半衿に隠した想い

藤森瑠璃香

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【中編】

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 あの一夜から、梨花の日常は静かに、けれど確実に色合いを変えていった。

 菊乃屋のお座敷で怜と顔を合わせる日々が始まる。彼は多くを語らない。他の客のように冗談を言うことも、舞をあからさまに褒めることもしない。ただ、座敷の隅で静かに酒を酌み、その翡翠の瞳で梨花の舞をじっと見つめているだけ。初めは静観しているだけだったその眼差しに、やがて何かを探るような色が混じり、そして近頃は、まるで壊れやすいものに触れるかのように、慈しむような光が宿るのを梨花は感じていた。

 その視線は、甘い蜜であり、同時に優しい毒でもあった。彼の視線を感じるだけで胸は高鳴り、指の先にまで想いが満ちて、舞にこれまでなかった艶と切なさが生まれる。
「梨花、あんたの舞、この頃えらく切なゅうなったな。何かあったんか?」
 姉さん舞妓にそう問われ、どきりとして顔を伏せた。型をなぞるだけだった動きに物語が生まれ、扇の先にまで届けたい感情が乗るようになったのは、紛れもなく怜の存在ゆえだった。

 けれど、彼の視線が深くなるほど、梨花の胸は苦しくなる。これ以上は進めない。舞妓と客。その見えない一線を越えることは、決して許されないのだ。想いは募るのに、交わす言葉は「おおきに」「おたのもうします」だけ。そのもどかしさが、秋の冷たい雨のように、梨花の心をじっとりと濡らしていた。

 そんな日々が続いていた、月が冴え冴えと美しい夜のことだった。お座敷を終え、置屋への帰り道を急いでいると、裏庭へ続く白砂の小径に佇む人影があった。月光を浴びて、その亜麻色の髪は銀糸のように輝いている。怜だった。

「……梨花さん」

 いつもの座敷での超然とした雰囲気とは違う、少し掠れた声で名を呼ばれ、梨花の心臓が大きく跳ねた。彼は気まずそうに一度視線を逸らし、また梨花へと向き直る。その仕草に、彼の人間らしい戸惑いが見えて、梨花の胸はさらに締め付けられた。

「今夜の舞も、見事だった」
 初めて聞く、舞への言葉だった。梨花はただ顔を赤らめるばかりで、何も言い返せない。沈黙が二人の間に落ちる。遠くで響く虫の音が、やけに大きく聞こえた。このままではいけない。この静寂を破らなければ、きっと二度と彼と話す機会はないかもしれない。その予感が、梨花に勇気を与えた。

「あの…」
 震える声で切り出す。舞妓の仮面を脱ぎ捨て、一人の少女として彼に踏み込む、大きな一歩だった。
「怜さんの笛は…なんで、あないに悲しい音なんどすか? 胸が、張り裂けそうになります」

 怜は息を呑み、その翡翠の瞳を驚きに見開いた。そして、まるで痛みをこらえるように、ゆっくりと目を伏せる。月明かりが、彼の長い睫毛の影を頬に落とした。
「…君には、そう聴こえるのか」

 ぽつりと呟かれた言葉の後、長い沈黙が続いた。やがて彼は、懐の笛を慈しむように取り出し、その磨かれた竹の肌を指でなぞりながら、遠い過去を見つめるように語り始めた。
「昔、身体の弱い姉がいた。俺がこの笛を吹くと、いつも嬉しそうに聴いてくれたんだ。『あんたの笛は、天女様の羽衣みたいやね』なんて言いながら…。でも、姉は病で死んだ。俺は、せめて魂だけでも慰めたくて、笛を吹き続けた。けれど、この音は…決して届かなかった」

 彼の声は淡々としていたが、その奥には、今もなお彼を縛り続ける生々しい哀しみが横たわっていた。あの美しい音色の源は、届くことのなかった祈りと、決して癒えることのない喪失感。それを知った瞬間、梨花の心に芽生えていた淡い憧れは、より深く、切実な想いへと姿を変えた。この人を、この深い孤独から救いたい。

「怜さんの笛、悲しいけど…綺麗や。私の舞で、その悲しみを少しでも…」
 言葉は、続かなかった。怜が、寂しげに笑ったからだ。
「梨花さん、ありがとう。でも、俺の悲しみは、君が思うよりずっと重い。君のような清らかな人を、巻き込むわけにはいかない」

 その優しい拒絶が、梨花の決意をさらに固いものにした。あなたのその重さを、半分だけでも私に預けてはくださいませんか。声にならない叫びが、胸の奥でこだました。

 その夜から、二人の間には、言葉にならない秘密が生まれた。鴨川のほとりを並んで歩いた夕暮れ、彼は懐から小さな包みを取り出した。
「君の髪に、似合うと思った」
 不器用な手つきで渡されたのは、秋の野に咲く竜胆(りんどう)を模した、紫水晶の小さな簪(かんざし)だった。竜胆の花言葉を、梨花は後に知ることになる。『悲しんでいるあなたを愛す』――。

 その簪は、二人の唯一の秘密であり、秘めたる絆の証となった。夜、自室の鏡台で、梨花はそっとその簪を髪に挿してみる。紫の石が、黒髪の中で静かに光を放った。この想いを、この簪と一緒に髪に隠して、自分は舞妓として生きていけるのだろうか。答えは、見つからなかった。

 舞妓として生きることは、恋を捨てること。その意味を、この胸の痛みほど教えてくれるものはない。
「ええか、梨花。舞妓は花や。美しく咲いて、潔う散る。それがお役目なんやで」
 置屋の母さんの言葉が、呪いのように心を縛る。

 幸せな日々は、あまりに短かった。ある日の昼下がり、菊乃屋へ届け物をした帰り際、女将がお茶を淹れながら、何気なく言ったのだ。

「怜さん、もうすぐ京都を離はるらしいで。笛の修行で、遠い異国の地へ行くんやて」

 ――カラン。

 女将の言葉が耳に届いた瞬間、梨花の世界から、すべての音が消えた。視界が白く滲み、持っていた茶托が手から滑り落ちて、乾いた音を立てたことにも気づかなかった。

 置屋に戻っても、魂が抜け殻になったように鏡台の前に座り尽くした。怜が、いなくなってしまう。あの優しい視線も、儚げな笑顔も、そして、あの笛の音も、もう二度と…。彼からもらったたった一つの絆である簪をきつく握りしめる。これが、別れの証になってしまうなんて。

 白く塗られた梨花の頬を、初めて一筋の熱い涙が伝った。それはただの悲しみの涙ではなかった。舞妓としての自分を壊してでも、この想いを、たった一言だけでも伝えなければ。そんな、燃えるような決意の涙だった。
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