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第5話:一縷の望み
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その日の勤務は、まるで足枷をつけられているかのように重かった。
田中りなは、商店街を巡回しながらも、心ここにあらずだった。行き交う人々の「お巡りさん、ご苦労様」という声に笑顔で応えながらも、頭の中はハナおばあちゃんのことでいっぱいだった。
昨日、佐藤巡査部長に諭された「民事不介入」という言葉。それは、警察官として守るべき絶対の原則だ。しかし、りなの心の中では、その言葉が納得できない言い訳のように、ぐるぐると渦巻いていた。
交番に戻り、所轄から届いた資料に目を通す。ハナおばあちゃんを騙した健康食品販売会社について、過去のトラブルを照会した結果だった。
「……やっぱり」
資料には、同様の手口による相談が数件、他の警察署に寄せられていることが記されていた。しかし、どれも被害届の提出には至っておらず、立件されたケースは一つもなかった。
「巧妙やな。訴えられてもいいように、契約書はしっかり作り込んである。これじゃ、詐欺での立件は難しい」
向かいの席で、佐藤が腕を組んで唸った。
「刑事事件として動けん以上、これ以上は俺らの仕事やない。被害者には、弁護士に相談するように促すしかないな」
また、その言葉だ。
弁護士に相談する。それが正論だというのは、もう嫌というほど分かっている。
だが、ハナおばあちゃんは、夫に先立たれてからずっと一人暮らしだ。身近に法律に詳しい人間がいるとも思えない。それに、弁護士に相談するにしても、費用がかかる。すでに三百万円という大金を失った彼女に、これ以上の負担を強いることができるだろうか。
考えれば考えるほど、八方塞がりのように思えた。
自分は、警察官として、あまりにも無力だ。制服を着て、正義を誓ったところで、目の前で泣いている一人のおばあさんすら救うことができない。
りなは報告書を書き終えると、重い足取りで交番を出た。
終業後、りなは自宅アパートには戻らず、無意識のうちに桜川商店街を歩いていた。
夕暮れのアーケードは、夕飯の買い出しに来た主婦や、部活帰りの学生たちで賑わっている。八百屋の山田さんが威勢のいい声でタイムセールを告知し、惣菜屋からは食欲をそそるコロッケの匂いが漂ってくる。
いつもなら心を和ませてくれるはずのその光景が、今日ばかりはりなの心をちりちりと焦がした。
この平和な日常の裏側で、ハナおばあちゃんはたった一人、絶望の中で夜を過ごしているのだ。
ふと、和菓子屋『桜屋』の前で足が止まった。店先には、桜餅や大福が上品に並べられている。ハナおばあちゃんが、毎日丹精込めて作っている和菓子だ。
その時、りなの脳裏に、あの弁護士、水島健太郎の顔が、これまでになく鮮明に浮かび上がった。
『近くで事務所を構えています』
彼はそう言っていた。
りなは、衝動的にポケットからスマートフォンを取り出した。そして、検索窓に「水島法律事務所 桜川」と打ち込む。
すぐに、一件の検索結果がヒットした。住所は、桜川商店街のメインストリートから一本入った、古い雑居ビルの二階。ここから歩いて数分の距離だ。
どうする?
