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中学生編
二十七(2023、初夏)
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案内されたのは二階の一室だった。
「コーヒーしかないけど、砂糖は入れる?」
晶は、無言だった。
「薬を入れたりは、しないよ……君には、どうやら効果がないようだしね」
(効果が、ない…?)
「君は、まだ気づいていないのか」
むしろ、惜しむように薫は微笑んだ。
「君は、彼の唯一無二のアシュエラだというのに」
晶は、机に立てた爪に力をこめた。樹と二人だけの言葉に、まさかここで言及されようとは思いもよらなかった。
「アシュエラ……」
「コンパティビリタス・アシュエラ」
薫は、正確にそれを発音した。
「HLA合致、と言った方がいいかな。母さんのほうが詳しく説明してやれるだろうに。そう、記憶さえあれば」
机を掴んだ手が震え、爪が微かな音を立てた。
「母さんの、記憶を……あなたは……」
「邪魔をされたくはないからね、せっかくのアシュエラの成立を」
彼は、コーヒーの入った紙コップを長机に並べた。「まあ、座りなさい」
晶は、「父」から視線を外さずに、パイプ椅子に腰掛けた。
「君の父役をやったのも、君たちのアシュエラが成立するまでは近くで見守りたかったからなんだ。君たちは危ない橋を渡っているんだよ。少し、自覚が足りないようだが……」
「コンパティビリタス……アシュエラ……って?」
「人間の血球には、HLAという特定の蛋白抗原があってね」
薫は自分のコーヒーに砂糖を注ぎ入れ、プラスチックのマドラーでかき混ぜた。
「人間同士で受血しても、体内に入った他者のHLA抗原は、免疫機能により駆逐される……しかし、穢狗と人間が、継続的に体液交換を繰り返し、受血による治癒を繰り返すことにより、免疫交叉が生じ始めるんだ」
「……どういうことなの」
「君と、君の穢狗は、今やどちらのHLA型でもない、二人だけのHLA型に変わりつつあると言うことだよ」
薫は微笑んだ。「難しいのは、誰でも受血を続けさえすればこの変化を生じるというわけではないことだ……変化の例を引くまでもないが、人間の細胞は、意志の力に制御されているからね。穢狗を異物だと認識する人間であれば、無意識に穢狗のHLA抗原を排除しようとするだろう。逆もしかり――その点、君と、君の穢狗は、相思相愛というわけだ」
――樹。
(すき、あきら、だいすき)と唇を寄せてくる彼の笑顔が胸に蘇り、晶は浅く息をついた。
「俺たちは、どうなるの……」
「生物学的に? それとも、社会的に?」
「……両方」
「前者から言えば、まだ、良くわからない、というのが本当のところだ」
薫はコーヒーを啜った。
「コンパティビリタス・アシュエラが最後まで成立したケースは、いまだかつてない。どこかで相手を拒絶する反応が生じたり、同化が進んでから受血をやめたりすれば、致死的になる。だからこそ、禁忌なのだよ、穢狗との受血は」
「致死的……」
「二人とも死ぬということだ」
淡々と、薫は口にした。
晶は胸元を掴んだ。動悸が喉元に迫り上がる。
死ぬ……
自分が……
樹が、死ぬ……樹が……
それは、考えただけで胸が潰れるような痛みを彼にもたらした。
(あきらはおれのアシュエラだから)と、嬉しそうに言った樹……。
(自分の、せいだ……)
晶は、喘いだ。
何も考えずに、受血を続けてしまったせいで。
禁忌と言われていたのに。
止められたのに……
ただ、彼が欲しいと、その欲望だけで受血を続けてしまった……
自分が止めなければいけなかったのに……
(同化が進んでから、受血をやめれば致死的になる)、そう薫は言った。
ならばもう、遅いのだ。
繋いでしまった手を離したとき、全てが終わる。
樹が、死んでしまう……
樹。
(いやだ、それだけは、絶対に――)
そう思った瞬間だった。
