半衿に隠した想い

藤森瑠璃香

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【後編】

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 鏡台の前に座る舞妓の顔に、一筋の黒い筋が走っていた。涙で流れ落ちた紅が、まるで血の痕のように白粉の上に滲んでいる。梨花は、その鏡の中の自分をじっと見つめた。それはもはや、美しく塗り固められた虚像ではない。痛みと決意を宿した、一人の少女の、ありのままの顔だった。

 このまま、何もしなければ。明日になれば、またいつものように白粉をはたき、紅を差し、何事もなかったかのように舞うのだろう。けれど、心は死んだも同然だ。きっと一生、あの月の夜に何もできなかった自分を責め続ける。

 ――嫌や。

 握りしめた掌の中には、怜からもらった竜胆の簪があった。ひやりとした紫水晶の感触が、彼女に最後の勇気を注ぎ込む。掟を破れば、もう祇園にはいられないかもしれない。母さんや姉さんたちに、どれほどの迷惑をかけるか分からない。けれど、失うものを数えるのは、もうやめにした。

 梨花は静かに立ち上がると、足音を殺して廊下を進んだ。きしむ床の音に心臓が跳ねる。すれ違う姉さんたちの部屋から漏れる明かりに罪悪感を覚えながらも、それを振り切るように、ただ前だけを見つめた。置屋の裏口を開けた瞬間、流れ込んできた夜風が、梨花の覚悟を確かめるように強く頬を打った。

 足袋が汚れるのも、裾が乱れるのも構わなかった。夜の花見小路を、息を切らして駆ける。すれ違う人々が驚いて振り返るが、その視線を感じる余裕もない。ただ一心に、あの人の姿を探す。あの笛の音が聴こえる場所へ――。

 そして、見つけた。
 鴨川のほとり、枝垂れ柳の下に立つ、月光を浴びた人影。怜は、川面にその哀しい顔を映しながら、静かに笛を吹いていた。その音色は、梨花が初めて聴いた時よりもさらに深く、痛切で、まるでこの世への別れを告げているかのように悲痛な響きだった。この世のものとは思えぬほど美しく、そして哀しい光景に、梨花は足が竦みそうになるのを必死で堪えた。

「怜さん!」

 ありったけの声で叫んだ。
 笛の音がぴたりと止み、怜がゆっくりと振り返る。彼の翡翠の瞳が、梨花の姿を捉えて大きく見開かれた。化粧は崩れ、高価な衣装の裾は汚れ、息を切らして肩を揺らす舞妓。しかしその瞳は、これまで見たどの瞬間よりも強く、真直ぐな光を宿していた。

「私の舞で、あなたの悲しみを消したい。あなたの心を、軽くしたい!」
 言葉にならない想いが溢れ出し、声が震える。
「舞妓の私も、置屋の教えも、もういりまへん! ただ、あなたに、この想いを知ってほしかった…! 怜さんが…好きやから!」

 魂からの叫びだった。
 その言葉が夜のしじまに吸い込まれた瞬間、怜は苦しそうに顔を歪めた。彼はゆっくりと梨花に歩み寄り、その声は痛みをこらえるように震えていた。
「…どうして、そんなことを言うんだ。君は光だ。俺のような、過去の影の中にいてはいけない」
「縛られてもええ!」
 梨花はかぶりを振った。涙で彼の顔が滲む。
「あなたの影ごと、私が抱きしめたい。あなたの悲しみごと、私が愛したいんや!」

 その言葉が、怜の最後の理性を打ち砕いた。彼はためらうように伸ばした手で、初めて梨花の頬に触れた。そして、まるで壊れ物に触れるかのように、優しく涙を拭う。
「…馬鹿だな、君は」
 そう言って、力なく笑った。
「君の舞は、もうとっくに、俺の心に届いているよ。君が舞うたびに、俺の心にあった氷が、少しずつ溶けていくようだった。君は、俺のたった一つの光だったんだ」
 それは恋人同士になるという約束の言葉ではなかった。けれど、二人の魂が確かに結ばれた瞬間だった。

 翌夜、菊乃屋のお座敷は、異様なほどの静寂に包まれていた。そこにいる誰もが、これが特別な一夜であることを察していた。

 梨花は静かに舞座の中央に進み出る。そして、怜のためだけに、自分のすべてを懸けて舞い始めた。
 一つの所作、一つの視線に、これまでの想いのすべてを込める。それは怜への燃えるような恋心であり、彼の亡き姉への鎮魂の祈りであり、そして、今宵限りで終わる己の恋への、潔い訣別の舞だった。翻る裾の赤は命の炎の色。扇が描く軌跡は、二人が出会ってから辿った心の道筋。汗と涙で、梨花の顔は美しく輝いていた。

 その舞に応えるように、怜の笛が響く。寄り添い、時に導き、まるで二人が言葉を交わしているかのように、音と舞が空間で溶け合っていく。哀しみ、愛しさ、感謝、そして、避けられぬ別れ。すべての感情が、そこにいた人々の胸を締め付けた。

 やがて、舞が終わる。
 梨花は静かに扇を閉じ、深く息をついた。万雷の拍手も忘れられた静寂の中、怜がゆっくりと立ち上がり、梨花に向かって、深く、深く一礼した。梨花もまた、静かに頭を下げる。

 それが、二人の永遠の別れだった。

 怜は、約束通り異国の地へと旅立った。
 梨花は置屋の母から、生まれて初めてというほど厳しく叱られたが、不思議と涙は出なかった。彼女は、舞妓として祇園に残る道を選んだ。

 あの一夜を境に、梨花の舞は、真の芸となった。指の先、視線の先にまで宿る深い情感は、観る者の心を掴んで離さない。「梨花の舞には、人の魂を慰める力がある」。いつしか、そう噂されるようになった。怜の悲しみを癒したいと願ったひたむきな想いが、巡り巡って、多くの人の心を救う力へと昇華されたのだ。

 祇園の夜が訪れるたび、梨花は今も、胸元の半衿にそっと指を当てる。
 かつて想いを「隠す」場所だったそこは、今では怜との記憶を宿す温かい「お守り」となっていた。あの翡翠の瞳も、不器用な優しさも、そして魂を震わせた笛の音も、この胸にある限り、決して消えることはない。

 恋は、舞のように一瞬で終わり、けれど魂には永遠に刻まれる。

 鴨川の淀みない流れを見つめながら、梨花は静かに微笑んだ。その表情は、痛みを知り、それを乗り越えた者だけが持つ、穏やかな覚悟と気高い美しさに満ちていた。
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