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高校生編
二十二(2026、冬)
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樹が奏でるピアノに合わせて、特に声を張り上げているようにも見えないのに、晶の発する声はどこまでも透明に波となって広がり、ぶつかりあって和音となって溶け、輝くように空気を震わせた。
崇は、息を飲んでただ眺めていた――目の前で行われていることが何にせよ、それは人の範疇を超えたことだった。
晶と樹の視線がぶつかるたびに、そこには、プリズムのように七色の光がうつくしく過ぎり、二人は微笑みを交わし合った。
「見て……」
そっと側に寄った紫穂が、きつく手を握ってきた。「夜蟲が」
壁際に羽を休めたまま、ギシギシと脚をひしめかせていたはずの夜蟲が、崩れていく……
それらは、ただ、静かに、あがくことすらせずに、輪郭を失い、解け、灰のような吹きだまりを床に作って消えていった。
同じことが、薫にも起こっていた……
崇は、ステージ袖の叔父に近寄った。壁にもたせかけていた背の巨大な肉塊が、崩れ始めている。
「薫さん――」
叔父は、ちょっと笑った。
「崇、後はおまえに任せるよ。社会には、管理する者が、必要だからな――おまえは、適任だ。もう、数年は、かかるだろうが……」
「やめろよ」崇は、顔をゆがめた。「そんな面倒なこと、俺は、任されないからな」
「そういう役回りだろう、おまえは……」
ふっ、と息を吐いて、薫は、そのまま、目を閉じた。
舞台に灰がこぼれ、小さく雲を作った。その灰色の影が静まった時、薫の痩せた身体は、力なく冷たい床に倒れていた。既に呼吸は止まっていた。
音楽が止んだ。
顔を上げて、崇ははっとした。
歩み寄ってきたのだ、晶――そして、樹、同じ虹を瞳に宿し、今や二人だけの種となった、人ならぬ二人が、寄り添うように、崇を見つめていた。
「あ、晶……」
長い睫毛がそっと伏せられ、七色に溶ける瞳を半ば隠した。彼が唇を開いたとき、その声はやはり虹を思わせて複雑に共鳴した。
「聞きたいんだ、最後に。――本当に、この世界は、救う価値があるのか……憎み合い、殺し合うばかりの人間に、生きていく価値はあるのか」
応えようとしたとき、崇の声は喉に詰まった。……自分を守ろうとした父はうそりよだかとなり、理性と情で戦った母もまた、穢狗への罪を重ねて生を手放した、晶なのだった……
だが、そのとき、紫穂が言った。
「価値はあるわ」
彼女の声は震えていたが、そこには、熱があった。
「憎み合っても――傷つけ合うばかりだとしても、人間は……お互いの悲しみを、かなしむことができる。相手の喜びを、よろこぶことだって、できる……」
少年は、瞬かぬまなざしを紫穂に向け、繰り返した。
「弱い者は間引かれ、声のないものは忘れられ、劣っているとされたものはどこまでも搾取される――そんな、この世界を、救う価値はあるのか?」
崇は、囁くように言った。
「変えるよ。――変えられる、はずだ。俺たちは――いつだって、思考することが、できる。それが、人間なんだ、から……」
虹色の瞳の生きものは、わずかに微笑んだようだった。
「分かった。もう一度、信じるよ。――人間を」
言ったとき、その両腕がみるみる形を変え、白い羽毛の巨大な翼となった。血管に沿って血の流れが光の川となり、ステンドグラスのようにきらめく。床を蹴った樹が、高々と跳躍し、ホールの天井近くの足場に立った。彼は、素手で天窓を開け放つと、片手を伸ばして楽しげに呼んだ――「あきらぁ!」