午後の空を映していた窓が弾け、ガラスが雨のように室内に降り注いだ。なにか黒いかたまりが室内に飛び込んできた、と思ったとき、薫の身体が突き飛ばされ、闖入者はその胸ぐらを掴んで高く壁に押しつけていた。ガラスを踏んだ粗末な運動靴が、ジャリッと音を立てた。
「あきら、ないてる」
凍るような声で少年は言い、喉元を締める手に力を込めた。
「おまえか、なかせたの」
呆然と、晶は樹を見つめた。二階の窓――しかも、跳躍したとしか思えない動きで、樹は飛び込んできたのだった。
「……素晴らしい」
片手で壁に押しつけられながら、薫は呟いた。「完璧な同調率だ。しかも、この身体能力。しかし、少し躾は必要だな」
「樹……!」
晶が叫んだとき、小さな破裂音がして、樹の痩せた身体が吹き飛んだ。
「樹、いつき……!!」
机に頭を打ち付けた少年は、咳込み、血液を吐き出した。銃をしまいながら、薫は言った。
「急所は外してあるよ。とはいえ、受血はしたほうがいい。肺が傷ついている」
言われるまでもなく晶は手首を咬み裂き、樹の口元に充てがった。樹は、喘ぎながらそれを飲み下した。「馬鹿、来るなって言ってるのに……」晶は、涙ぐみながら、その頭を抱き締めた。
「あきら、ないてた」
「泣いてないから。俺は大丈夫だよ」
「だいじょうぶ、じゃない。おれ、わかる」
「おまえが危ない目に遭うのが、大丈夫じゃないんだよ」
言った声が、震えた。
「晶、心配はいらない」
穏やかに言いながら、薫は椅子のガラスを払い、座り直した。
「アシュエラという特別な関係には価値があると、わたしは思っている。君と君の穢狗を損なうようなことはしないよ。
未解明のことは、多い……人間の血液を受け入れ続けた穢狗は、飛躍的に運動能力が伸びる。そして人間は、飛翔能力が向上し、種々の特殊な能力を発揮するようになる。それには、意味があるはずなんだ」
樹の頭を抱き締めたまま、晶は涙に濡れた目で「父」を睨みつけた。
「こいつは、実験動物じゃない――俺だって」
「何も、君たちに強制などしないよ。君たちは、自分で選んだはずだ。アシュエラになることを」
静かに、薫は告げた。
「さっきの問いの後半だが……社会的に、わたしは君たちを保護したいと思っている。だが、そう思っている勢力だけではないことを、君たちは知っておくべきだ。穢狗は全て処分すべきと主張している派閥さえ、あるのだよ」
樹を抱きしめる手が、無意識に揺れた。
「禁忌とされているものには、理由がある……例えば、君たちはこの度、夜蟲がどこから生まれるかを知ったわけだが、この知識が一般的なものとなれば、どんなことになると思う?」
薫の声が、重く低められた。「穢狗全てを駆逐し、早々に焼却すれば、もう夜蟲は湧かない。そういう世論が生まれるだろうということだ」
「そんな――」
「穢狗保護派は、多くが穢狗を産業利用している資産家だ。彼らが既得権益を守っているからこそ、穢狗は生き長らえているのだよ。とは言え、対立する勢力もある。だからこそ、今回の大量処分のようなことが起こり得るんだ……夜蟲のことなど何も知らない愚かな層もいる。
もっとも、わたしは保護派の資産家たちよりは、学会の意見に賛成でね。コンパティビリタス・アシュエラを代表する、穢狗との生理学的反応には、価値がある……」
薫は僅かに目を細めて、晶の腕の中の少年を見た。「穢狗と呼ばれる存在は、この世界には必要な多様性のはずだ。だからこそ、君たちの行く末を、わたしは見届けたい」
彼は、微笑んだ。
「――どうかな。わたしが味方だということを、分かってもらえただろうか」
晶の声は、低く尖っていた。
「崇と、紫穂は。また、記憶を消そうというのか」
「彼らは、害にはならない。そうわたしは判断している。むしろ……有為な人材だよ」
彼は飲み終わった紙コップを軽く投げ、くずかごに命中させた。「だが、そう捉えない派閥もあるだろう。だから、君たちは、もっと慎重であるべきだ。禁忌を、君たちは犯しているのだから」
晶は、無言で薫を見つめた。
どこまで信用できるかは分からないが、今は、この男が自分たちの生殺与奪を握っていることに間違いはなかった。
