定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました

藤森瑠璃香

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第3話:給湯室の魔法と余計なこと

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 目の前の光景に、私は完全に思考を停止させていた。
 スマートフォンを取りに戻ってきたはずなのに。一刻も早く帰って、ふて寝したかったはずなのに。
 どうして私は、天敵であるはずの上司の寝顔を、こんなにも真剣に見つめているのだろうか。

(……風邪、引くに決まってる)

 オフィスは深夜電力で空調が弱まっているのか、少し肌寒い。こんなところで、こんな薄着で眠っていたら、鉄の男だろうがサイボーグだろうが体調を崩すに決まっている。
 私の実家は、駅前で小さな定食屋を営んでいた。栄養バランスの悪い客や、疲れた顔の常連を見ると、つい「ちゃんと食べなきゃダメだよ」とお節介を焼いてしまうのは、きっと両親から受け継いだ性分なのだろう。

 ――見て見ぬふりは、できなかった。

 私は自分が着ていたジャケットをそっと脱ぐと、月詠部長の肩にかけた。彼の体温が低いのか、ジャケット越しにひんやりとした感触が伝わってくる。
 そして、私は踵を返し、今度こそ帰路に……は、つかなかった。
 向かった先は、ビルの1階にある24時間営業のコンビニ。私の定食屋の血は、ただジャケットを掛けただけで満足するのを許してはくれなかったのだ。

 カット野菜に、パックの卵、生姜チューブに、顆粒の中華だし。最低限の材料を買い込み、私は再び自分の部署の給湯室へと舞い戻った。

 幸い、給湯室には誰でも使えるマグカップが置いてある。
 私は手際よく野菜の袋を開け、マグカップに投入。そこに電気ケトルで沸かした熱湯と中華だしを注ぎ、割り箸でそっとかき混ぜる。最後に溶き卵をそっと流し入れ、仕上げに生姜チューブを少しだけ。
 ものの数分で、即席の中華風たまごスープが完成した。不格好だけど、生姜のいい香りがふわりと立ち上る。冷え切った身体を温めるには、これで十分なはずだ。

 湯気の立つマグカップを両手で包み、再び部長の執務室へ。
 さっきよりも、足取りは少しだけ軽かった。

「部長……月詠部長」

 そっと肩を揺する。うっすらと目を開けた彼は、状況が掴めないのか、銀縁の眼鏡の奥の瞳を数回またたかせた。そして、私を認識した瞬間、その瞳にすっと鋭い光と警戒の色が宿る。

「……みくりや、さん? なぜ、ここに……」
「忘れ物を取りに。それより、これを」

 私は有無を言わさず、スープの入ったマグカップを彼の目の前のデスクに置いた。ことり、と小さな音が静かな部屋に響く。

「……これは?」
「見ていられなかったので。栄養ドリンクばかりじゃ、身体、壊しますよ」

 私の言葉に、月詠部長はバツが悪そうに視線を逸らし、デスクの隅にある空き瓶の山を一瞥した。普段の彼からは考えられない、人間らしい反応だった。

「……余計なことを」

 ぽつりと呟かれた言葉は、いつものように冷たい響きを持っていた。
 けれど、不思議とそこにはいつものような刺々しさは感じられなかった。

「余計なお世話、です。でも、飲んでください。少しはマシになると思いますから」

 私はそう言って、半ば強引にマグカップを彼の手に押し付けた。部長の指先が、驚くほど冷たい。
 彼はしばらく、マグカップの中の不恰好なスープと、私の顔を交互に見ていたが、やがて諦めたように、そっと口をつけた。

 一口、また一口と、ゆっくりとスープを飲む。
 強張っていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。生姜の効果か、血の気のなかった頬に、気のせいか微かに赤みが差したようにも思う。

 やがて、彼は最後の一滴まで静かに飲み干すと、空になったマグカップをデスクに置いた。

「……ごちそうさま」

 それは、ほとんど吐息のような、か細い声だった。
 私はその声を聞いて、なぜか急にこの場にいるのが恥ずかしくなってしまった。

「じゃ、じゃあ私はこれで本当に失礼します! お疲れ様でした!」

 まくしたてるように言って、私はくるりと背を向ける。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
 ジャケットがまだ彼の肩にかかったままだということも、すっかり頭から抜け落ちていた。

「……御厨さん」

 背後から呼び止める声が聞こえた気がしたが、私は聞こえないふりをして、足早に執務室を後にした。

 オフィスを出て、冷たい夜風に当たると、火照った頬が少しだけ落ち着いた。
 一体、私は何をやっているんだろう。天敵に、手作りのスープなんて。

 だけど、不思議と後悔はなかった。
 空っぽのマグカップを見つめていた、あの人の少しだけ驚いたような、戸惑ったような顔が、なぜか脳裏に焼き付いて離れなかった。

 氷の王子の城に、ほんの少しだけ、人間らしい火が灯った夜。
 このお節介が、私たちの関係をどう変えていくのか。
 その時の私には、まだ知る由もなかった。
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