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「ええ」と春宵は言い切って、京香を見つめた。さびしく微笑んではいる。けれど、やはり美しい顔であった。「……僕は、人間が好きではありませんから」

「そう」と呟いて、京香は髪を結わえなおした。鮮やかな珊瑚のかんざしで髪をすっかり留めてしまうと、「ねぇ、若月さん。……また、いらせられませ」

 と言った。紅葉を、春宵は京香の微笑みに感じた。春宵は、そうですね、と呟いて、春宵は屋敷を辞した。橿原家の門を出るときに、春宵は、門の前に立ち尽くしていた女に目が行った。

「あの……」と春宵が声をかけると、驚いたようで、女は一目散に立ち去ろうとする。その背中に、「違います。僕は、この家とは何の関係もありません」と慌てて春宵は声を掛けた。

 女が立ち止まった。随分、くたびれた格好をしている女であった。

「……あの、あなたは?」

「橿原京香に呼ばれたんですけど……京香の旦那の、遺産のことだと思いますよ」

「あなたに、なぜ、遺産が?」

 と、失言に気づいて春宵は女に、軽くわびた。

「私、旦那さんの弟の、婚約者なんです。もっとも、元、婚約者だけど……」

「たしか行方不明になられたとか」

「ああ。……あの女のところに行ったっきり、帰って来なかったよ。この家から、帰る途中に、いきなり行方不明になったって聞いたけどね」

 妙な話だ、と春宵は思った。この女の言うことも、はなはだ怪しいが、この話は、なにか引っかかる。春宵は、女に軽く会釈して、その場を立ち去ったが、なんとも釈然としない思いにかられていた。

「そうだ。そもそも、なんで、あんな女に、遺産の話が行くんだ?」

 春宵は、懐中時計を取り出した。午後二時半。

「遊歩堂のおばちゃなら、何か知っているかもしれない」と呟きつつ、春宵は流しのタクシーを拾って自宅に向かった。愛猫のまおをつれて、遊歩堂に向かう。遊歩堂は、私立聖ウルスラ女学院前にあるので、これ以上時間が過ぎると、下校途中の学生で溢れてしまう。今ならば、オバチャンは、暇なはずである。

「おばちゃ!」と、春宵は叫びながら遊歩堂の入り口を勢い良く開けた。豪快な音に、おばちゃんが驚いて振り返った。なー、と鳴いて二人の恋猫こいびと達が駆け寄った。春宵は、おばちゃんを見た。おばちゃんは春宵の様子に、「どうしたの?」と聞いた。

「……一寸ちょっと、聞きたいことがあってね」

「どうしたんだい。ともかく、おすわりよ。……いつもの、食べるだろう?」

「うん、食べる……それはそうと、おばちゃ。この辺のこと、詳しいよね」と、椅子に座りながら、春宵は問う。

「そりゃあねぇ、一応、人生二十年もやってればね……で、一体何なんだい?」

 春宵は、苦笑した。その、三倍くらいは生きているだろう。顔には何本もの深い皺が刻まれている。

「……橿原のことを聞きたいんだ」と春宵はおばちゃんの目を見つめた。おばちゃんは、春宵に緑茶を差し出す。

「橿原の奥さんのことかい?」

「いいや……橿原の旦那さんの、弟さんのことを聞きたいんだ。……知ってることがあったら、教えてくれないかな……時間がないんだ。明日までには……答えを出さなくっちゃならないから」春宵は、緑茶を啜った。作法通りの、美しい飲み方に、おばちゃんも一瞬、春宵に見惚れてしまう。春宵のことを見慣れていると言うのに。

「弟さん、ね……良くは知らないけど、ある日、突然失踪したって言う話だよ。ある日突然ね。……あの奥さんが、橿原の家に来る数ヶ月前のことだよ」

「奥さんと、弟さんって、同い年ぐらいだったって聞くけど」

「ああ……たしか、ね。弟さんとは、中学まで同じだったって言うから。別に、奥さんと、弟さんが、仲が良かったとか、悪かったとかって言う話は聞かないけどね」

 と、おばちゃんは言いながら、くりいむあんみつを差し出した。好物のくりいむあんみつを口に運びながら、春宵は呟いた。

「秋、か……」

 稜線を彩る錦秋の秋。それは、豊穣の季節。

 一番、世界が―――死に近い季節。

 かつて、秋は、死の季節であった。

 秋。

 それは、魔の季節である。限りない静寂に近い、沈黙の世界である。京香は、自分が、紅葉の下に立つのが相応しいと言った。京香の、黒瞳を春宵は思い出した。闇を紡いで、一つの宝玉にしたら、あのような深い深い、色になるのかもしれない。海月かいげつの光を集めて光を当てたら、あのように不可思議な色を映すのかもしれない。

「良い季節だね、秋は」とおばちゃんが呟くのを聞いて、春宵は、

「そうですね」と呟いた。秋。ちりゆく紅葉のひとひらが、春宵を幻惑させる。

「……曇ってきたね……にわか雨、かな」

 とおばちゃんは、空を見上げた。雨が降るかもしれない。鈍色にびいろの空に、風のいななきが響き渡る。千切れた、紅葉が、宙を舞っていた。

「多分、今夜は晴れるな」と春宵は呟いた。何を言っているのかというような怪訝そうな顔で、おばちゃんは春宵の顔を見た。ぞっとするほど、凛とした横顔だった。

「お春さん。どうしたんだい?」

「別に……今夜中に、片付けなきゃならない仕事があってね……」

「また、ピアノを弾きに良くのかい? 聞いてみたいね、春さんのピアノ」と、ふふふ、とおばちゃんは笑った。つられて春宵もにこりと微笑む。

「ちょっと違う。でも……うたうかもしれない」春宵は目を閉じた。瞼の裏に何が映るのか、おばちゃんには分からなかった。瞼を閉じて、考え込んでいる春宵の姿は、彫刻のようでもある。現実離れした美を纏っていた。

「うたうのかい」とおばちゃんは、外に出た。突風が店の中までも入り込んで、吹き荒れていく。紅葉が舞いこんできた。向かいの聖ウルスラ女学院の校庭に植えられた、紅葉だ。まおとゆうほは、みゃっ、と小さく鳴いて、風の当たらないほうに逃げて、二匹仲良く、肩を寄せ合ってまるまっている。

「今日はもう、閉店しめるよ。……なんだか、嫌な風だよ。……生暖かい」

 とおばちゃんは暖簾を外して、店の中に戻った。店内に、散らばる。紅葉。紅葉。紅葉。赤々とした、痕が点々としている。血痕のようだった。

「おばちゃ、僕、もうそろそろ帰るね……。まお、預かってくれるかな」

 春宵は、にこりと微笑んだ

「いいけど……役に立てたのかね」とおばちゃんは済まなさそうにいった。春宵は「とても……参考になりました」と笑った。春宵は、愛猫を、おばちゃんに託すと、そっと、遊歩堂の戸を開けた。突風に、春宵の黒漆の髪が乱れる。

 春宵は空を見上げた。強風が雲を一気に吹き飛ばしたのか、空は、澄み切っていた。

「……月は、今宵は、美しかろう」

 呟いて、春宵は遊歩堂を後にした。

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