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第8話:秘密の追伸とヒッチコック
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『P.S. ハンバーグのソースの隠し味は、味噌か?』
たった一行の追伸を、私は何度読み返しただろうか。
それは、ラスボスから不意に手渡された、攻略本の切れ端のようだった。一方的に攻撃(夜食)を仕掛けるだけだった私に、初めて相手からのリアクションがあったのだ。
しかも、料理に関する具体的な質問。これはもう、コミュニケーションと呼んでいいはずだ。
「……勝った」
何に勝ったのかは自分でもよくわからないけれど、私はデスクでガッツポーズをしたい衝動を必死にこらえた。
同時に、この貴重なチャンスをどう活かすか、私の頭はフル回転を始める。
直接話しかけて「そうです、赤味噌です!」なんて言う勇気はまだない。ならば、こちらも同じ手で返すまで。
私は小さな付箋紙に、丁寧に文字を綴った。
『ご名答です。隠し味に赤味噌を少しだけ。よくお分かりになりましたね!』
この小さな返信を、次の「夜食の日」に渡すお弁当に忍ばせることに決めた。まるで秘密の文通みたいで、なんだか胸がドキドキする。
そして、水曜日の夜がやってきた。
第四回目の夜食メニューは、鶏肉と野菜がゴロゴロ入ったクリームシチュー。ご飯にもパンにも合うように、少しだけ濃いめの味付けにしてある。温かいシチューが、彼の心をさらに溶かしてくれますように、なんて、乙女チックな願いを込めながら。
「失礼します。本日の……」
「入れ。待っていた」
執務室のドアを開けると、予想外の言葉に私は固まった。
「ま、待っていた、ですか?」
「言葉通りの意味だ。君が来るまで、夕食を待っていた」
月詠部長はさも当然のように言うと、すっと手を差し出した。それはまるで、貢物を受け取る王子のようだった。
私は少し調子が狂いながらも、シチューの入った保温ジャーと、小さなパンが二つ入った袋を手渡した。
「あの、部長」
「なんだ」
「普段、お休みの日とかは、何をされているのかな、と……」
思い切って踏み込んでみた。仕事以外の、彼自身のことを知りたい。その一心で。
部長は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻ると、静かに口を開いた。
「……読書か、古い映画を観るくらいだ」
「映画! どんなジャンルがお好きなんですか?」
「……サスペンスや、ミステリーを好む。特に、アルフレッド・ヒッチコックの作品は、ほとんど観た」
ヒッチコック! まさかの、私と同じ趣味だった。
「私も好きです! 『裏窓』とか『鳥』とか、最高ですよね!」
「ほう……」
月詠部長の口元に、初めてはっきりと「興味」という名の笑みが浮かんだ気がした。
ほんの数分の、他愛ない会話。けれど、それは私と部長の間に架かった、初めての仕事以外の橋だった。
その夜。
奏が帰った後の執務室で、怜は保温ジャーの蓋を開けた。立ち上る湯気と共に、ミルクとバターの優しい香りが広がる。
一口すすると、野菜の甘みと鶏肉の旨味が溶け込んだ、懐かしい味がした。
先ほどの、奏との会話を思い出す。
目をきらきらさせながらヒッチコックを語る彼女の姿は、普段の少し気の抜けた姿とは違い、生き生きとして見えた。
自分と同じものを「良い」と感じる人間が、こんなに身近にいたとは。
シチューを食べ終え、怜は紙袋の底に添えられていた、小さな付箋に気づいた。
『ご名答です』と書かれた、丸みを帯びた可愛らしい文字。
「……やはり、味噌か」
怜は無意識に呟き、その口元には自分でも気づかないほどの、柔らかな笑みが浮かんでいた。
翌朝、私は自分のデスクの上に置かれた見慣れた光景に、今日もまた胸をときめかせていた。
完璧に洗われた保温ジャーと、お礼の品のクッキー。そして、小さなメモ。
『余計なことを』
「はいはい、様式美、様式美」
私がくすくす笑いながらメモを裏返すと、そこには、震えるような喜びをもたらす一文が、昨日よりも少しだけ大きな文字で書かれていた。
『P.S. お勧めのヒッチコック作品があれば、次の機会にでも聞こう』
怜の方から、次の会話を促す言葉。
それはもう、ただの上司から部下への業務連絡ではない。
(こ、これって、ほとんどデートのお誘いじゃないですか!?)
