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それから数日後のこと。
久々に綾がルミナスの事務所から帰宅すると、キッチンからカレーのスパイシーな香りが漂ってきた。
「ただいまー、あー良い匂い!」
綾がダイニングルームのドアを開けると、並列しているキッチンでは、エプロン姿の涼香が手際よく夕食の準備をこなしている。
「お帰りなさい。もうすぐ準備できるから、座って待ってて」
涼香の言う通り、綾が帰宅してから数分後に、カレーをメインにした彩りの良い献立が並べられた。
涼香と綾が食卓を囲み、涼香特製のカレーに舌鼓を打っていると、暫くして綾がさりげなく話題を振ってきた。
「ねぇ涼香…あなた、中島先生の『永遠に掛ける橋』っていう小説、大好きだったわよね?」
涼香の手がピタリと止まる。
「えぇ、中学から読んでるから、かれこれ数十回以上は読み返しているかしら…それがどうかしたの?」
綾がここからが本題だと言わんばかりに、涼香の方へ身を乗り出してきた。
「実はね、うちの恵が、その映画化作品で主演を務めることになったの。でも、あの作品は内面描写が繊細でしょう? 恵がどうしても、原作を心から愛している人の生の声を聞いて、役作りの参考にしたいって言っているのよ」
「ええっ!?」
何故か自分を社長室まで追いかけ、名前まで聞いてきた、あの蓮岡恵からの要望に、涼香は猛然と首を横に振る。
「…そんなのっ、私じゃなくても作品のファンは沢山いるじゃない!」
涼香はもはや拒絶の強さで申し出を断った。しかし綾は追い打ちをかけるように、涼香の心を揺さ振ってくる。
「そう言わずに協力してあげなさいよ。もしかしたら、一般にはまだ出回っていない、制作途中の脚本なんて見られるかもしれないわよ?」
「…っ…」
綾の言葉に、読書家としての琴線が揺さぶられる涼香。大好きな作品がどのように映像化されるのか、その裏側に触れることは、本を愛する彼女にとっては抗い難い誘惑なのだ。
「…1時間。1時間だけなら、お話を聞きます」
涼香からの精一杯の歩み寄りに、綾はニヤリと微笑む。
「決まりね。助かるわ」
“1時間”という時間制限を設けられてはしまったものの、綾は密かに勝利を確信していた。
(……1時間もあれば十分よ。恵、あんたの魅力で、この子の閉ざされた扉をこじ開けてごらんなさい……)
こうして母の掌の上で踊らされているとも知らず、涼香は複雑な期待と不安を抱えたまま、明日の再会に思いを馳せるのだった。
***
数日後、涼香が綾から待ち合わせ場所として伝えられたのは、都内にいてもその喧騒を忘れさせる、アダルトな雰囲気が漂う完全個室の会員制カフェバーだった。
「…はぁ…やっぱり、断るべきだったのかな…」
先に着いた涼香が、落ち着かない手つきでアイスティーのグラスに着く水滴を指先で弄る。
何を考えているのか分からない恵と二人きりで会うのを恐れる一方で、長年愛読している本の映画化というトピックへの興味に抗えずにいる。そんな思考を頭の中で堂々巡りさせていると、ドアの向こうからコツコツと靴音が近付いてくるのが聞こえ、涼香の心臓がドクンと跳ねた。
ガチャ、
「失礼します、お待たせしました」
穏やかで心地よく響く声を受け、涼香は緊張した面持ちでアイスティーから顔を上げる。
そこには黒いタートルネックにロングコートを羽織る、雑誌を切り抜いたかの様な立ち姿の恵がいた。
「あ…こんにちは…」
涼香が立ち上がって挨拶すると、恵が彼女の前で深々と頭を下げる。
「今日は涼香さんの貴重なお時間を頂いたにも関わらず遅れてしまい、本当に申し訳ありません。そして…ありがとうございます」
「え?あっ、そんな、頭を上げてください!」
涼香が恐縮しっぱなしで、手をぶんぶんと横に振った。
街を歩けば誰しもが振り返り、溜息を零し、その魅力とオーラに平伏す…いわゆる王の様な男だと思っていたが、その本質は驚くほど腰が低く、自分の様な“地味な一般人”に対しても、1人の人間として最大の敬意を払ってくれる。
「(人気のある俳優さんなのに、全然横柄じゃない……)」
