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第1話:刃物とみじん切り
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「遅い……。遅すぎるよ、琴子さん……」
ワンルームマンションの冷たいフローリングの上で、白雪 廻(しらゆき めぐる)は膝を抱えていた。
時刻は午後7時10分。
同棲中の彼女、相沢 琴子が「仕事が終わったから今から帰る」とメッセージを送ってきてから、すでに40分が経過している。職場から家までは、どれほどゆっくり歩いても30分はかからないはずだ。
「……きっと、事故に遭ったんだ。それか、悪い男に攫われたんだ。……そうじゃなかったら、僕のこと、もういらないんだ」
廻は、床に置いたカッターナイフの刃をカチリと一つ出した。
その瞬間、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー。あー、お腹すいた」
ドアが開いた瞬間に流れ込んできたのは、冬の夜の冷気と、どこか緊張感のない、のんびりとした琴子の声だった。
「琴子さんッ!!」
廻は弾かれたように立ち上がった。
その姿は、あまりにも美しかった。
すらりと伸びた細い四肢、陶器のように白い肌。美大で「油絵科の天使」と囁かれるその美貌は、今、涙と絶望に彩られている。濡れたまつ毛が長い影を落とし、潤んだ青みがかった瞳は、捨てられた子犬のように激しく揺れていた。
「どこに行ってたの!? 10分も遅いよ! 心配で死にそうだったんだ……僕なんて、君がいなくなったら生きてる意味がないんだよ!」
廻は震える手で、自分の手首にカッターを突き立てた。
「ねえ、いっそ今ここで死んでやる……! 君が僕を捨てた、その罰として……!」
あまりにも絵になる、悲劇のヒロイン――もとい、悲劇のヤンデレ彼氏。
普通の女性なら悲鳴を上げて縋り付くような場面だが、琴子は靴を脱ぎながら、面倒くさそうにバッグを放り出した。
「あー、ごめん。コンビニで新作の『濃厚ピスタチオプリン』がラス一だったから、おばちゃんと争奪戦繰り広げてたわ」
「……え?」
「それより廻、ちょうどよかった。そのカッター貸して」
琴子は、廻の手首にある「凶器」を、ひょいと、なんの躊躇もなく奪い取った。
「Amazonで頼んでた新しいルーター届いてるでしょ? 段ボール開けたかったんだよね」
廻は呆然と立ち尽くした。
今、自分は死を賭した究極の愛情確認をしていたはずだ。それが、数百円のプリンの戦果報告と、段ボールの開封作業に完全に上書きされた。
「……ねえ、琴子さん。僕、死ぬって言ったんだよ? カッターを、こう、手首に……」
「あ、血が出ると掃除面倒だし、ラグマットのクリーニング代高いから、死ぬならお風呂場でやってね。あ、これプリン。半分あげるから」
琴子は段ボールをバリバリと開けながら、無造作にスプーンを差し出した。
廻の美しい瞳に、再びボロボロと大粒の涙が溜まっていく。
「ひどい……ひどすぎるよ……! 僕の命より、ラグマットやプリンの方が大事なんだね! もういい、やっぱり死んでやる! いますぐお風呂場で血の海になってやるんだ!!」
「はいはい。じゃあ、死ぬ前にその、お風呂場の横にあるキッチンで、ネギのみじん切りお願いしていい? 今日の夕飯、納豆チャーハンにしたいんだよね」
琴子はキッチンを指差した。
廻は一瞬、フリーズした。絶世の美形が、涙を浮かべたまま、マヌケに口を開けている。
「……ねぎ?」
「そう、ネギ。あ、ついでにベーコンも。細かくね。廻が切ると綺麗だから助かるんだわ」
「……」
5分後。
台所からは、トントントントン……という、リズミカルで完璧な包丁の音が響いていた。
廻は泣きながら、職人のような手つきでネギを刻んでいた。その横顔は相変わらず神々しいほど美しいが、その手元にあるのは死を誘うカッターではなく、今晩のチャーハンの具材だった。
「……ふふ、琴子さん。僕の切ったネギ、美味しい?」
「うん、最高。廻、顔も良いし家事もできるから本当、実質無料の高級シェフだよね」
「……実質、無料……」
廻は、チャーハンを頬張る琴子の横顔を見つめた。
その瞳の奥で、ドロリとした暗い色が、一瞬だけ渦を巻く。
「そうだね。僕、もっともっと役に立つよ。琴子さんが、僕なしじゃ生きていけないように。……僕以外の人なんて、必要なくなるように」
琴子は「うんうん、お代わりある?」と、彼の不穏な呟きなど1ミリも聞いていなかった。
夜。琴子がソファーでうたた寝を始めると、廻は音もなく彼女の隣に座った。
さっきまでの「かまってちゃん」な表情はどこへやら、彼は氷のように冷たい無表情で、琴子のスマホを取り出す。
「……今日はコンビニに、男の店員がいたね」
彼はスマホのGPS履歴をチェックしながら、暗闇の中で、恐ろしく整った顔を歪ませて笑った。
「あいつ、琴子さんの手に触れたよね。……明日、指を一本折っておこうかな」
窓の外では夜が静かに更けていった。
【次回予告】
翌朝。琴子がスマホを手に取ると、見覚えのない通知が届いていた。
