【ハルピュイアの鎮魂】―禁忌を超えて、魂に、触れる。― ディストピアSFホラー×異形吸血鬼譚×異種族恋愛BL

静谷悠

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高校生編

二十一(2026、冬)

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 四人は、無人の渡り廊下を通り、公民館へ移動した。ピアノは、つっかえつっかえ、聞き覚えのあるメロディを繰り返し演奏していた。少なくとも、名手とは言い難い――晶は、樹が穢狗の姿で演奏するときの様子を思い浮かべた。うまく動かない指を、苦労しながら鍵盤の上に動かす樹――
 その樹が、晶を守るように背に庇いながら、囁いた。「――あれ」
 樹の視線を辿って、晶は思わず立ちすくんだ。
 玉座の前を守る騎士のように、等間隔に佇むもの。めしいた眼、ふくろうのような羽毛、丈高いその影は――

「うそりよだかだ……」

「え、あれが?」
「小学生のとき見た。こんなにいるんだな……」
 壁際に並ぶ影は、十数体だった。ピアノは、廊下の奥の多目的ホールから響いてくる……
「え、行く? ここを?」
「うそりよだかは、俺たちには無害だよ……飛べない、戦えない子どもとか、そういうものを狩るようにできてるんだ」
 崇と紫穂はちらと目を見交わしたが、晶が先に立ってうそりよだかの間を歩むので、意を決したようにあとに続いた。
 廊下の中央を進んでも、両側のうそりよだかは無反応だった。ときおり、嘴で身体を掻くような動作をする……

 あれも、人間なのだ……

 父さんは、この中にいるのだろうか。晶は思ったが、どのうそりよだかも見分けはつかなかった。
 多目的ホールの両開きの扉に手をかけた時、最も近くにいたうそりよだかが羽根をふるわせ、飛び立つような動作をしたが、結局はもとの姿勢に戻った。

 重い扉を開けると、ピアノの音がいきなり大きくなった。古いホールの、格調ある緞帳は引き上げられ、壇上のピアノには一人の男の姿があった。
 男――人間、と言っていいのだろうか。その背中には、数メートルの大きさに膨らんだ肉の塊があり、ピアノに伸ばした両腕さえも、不自然な凹凸にゆがめられていた。
 ふと、ピアノが止んだ。
 男は、振り返り、未だ人間らしい相貌を歪めて微笑んだ。

「やあ、――晶。来てくれるとは思わなかったよ」
 
 晶は、声を潜めたが、その響きは講堂内にこだまするように広がった。

「薫さん――」

 樹が低い唸り声を漏らし、彼の傍らに寄り添った。
「おや、つがいもいるのか」
 言葉は挑発的だったが、その声音は優しかった。「ここまで、無事にアシュエラを保つとは――やはり、君たちを信じてよかった。お陰で、人間として死んでいける」
 崇が、座席の間を進みながら、低く聞いた。
「薫さん、これは、――どうしたんですか? あなたの、身体は――」
「崇」
 むしろ痛みを感じているように、彼は囁いた。「宿業なんだよ、虎谷の。君は大丈夫なようでよかった」
「え――」
「何代かに一度、受血を受け付けない子どもが生まれるのだ」
 あくまで穏やかに、彼は言った。「わたしがそれだ。血を口にするだけで、吐き気と発熱が起こる。むろん、何度も襲われたよ――うそりよだかに」
「あなたが――調査室長の、あなたが、うそりよだかに――?」
「そう。今も、ホールの外で待っているだろう? わたしが《ほつれ》になるのを……」
 紫穂が口を切ったが、その声は震えていた。
「あなたは――ずっと、耐えていたのですか? その齢まで――《ほつれ》になることを」
「《ほつれ》は、自我の崩壊だ」
 薫はピアノに向き直り、腫瘍に侵された手で短い楽章を奏でた。「自我を保とうとすれば、ある程度は抗える――自分自身に、変化へんげすることによって。むろん、限界はあるがね」
 言う間に、彼の背中の肉塊が裂け、血の中から小ぶりの夜蟲が飛び立った。漆黒の「蜻蛉」型の夜蟲だった。
「ああ――すまない。だが、心配しなくていい。君たちに危害は加えさせない」
「あれは、あなたの意志で動くのですか?」
「当然だろう、雨貝くん」彼は微笑んだ。「わたしは《蝿の王》だよ」
 見れば、ホールの片隅には、そうして生まれた夜蟲が、固まってじっと彼らを見つめているのだった。
「このまま、誰にも秘したまま、ただ、一人でいつか、うそりよだかに食われるのだと思っていた……晶、君と恵美子さんには、礼を言っても言い切れない。真似事とはいえ、家族らしく過ごせて、ありがたかった」
「薫さん――」
 
