帰る旅

七瀬京

文字の大きさ
8 / 17

8

しおりを挟む


 お妻木の方が亡くなっても、当たり前の事ながら、日々は変わらず過ぎてゆく。陽は昇り、そして西の空に消え、月が昇り、満ちて、欠けてゆく。人一人の死など、気にも留めずに、月日は歩みを緩める事もない。夏が過ぎ、秋が来て、冬になったようだ。納戸の中は、震えが止まらぬ程に寒い。私は、納戸の中で、声も上げず、身じろぎもせずに、ただひたすら、沈黙を保っていた。ただ変わった事と言えば、私のところに、毎日、小姓が訪ねてくるようになった事だった。市若とその取り巻きの、青木あおきつるという二人の小姓だった。

「上様は、また乱ばかり! 乱ばかりを贔屓して、私の事など、お褒め下さらない!」

 甲高い、鼻に掛かったような声で叫ぶ市若は、脇差に飾られた赤い組紐を弄びながら、苛立たしげに叫んだ。絶叫に近いような声音は、耳が痛くなる。

「上様の乱への寵愛は、度を超していると私も思います。本来ならば、乱よりも先輩である市若殿の事こそ、重きを置かれるべきですのに」

 青木は、市若の言葉に同意するように、ひょろ長い顎を大きく上下に動かして頷いた。

「青木殿。君も、乱のせいで働きを認めて貰えずに苦い思いをしているのだろう?」

「ええ、何度、あの涼しい顔を殴ってやりたいと思った事か……」

「ああ、それにしても、忌々しい!」

 市若は、私に近付いて、力任せに殴りつけた。脇腹を抉るように、のめり込んだ拳の勢いに押されて、私は無防備に床に転がった。うっかりして、頭を強く床にってしまい、視界が、地震でも起きたように、ぐらぐらと横に揺れた。起き上がれずにいた私を、市若が足で蹴り飛ばす。無防備なところを足で蹴られたものだから、蹴られた背中は酷く痛むし、咳き込んで息が出来なくなる。涙が滲むが、私には、抵抗するという事は考えられなかった。手当については、ここを訪れた乱が、子細を聞かず、苦々しい顔でしてくれる。あとは、じっと、養生しているようなものだから、この程度の暴力は、如何程でもない。

「ああ! ああ! ああ! 忌々しい! 何とか、あの乱を苦しませたい!」

 ぎりぎりと歯軋りをしながら、市若は怨念めいた声で言った。やはり、左の手は、赤い組紐を弄んでいた。





 孤り、闇の中でじっとしていると、私は、お妻木の方を思い出す。記憶の中、お妻木の方は、殆ど、床に伏した姿だったが、いつも、同じ言葉を繰り返し呟いていた。今際いまわでもそれは変わらず、幾度となく「上様、お側に」と呟く姿は、祈りのようで、私の胸に強く、響く。お妻木の方は、儚い印象の人だったが、きらきらと光る瞳の美しさは、今でもまざまざと思い出す事が出来る。お妻木の方は、かつて、私に、「上様のお寂しいお心の裡を、少しでも慰めて欲しいのです」と言った。お妻木の方がこの世を去る間際に、私に遺言したのではないだろうかと考える。

(上様、お側に)

 私は、その言葉を何度も、頭の中で繰り返し、じっと闇の中で、いつか、信長の近くに仕える日を夢に見て耐えていた。納戸の中は相変わらず、歩けば空気に靄が掛かる程に埃っぽくて、暗く、陽も差さない。鳥目の私は、殆ど周囲の様子を知る事は出来ないが、ただ、ひたすら(上様、お側に)と繰り返すようになった。

 闇の中で、目を閉ざしていると、遠くから、乱暴な足音が聞こえた。城内、皆足音を立てずに歩くはずなので訝しく思っていると、やはり、乱暴に納戸の戸が、ガラリと開き、人が入ってきた。市若だろう。

「待ってくれ! 市若殿!」

 遅れて入ってきたのは、青木の声だった。青木は戸を閉めながら「市若殿。何をしようとしているのか、解っているのか?」と市若に言った。返事がない市若に、ズカズカと、青木が近付く。そして、肩か腕を掴んだようだった。

「市若殿……、どうするつもりだ」

「これをつかう」と市若は、唐突に私に近付くと力任せに殴りつけた。当然、私は床に吹っ飛ばされて、したたかに全身を打った。納戸に収められていた漆塗りの食器などが、けたたましい音を立てて散らばった。くらり、と揺らぐ視界に気分が悪くなる。腹は、どくどくと脈打つ度に痛く、熱を持って感じられた。

