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後編
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「晴れの日の私は、ここにいないのです」
時雨さんのその言葉は、まるで謎かけのように、私の心にずっしりと居座った。あれ以来、晴れの日に何度か寺を訪れてみたけれど、彼の姿を見つけることはできなかった。がらんとした境内に響くのは、観光客の賑やかな声と、自分の空虚な足音だけ。
私の日常に、雨は不可欠なものになっていた。朝、カーテンを開けて空がどんよりと曇っていると安堵し、太陽が顔を覗かせていると、胸の奥がきゅっと痛んだ。
7月に入り、テレビのニュースキャスターが明るい声で告げる。
「今年の梅雨明けは、もう間近です。明日からはようやく、夏空が広がるでしょう」
心臓が、嫌な音を立てた。明日から、晴れる。しばらく、ずっと。
もう、会えなくなるかもしれない。
その予感が、私をいても立ってもいられなくさせた。私は仕事を無理やり切り上げ、最後になるかもしれない雨の中を、あの寺へと走った。
息を切らして辿り着いた紫陽花の小道に、時雨さんはいた。いつもと同じように、静かに。
私の必死な様子に気づいたのか、彼の瞳がわずかに揺れる。
「明日から……晴れてしまう、そうです。そしたら、もう、時雨さんには会えないんですか?」
震える声で尋ねると、彼は悲しげに、けれどどこか諦めたように微笑んだ。
「ええ。きっと、しばらくは」
そして、覚悟を決めたように、ゆっくりと口を開いた。
「私は、この土地に降り注ぐ雨の記憶が集まってできた、あやかしのようなものなのです。だから、雨が降る間しか、こうして人の姿を保つことはできません」
あやかし……。その言葉は、不思議とすんなりと私の中に落ちてきた。彼の人間離れした雰囲気も、雨の日にしか会えなかった理由も、すべてが繋がった。
「毎年、この季節になると生まれ、ただ紫陽花を眺め、そして雨と共に消えていく。それだけの存在でした。でも……」
時雨さんは、そっと私に視線を合わせた。
「今年は、あなたに会えた。誰かを想い、誰かを待つ時間が、これほど温かいものだと初めて知りました。あなたのおかげで、今年の梅雨は、私にとって忘れられない宝物になりました」
感謝の言葉が、別れの言葉に聞こえて、私の瞳から熱いものがこぼれ落ちた。乾ききっていたはずの涙が、止めどなく溢れてくる。
「泣かないでください」
時雨さんがそっと私の頬に手を伸ばす。触れた指先は、雨粒のようにひんやりとしていた。
「また来年、雨の季節になれば、私はここにいます。あなたが私を覚えていてくれる限り、私はきっと、また生まれることができるから」
その時、厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。
雨が、上がる。
「ああ、もう時間ですね」
時雨さんの体が、陽の光に照らされて、ふわりと輪郭を失っていく。その体はきらきらと輝く無数の光の粒子となり、風に舞うように空へ溶けていく。
「時雨さん!」
伸ばした私の手は、空しく宙を切った。彼がいた場所には、もう誰もいない。ただ、彼が触れた私の頬を、一筋の冷たい雫が伝っていった。
それから、数週間が過ぎた。
予報通り梅雨は明け、真夏の太陽がアスファルトを焦がしている。
私は、以前と同じように会社へ通い、忙しい毎日を送っていた。けれど、心持ちはまるで違った。
デスクのペン立てには、あの寺で買った紫陽花の形をした小さな栞が挿してある。仕事で行き詰まった時、私はそっとそれに触れる。すると、雨の匂いや、時雨さんの穏やかな声が蘇ってくる気がした。
彼は、私の乾いた心に、決して枯れることのない潤いを残してくれた。
ふと窓の外を見上げると、抜けるような青空が広がっている。
大丈夫。私はもう、一人でちゃんと歩いていける。そして、また季節が巡ってきたら。
「また、来年の雨の季節に」