「さて。ここまで理解してもらえたようなら、私からの話はおしまいだ。調査室の簡単な取り調べがあるから、それが終われば帰っていい。家に送ってやることはできないが、大丈夫かな?」
樹が、喉の奥で低く唸り声を立てていた。晶は、彼を背に庇うようにしながら立ち上がらせた。
去り際に、彼は一言だけ尋ねた。
「母さんは……あのままなの?」
「知らないほうが、幸せなこともあるだろう? 夫は我が子を救うためにうそりよだかとなり、一度失ったあとにようやく再び得た我が子は、いつ命を失うかも分からないなど。
知らないほうがいいんだよ」
晶は、言葉を失って「父」を見つめた。彼はにこりと笑った。
「君も子どもではないから言っておくが、我々はレスだ。そういう事にしてある。友人の妻を寝取る趣味はないからね。もし君がそれを気にしているなら、だが」
晶は顔を赤らめ、力任せに扉を閉めた。晶の怒りを感じたのだろう、樹の喉の唸り声が危険なまでに高まった。彼は晶の手を振りほどき、部屋に戻ろうとした。
「樹、ごめん、大丈夫だから……」
首に手を回し、頭をそっと撫でてやる。黒い目は未だ怒りに光っていたが、唸り声は徐々に低くなった。
「おれ、あいつ、きらい。あきら、いじめる」
「嬉しいけど、さっきみたいなのは、もうやめろよ」彼は囁き、耳に口づけた。「おまえ、怪我したじゃん」
「あきらのちでなおる」
「それでもだよ……おまえが怪我してるの、見たくない」
樹は不服そうに押し黙ったが、晶の言葉を理解したことは分かった。彼は、ぐりぐりと頭を晶の肩にこすりつけてきた。
「あとちょっとだから、このまま待ってろ」
晶は言った。「一緒に帰ろう」
パーカーの襟に入っていたガラス片を、そっと取り除いてやる。樹は、ぎゅっと彼を抱きしめてきた。
温かな肌を頬に感じながら、晶は一瞬目を閉じた。
そう……もう、手を離すことなどできない。例えそれが死を意味するのではなかったとしても。
離れることなど、できない。
(俺たちは、アシュエラなんだ……)
彼の顔を見て、樹は、無邪気に微笑んだ。
「コーヒーしかないけど、砂糖は入れる?」
晶は、無言だった。
「薬を入れたりは、しないよ……君には、どうやら効果がないようだしね」
(効果が、ない…?)
「君は、まだ気づいていないのか」
むしろ、惜しむように薫は微笑んだ。
「君は、彼の唯一無二のアシュエラだというのに」
晶は、机に立てた爪に力をこめた。樹と二人だけの言葉に、まさかここで言及されようとは思いもよらなかった。
「アシュエラ……」
「コンパティビリタス・アシュエラ」
薫は、正確にそれを発音した。
「HLA合致、と言った方がいいかな。母さんのほうが詳しく説明してやれるだろうに。そう、記憶さえあれば」
机を掴んだ手が震え、爪が微かな音を立てた。
「母さんの、記憶を……あなたは……」
「邪魔をされたくはないからね、せっかくのアシュエラの成立を」
彼は、コーヒーの入った紙コップを長机に並べた。「まあ、座りなさい」
晶は、「父」から視線を外さずに、パイプ椅子に腰掛けた。
「君の父役をやったのも、君たちのアシュエラが成立するまでは近くで見守りたかったからなんだ。君たちは危ない橋を渡っているんだよ。少し、自覚が足りないようだが……」
「コンパティビリタス……アシュエラ……って?」
「人間の血球には、HLAという特定の蛋白抗原があってね」
薫は自分のコーヒーに砂糖を注ぎ入れ、プラスチックのマドラーでかき混ぜた。
「人間同士で受血しても、体内に入った他者のHLA抗原は、免疫機能により駆逐される……しかし、穢狗と人間が、継続的に体液交換を繰り返し、受血による治癒を繰り返すことにより、免疫交叉が生じ始めるんだ」
「……どういうことなの」
「君と、君の穢狗は、今やどちらのHLA型でもない、二人だけのHLA型に変わりつつあると言うことだよ」
