るたびに彼に会える。それだけで、私の毎日は確かな潤いを取り戻し始めていた。
彼をもっと知りたい。そんな気持ちが芽生え始めた頃、私はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「時雨さんは、晴れの日は何をされているんですか?」
純粋な好奇心からの質問だった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、時雨さんの表情からふっと笑みが消え、どこか遠くを見るような、寂しげな瞳になった。
そして、彼は静かにこう答えた。
「晴れの日の私は、ここにいないのです」
その言葉の意味を、この時の私はまだ、知る由もなかった。
ガラス窓の向こう、灰色に沈む街を眺める。スマートフォンの画面には、まだ返信できていない業務メッセージの通知がいくつも浮かんでいた。
『水野さん、あの件どうなりましたか?』
『本日中にご対応お願いします』
ため息が、乾いた唇から漏れ出る。
私、水野雫(みずの しずく)は、都会の片隅で働くごく普通のOL。ただ、普通と少し違うのは、心の水差しがもうずっと前に空っぽになってしまっていることだった。仕事のプレッシャー、終わりの見えない残業、希薄な人間関係。潤いのない毎日が、私の心を少しずつ、しかし確実にすり減らしていく。
「……もう、無理かもしれない」
ポツリと呟いた声は、誰に届くでもなくオフィスに吸い込まれていく。
その翌日、私はほとんど衝動的に有給休暇の申請ボタンを押していた。
向かったのは、都心から電車を乗り継いだ先にある古都の、通称「紫陽花寺」。梅雨のこの時期だけ、境内が色とりどりの紫陽花で埋め尽くされると、雑誌の片隅で見た記憶があった。何かにすがるような気持ちで、私は改札を抜けた。
しとしとと降り続く雨が、古い石畳を濡らしている。土と緑の匂いが混じった空気を吸い込むと、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける気がした。
青、紫、白、淡い桃色。雨粒をまとってきらきらと輝く紫陽花の花々は、まるで宝石のようだ。周りの拝観客が早々に傘をさしたり、屋根のある東屋へ移動したりする中、私はその美しさに心を奪われ、雨に濡れるのも構わずに立ち尽くしていた。
冷たい雨が、頬を伝う。それが涙なのか雨なのか、もうどうでもよかった。
その時、ふと、石段の先にある小道に、私以外の人影があることに気づいた。
私と同じように、傘もささずに佇む一人の青年。
雨に濡れても気にする様子が全くないどころか、まるで彼自身がこの雨の景色の一部であるかのように、静かにそこに馴染んでいる。淡い色の着物を着たその姿は、現代の時間の流れから切り取られたかのようだった。
目が合うと、彼は穏やかに微笑んだ。
「雨の日の紫陽花は、一層色が深くなると思いませんか?」
凛として、けれどどこか優しい声。それは不思議と、雨音に遮られることなく、真っ直ぐに私の耳に届いた。
これが、時雨(しぐれ)さんと私の、出会いだった。
その日から、私の生活は少しだけ変わった。
雨が降ると、そわそわと心が落ち着かなくなるのだ。天気予報をこまめにチェックし、雨マークを見つけると、まるで約束があるかのように心が躍る。
会社を早退したり、休日になったりすると、私は吸い寄せられるようにあの寺へ向かった。
すると、彼はいつもそこにいた。
紫陽花の小道で、あるいは本堂の縁側で。まるで私が来るのを待っていたかのように、静かに微笑んでくれる。
「また、雨が降りましたね」
「はい。……降って、よかったです」
二人で並んで雨音を聞きながら、他愛もない話をした。時雨さんは自分のことをほとんど語らなかったけれど、植物や天気、この土地に伝わる古い物語には詳しかった。彼の話を聞いていると、ささくれ立っていた心が穏やかになっていくのがわかる。
ある日のこと。降りしきる雨を見ながら、私はぽつりと胸の内を漏らしていた。
「私の心、なんだかずっと乾いてしまっているみたいで。毎日、何かに追われて、大事なものが零れ落ちていく感覚がするんです」
時雨さんは、私の言葉を遮るでもなく、静かに聞いてくれた。そして、しばらくの沈黙の後、優しい声でこう言った。
「乾いてしまったなら、雨が潤すまでここで休んでいけばいい」
その言葉は、乾ききった土に染み込む水のように、私の心にじんわりと広がっていった。ああ、そうか。私は、休んでよかったんだ。
彼に会えるのは決まって雨の日だけ。彼岸花のように、決して交わらない世界線の上にいるような、不思議な関係。それでも、雨が降るたびに彼に会える。それだけで、私の毎日は確かな潤いを取り戻し始めていた。
彼をもっと知りたい。そんな気持ちが芽生え始めた頃、私はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「時雨さんは、晴れの日は何をされているんですか?」
純粋な好奇心からの質問だった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、時雨さんの表情からふっと笑みが消え、どこか遠くを見るような、寂しげな瞳になった。
そして、彼は静かにこう答えた。
「晴れの日の私は、ここにいないのです」
その言葉の意味を、この時の私はまだ、知る由もなかった。
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