雪のような羽毛をひとひら残して、晶は飛んだ。
ちょうど鷹匠の手に鷹が降り立つように、晶は軽く樹の片腕に乗った。少年は、友人たちに一瞥をくれたが、それが、最後だった。白い翼が広がる。
晶は、暗い空に飛び立ち、その背に樹が飛び乗った。
*
ピアノの伴奏も、必要なわけではないのだ。自分自身が、樹の楽器であり、彼が思い描く音を、ただ思いのままに発すればいいだけなのだから――それは、ごく容易いことだった。樹の音を喉にはらみ、高く低く無限に共鳴させながら風に解き放つ――そのたびに、よろこびが深く胸に満ちた。
眼下に黒く蠢く夜蟲が、みるみるうちに崩れ、消えていく。
白く巨きく膨張しきった山が、音もなく崩れ、灰になったとき、晶はその中央に降りた。
灰が僅かに吹き崩れた、そのくぼみに、隼太はいた。
その傷ついた姿さえ、もはや晶の心を傷つけることはできなかった。隼太の頬には、涙の跡がつき、その目は、何かを求めるように見開かれていた。
晶は、そっと片翼を人の手に変え、涙の跡を拭い、瞼を閉じてやった。
「ごめんな……隼太」
囁いた。
立ち上がったとき、温かな指先が髪を梳き、頬を撫でた。
「かなしい。あきら」
「うん……でも、大丈夫だよ」
晶は、微笑んだ。「おまえがいるから」
温かな腕が首筋に回され、耳元に息がかかった。
「おれ、あきら、いっしょ。ずっと」
「うん……」
思念で伝えられることも分かっていたが、敢えて言葉にした。
「このまま、遠くに行こうよ。そうして、ずっと二人でいよう」
「いっしょ、うれしい」
彼も、また、声に出して繰り返した。「おれ、あきらとずっといっしょ……」
実際、お互いの他に、なにも必要ないのだということが分かった。温かな家も服もなくとも、樹の火があるだけで温かく、食べ物も水もなくともお互いの血液のみで満たされるのだということが、本能的に分かっていた。
振り返ると、虹色の瞳に限りない愛を込めて、伴侶が彼を見つめていた。
それを見つめ返しながら、彼は、夜空に七色に輝く翼を広げた。
崇は、息を飲んでただ眺めていた――目の前で行われていることが何にせよ、それは人の範疇を超えたことだった。
晶と樹の視線がぶつかるたびに、そこには、プリズムのように七色の光がうつくしく過ぎり、二人は微笑みを交わし合った。
「見て……」
そっと側に寄った紫穂が、きつく手を握ってきた。「夜蟲が」
壁際に羽を休めたまま、ギシギシと脚をひしめかせていたはずの夜蟲が、崩れていく……
それらは、ただ、静かに、あがくことすらせずに、輪郭を失い、解け、灰のような吹きだまりを床に作って消えていった。
同じことが、薫にも起こっていた……
崇は、ステージ袖の叔父に近寄った。壁にもたせかけていた背の巨大な肉塊が、崩れ始めている。
「薫さん――」
叔父は、ちょっと笑った。
「崇、後はおまえに任せるよ。社会には、管理する者が、必要だからな――おまえは、適任だ。もう、数年は、かかるだろうが……」
「やめろよ」崇は、顔をゆがめた。「そんな面倒なこと、俺は、任されないからな」
「そういう役回りだろう、おまえは……」
ふっ、と息を吐いて、薫は、そのまま、目を閉じた。
舞台に灰がこぼれ、小さく雲を作った。その灰色の影が静まった時、薫の痩せた身体は、力なく冷たい床に倒れていた。既に呼吸は止まっていた。
音楽が止んだ。
顔を上げて、崇ははっとした。
歩み寄ってきたのだ、晶――そして、樹、同じ虹を瞳に宿し、今や二人だけの種となった、人ならぬ二人が、寄り添うように、崇を見つめていた。
「あ、晶……」
長い睫毛がそっと伏せられ、七色に溶ける瞳を半ば隠した。彼が唇を開いたとき、その声はやはり虹を思わせて複雑に共鳴した。
