偽りの正義(フェイク・ジャスティス)〜青い制服と黒いスーツの約束〜

藤森瑠璃香

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第4話:民事不介入の壁

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 翌朝、桜川交番には重たい空気が漂っていた。
 田中りなは、昨夜からずっとハナおばあちゃんの詐欺事件の報告書と向き合っていたが、書けば書くほど、警察としてできることの限界を思い知らされていた。
 詐欺罪として立件するには、相手の「欺罔(ぎもう)行為」、つまり最初から騙す意図があったことを証明する必要がある。しかし、今回のような巧妙な手口の場合、業者は「あくまで合意の上での契約だった」と主張するだろう。その主張を覆すだけの確たる証拠を掴むのは、至難の業だった。

「おはよう、田中。顔色が悪いぞ。眠れんかったか」
 出勤してきた佐藤巡査部長が、りなのデスクを覗き込んで言った。彼の声には、いつもの厳しさの中に、わずかな気遣いが滲んでいる。
「……悔しくて。ハナおばあちゃん、あんなに泣いてはったのに。私、啖呵切ったのに、何もできてへん」
 俯くりなに、佐藤は静かに告げた。
「それが現実や。俺らの仕事は、法の下でしか成り立たん。気持ちだけでは、どうにもならんこともある」

 その言葉は正論だった。正論だからこそ、りなの胸に重くのしかかる。
「でも、だからって、このまま泣き寝入りなんて、絶対あかんと思います!」
 りなが顔を上げると、佐藤は「その意気や」と短く頷いた。
「やれるだけのことはやる。所轄の生活安全課にも連絡入れて、この業者が過去にも同様のトラブルを起こしていないか、照会をかけてる。何か出てくるかもしれん」
「はい!」

 その日の午後、りなは佐藤と共に、改めてハナおばあちゃんの元を訪れていた。被害届の正式な受理と、今後の捜査方針を説明するためだ。
「……つまり、警察は動いてくれるけど、あのお金が戻ってくるかは、また別の話っちゅうことやね」
 りなたちの説明を聞き終えたハナおばあちゃんが、寂しそうに呟いた。その瞳からは、昨日りなの前でこぼした涙の熱は消え、諦めに似た静かな光が浮かんでいる。

「そんなこと……!」
 りなは思わず反論しかけたが、隣に座る佐藤が、その言葉を制するようにりなの肩をポンと叩いた。
「おっしゃる通りです。我々警察は、犯人を捕まえることはできます。ですが、被害金の回収を強制する権限はありません。そこから先は、民事……つまり、弁護士さんにお願いして、裁判などを通じて取り戻していただくことになるんです」

 民事不介入。
 警察学校で、何度も耳にした言葉だった。犯罪捜査と、個人の財産に関する争いごとは、明確に区別される。警察は、後者には原則として介入できない。
 頭では理解していた。だが、目の前で打ちひしがれている被害者を前にして、その言葉はあまりにも冷たく、無力に響いた。

 ハナおばあちゃんの家を辞去した後、りなはやりきれない思いで唇を噛んだ。
「佐藤巡査部長。私、やっぱり納得できません。民事不介入なんて、被害者の人にとっては、ただの言い訳にしか聞こえへんのとちゃいますか」
 自転車を押しながら、りなは感情を抑えきれずに言った。
 すると、佐藤はふっと空を見上げた。
「俺もな、お前くらいの歳の頃は、そう思ってた」
 その横顔は、いつもより少しだけ、遠くを見ているようにりなには見えた。

「理不尽やと思うやろ。目の前で困ってる人がおるのに、規則や法律が邪魔をする。だがな、田中。その規則や法律が、俺ら警察官の行き過ぎた正義感を、暴走から守ってくれてるんや。俺たちは、スーパーマンやない。法を守るために、法に縛られる。それが、警察官という仕事や」

 諭すような、それでいて、自分自身に言い聞かせているような佐藤の言葉。りなは、何も言い返せなかった。
 交番に戻り、りなは一人、机に向かう。
 佐藤の言うことは正しい。警察官として、彼の言葉は絶対に守らなければならない。
 でも、じゃあ、ハナおばあちゃんの涙は? あの絶望に満ちた顔を、このまま見て見ぬふりをするのか。
 それは、絶対に違う。

 りなの脳裏に、あの弁護士、水島健太郎の顔が再び浮かんだ。
『また、何かでお会いするかもしれませんね』
 彼の言葉が、耳の奥でこだまする。
 警察が動けないのなら。法の内側からでは手が出せないのなら。
 法のプロフェッショナルである彼に、賭けてみるしかないのではないか。

 それは、警察官として正しくない行動なのかもしれない。佐藤の教えに背くことになるのかもしれない。
 それでも。
 りなは、ハナおばあちゃんの涙を思い出した。あの涙を笑顔に変えられる可能性があるのなら、自分はそれに賭けたい。
 りなは固く拳を握りしめると、決意を秘めた瞳で、机の引き出しの奥を見つめた。
 そこに眠る一枚の名刺が、重たい現実を打ち破るための、唯一の鍵のように思えてならなかった。
 青い制服に身を包んだ、まだ新米の警察官。その胸の中で、規則と人情、そして自らの正義感が、激しい火花を散らしていた。
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