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第9話:氷の王子と宣戦布告
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『お勧めのヒッチコック作品があれば、次の機会にでも聞こう』
あの追伸を発見してから二日間、私の脳内はヒッチコックのことで埋め尽くされていた。
これは、ただのお勧めではない。氷の王子から私個人に向けられた、初めての明確なリクエストだ。ここで凡庸な回答をしては、夜食担当の名が廃る。
(『サイコ』や『鳥』は、部長のことだから絶対観てるはず……。『めまい』も鉄板すぎるし……)
悩みに悩んだ末、私は一本の作品に絞り込んだ。
ジョセフ・コットン主演の『疑惑の影』。ヒッチコック自身が最高傑作と語ったこともある、通好みの名作だ。これなら、部長も唸ってくれるかもしれない。
私は次の夜食に添えるメモに、作品名と「叔父と姪の心理描写が秀逸です。部長ならきっとお好きかと」と、少しだけ生意気な推薦文を書き記した。
そんな浮かれた気分で迎えた金曜日の午後。
企画部のフロアに、緊張感に満ちた招集がかかった。全部員が会議室に集められ、そこで告げられたのは、会社の威信をかけた大型プロジェクト――外資系高級化粧品ブランド「アリュシオン」の日本ローンチに関する、大規模コンペティションへの参加だった。
フロアが期待と不安でどよめく中、役員が静かに告げる。
「この重要プロジェクトの責任者は、もちろん、月詠部長だ」
それは誰もが納得する人選だった。しかし、問題はその次の一言だった。
「そして、部長の指名により、メイン担当は御厨奏さん。君に任せる」
「――え?」
全ての視線が、私一人に突き刺さる。
嬉しいとか、光栄だとか、そんな感情は一瞬で吹き飛んだ。頭の中は、ただただ真っ白。
私が? なんで?
隣の席の同僚が「……御愁傷様」と小さな声で呟いたのが、やけにクリアに聞こえた。
その日の午後、早速キックオフミーティングとして、私は部長の執務室に呼び出された。
二人きりの、ガラス張りの城。
夜には温かい秘密を共有するこの場所も、今は最終決戦前の作戦会議室のように、張り詰めた空気に満ちていた。
「まずは君の考えを聞こう。この『アリュシオン』を、どう売る?」
そこにいたのは、夜に映画の話をした、あの穏やかな上司ではなかった。
私が恐る恐る提出した初期の企画案に目を通す彼の瞳は、獲物を見定める鷹のように鋭く、冷たい。
「……甘いな。コンセプトが曖昧すぎる。ターゲット層への訴求力が弱い」
「は、はい……」
「この程度のアウトプットで満足するな、御厨さん。君の実力はこんなものではないはずだ」
次々と、しかし全て的確なロジックと共に、私の案は打ち砕かれていく。
手厳しい。あまりにも。
夜に見せるあの優しさは、全て幻だったのだろうか。私の能力を買ってくれたのではなく、ただ便利な部下として指名しただけなのだろうか。
心が折れそうになった、その時だった。
「君が作る料理は、いつもテーマが明確だ」
不意に、彼が言った。
「誰に、何を伝えたいか。どう感じてほしいか。その一点が、驚くほどはっきりしている。……仕事も、同じことだ。違うか?」
それは、厳しい叱責の中に隠された、最大のヒントであり、そして信頼の言葉だった。
彼は、私の仕事ぶりだけでなく、私が作る夜食の中にまで、私の本質を見抜いていたのだ。
ミーティングが終わり、私は燃え尽きたように席に戻った。
心身ともに疲労困憊だ。けれど、不思議と心の中には、熱い炎が灯っていた。
やってやろう。この人の期待に、応えてみせる。
私が新たな決意を固めていると、執務室に戻ろうとした月詠部長が、私のデスクの横でふと足を止めた。
そして、すれ違いざまに、私にしか聞こえないほどの小さな声で、こう呟いたのだ。
「……期待している。夜食作りも、仕事も」
振り返ると、彼はほんの少しだけ口の端を上げ、悪戯っぽく笑って見せた。
心臓を、鷲掴みにされた。
厳しい指導の後の、不意打ちすぎる優しい言葉。完璧な氷の王子が見せた、一瞬の隙。
「……ずるい」
顔を真っ赤にしながら、私は誰にも聞こえない声で呟いた。
「そんなの、ずるすぎますよ、部長」
ラスボスは、ただ厳しいだけではなかった。