「さて。そろそろ、もらえるかな」

 薫は、ぎこちなく立ち上がった。もはや脚も原形を留めず、動くには全力を振り絞る必要があるようだった。にもかかわらず、彼は歯を食いしばりながら移動し、舞台の袖にもたれた。崇が、あたかも助け起こそうとして足を踏み出しかけたが、蠢く肉塊を前にして、そのまま立ちすくんだ。
「やれやれ……」
 薫は苦痛に息を荒げていた。
「難儀なものだな。頼むよ、樹くん――何か、弾いてくれ」
 驚いて、晶は彼の伴侶を見た。樹は、静かな目で薫を見つめていた。
「おまえ、あきら、なかす。――きらいだ」
 樹は低く囁いた。「でも、おまえ、ないてる……それは、かなしい」
 樹が真っすぐに舞台へ上がり、ピアノの前に座るのを、晶は呆然と見守った。壁際にわだかまった黒い夜蟲が、軋むようなさざめきを発した。
 
「待って、薫さん、送るって……どうすればいいのか、俺は分からないんだ。アシュエラの血も、役には立たなかった」

「大丈夫だよ、晶」
 
 かつて「父」だった男は微笑んだ。「樹くんがいる」
 樹は、黒く光る眼を晶に向けていた。
「あきら、だいじょうぶ。おれ、わかる」
「樹……」
「……まえは、わからなかった。でも、わかった」
 彼は、優しく微笑んだ。「あきらがいる。だから、だいじょうぶ」

 樹は、そっと長い指を鍵盤に置いた。

 曲が始まった。
 それは、晶の知らない曲だった――だが、昔から知っているような気もした。ざわめくような、どこか懐かしい音階が低く立ち上がる――それは唐突に、津波のように身体を浸し、重く呼吸を奪った。鋭く刺すような高音の流れが挿入される。

(そうか、――これは)

 さっき、感じ取ったばかりの、……それは、かなしみだった。

 樹の、悲しみ――

 その旋律は、耳から鼓膜を震わせるのみならず、直接脳裏に溢れ、流れ込んできた。初めて聴く音にもかかわらず、晶はそのメロディがどう続くか分かった。音が光り輝きながら連なり、一つ一つ滴っては、弾けながらきらめく。晶は、思わず、その一つを小さく声に乗せた……
 それは、透明な和音となって広がり、うつくしくホールの中にさざめいた。

「そう」
 樹は、微笑み、もう一度そのフレーズを奏でた。「うたって、あきら――」その瞳に、七色の虹が過ぎり、晶は束の間それに見惚れた。

 胸にあふれた旋律を、そのまま宙に解き放つ。樹の指が奏でる重く息詰まるような低音に、晶の澄んだ声が滑らかに混じり、響き合った。その和音が天井にきらめきながら跳ね返ったとき、樹の奏でる音が変わった。どこまでも深海に沈む悲しみが、不意に視界が開け、空を飛ぶような翼を得る。遠くに山並みを見おろしながら、風を切って、夜明けを飛ぶ翼――

 しろく、かがやく、つばさ。

 注ぎ込まれるメロディをそのまま喉に溢れさせながら、晶は悟った。
 
 (これは――俺の、歌なんだ――)

 ずっと、樹に見せたいと思っていた。
 天高く飛ぶときの、はるかな山陰の美しさ。
 風を切る喜び。
 なにものからも自由で、ただ、この世界に生きて在ることの幸福を、味わわせてやりたいと――思っていた。

 (あきらが、くれた)

 耳元に囁かれたように、温かな息すら感じた。
 
 (ぜんぶ、あきらが――くれた……)
 
 
 
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