2 / 2
【後編】
しおりを挟む
あの日、湊くんに古い写真を見せてから、彼は数日間、店に顔を見せなかった。私は、彼に踏み込みすぎたのかもしれないと少し後悔しながらも、「思い出のパン」の試作と、祖父が遺したわずかな手がかりを探す日々を続けていた。店の片隅で見つけた、祖父が使っていた古い製パンの本。その余白に、時折走り書きのようなメモが残されている。その中に、「特別な日には、生地に少しだけ蜂蜜を隠し味に。優しい甘さは、笑顔を呼ぶ」という一文を見つけた時、私は何か大きなヒントを得たような気がした。
その週末、店のシャッターを半分だけ開けて試作に没頭していると、不意に影が差した。顔を上げると、そこには少し気まずそうな顔をした湊くんが立っていた。
「…陽菜、この間の写真、もう一度見せてくれないか」
彼の言葉に、私は黙って写真を手渡す。湊くんはそれを受け取ると、じっと見つめ、そしてぽつりと言った。
「じいちゃん…倉本のおじいちゃんは、俺がガキの頃、よくパンをくれたんだ。特に、親父と喧嘩したり、何かうまくいかないことがあったりした時…決まって、あの甘いクリームパンをくれた」
彼の声は、遠い記憶を辿るように静かだった。
「あのパンを食べると、不思議と元気が出た。…陽菜と一緒に食べたあの日も、確か、野球の試合で大失敗して、ひどく落ち込んでた時だったな」
そうだった。私も思い出した。あの日、湊くんは試合に負けて、一人でブランコに座って泣いていた。それを見かねた祖父が、焼きたてのパンを差し出したのだ。
「『二人のための特別なパン』って、もしかしたら…」私が言いかけると、湊くんが頷いた。
「ああ。俺と、陽菜。二人とも笑顔になるようにって、じいちゃんが願ってくれてたのかもしれないな」
その日から、湊くんは時間がある時に店に顔を出すようになり、私のパンの試作を手伝ってくれるようになった。最初はぎこちなかったけれど、一緒に粉をこね、発酵具合を確かめ、焼き上がりを待つ時間は、不思議と穏やかで、昔に戻ったような心地よさがあった。
彼がなぜ地元を離れ、そして今、何をしているのか、私はまだ詳しく聞けずにいた。でも、パン作りに向き合う彼の横顔は真剣で、時折見せる笑顔には、少しずつではあるけれど、影が薄らいでいくのがわかった。
ある日、試作したクリームパンを二人で味見していた時、湊くんがふと呟いた。
「…あと少し、何かが違うんだよな。じいちゃんのパンは、もっと…こう、口に入れた瞬間に、ふわっと花の香りがしたような気がするんだ」
「花の香り…?」
その言葉に、私はハッとした。祖父が大切に育てていた、朝顔。そして、祖父のメモにあった「蜂蜜」。もしかしたら、祖父は朝顔から採れた蜂蜜を、あのパンに使っていたのではないだろうか。
私たちは、祖父が遺した庭の片隅の、今はもう数えるほどしか咲いていない朝顔の蜜を、ほんの少量だけ集めた。そして、それを生地に練り込み、クリームにもほんの少しだけ加えて、最後の試作に臨んだ。
窯から取り出したパンは、今までとは明らかに違っていた。焼き色は優しく、そして、ほんのりと甘い花の香りが漂っている。緊張しながら一口食べると、懐かしい、優しい甘さが口いっぱいに広がった。ふわふわの生地、とろりとしたクリーム、そして後から追いかけてくる、朝顔の蜂蜜の繊細な香り。
「…これだ!これだよ、湊くん!じいちゃんの『思い出のパン』の味だ!」
思わず叫ぶ私に、湊くんも大きく頷き、その目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
その「思い出のパン」を店の新しい看板商品として売り出すと、瞬く間に評判が広まった。優しい味わいはもちろん、パンに込められたストーリーが人々の心を打ち、寂れていた朝顔通り商店街に、少しずつ活気が戻り始めたのだ。「あさがおベーカリー」は、連日多くのお客さんで賑わい、私も忙しくも充実した毎日を送っていた。