薫は微笑んだ。「難しいのは、誰でも受血を続けさえすればこの変化を生じるというわけではないことだ……変化の例を引くまでもないが、人間の細胞は、意志の力に制御されているからね。穢狗を異物だと認識する人間であれば、無意識に穢狗のHLA抗原を排除しようとするだろう。逆もしかり――その点、君と、君の穢狗は、相思相愛というわけだ」
――樹。
(すき、あきら、だいすき)と唇を寄せてくる彼の笑顔が胸に蘇り、晶は浅く息をついた。
「俺たちは、どうなるの……」
「生物学的に? それとも、社会的に?」
「……両方」
「前者から言えば、まだ、良くわからない、というのが本当のところだ」
薫はコーヒーを啜った。
「コンパティビリタス・アシュエラが最後まで成立したケースは、いまだかつてない。どこかで相手を拒絶する反応が生じたり、同化が進んでから受血をやめたりすれば、致死的になる。だからこそ、禁忌なのだよ、穢狗との受血は」
「致死的……」
「二人とも死ぬということだ」
淡々と、薫は口にした。
晶は胸元を掴んだ。動悸が喉元に迫り上がる。
死ぬ……
自分が……
樹が、死ぬ……樹が……
それは、考えただけで胸が潰れるような痛みを彼にもたらした。
(あきらはおれのアシュエラだから)と、嬉しそうに言った樹……。
(自分の、せいだ……)
晶は、喘いだ。
何も考えずに、受血を続けてしまったせいで。
禁忌と言われていたのに。
止められたのに……
ただ、彼が欲しいと、その欲望だけで受血を続けてしまった……
自分が止めなければいけなかったのに……
(同化が進んでから、受血をやめれば致死的になる)、そう薫は言った。
ならばもう、遅いのだ。
繋いでしまった手を離したとき、全てが終わる。
樹が、死んでしまう……
樹。
(いやだ、それだけは、絶対に――)
そう思った瞬間だった。
午後の空を映していた窓が弾け、ガラスが雨のように室内に降り注いだ。なにか黒いかたまりが室内に飛び込んできた、と思ったとき、薫の身体が突き飛ばされ、闖入者はその胸ぐらを掴んで高く壁に押しつけていた。ガラスを踏んだ粗末な運動靴が、ジャリッと音を立てた。
「あきら、ないてる」
凍るような声で少年は言い、喉元を締める手に力を込めた。
「おまえか、なかせたの」
呆然と、晶は樹を見つめた。二階の窓――しかも、跳躍したとしか思えない動きで、樹は飛び込んできたのだった。
「……素晴らしい」
片手で壁に押しつけられながら、薫は呟いた。「完璧な同調率だ。しかも、この身体能力。しかし、少し躾は必要だな」
「樹……!」
晶が叫んだとき、小さな破裂音がして、樹の痩せた身体が吹き飛んだ。
「樹、いつき……!!」
机に頭を打ち付けた少年は、咳込み、血液を吐き出した。銃をしまいながら、薫は言った。
「急所は外してあるよ。とはいえ、受血はしたほうがいい。肺が傷ついている」
言われるまでもなく晶は手首を咬み裂き、樹の口元に充てがった。樹は、喘ぎながらそれを飲み下した。「馬鹿、来るなって言ってるのに……」晶は、涙ぐみながら、その頭を抱き締めた。
「あきら、ないてた」
「泣いてないから。俺は大丈夫だよ」
「だいじょうぶ、じゃない。おれ、わかる」
「おまえが危ない目に遭うのが、大丈夫じゃないんだよ」
言った声が、震えた。
「晶、心配はいらない」
穏やかに言いながら、薫は椅子のガラスを払い、座り直した。
「アシュエラという特別な関係には価値があると、わたしは思っている。君と君の穢狗を損なうようなことはしないよ。
未解明のことは、多い……人間の血液を受け入れ続けた穢狗は、飛躍的に運動能力が伸びる。そして人間は、飛翔能力が向上し、種々の特殊な能力を発揮するようになる。それには、意味があるはずなんだ」
樹の頭を抱き締めたまま、晶は涙に濡れた目で「父」を睨みつけた。
「こいつは、実験動物じゃない――俺だって」
「何も、君たちに強制などしないよ。君たちは、自分で選んだはずだ。アシュエラになることを」
静かに、薫は告げた。
「さっきの問いの後半だが……社会的に、わたしは君たちを保護したいと思っている。だが、そう思っている勢力だけではないことを、君たちは知っておくべきだ。穢狗は全て処分すべきと主張している派閥さえ、あるのだよ」