「ああ、あった。これだよ、青木殿。これだ。これをつかうんだ」

 うっとりと、酔いしれたように市若は言いながら、床に散らばったものの中から、羽を一枚取った。かつて、私のものだった、羽だ。安土城の屋根瓦と同じ、瑠璃色の空の色で、私は、以前に、乱にやった事がある。

「ただの鳥の羽ではありませんか、市若殿」

 青木の声には、微かな安堵の色があった。

「これに、毒を仕込んで、上様にお出しする白湯に浸しておけばよい」

 市若は笑いながら言った。青木が、息を呑むのが解った。私は、冗談ではないと思ったが、未だに視界が揺れて、起き上がる事さえ出来なかった。

「市若殿! 正気か!」

「私は正気ですよ。青木殿。ちんという鳥をご存じですか? 羽に毒を持つ恐ろしい鳥だそうですよ。この羽に毒を吸わせて、鴆の羽の代わり使う。乱は、同じ羽を持っていると自慢していたから、毒の下手人になって貰えば良い」

 市若の甲高い哄笑が納戸に響き渡る。どう、やるつもりか解らないが、乱が差し出した、飲み物に、毒を仕込んでおく。すると、毒入りの羽が出てくる。乱が同じ羽を持っているのは周知の事実なのだろう。

 市若は、さも可笑しそうに高笑いを続けているが、青木の方は、同じ気持ちではないようだった。「上様を殺す」という畏れ多い事をする勇気はないらしい。外に出て行こうとした青木の背中に、市若は「青木殿は、私の仲間ですよ」と冷酷に告げた。

「仲間? ふざけるな。私は、そのような企てに加担するつもりはない! 失礼する!」

 くるり、と背を向けた青木の背後に、市若がぴたり、と張り付いた。その瞬間、青木の身体が、びくり、と大きく跳ね上がった。

「誰かに言うつもりなら、今ここで青木殿を殺します。そのあとで、青木殿の母上も」

 市若の言葉に、青木はしばらく沈黙していたが、やがて意を決したのか、

「私は何もしない。その代わり、他言もしない」とだけ低い、緊張した声で言った。

 市若は「では、黙っていておくれ」と、うっとりと呟いて、青木を伴い、納戸を出た。

 これは、大変な事になった。市若は本気だ。

 ようやく揺れる視界が落ち着いてきたので、大急ぎで入り口に向かったが、杉戸に阻まれ納戸を出る事は出来なかった。信長が、白湯を飲むのはいつだろうか。今すぐだろうか。それとも、もっと後だろうか。

 私は居ても立っても居られなくなり、杉戸に体当たりした。内側から物音がすれば、不審がって誰か開けるかも知れない。私は杉戸にぶつかっては床に転がり、また、よろけながら体当たりして床に転がり、何度も何度も杉戸に当たった。そのうち、頭はクラクラして、足下が覚束無くなる。立ち上がろうとしては床にぺしゃん、と尻餅をついた。それでも、杉戸に体重をぶつけるように、捨て身の覚悟で杉戸に体当たりした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

高遠の翁の物語

本広 昌
歴史・時代
時は戦国、信州諏方郡を支配する諏方惣領家が敵に滅ぼされた。 伊那郡高遠の主、諏方頼継は惣領家家族のうち、齢十一歳の姫君を、ひょんなことから保護できた。 頼継は豪傑でもなければ知将でもない。その辺の凡将だろう。 それでも若き姫を守りながら、滅びた惣領家の再興を叶えるため、死に物狂いで強大な敵に立ち向かっていく歴史物語。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

王国の女王即位を巡るレイラとカンナの双子王女姉妹バトル

ヒロワークス
ファンタジー
豊かな大国アピル国の国王は、自らの跡継ぎに悩んでいた。長男がおらず、2人の双子姉妹しかいないからだ。 しかも、その双子姉妹レイラとカンナは、2人とも王妃の美貌を引き継ぎ、学問にも武術にも優れている。 甲乙つけがたい実力を持つ2人に、国王は、相談してどちらが女王になるか決めるよう命じる。 2人の相談は決裂し、体を使った激しいバトルで決着を図ろうとするのだった。

真面目な女性教師が眼鏡を掛けて誘惑してきた

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
仲良くしていた女性達が俺にだけ見せてくれた最も可愛い瞬間のほっこり実話です

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

処理中です...