古都―名前を奪われた青年と明日を持たぬ剣士の物語―

静谷悠

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冬至祭編

五、クラーレ

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 小姓が栗毛の馬を連れて天幕に入って来たので、レッチェンは、しぶしぶルードルフから身体を離した。が、ルードルフの方は離そうとしなかったので、ちょっとした小競り合いが生じた。
「ルーディ、ちょ、離せ!」
「嫌だ。今まで俺がどれだけ我慢したと思ってるんだ」
「まだ仕事が残ってるんだよ」
 そのとき、ラッパの音が鳴り響いた。
「ほら、決勝戦があるだろ。エーデルハイト侯を待たせる気か」
「は!? 何、おまえ、熊殺しのフリッツと試合するのか」
「するかよ、あんな怪物と」
 レッチェンは、ちょっと笑った。恋人の頭を犬をなでるように叩く。「ほら……ちょっとの間なんだから、いい子で待ってろ」
 ルードルフは、物言いたげな顔のまま、身体を離した。小姓が兜を渡そうとしたが、レッチェンは受け取らなかった。そのまま、槍さえ持たずに、砂を踏んで歩き出す。
 天幕を持ち上げて、外に一歩を踏み出すとき、レッチェンは振り返って恋人に笑いかけた。
「そんな顔するな……すぐ戻ってくるよ」



 天幕の外では、葦毛の馬に跨ったフリードリヒ・フォン・エーデルハイトが、正午の日差しを浴びて傲然と佇んでいた。白銀の甲冑が燦然と輝くその堂々たる姿は、あたかも騎士絵巻から抜け出してきたようだった。
 かちで闘技場へと進み出た青年の姿に、観客はざわめいた。兜も槍もなく、白砂の上に歩を進めていく。

 真昼の太陽を浴びて、観衆の前に進み出る最中、彼は目が眩むような思いだった……
 ずっと、人の目を避けてきた。
 娼婦の子と後ろ指を差され、陰口を叩かれることに慣れてきた……
 だが。

(それは、もうおしまいだ)

 彼は、フリードリヒの前に立った。
「ごきげんよう、フリッツ。久しぶりですね」
 ――声は、震えなかった。

 審判が、何を言うべきか迷っているうちに、フリードリヒは、馬から飛び降り、青年の前に立った。
「ショルシュか……無事だったのだな」
「ご心配をおかけしたようですね」
 緑の瞳の青年は、悠然と笑みを浮かべた。フリードリヒは、驚きとともに彼を見つめた…フリードリヒの知る青年は、このように自信に満ちて微笑む人間ではなかった。
「で……君がルードルフ・エーデルクロッツに『勝利』した以上、わたしの次の対戦相手は君だと思っていたのだが……」フリードリヒは、ちょっと言葉を切った。「これは、どういう筋書きの舞台なのかな?」
「フリッツ」
 青年は、静かな確信と共に言った。「少しの間、この場をわたしに任せてはもらえませんか」
 フリードリヒが、頷いたのは、半ば直感のようなものだった……この青年は、何か、「解答」を持っている。そして、この直感こそが、人を使う者として、フリードリヒが最も価値を置いている基準だった。
「いいだろう、ショルシュ。この場を君に預けよう」
 フリードリヒは言った。
 一礼して謝意を表すと、青空の下、青年は、貴賓席、そして群衆に届くよう声を張った。

「古来より、この冬至祭の闘技会は、神の前で次期当主を選ぶ、神聖な儀式である」

 貴賓席のマルレーネ・フォン・ドルーゼン侯爵夫人は、白金の髪の青年が馬に乗らずに表れたときから固唾を呑んでなりゆきを見守っていたが、今や両手を色がなくなるほどに握りしめていた。風に髪をなぶらせながら、青年は堂々と声を放った……かつてのショルシュとしては、思いもよらぬ姿だった。

「そして、今日! 奇しくも……」彼は一歩前に進んだ。
「この決勝に、次期公爵その人と目されるフリードリヒ・フォン・エーデルハイト侯と、末席ながら継承権の名残をもつわたし、ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼンが相まみえることとなったのは、まさに定められた運命としかいいようがない。この一戦をもって、神が次期公爵を選ばれようとしている……そうは思わないか」

(馬鹿な……)
 やはり、貴賓席にあって事の成り行きを呆然と見ていたギュンター・フォン・レドリッヒは、椅子を蹴立てて立ち上がった。
 まさか、ショルシュが……彼の手の内にあるはずのショルシュが、籠を逃れたばかりか、このような表舞台で発言するなど、あっていいことではなかった……