樹を抱きしめる手が、無意識に揺れた。
「禁忌とされているものには、理由がある……例えば、君たちはこの度、夜蟲がどこから生まれるかを知ったわけだが、この知識が一般的なものとなれば、どんなことになると思う?」
薫の声が、重く低められた。「穢狗全てを駆逐し、早々に焼却すれば、もう夜蟲は湧かない。そういう世論が生まれるだろうということだ」
「そんな――」
「穢狗保護派は、多くが穢狗を産業利用している資産家だ。彼らが既得権益を守っているからこそ、穢狗は生き長らえているのだよ。とは言え、対立する勢力もある。だからこそ、今回の大量処分のようなことが起こり得るんだ……夜蟲のことなど何も知らない愚かな層もいる。
もっとも、わたしは保護派の資産家たちよりは、学会の意見に賛成でね。コンパティビリタス・アシュエラを代表する、穢狗との生理学的反応には、価値がある……」
薫は僅かに目を細めて、晶の腕の中の少年を見た。「穢狗と呼ばれる存在は、この世界には必要な多様性のはずだ。だからこそ、君たちの行く末を、わたしは見届けたい」
彼は、微笑んだ。
「――どうかな。わたしが味方だということを、分かってもらえただろうか」
晶の声は、低く尖っていた。
「崇と、紫穂は。また、記憶を消そうというのか」
「彼らは、害にはならない。そうわたしは判断している。むしろ……有為な人材だよ」
彼は飲み終わった紙コップを軽く投げ、くずかごに命中させた。「だが、そう捉えない派閥もあるだろう。だから、君たちは、もっと慎重であるべきだ。禁忌を、君たちは犯しているのだから」
晶は、無言で薫を見つめた。
どこまで信用できるかは分からないが、今は、この男が自分たちの生殺与奪を握っていることに間違いはなかった。
「さて。ここまで理解してもらえたようなら、私からの話はおしまいだ。調査室の簡単な取り調べがあるから、それが終われば帰っていい。家に送ってやることはできないが、大丈夫かな?」
樹が、喉の奥で低く唸り声を立てていた。晶は、彼を背に庇うようにしながら立ち上がらせた。
去り際に、彼は一言だけ尋ねた。
「母さんは……あのままなの?」
「知らないほうが、幸せなこともあるだろう? 夫は我が子を救うためにうそりよだかとなり、一度失ったあとにようやく再び得た我が子は、いつ命を失うかも分からないなど。
知らないほうがいいんだよ」
晶は、言葉を失って「父」を見つめた。彼はにこりと笑った。
「君も子どもではないから言っておくが、我々はレスだ。そういう事にしてある。友人の妻を寝取る趣味はないからね。もし君がそれを気にしているなら、だが」
晶は顔を赤らめ、力任せに扉を閉めた。晶の怒りを感じたのだろう、樹の喉の唸り声が危険なまでに高まった。彼は晶の手を振りほどき、部屋に戻ろうとした。
「樹、ごめん、大丈夫だから……」
首に手を回し、頭をそっと撫でてやる。黒い目は未だ怒りに光っていたが、唸り声は徐々に低くなった。
「おれ、あいつ、きらい。あきら、いじめる」
「嬉しいけど、さっきみたいなのは、もうやめろよ」彼は囁き、耳に口づけた。「おまえ、怪我したじゃん」
「あきらのちでなおる」
「それでもだよ……おまえが怪我してるの、見たくない」
樹は不服そうに押し黙ったが、晶の言葉を理解したことは分かった。彼は、ぐりぐりと頭を晶の肩にこすりつけてきた。
「あとちょっとだから、このまま待ってろ」
晶は言った。「一緒に帰ろう」
パーカーの襟に入っていたガラス片を、そっと取り除いてやる。樹は、ぎゅっと彼を抱きしめてきた。
温かな肌を頬に感じながら、晶は一瞬目を閉じた。
そう……もう、手を離すことなどできない。例えそれが死を意味するのではなかったとしても。
離れることなど、できない。
(俺たちは、アシュエラなんだ……)
彼の顔を見て、樹は、無邪気に微笑んだ。
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