涼香の心にあった“警戒心”という名の氷が、ほんの少し、溶けていく瞬間だった。
久々に綾がルミナスの事務所から帰宅すると、キッチンからカレーのスパイシーな香りが漂ってきた。
「ただいまー、あー良い匂い!」
綾がダイニングルームのドアを開けると、並列しているキッチンでは、エプロン姿の涼香が手際よく夕食の準備をこなしている。
「お帰りなさい。もうすぐ準備できるから、座って待ってて」
涼香の言う通り、綾が帰宅してから数分後に、カレーをメインにした彩りの良い献立が並べられた。
涼香と綾が食卓を囲み、涼香特製のカレーに舌鼓を打っていると、暫くして綾がさりげなく話題を振ってきた。
「ねぇ涼香…あなた、中島先生の『永遠に掛ける橋』っていう小説、大好きだったわよね?」
涼香の手がピタリと止まる。
「えぇ、中学から読んでるから、かれこれ数十回以上は読み返しているかしら…それがどうかしたの?」
綾がここからが本題だと言わんばかりに、涼香の方へ身を乗り出してきた。
「実はね、うちの恵が、その映画化作品で主演を務めることになったの。でも、あの作品は内面描写が繊細でしょう? 恵がどうしても、原作を心から愛している人の生の声を聞いて、役作りの参考にしたいって言っているのよ」
「ええっ!?」
何故か自分を社長室まで追いかけ、名前まで聞いてきた、あの蓮岡恵からの要望に、涼香は猛然と首を横に振る。
「…そんなのっ、私じゃなくても作品のファンは沢山いるじゃない!」
涼香はもはや拒絶の強さで申し出を断った。しかし綾は追い打ちをかけるように、涼香の心を揺さ振ってくる。
「そう言わずに協力してあげなさいよ。もしかしたら、一般にはまだ出回っていない、制作途中の脚本なんて見られるかもしれないわよ?」
「…っ…」
綾の言葉に、読書家としての琴線が揺さぶられる涼香。大好きな作品がどのように映像化されるのか、その裏側に触れることは、本を愛する彼女にとっては抗い難い誘惑なのだ。
「…1時間。1時間だけなら、お話を聞きます」
涼香からの精一杯の歩み寄りに、綾はニヤリと微笑む。
「決まりね。助かるわ」
“1時間”という時間制限を設けられてはしまったものの、綾は密かに勝利を確信していた。
(……1時間もあれば十分よ。恵、あんたの魅力で、この子の閉ざされた扉をこじ開けてごらんなさい……)
こうして母の掌の上で踊らされているとも知らず、涼香は複雑な期待と不安を抱えたまま、明日の再会に思いを馳せるのだった。
***
数日後、涼香が綾から待ち合わせ場所として伝えられたのは、都内にいてもその喧騒を忘れさせる、アダルトな雰囲気が漂う完全個室の会員制カフェバーだった。
「…はぁ…やっぱり、断るべきだったのかな…」
先に着いた涼香が、落ち着かない手つきでアイスティーのグラスに着く水滴を指先で弄る。
何を考えているのか分からない恵と二人きりで会うのを恐れる一方で、長年愛読している本の映画化というトピックへの興味に抗えずにいる。そんな思考を頭の中で堂々巡りさせていると、ドアの向こうからコツコツと靴音が近付いてくるのが聞こえ、涼香の心臓がドクンと跳ねた。
ガチャ、
「失礼します、お待たせしました」
穏やかで心地よく響く声を受け、涼香は緊張した面持ちでアイスティーから顔を上げる。
そこには黒いタートルネックにロングコートを羽織る、雑誌を切り抜いたかの様な立ち姿の恵がいた。
「あ…こんにちは…」
涼香が立ち上がって挨拶すると、恵が彼女の前で深々と頭を下げる。
「今日は涼香さんの貴重なお時間を頂いたにも関わらず遅れてしまい、本当に申し訳ありません。そして…ありがとうございます」
「え?あっ、そんな、頭を上げてください!」
涼香が恐縮しっぱなしで、手をぶんぶんと横に振った。
街を歩けば誰しもが振り返り、溜息を零し、その魅力とオーラに平伏す…いわゆる王の様な男だと思っていたが、その本質は驚くほど腰が低く、自分の様な“地味な一般人”に対しても、1人の人間として最大の敬意を払ってくれる。
「(人気のある俳優さんなのに、全然横柄じゃない……)」
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