そのアメとムチの使い分けは、あまりにも巧みで、そして私の心を掴んで離さない、抗えない魅力に満ちていた。
あの追伸を発見してから二日間、私の脳内はヒッチコックのことで埋め尽くされていた。
これは、ただのお勧めではない。氷の王子から私個人に向けられた、初めての明確なリクエストだ。ここで凡庸な回答をしては、夜食担当の名が廃る。
(『サイコ』や『鳥』は、部長のことだから絶対観てるはず……。『めまい』も鉄板すぎるし……)
悩みに悩んだ末、私は一本の作品に絞り込んだ。
ジョセフ・コットン主演の『疑惑の影』。ヒッチコック自身が最高傑作と語ったこともある、通好みの名作だ。これなら、部長も唸ってくれるかもしれない。
私は次の夜食に添えるメモに、作品名と「叔父と姪の心理描写が秀逸です。部長ならきっとお好きかと」と、少しだけ生意気な推薦文を書き記した。
そんな浮かれた気分で迎えた金曜日の午後。
企画部のフロアに、緊張感に満ちた招集がかかった。全部員が会議室に集められ、そこで告げられたのは、会社の威信をかけた大型プロジェクト――外資系高級化粧品ブランド「アリュシオン」の日本ローンチに関する、大規模コンペティションへの参加だった。
フロアが期待と不安でどよめく中、役員が静かに告げる。
「この重要プロジェクトの責任者は、もちろん、月詠部長だ」
それは誰もが納得する人選だった。しかし、問題はその次の一言だった。
「そして、部長の指名により、メイン担当は御厨奏さん。君に任せる」
「――え?」
全ての視線が、私一人に突き刺さる。
嬉しいとか、光栄だとか、そんな感情は一瞬で吹き飛んだ。頭の中は、ただただ真っ白。
私が? なんで?
隣の席の同僚が「……御愁傷様」と小さな声で呟いたのが、やけにクリアに聞こえた。
その日の午後、早速キックオフミーティングとして、私は部長の執務室に呼び出された。
二人きりの、ガラス張りの城。
夜には温かい秘密を共有するこの場所も、今は最終決戦前の作戦会議室のように、張り詰めた空気に満ちていた。
「まずは君の考えを聞こう。この『アリュシオン』を、どう売る?」
そこにいたのは、夜に映画の話をした、あの穏やかな上司ではなかった。
私が恐る恐る提出した初期の企画案に目を通す彼の瞳は、獲物を見定める鷹のように鋭く、冷たい。
「……甘いな。コンセプトが曖昧すぎる。ターゲット層への訴求力が弱い」
「は、はい……」
「この程度のアウトプットで満足するな、御厨さん。君の実力はこんなものではないはずだ」
次々と、しかし全て的確なロジックと共に、私の案は打ち砕かれていく。
手厳しい。あまりにも。
夜に見せるあの優しさは、全て幻だったのだろうか。私の能力を買ってくれたのではなく、ただ便利な部下として指名しただけなのだろうか。
心が折れそうになった、その時だった。
「君が作る料理は、いつもテーマが明確だ」
不意に、彼が言った。
「誰に、何を伝えたいか。どう感じてほしいか。その一点が、驚くほどはっきりしている。……仕事も、同じことだ。違うか?」
それは、厳しい叱責の中に隠された、最大のヒントであり、そして信頼の言葉だった。
彼は、私の仕事ぶりだけでなく、私が作る夜食の中にまで、私の本質を見抜いていたのだ。
ミーティングが終わり、私は燃え尽きたように席に戻った。
心身ともに疲労困憊だ。けれど、不思議と心の中には、熱い炎が灯っていた。
やってやろう。この人の期待に、応えてみせる。
私が新たな決意を固めていると、執務室に戻ろうとした月詠部長が、私のデスクの横でふと足を止めた。
そして、すれ違いざまに、私にしか聞こえないほどの小さな声で、こう呟いたのだ。
「……期待している。夜食作りも、仕事も」
振り返ると、彼はほんの少しだけ口の端を上げ、悪戯っぽく笑って見せた。
心臓を、鷲掴みにされた。
厳しい指導の後の、不意打ちすぎる優しい言葉。完璧な氷の王子が見せた、一瞬の隙。
「……ずるい」
顔を真っ赤にしながら、私は誰にも聞こえない声で呟いた。
「そんなの、ずるすぎますよ、部長」
ラスボスは、ただ厳しいだけではなかった。
そのアメとムチの使い分けは、あまりにも巧みで、そして私の心を掴んで離さない、抗えない魅力に満ちていた。
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