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31 未来

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 黒い薄手のロングコート、シンプルなシャツに、黒いスキニーなスラックスを纏った月白の姿は、目を引くらしく、通り過ぎる人が必ずふり返る。

「これで三十人連続ふりかえったよ」

 萌樹は笑う。対する萌樹の方は、パーカーとパンツを合わせただけの姿だ。

「似合わないからだろうが。だいたい、数えていたのか?」

 月白が呆れた顔をする。いつもの着物を着ている時と印象が大分変わるが、相変わらず麗しい顔に見惚れてしまう。

「逆だって。似合わないなら、笑われるだけ。数えてはないけどさ」

 月白は腑に落ちない顔をしている。

「せっかく街に来てるんだからさ、他人のことなんか気にしてたらもったいないって!」

 萌樹は、無理に笑う。

 どうせ、この先、萌樹と月白には未来はない。かつて……天上から舞い降りた天女が帰れないように、その羽衣を隠してしまった男がいたが、萌樹はその男と同じ事は出来ない。かと言って、雑貨屋のような『罪』をおかして狭間の世界に棲み着くことも選べない。

(ならせめて)

 幸せな時間を過ごして、たくさん、月白と過ごした証を作りたい。それが、クレジットカードの高額請求でも構わなかった。

 何一つ思い出がないより。

 萌樹自身、あまり遊び歩いた経験はない。いつも、金がないといいながら、部屋に引っ込んで暮らしていたからだ。

 もし金があって、恋人と過ごすなら、と考えても特にやりたいことはなかったが、横目で垣間見ていた恋人たちがするようなことを、体験したいと思って、街へでた。

 カフェに入って、まるでイメージのつかない、けれどもとても楽しそうな飲み物を注文して、飲み物一つの値段が、軽く萌樹の一食分の食事の価格だったことに足がすくみそうになったのも、いい経験だ。

 月白は、こちらの食べ物を食べることができないのかと思いきや、食べることはできるという。ただ、カフェで居心地が悪そうにしていたのはバレていたらしく、月白から、

「お前が本当に、好んでいるものが食べてみたい」

 と言われて、少ない思い出を辿りながら、今にも潰れそうなラーメン屋に連れてきた。駅前に『中華そば』と布製の暖簾が掛けられた、トタン屋根の古びたラーメン屋だった。

 メニューは、どうにも塩辛い醤油ラーメンだけ。

「もっと美味しいものが良かったかもしれないんだけどさ、昔、中学校の先生に連れてきて貰ったんだよ。そういうの、ほとんどないから」

「中学校」

「うん。結構昔。昔から良いことなんかなかったんだ。イジメられたり、色々あって」

 傾いたカウンター席に通されて、ラーメンを二つ注文する。さっきのカフェの、ドリンク二杯ぶんより、安かった。

 カウンターの中で、腰の曲がった老夫婦がやり取りをする。麺を茹で始め、同時に、トッピングの支度を始める。ゆで卵、ほうれん草、メンマ、それにネギ。

「こういう、飲食店に入ったこともなかったんだ。それで、ドキドキしながら、出されたラーメンを見ても、本当に食べていいのか、わからなくてしばらく手をつけられなかった」

 月白は、静かに萌樹の話しに耳を傾けている。オンボロなラーメン屋に、あまりにもそぐわない美貌だった。

「つまんないよな、もっと、楽しい話があればいいんだけどさ」

「いや、お前のことなら、何でも知っていたい。だから、素直な話を聞かせて貰った方が嬉しい」

「そういうもんかな?」

「ああ。そういうものだ」

 静かに月白が微笑する。教科書でみた、有名な仏像のような静かな微笑みに、萌樹は目を奪われる。 

「なあ」

「ん?」

「いまさ、ラーメンでもなんでも、気軽に写真を撮る時代なんだけど。お前と一緒に写真撮ったら、写るかな」

 月白が、眉を寄せた。

「わからぬな」

「わからない?」

「ああ、わからない。写ったことはないだろうが……仮に写ることがあるとしたら、それは、この姿ではないのだろう」

 あの、絵姿のような、霊獣の姿、ということだ。実体しかない、と言いつつ、あの姿が、やはり獏の実体の一つなのだろう。

「はいよ、ラーメン二つお待ちどうさま」

 老婦人が差し出したラーメンを受け取りながら「俺は、それでも、ちょっとくらい思い出が欲しいけどな」と、小さく、萌樹は呟く。その言葉に、返事はなかった。

「……懐かしい」

「そうか……中々、美味いのだろう」

 だろう、ということは月白は、ラーメンの味を好んでいないか、味そのものを感じていないかのどちらかだ。無理をして、ここに来てくれたと言うことだけは、解る。

「これからさ……、このラーメンを食うたび、月白の事を思い出すことにするよ」

 もっと、気軽に思い出せる食べ物にすれば良かっただろうか。牛丼屋か、ハンバーガーか。けれど、そこは、萌樹が好む店ではなかった。

 月白は、また、返事をしなかった。

 

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