りなの心の中で、二つの声がせめぎ合う。
一人は、警察官としての自分が囁く。「これは職務逸脱だ。個人的な感情で、部外者を巻き込むべきじゃない」。
もう一人は、一人の人間としての自分が叫ぶ。「このまま何もしなくて、後悔しないのか。目の前で助けを求めている人がいるのに、見捨てるのか」。
りなは、ぎゅっと目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、涙にくれるハナおばあちゃんの姿。そして、涼やかな瞳で自分を見つめていた、あの弁護士の顔。
彼の名刺は、まだ自宅の机の引き出しの中だ。だが、その名前と事務所の場所は、もう確かにりなの心に刻まれていた。
やがて、りなはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「……行こう」
誰に言うでもなく、しかし、確かな決意を込めて呟く。
規則違反になるかもしれない。佐藤巡査部長に叱責されるかもしれない。
それでも、やらなければならない。
たとえ僅かな可能性だとしても、それに懸けてみたい。ハナおばあちゃんの涙を、笑顔に変えるために。
りなは、スマートフォンの画面を強く握りしめると、水島の事務所があるという雑居ビルに向かって、力強く一歩を踏み出した。
夕暮れの商店街の喧騒が、まるで彼女の背中を押すエールのように、遠くで響いていた。
これが正しい道なのかは、まだ分からない。
だが、この一歩が、止まっていた時間を動かすための、大切で、そして大きな一歩になることだけは、確信できた。
田中りなは、商店街を巡回しながらも、心ここにあらずだった。行き交う人々の「お巡りさん、ご苦労様」という声に笑顔で応えながらも、頭の中はハナおばあちゃんのことでいっぱいだった。
昨日、佐藤巡査部長に諭された「民事不介入」という言葉。それは、警察官として守るべき絶対の原則だ。しかし、りなの心の中では、その言葉が納得できない言い訳のように、ぐるぐると渦巻いていた。
交番に戻り、所轄から届いた資料に目を通す。ハナおばあちゃんを騙した健康食品販売会社について、過去のトラブルを照会した結果だった。
「……やっぱり」
資料には、同様の手口による相談が数件、他の警察署に寄せられていることが記されていた。しかし、どれも被害届の提出には至っておらず、立件されたケースは一つもなかった。
「巧妙やな。訴えられてもいいように、契約書はしっかり作り込んである。これじゃ、詐欺での立件は難しい」
向かいの席で、佐藤が腕を組んで唸った。
「刑事事件として動けん以上、これ以上は俺らの仕事やない。被害者には、弁護士に相談するように促すしかないな」
また、その言葉だ。
弁護士に相談する。それが正論だというのは、もう嫌というほど分かっている。
だが、ハナおばあちゃんは、夫に先立たれてからずっと一人暮らしだ。身近に法律に詳しい人間がいるとも思えない。それに、弁護士に相談するにしても、費用がかかる。すでに三百万円という大金を失った彼女に、これ以上の負担を強いることができるだろうか。
考えれば考えるほど、八方塞がりのように思えた。
自分は、警察官として、あまりにも無力だ。制服を着て、正義を誓ったところで、目の前で泣いている一人のおばあさんすら救うことができない。
りなは報告書を書き終えると、重い足取りで交番を出た。
終業後、りなは自宅アパートには戻らず、無意識のうちに桜川商店街を歩いていた。
夕暮れのアーケードは、夕飯の買い出しに来た主婦や、部活帰りの学生たちで賑わっている。八百屋の山田さんが威勢のいい声でタイムセールを告知し、惣菜屋からは食欲をそそるコロッケの匂いが漂ってくる。
いつもなら心を和ませてくれるはずのその光景が、今日ばかりはりなの心をちりちりと焦がした。
この平和な日常の裏側で、ハナおばあちゃんはたった一人、絶望の中で夜を過ごしているのだ。
ふと、和菓子屋『桜屋』の前で足が止まった。店先には、桜餅や大福が上品に並べられている。ハナおばあちゃんが、毎日丹精込めて作っている和菓子だ。
その時、りなの脳裏に、あの弁護士、水島健太郎の顔が、これまでになく鮮明に浮かび上がった。
『近くで事務所を構えています』
彼はそう言っていた。
りなは、衝動的にポケットからスマートフォンを取り出した。そして、検索窓に「水島法律事務所 桜川」と打ち込む。
すぐに、一件の検索結果がヒットした。住所は、桜川商店街のメインストリートから一本入った、古い雑居ビルの二階。ここから歩いて数分の距離だ。
どうする?
りなの心の中で、二つの声がせめぎ合う。
一人は、警察官としての自分が囁く。「これは職務逸脱だ。個人的な感情で、部外者を巻き込むべきじゃない」。
もう一人は、一人の人間としての自分が叫ぶ。「このまま何もしなくて、後悔しないのか。目の前で助けを求めている人がいるのに、見捨てるのか」。
りなは、ぎゅっと目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、涙にくれるハナおばあちゃんの姿。そして、涼やかな瞳で自分を見つめていた、あの弁護士の顔。
彼の名刺は、まだ自宅の机の引き出しの中だ。だが、その名前と事務所の場所は、もう確かにりなの心に刻まれていた。
やがて、りなはゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「……行こう」
誰に言うでもなく、しかし、確かな決意を込めて呟く。
規則違反になるかもしれない。佐藤巡査部長に叱責されるかもしれない。
それでも、やらなければならない。
たとえ僅かな可能性だとしても、それに懸けてみたい。ハナおばあちゃんの涙を、笑顔に変えるために。
りなは、スマートフォンの画面を強く握りしめると、水島の事務所があるという雑居ビルに向かって、力強く一歩を踏み出した。
夕暮れの商店街の喧騒が、まるで彼女の背中を押すエールのように、遠くで響いていた。
これが正しい道なのかは、まだ分からない。
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