私は空に向かってそっと微笑み、新しい企画書へと向き直った。
心の中では、優しい雨が降り続いていた。
時雨さんのその言葉は、まるで謎かけのように、私の心にずっしりと居座った。あれ以来、晴れの日に何度か寺を訪れてみたけれど、彼の姿を見つけることはできなかった。がらんとした境内に響くのは、観光客の賑やかな声と、自分の空虚な足音だけ。
私の日常に、雨は不可欠なものになっていた。朝、カーテンを開けて空がどんよりと曇っていると安堵し、太陽が顔を覗かせていると、胸の奥がきゅっと痛んだ。
7月に入り、テレビのニュースキャスターが明るい声で告げる。
「今年の梅雨明けは、もう間近です。明日からはようやく、夏空が広がるでしょう」
心臓が、嫌な音を立てた。明日から、晴れる。しばらく、ずっと。
もう、会えなくなるかもしれない。
その予感が、私をいても立ってもいられなくさせた。私は仕事を無理やり切り上げ、最後になるかもしれない雨の中を、あの寺へと走った。
息を切らして辿り着いた紫陽花の小道に、時雨さんはいた。いつもと同じように、静かに。
私の必死な様子に気づいたのか、彼の瞳がわずかに揺れる。
「明日から……晴れてしまう、そうです。そしたら、もう、時雨さんには会えないんですか?」
震える声で尋ねると、彼は悲しげに、けれどどこか諦めたように微笑んだ。
「ええ。きっと、しばらくは」
そして、覚悟を決めたように、ゆっくりと口を開いた。
「私は、この土地に降り注ぐ雨の記憶が集まってできた、あやかしのようなものなのです。だから、雨が降る間しか、こうして人の姿を保つことはできません」
あやかし……。その言葉は、不思議とすんなりと私の中に落ちてきた。彼の人間離れした雰囲気も、雨の日にしか会えなかった理由も、すべてが繋がった。
「毎年、この季節になると生まれ、ただ紫陽花を眺め、そして雨と共に消えていく。それだけの存在でした。でも……」
時雨さんは、そっと私に視線を合わせた。
「今年は、あなたに会えた。誰かを想い、誰かを待つ時間が、これほど温かいものだと初めて知りました。あなたのおかげで、今年の梅雨は、私にとって忘れられない宝物になりました」
感謝の言葉が、別れの言葉に聞こえて、私の瞳から熱いものがこぼれ落ちた。乾ききっていたはずの涙が、止めどなく溢れてくる。
「泣かないでください」
時雨さんがそっと私の頬に手を伸ばす。触れた指先は、雨粒のようにひんやりとしていた。
「また来年、雨の季節になれば、私はここにいます。あなたが私を覚えていてくれる限り、私はきっと、また生まれることができるから」
その時、厚い雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。
雨が、上がる。
「ああ、もう時間ですね」
時雨さんの体が、陽の光に照らされて、ふわりと輪郭を失っていく。その体はきらきらと輝く無数の光の粒子となり、風に舞うように空へ溶けていく。
「時雨さん!」
伸ばした私の手は、空しく宙を切った。彼がいた場所には、もう誰もいない。ただ、彼が触れた私の頬を、一筋の冷たい雫が伝っていった。
それから、数週間が過ぎた。
予報通り梅雨は明け、真夏の太陽がアスファルトを焦がしている。
私は、以前と同じように会社へ通い、忙しい毎日を送っていた。けれど、心持ちはまるで違った。
デスクのペン立てには、あの寺で買った紫陽花の形をした小さな栞が挿してある。仕事で行き詰まった時、私はそっとそれに触れる。すると、雨の匂いや、時雨さんの穏やかな声が蘇ってくる気がした。
彼は、私の乾いた心に、決して枯れることのない潤いを残してくれた。
ふと窓の外を見上げると、抜けるような青空が広がっている。
大丈夫。私はもう、一人でちゃんと歩いていける。そして、また季節が巡ってきたら。
「また、来年の雨の季節に」
私は空に向かってそっと微笑み、新しい企画書へと向き直った。
心の中では、優しい雨が降り続いていた。
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