そんなある晴れた午後、店の裏の小さなベンチで、私は湊くんと並んで休憩していた。
「湊くん、最近、なんだか顔つきが変わったね。昔みたいに、よく笑うようになった」
私の言葉に、彼は少し照れたように笑った。
「…陽菜のおかげだよ。あのパンを一緒に作って、じいちゃんのこととか、昔のこととか思い出してたら…なんか、吹っ切れたんだ」
そして、彼はぽつりぽつりと話し始めた。都会で挑戦していた音楽の夢に破れたこと。自信を失い、何もかもが嫌になって地元に戻ってきたこと。でも、何をすればいいのかわからず、ただ無気力な日々を過ごしていたこと。
「でも、陽菜が必死にパン屋を守ろうとしてるのを見て、じいちゃんのパンの味を思い出して…俺も、もう一度ちゃんと前を向かなきゃなって思ったんだ」
彼は、私の手をそっと握った。その手は、少しごつごつしていて、でもとても温かかった。
「陽菜。俺、まだ何もないけど…それでも、君のそばにいたい。君と一緒に、この朝顔通りで、もう一度夢を見たいんだ」
まっすぐな彼の瞳が、私を見つめている。昔、私が密かに憧れていた、力強くて優しい瞳。
「…私も、湊くんが好きだよ。ずっと、昔から」
涙が溢れて止まらなかった。それは、悲しい涙ではなく、温かくて、幸せな涙だった。
数ヶ月後。「あさがおベーカリー」の隣には、新しく「あいば青果店」の看板が掲げられた。湊くんが、八百屋だった実家の跡を継ぎ、新鮮な野菜や果物を売り始めたのだ。彼は、パンに使う果物や野菜を私に届けてくれるだけでなく、時々、店のカウンターに立って、私のパンをお客さんに勧めてくれる。
「思い出のパン」は、今では「朝顔クリームパン」と名付けられ、私たちの店の、そして朝顔通り商店街の、かけがえのない名物になった。優しい甘さと花の香りは、食べる人みんなを笑顔にしてくれる。
カラン、コロン。今日もまた、ドアベルが心地よい音を立てる。
「いらっしゃいませ!」
私と湊くんの明るい声が、焼き立てのパンの香りと共に、活気を取り戻した朝顔通りに響き渡る。
思い出のパンが繋いでくれた縁と、たくさんの笑顔。この場所でなら、きっとどんな未来も、甘く優しく焼き上げられる。そんな確かな予感を胸に、私たちは今日も、新しい一日を始めるのだった。
その週末、店のシャッターを半分だけ開けて試作に没頭していると、不意に影が差した。顔を上げると、そこには少し気まずそうな顔をした湊くんが立っていた。
「…陽菜、この間の写真、もう一度見せてくれないか」
彼の言葉に、私は黙って写真を手渡す。湊くんはそれを受け取ると、じっと見つめ、そしてぽつりと言った。
「じいちゃん…倉本のおじいちゃんは、俺がガキの頃、よくパンをくれたんだ。特に、親父と喧嘩したり、何かうまくいかないことがあったりした時…決まって、あの甘いクリームパンをくれた」
彼の声は、遠い記憶を辿るように静かだった。
「あのパンを食べると、不思議と元気が出た。…陽菜と一緒に食べたあの日も、確か、野球の試合で大失敗して、ひどく落ち込んでた時だったな」
そうだった。私も思い出した。あの日、湊くんは試合に負けて、一人でブランコに座って泣いていた。それを見かねた祖父が、焼きたてのパンを差し出したのだ。
「『二人のための特別なパン』って、もしかしたら…」私が言いかけると、湊くんが頷いた。
「ああ。俺と、陽菜。二人とも笑顔になるようにって、じいちゃんが願ってくれてたのかもしれないな」
その日から、湊くんは時間がある時に店に顔を出すようになり、私のパンの試作を手伝ってくれるようになった。最初はぎこちなかったけれど、一緒に粉をこね、発酵具合を確かめ、焼き上がりを待つ時間は、不思議と穏やかで、昔に戻ったような心地よさがあった。
彼がなぜ地元を離れ、そして今、何をしているのか、私はまだ詳しく聞けずにいた。でも、パン作りに向き合う彼の横顔は真剣で、時折見せる笑顔には、少しずつではあるけれど、影が薄らいでいくのがわかった。
ある日、試作したクリームパンを二人で味見していた時、湊くんがふと呟いた。
