思い出のパンと、きみのいない朝顔通り

藤森瑠璃香

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【後編】

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 あの日、湊くんに古い写真を見せてから、彼は数日間、店に顔を見せなかった。私は、彼に踏み込みすぎたのかもしれないと少し後悔しながらも、「思い出のパン」の試作と、祖父が遺したわずかな手がかりを探す日々を続けていた。店の片隅で見つけた、祖父が使っていた古い製パンの本。その余白に、時折走り書きのようなメモが残されている。その中に、「特別な日には、生地に少しだけ蜂蜜を隠し味に。優しい甘さは、笑顔を呼ぶ」という一文を見つけた時、私は何か大きなヒントを得たような気がした。

 その週末、店のシャッターを半分だけ開けて試作に没頭していると、不意に影が差した。顔を上げると、そこには少し気まずそうな顔をした湊くんが立っていた。
「…陽菜、この間の写真、もう一度見せてくれないか」
 彼の言葉に、私は黙って写真を手渡す。湊くんはそれを受け取ると、じっと見つめ、そしてぽつりと言った。
「じいちゃん…倉本のおじいちゃんは、俺がガキの頃、よくパンをくれたんだ。特に、親父と喧嘩したり、何かうまくいかないことがあったりした時…決まって、あの甘いクリームパンをくれた」
 彼の声は、遠い記憶を辿るように静かだった。

「あのパンを食べると、不思議と元気が出た。…陽菜と一緒に食べたあの日も、確か、野球の試合で大失敗して、ひどく落ち込んでた時だったな」
 そうだった。私も思い出した。あの日、湊くんは試合に負けて、一人でブランコに座って泣いていた。それを見かねた祖父が、焼きたてのパンを差し出したのだ。
「『二人のための特別なパン』って、もしかしたら…」私が言いかけると、湊くんが頷いた。
「ああ。俺と、陽菜。二人とも笑顔になるようにって、じいちゃんが願ってくれてたのかもしれないな」

 その日から、湊くんは時間がある時に店に顔を出すようになり、私のパンの試作を手伝ってくれるようになった。最初はぎこちなかったけれど、一緒に粉をこね、発酵具合を確かめ、焼き上がりを待つ時間は、不思議と穏やかで、昔に戻ったような心地よさがあった。
 彼がなぜ地元を離れ、そして今、何をしているのか、私はまだ詳しく聞けずにいた。でも、パン作りに向き合う彼の横顔は真剣で、時折見せる笑顔には、少しずつではあるけれど、影が薄らいでいくのがわかった。

 ある日、試作したクリームパンを二人で味見していた時、湊くんがふと呟いた。
「…あと少し、何かが違うんだよな。じいちゃんのパンは、もっと…こう、口に入れた瞬間に、ふわっと花の香りがしたような気がするんだ」
「花の香り…?」
 その言葉に、私はハッとした。祖父が大切に育てていた、朝顔。そして、祖父のメモにあった「蜂蜜」。もしかしたら、祖父は朝顔から採れた蜂蜜を、あのパンに使っていたのではないだろうか。
 私たちは、祖父が遺した庭の片隅の、今はもう数えるほどしか咲いていない朝顔の蜜を、ほんの少量だけ集めた。そして、それを生地に練り込み、クリームにもほんの少しだけ加えて、最後の試作に臨んだ。

 窯から取り出したパンは、今までとは明らかに違っていた。焼き色は優しく、そして、ほんのりと甘い花の香りが漂っている。緊張しながら一口食べると、懐かしい、優しい甘さが口いっぱいに広がった。ふわふわの生地、とろりとしたクリーム、そして後から追いかけてくる、朝顔の蜂蜜の繊細な香り。
「…これだ!これだよ、湊くん!じいちゃんの『思い出のパン』の味だ!」
 思わず叫ぶ私に、湊くんも大きく頷き、その目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。

 その「思い出のパン」を店の新しい看板商品として売り出すと、瞬く間に評判が広まった。優しい味わいはもちろん、パンに込められたストーリーが人々の心を打ち、寂れていた朝顔通り商店街に、少しずつ活気が戻り始めたのだ。「あさがおベーカリー」は、連日多くのお客さんで賑わい、私も忙しくも充実した毎日を送っていた。

 そんなある晴れた午後、店の裏の小さなベンチで、私は湊くんと並んで休憩していた。
「湊くん、最近、なんだか顔つきが変わったね。昔みたいに、よく笑うようになった」
 私の言葉に、彼は少し照れたように笑った。
「…陽菜のおかげだよ。あのパンを一緒に作って、じいちゃんのこととか、昔のこととか思い出してたら…なんか、吹っ切れたんだ」
 そして、彼はぽつりぽつりと話し始めた。都会で挑戦していた音楽の夢に破れたこと。自信を失い、何もかもが嫌になって地元に戻ってきたこと。でも、何をすればいいのかわからず、ただ無気力な日々を過ごしていたこと。
「でも、陽菜が必死にパン屋を守ろうとしてるのを見て、じいちゃんのパンの味を思い出して…俺も、もう一度ちゃんと前を向かなきゃなって思ったんだ」

 彼は、私の手をそっと握った。その手は、少しごつごつしていて、でもとても温かかった。
「陽菜。俺、まだ何もないけど…それでも、君のそばにいたい。君と一緒に、この朝顔通りで、もう一度夢を見たいんだ」
 まっすぐな彼の瞳が、私を見つめている。昔、私が密かに憧れていた、力強くて優しい瞳。
「…私も、湊くんが好きだよ。ずっと、昔から」
 涙が溢れて止まらなかった。それは、悲しい涙ではなく、温かくて、幸せな涙だった。

 数ヶ月後。「あさがおベーカリー」の隣には、新しく「あいば青果店」の看板が掲げられた。湊くんが、八百屋だった実家の跡を継ぎ、新鮮な野菜や果物を売り始めたのだ。彼は、パンに使う果物や野菜を私に届けてくれるだけでなく、時々、店のカウンターに立って、私のパンをお客さんに勧めてくれる。
「思い出のパン」は、今では「朝顔クリームパン」と名付けられ、私たちの店の、そして朝顔通り商店街の、かけがえのない名物になった。優しい甘さと花の香りは、食べる人みんなを笑顔にしてくれる。

 カラン、コロン。今日もまた、ドアベルが心地よい音を立てる。
「いらっしゃいませ!」
 私と湊くんの明るい声が、焼き立てのパンの香りと共に、活気を取り戻した朝顔通りに響き渡る。
 思い出のパンが繋いでくれた縁と、たくさんの笑顔。この場所でなら、きっとどんな未来も、甘く優しく焼き上げられる。そんな確かな予感を胸に、私たちは今日も、新しい一日を始めるのだった。
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