私はそのメモを胸に抱きしめ、誰にも見られないようにデスクに突っ伏した。
沸騰しそうなくらい熱くなった顔を、誰にも見せるわけにはいかなかった。
ラスボス攻略戦は、いつの間にか、甘酸っぱい恋愛クエストへとその姿を変えようとしていた。
たった一行の追伸を、私は何度読み返しただろうか。
それは、ラスボスから不意に手渡された、攻略本の切れ端のようだった。一方的に攻撃(夜食)を仕掛けるだけだった私に、初めて相手からのリアクションがあったのだ。
しかも、料理に関する具体的な質問。これはもう、コミュニケーションと呼んでいいはずだ。
「……勝った」
何に勝ったのかは自分でもよくわからないけれど、私はデスクでガッツポーズをしたい衝動を必死にこらえた。
同時に、この貴重なチャンスをどう活かすか、私の頭はフル回転を始める。
直接話しかけて「そうです、赤味噌です!」なんて言う勇気はまだない。ならば、こちらも同じ手で返すまで。
私は小さな付箋紙に、丁寧に文字を綴った。
『ご名答です。隠し味に赤味噌を少しだけ。よくお分かりになりましたね!』
この小さな返信を、次の「夜食の日」に渡すお弁当に忍ばせることに決めた。まるで秘密の文通みたいで、なんだか胸がドキドキする。
そして、水曜日の夜がやってきた。
第四回目の夜食メニューは、鶏肉と野菜がゴロゴロ入ったクリームシチュー。ご飯にもパンにも合うように、少しだけ濃いめの味付けにしてある。温かいシチューが、彼の心をさらに溶かしてくれますように、なんて、乙女チックな願いを込めながら。
「失礼します。本日の……」
「入れ。待っていた」
執務室のドアを開けると、予想外の言葉に私は固まった。
「ま、待っていた、ですか?」
「言葉通りの意味だ。君が来るまで、夕食を待っていた」
月詠部長はさも当然のように言うと、すっと手を差し出した。それはまるで、貢物を受け取る王子のようだった。
私は少し調子が狂いながらも、シチューの入った保温ジャーと、小さなパンが二つ入った袋を手渡した。
「あの、部長」
「なんだ」
「普段、お休みの日とかは、何をされているのかな、と……」
思い切って踏み込んでみた。仕事以外の、彼自身のことを知りたい。その一心で。
部長は一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻ると、静かに口を開いた。
「……読書か、古い映画を観るくらいだ」
「映画! どんなジャンルがお好きなんですか?」
「……サスペンスや、ミステリーを好む。特に、アルフレッド・ヒッチコックの作品は、ほとんど観た」
ヒッチコック! まさかの、私と同じ趣味だった。
「私も好きです! 『裏窓』とか『鳥』とか、最高ですよね!」
「ほう……」
月詠部長の口元に、初めてはっきりと「興味」という名の笑みが浮かんだ気がした。
ほんの数分の、他愛ない会話。けれど、それは私と部長の間に架かった、初めての仕事以外の橋だった。
その夜。
奏が帰った後の執務室で、怜は保温ジャーの蓋を開けた。立ち上る湯気と共に、ミルクとバターの優しい香りが広がる。
一口すすると、野菜の甘みと鶏肉の旨味が溶け込んだ、懐かしい味がした。
先ほどの、奏との会話を思い出す。
目をきらきらさせながらヒッチコックを語る彼女の姿は、普段の少し気の抜けた姿とは違い、生き生きとして見えた。
自分と同じものを「良い」と感じる人間が、こんなに身近にいたとは。
シチューを食べ終え、怜は紙袋の底に添えられていた、小さな付箋に気づいた。
『ご名答です』と書かれた、丸みを帯びた可愛らしい文字。
「……やはり、味噌か」
怜は無意識に呟き、その口元には自分でも気づかないほどの、柔らかな笑みが浮かんでいた。
翌朝、私は自分のデスクの上に置かれた見慣れた光景に、今日もまた胸をときめかせていた。
完璧に洗われた保温ジャーと、お礼の品のクッキー。そして、小さなメモ。
『余計なことを』
「はいはい、様式美、様式美」
私がくすくす笑いながらメモを裏返すと、そこには、震えるような喜びをもたらす一文が、昨日よりも少しだけ大きな文字で書かれていた。
『P.S. お勧めのヒッチコック作品があれば、次の機会にでも聞こう』
怜の方から、次の会話を促す言葉。
それはもう、ただの上司から部下への業務連絡ではない。
(こ、これって、ほとんどデートのお誘いじゃないですか!?)
私はそのメモを胸に抱きしめ、誰にも見られないようにデスクに突っ伏した。
沸騰しそうなくらい熱くなった顔を、誰にも見せるわけにはいかなかった。
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