「…あと少し、何かが違うんだよな。じいちゃんのパンは、もっと…こう、口に入れた瞬間に、ふわっと花の香りがしたような気がするんだ」
「花の香り…?」
その言葉に、私はハッとした。祖父が大切に育てていた、朝顔。そして、祖父のメモにあった「蜂蜜」。もしかしたら、祖父は朝顔から採れた蜂蜜を、あのパンに使っていたのではないだろうか。
私たちは、祖父が遺した庭の片隅の、今はもう数えるほどしか咲いていない朝顔の蜜を、ほんの少量だけ集めた。そして、それを生地に練り込み、クリームにもほんの少しだけ加えて、最後の試作に臨んだ。
窯から取り出したパンは、今までとは明らかに違っていた。焼き色は優しく、そして、ほんのりと甘い花の香りが漂っている。緊張しながら一口食べると、懐かしい、優しい甘さが口いっぱいに広がった。ふわふわの生地、とろりとしたクリーム、そして後から追いかけてくる、朝顔の蜂蜜の繊細な香り。
「…これだ!これだよ、湊くん!じいちゃんの『思い出のパン』の味だ!」
思わず叫ぶ私に、湊くんも大きく頷き、その目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
その「思い出のパン」を店の新しい看板商品として売り出すと、瞬く間に評判が広まった。優しい味わいはもちろん、パンに込められたストーリーが人々の心を打ち、寂れていた朝顔通り商店街に、少しずつ活気が戻り始めたのだ。「あさがおベーカリー」は、連日多くのお客さんで賑わい、私も忙しくも充実した毎日を送っていた。
そんなある晴れた午後、店の裏の小さなベンチで、私は湊くんと並んで休憩していた。
「湊くん、最近、なんだか顔つきが変わったね。昔みたいに、よく笑うようになった」
私の言葉に、彼は少し照れたように笑った。
「…陽菜のおかげだよ。あのパンを一緒に作って、じいちゃんのこととか、昔のこととか思い出してたら…なんか、吹っ切れたんだ」
そして、彼はぽつりぽつりと話し始めた。都会で挑戦していた音楽の夢に破れたこと。自信を失い、何もかもが嫌になって地元に戻ってきたこと。でも、何をすればいいのかわからず、ただ無気力な日々を過ごしていたこと。
「でも、陽菜が必死にパン屋を守ろうとしてるのを見て、じいちゃんのパンの味を思い出して…俺も、もう一度ちゃんと前を向かなきゃなって思ったんだ」
彼は、私の手をそっと握った。その手は、少しごつごつしていて、でもとても温かかった。
「陽菜。俺、まだ何もないけど…それでも、君のそばにいたい。君と一緒に、この朝顔通りで、もう一度夢を見たいんだ」
まっすぐな彼の瞳が、私を見つめている。昔、私が密かに憧れていた、力強くて優しい瞳。
「…私も、湊くんが好きだよ。ずっと、昔から」
涙が溢れて止まらなかった。それは、悲しい涙ではなく、温かくて、幸せな涙だった。
数ヶ月後。「あさがおベーカリー」の隣には、新しく「あいば青果店」の看板が掲げられた。湊くんが、八百屋だった実家の跡を継ぎ、新鮮な野菜や果物を売り始めたのだ。彼は、パンに使う果物や野菜を私に届けてくれるだけでなく、時々、店のカウンターに立って、私のパンをお客さんに勧めてくれる。
「思い出のパン」は、今では「朝顔クリームパン」と名付けられ、私たちの店の、そして朝顔通り商店街の、かけがえのない名物になった。優しい甘さと花の香りは、食べる人みんなを笑顔にしてくれる。
カラン、コロン。今日もまた、ドアベルが心地よい音を立てる。
「いらっしゃいませ!」
私と湊くんの明るい声が、焼き立てのパンの香りと共に、活気を取り戻した朝顔通りに響き渡る。
思い出のパンが繋いでくれた縁と、たくさんの笑顔。この場所でなら、きっとどんな未来も、甘く優しく焼き上げられる。そんな確かな予感を胸に、私たちは今日も、新しい一日を始めるのだった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる