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第4話:氷の女王とドリップコーヒー
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翌朝、私はここ数年で一番重い身体を引きずって出社した。
寝不足のせいだけではない。昨夜の出来事が、まるで現実味のない夢のように頭の中でぐるぐると回っているからだ。
(本当に、あったことなんだよね……?)
あの月詠部長の、無防備な寝顔。
私が作った即席のスープを、静かに飲み干した姿。
そして、自分のジャケットをオフィスに置き忘れてきたという、致命的な失態。
考えるだけで胃がキリキリと痛む。今日、一体どんな顔をして部長に会えばいいというのか。
恐る恐るオフィスに足を踏み入れると、そこにはいつもと寸分違わぬ光景が広がっていた。
そして、フロアの奥の執務室のガラス壁の向こうには、すでに席に着き、背筋を伸ばしてPCに向かう月詠部長の姿があった。
その姿は、あまりにも完璧だった。
昨日見た、疲労に顔を歪め、乱れた髪でデスクに突っ伏していた姿など、まるで幻だったかのように。
社員に的確な指示を飛ばす声も、いつも通りの冷たく澄んだ声色だ。
(……だよね。何も変わらない。)
勝手に少しだけ親近感を覚えていた自分が、馬鹿みたいだ。
あの人は氷の王子で、鉄の男で、やっぱり充電式のサイボーグなんだ。昨夜のはきっと、バッテリーが切れかかっていただけ。
私はそう自分に言い聞かせ、気配を殺して自分のデスクに着席した。
午前中、私は意識的に部長のいる方を見ないようにして仕事に打ち込んだ。
なのに、聞こえてくる会話の端々から、どうしても彼の情報が入ってきてしまう。
「なあ、今日の部長、いつもよりピリピリしてないか?」
「わかる。報告に行ったら、いつもより質問が鋭くて死ぬかと思った」
同僚たちの囁きに、私の心臓がどきりと跳ねる。
ピリピリしている? もしかして、昨日のこと、怒っているんだろうか。「余計なことを」と言っていたし……。
ああ、もう! 自分のしたことながら、気まずくて仕方がない。
昼休み、少しでも気分を変えようと給湯室でお茶を淹れていると、背後にすっと人の気配がした。
振り返るまでもない。この、空気が凍るようなプレッシャーは、月詠部長、その人だ。
「ぶ、部長……お疲れ様です」
「……」
彼は何も言わず、ただ私をじっと見つめている。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、何を考えているのか全く読めない。
数十秒にも感じられる沈黙の後、彼はすっと、小さな紙袋を私に差し出した。
「……これ」
「え?」
戸惑いながらも受け取ると、中には綺麗に畳まれた私のジャケットと、見覚えのあるロゴが入った箱が入っていた。都心にしかない、一杯千円以上はするという高級コーヒー専門店のドリップバッグだ。
「昨日の礼だ」
ぽつり、と彼が言う。
ジャケットからは、彼が使っているのだろうか、清潔で、どこか澄んだ石鹸のような香りがした。
「そ、そんな、お礼なんて……!」
「それと」
彼は私の言葉を遮り、さらに続けた。
「余計なことはするなと、言ったはずだ」
その声は、やっぱり冷たかった。
けれど、なぜだろう。その言葉は、まるで「ありがとう」と素直に言えない子供が、必死に照れを隠しているように聞こえてしまったのだ。
月詠部長はそれだけ言うと、私に背を向け、颯爽と給湯室を後にしてしまったが、
冷たい言葉とは裏腹に、彼の耳がほんの少しだけ赤いことに、私は気づいてしまった。
もらったばかりのドリップバッグでコーヒーを淹れる。
封を切った瞬間、芳醇で、今まで嗅いだことのないような素晴らしい香りが広がった。
余計なことだと言いながら、律儀に、それも最高級のお礼を返してくる。
いつも完璧で、冷たくて、厳しいのに、時々驚くほど不器用で、人間らしい一面を見せる。
そして、そんな人が、自分の身体を全く顧みず、栄養ドリンクだけで生きている。
(…やっぱり、放っておけない)
それはもう、使命感に近かった。
このままでは、氷の王子はいつか本当に倒れてしまう。城壁のように積み上げられた、あの緑の瓶が、何よりの証拠だ。
――私が、なんとかしないと。
淹れたての高級コーヒーを手に、パソコン画面を睨みつけながら、私は固く、固く決意した。
「秘密の夜食作戦」と名付けた、一方的な健康管理プロジェクト。
氷の王子の胃袋を、そして健康を、この私が守ってみせる。
「負けられない戦いが、ここにある……!」
小さく呟いた私の言葉は、静かなオフィスに響くキーボードの音に、そっとかき消された。
寝不足のせいだけではない。昨夜の出来事が、まるで現実味のない夢のように頭の中でぐるぐると回っているからだ。
(本当に、あったことなんだよね……?)
あの月詠部長の、無防備な寝顔。
私が作った即席のスープを、静かに飲み干した姿。
そして、自分のジャケットをオフィスに置き忘れてきたという、致命的な失態。
考えるだけで胃がキリキリと痛む。今日、一体どんな顔をして部長に会えばいいというのか。
恐る恐るオフィスに足を踏み入れると、そこにはいつもと寸分違わぬ光景が広がっていた。
そして、フロアの奥の執務室のガラス壁の向こうには、すでに席に着き、背筋を伸ばしてPCに向かう月詠部長の姿があった。
その姿は、あまりにも完璧だった。
昨日見た、疲労に顔を歪め、乱れた髪でデスクに突っ伏していた姿など、まるで幻だったかのように。
社員に的確な指示を飛ばす声も、いつも通りの冷たく澄んだ声色だ。
(……だよね。何も変わらない。)
勝手に少しだけ親近感を覚えていた自分が、馬鹿みたいだ。
あの人は氷の王子で、鉄の男で、やっぱり充電式のサイボーグなんだ。昨夜のはきっと、バッテリーが切れかかっていただけ。
私はそう自分に言い聞かせ、気配を殺して自分のデスクに着席した。
午前中、私は意識的に部長のいる方を見ないようにして仕事に打ち込んだ。
なのに、聞こえてくる会話の端々から、どうしても彼の情報が入ってきてしまう。
「なあ、今日の部長、いつもよりピリピリしてないか?」
「わかる。報告に行ったら、いつもより質問が鋭くて死ぬかと思った」
同僚たちの囁きに、私の心臓がどきりと跳ねる。
ピリピリしている? もしかして、昨日のこと、怒っているんだろうか。「余計なことを」と言っていたし……。
ああ、もう! 自分のしたことながら、気まずくて仕方がない。
昼休み、少しでも気分を変えようと給湯室でお茶を淹れていると、背後にすっと人の気配がした。
振り返るまでもない。この、空気が凍るようなプレッシャーは、月詠部長、その人だ。
「ぶ、部長……お疲れ様です」
「……」
彼は何も言わず、ただ私をじっと見つめている。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、何を考えているのか全く読めない。
数十秒にも感じられる沈黙の後、彼はすっと、小さな紙袋を私に差し出した。
「……これ」
「え?」
戸惑いながらも受け取ると、中には綺麗に畳まれた私のジャケットと、見覚えのあるロゴが入った箱が入っていた。都心にしかない、一杯千円以上はするという高級コーヒー専門店のドリップバッグだ。
「昨日の礼だ」
ぽつり、と彼が言う。
ジャケットからは、彼が使っているのだろうか、清潔で、どこか澄んだ石鹸のような香りがした。
「そ、そんな、お礼なんて……!」
「それと」
彼は私の言葉を遮り、さらに続けた。
「余計なことはするなと、言ったはずだ」
その声は、やっぱり冷たかった。
けれど、なぜだろう。その言葉は、まるで「ありがとう」と素直に言えない子供が、必死に照れを隠しているように聞こえてしまったのだ。
月詠部長はそれだけ言うと、私に背を向け、颯爽と給湯室を後にしてしまったが、
冷たい言葉とは裏腹に、彼の耳がほんの少しだけ赤いことに、私は気づいてしまった。
もらったばかりのドリップバッグでコーヒーを淹れる。
封を切った瞬間、芳醇で、今まで嗅いだことのないような素晴らしい香りが広がった。
余計なことだと言いながら、律儀に、それも最高級のお礼を返してくる。
いつも完璧で、冷たくて、厳しいのに、時々驚くほど不器用で、人間らしい一面を見せる。
そして、そんな人が、自分の身体を全く顧みず、栄養ドリンクだけで生きている。
(…やっぱり、放っておけない)
それはもう、使命感に近かった。
このままでは、氷の王子はいつか本当に倒れてしまう。城壁のように積み上げられた、あの緑の瓶が、何よりの証拠だ。
――私が、なんとかしないと。
淹れたての高級コーヒーを手に、パソコン画面を睨みつけながら、私は固く、固く決意した。
「秘密の夜食作戦」と名付けた、一方的な健康管理プロジェクト。
氷の王子の胃袋を、そして健康を、この私が守ってみせる。
「負けられない戦いが、ここにある……!」
小さく呟いた私の言葉は、静かなオフィスに響くキーボードの音に、そっとかき消された。
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