それは、昨日琴子が寄ったコンビニの店員が「不慮の事故で重傷を負った」という、近所の物騒なニュースサイトの記事で――。
ワンルームマンションの冷たいフローリングの上で、白雪 廻(しらゆき めぐる)は膝を抱えていた。
時刻は午後7時10分。
同棲中の彼女、相沢 琴子が「仕事が終わったから今から帰る」とメッセージを送ってきてから、すでに40分が経過している。職場から家までは、どれほどゆっくり歩いても30分はかからないはずだ。
「……きっと、事故に遭ったんだ。それか、悪い男に攫われたんだ。……そうじゃなかったら、僕のこと、もういらないんだ」
廻は、床に置いたカッターナイフの刃をカチリと一つ出した。
その瞬間、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー。あー、お腹すいた」
ドアが開いた瞬間に流れ込んできたのは、冬の夜の冷気と、どこか緊張感のない、のんびりとした琴子の声だった。
「琴子さんッ!!」
廻は弾かれたように立ち上がった。
その姿は、あまりにも美しかった。
すらりと伸びた細い四肢、陶器のように白い肌。美大で「油絵科の天使」と囁かれるその美貌は、今、涙と絶望に彩られている。濡れたまつ毛が長い影を落とし、潤んだ青みがかった瞳は、捨てられた子犬のように激しく揺れていた。
「どこに行ってたの!? 10分も遅いよ! 心配で死にそうだったんだ……僕なんて、君がいなくなったら生きてる意味がないんだよ!」
廻は震える手で、自分の手首にカッターを突き立てた。
「ねえ、いっそ今ここで死んでやる……! 君が僕を捨てた、その罰として……!」
あまりにも絵になる、悲劇のヒロイン――もとい、悲劇のヤンデレ彼氏。
普通の女性なら悲鳴を上げて縋り付くような場面だが、琴子は靴を脱ぎながら、面倒くさそうにバッグを放り出した。
「あー、ごめん。コンビニで新作の『濃厚ピスタチオプリン』がラス一だったから、おばちゃんと争奪戦繰り広げてたわ」
「……え?」
「それより廻、ちょうどよかった。そのカッター貸して」
琴子は、廻の手首にある「凶器」を、ひょいと、なんの躊躇もなく奪い取った。
「Amazonで頼んでた新しいルーター届いてるでしょ? 段ボール開けたかったんだよね」
廻は呆然と立ち尽くした。
今、自分は死を賭した究極の愛情確認をしていたはずだ。それが、数百円のプリンの戦果報告と、段ボールの開封作業に完全に上書きされた。
「……ねえ、琴子さん。僕、死ぬって言ったんだよ? カッターを、こう、手首に……」
「あ、血が出ると掃除面倒だし、ラグマットのクリーニング代高いから、死ぬならお風呂場でやってね。あ、これプリン。半分あげるから」
琴子は段ボールをバリバリと開けながら、無造作にスプーンを差し出した。
廻の美しい瞳に、再びボロボロと大粒の涙が溜まっていく。
「ひどい……ひどすぎるよ……! 僕の命より、ラグマットやプリンの方が大事なんだね! もういい、やっぱり死んでやる! いますぐお風呂場で血の海になってやるんだ!!」
「はいはい。じゃあ、死ぬ前にその、お風呂場の横にあるキッチンで、ネギのみじん切りお願いしていい? 今日の夕飯、納豆チャーハンにしたいんだよね」
琴子はキッチンを指差した。
廻は一瞬、フリーズした。絶世の美形が、涙を浮かべたまま、マヌケに口を開けている。
「……ねぎ?」
「そう、ネギ。あ、ついでにベーコンも。細かくね。廻が切ると綺麗だから助かるんだわ」
「……」
5分後。
台所からは、トントントントン……という、リズミカルで完璧な包丁の音が響いていた。
廻は泣きながら、職人のような手つきでネギを刻んでいた。その横顔は相変わらず神々しいほど美しいが、その手元にあるのは死を誘うカッターではなく、今晩のチャーハンの具材だった。
「……ふふ、琴子さん。僕の切ったネギ、美味しい?」
「うん、最高。廻、顔も良いし家事もできるから本当、実質無料の高級シェフだよね」
「……実質、無料……」
廻は、チャーハンを頬張る琴子の横顔を見つめた。
その瞳の奥で、ドロリとした暗い色が、一瞬だけ渦を巻く。
「そうだね。僕、もっともっと役に立つよ。琴子さんが、僕なしじゃ生きていけないように。……僕以外の人なんて、必要なくなるように」
琴子は「うんうん、お代わりある?」と、彼の不穏な呟きなど1ミリも聞いていなかった。
夜。琴子がソファーでうたた寝を始めると、廻は音もなく彼女の隣に座った。
さっきまでの「かまってちゃん」な表情はどこへやら、彼は氷のように冷たい無表情で、琴子のスマホを取り出す。
「……今日はコンビニに、男の店員がいたね」
彼はスマホのGPS履歴をチェックしながら、暗闇の中で、恐ろしく整った顔を歪ませて笑った。
「あいつ、琴子さんの手に触れたよね。……明日、指を一本折っておこうかな」
窓の外では夜が静かに更けていった。
【次回予告】
翌朝。琴子がスマホを手に取ると、見覚えのない通知が届いていた。
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