「聞きたいんだ、最後に。――本当に、この世界は、救う価値があるのか……憎み合い、殺し合うばかりの人間に、生きていく価値はあるのか」
応えようとしたとき、崇の声は喉に詰まった。……自分を守ろうとした父はうそりよだかとなり、理性と情で戦った母もまた、穢狗への罪を重ねて生を手放した、晶なのだった……
だが、そのとき、紫穂が言った。
「価値はあるわ」
彼女の声は震えていたが、そこには、熱があった。
「憎み合っても――傷つけ合うばかりだとしても、人間は……お互いの悲しみを、かなしむことができる。相手の喜びを、よろこぶことだって、できる……」
少年は、瞬かぬまなざしを紫穂に向け、繰り返した。
「弱い者は間引かれ、声のないものは忘れられ、劣っているとされたものはどこまでも搾取される――そんな、この世界を、救う価値はあるのか?」
崇は、囁くように言った。
「変えるよ。――変えられる、はずだ。俺たちは――いつだって、思考することが、できる。それが、人間なんだ、から……」
虹色の瞳の生きものは、わずかに微笑んだようだった。
「分かった。もう一度、信じるよ。――人間を」
言ったとき、その両腕がみるみる形を変え、白い羽毛の巨大な翼となった。血管に沿って血の流れが光の川となり、ステンドグラスのようにきらめく。床を蹴った樹が、高々と跳躍し、ホールの天井近くの足場に立った。彼は、素手で天窓を開け放つと、片手を伸ばして楽しげに呼んだ――「あきらぁ!」
雪のような羽毛をひとひら残して、晶は飛んだ。
ちょうど鷹匠の手に鷹が降り立つように、晶は軽く樹の片腕に乗った。少年は、友人たちに一瞥をくれたが、それが、最後だった。白い翼が広がる。
晶は、暗い空に飛び立ち、その背に樹が飛び乗った。
*
ピアノの伴奏も、必要なわけではないのだ。自分自身が、樹の楽器であり、彼が思い描く音を、ただ思いのままに発すればいいだけなのだから――それは、ごく容易いことだった。樹の音を喉にはらみ、高く低く無限に共鳴させながら風に解き放つ――そのたびに、よろこびが深く胸に満ちた。
眼下に黒く蠢く夜蟲が、みるみるうちに崩れ、消えていく。
白く巨きく膨張しきった山が、音もなく崩れ、灰になったとき、晶はその中央に降りた。
灰が僅かに吹き崩れた、そのくぼみに、隼太はいた。
その傷ついた姿さえ、もはや晶の心を傷つけることはできなかった。隼太の頬には、涙の跡がつき、その目は、何かを求めるように見開かれていた。
晶は、そっと片翼を人の手に変え、涙の跡を拭い、瞼を閉じてやった。
「ごめんな……隼太」
囁いた。
立ち上がったとき、温かな指先が髪を梳き、頬を撫でた。
「かなしい。あきら」
「うん……でも、大丈夫だよ」
晶は、微笑んだ。「おまえがいるから」
温かな腕が首筋に回され、耳元に息がかかった。
「おれ、あきら、いっしょ。ずっと」
「うん……」
思念で伝えられることも分かっていたが、敢えて言葉にした。
「このまま、遠くに行こうよ。そうして、ずっと二人でいよう」
「いっしょ、うれしい」
彼も、また、声に出して繰り返した。「おれ、あきらとずっといっしょ……」
実際、お互いの他に、なにも必要ないのだということが分かった。温かな家も服もなくとも、樹の火があるだけで温かく、食べ物も水もなくともお互いの血液のみで満たされるのだということが、本能的に分かっていた。
振り返ると、虹色の瞳に限りない愛を込めて、伴侶が彼を見つめていた。
それを見つめ返しながら、彼は、夜空に七色に輝く翼を広げた。
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