「しかし! わたしは彼とは戦わない」

 ゲオルク・アルブレヒト・フォン・ドルーゼンは、言い放つと、フリードリヒに向き直った。

「なぜなら、リースリンクの主にふさわしいのは、わたしではなく、フリードリヒ・フォン・エーデルハイトに他ならないからだ……今、ここに誓おう!」
 しんと静まり返った闘技場で、彼は、叙勲を受ける騎士のように、フリードリヒの前に跪いた。

「わたしは、未来永劫、リースリンクの公爵位を窺うことはない……この命ある限り、臣下としてフリードリヒ・フォン・エーデルハイトに仕えると誓う」

 フリードリヒは、微笑を浮かべていた……
これが、ドルーゼン侯爵夫人の仕込みでないのだとしたら、なかなかどうして、この青年、役者ではないか。
(今まで、この青年を見誤っていたようだな……)
 フリードリヒは、闘技用の槍を持ちかえると、つぶしてある穂先をそっと青年の肩に乗せた。
「許す」

 わあっと歓声が上がった。祝福のように帽子が投げ上げられ、拍手が雨と降る。
「フリッツ、フリッツ、フリッツ……!!」
 次期公爵が決まらぬことは、これまで市民たちの懸念でもあった。それが拭い去られたことで、場の興奮は最高潮となった。
 フリードリヒは、槍を空に掲げて、さらに市民たちの歓声を呼んだ。
 フリッツ、フリッツ、フリッツ……

 ギュンターは、拳を卓に叩きつけた。今や彼が目論んだことがすべて潰えたことは明白で、ショルシュさえも手の中からこぼれ落ちてしまった。一度は腕の中にあったか細い鳥のような青年は、今や最悪の敵となって目の前に現れていた……
 一方、彼の隣では、レドリッヒ伯爵夫人が、同じく青ざめた顔で唇を噛んでいた。彼女は、そっと天幕に下がると、手を叩いて使用人を呼んだ……

 声が聞こえないほどの喧騒の中で、青年はさりげなく場を離れ、控えの天幕リッターツェルトに戻った。
 天幕をくぐると、そこには、ルードルフが独り彼を待っていた。恋人は、レッチェンの顔を見ると、穏やかな笑みを浮かべ、大きく手を広げた。「おかえり」
 その胸に、レッチェンは身を委ねた。肩を震わせて言う。
「……慣れないことをしたよ」
「うん。見てた。頑張ったな」
「ざまあみろ」青年の声がかすれた。「これで……奴らは、もう二度と、俺を利用できない」
「うん」
「思い知ればいい……俺は、あいつらのものにはならないと」
 ルードルフは、低くささやいた。「おまえは、おまえだけのものだよ」
「うん……」

 こんなにも幸福な気持ちでなかったら、おそらく、ルードルフはもっと早くに気がついていただろう。
 フリードリヒ即位を気が早くも祝う群衆の声に紛れて、一つの気配が、天幕の外に近づいていた。それは、唐突な殺気となってルードルフの五感に触れた。
 なんということもない、戦いの訓練もされていない男だった……だが、決定的な判断の遅れから、ナイフが恋人に向かって突き出されたとき、ルードルフは他に選択肢を見つけられなかった。彼は咄嗟に、ナイフの刀身を右手で掴んだ。
「う……うわぁ……」
 声を出したのは、闖入者の方だった。震える切っ先を支えながら、それを手放すという判断すらできずに、ナイフをルードルフに突き出したまま哀願する。「すみません、すみません、わたしはただ、命じられただけで……」
 ルードルフは掴んだナイフをそのまま奪い取ると、一瞬で持ち替え、レッチェンを背後にかばいながら暗殺者の喉を掻っ切った。
 生温かい返り血が降りかかり、ルードルフは微かに顔を歪めた。
「ル……ルーディ、ルーディ!! おまえ……手が……」
「大丈夫だ。大したことはない」
 そう言おうとした声は、しかし、声にならなかった。
 膝から力が抜ける。ルードルフは、天幕の布につかまりながら、ずるずるとくずおれた。指にも力が入らなくなり、天幕が手の中からすり抜ける。
(息が……できない)
 卒然と、ルードルフは、悟った。

(毒だ)

 無益に、力なく喉をかきむしりながら、ルードルフは砂の上に倒れた。視界がじわじわと黒く侵食されていく……

 恐ろしいことに、目蓋が閉じてなお、意識はすぐには失われなかった。彼は、目覚めたまま溺れようとしていた。

「ルーディ……ルーディ!!」
  レッチェンは、必死に叫んだ……
「嫌だ……いやだ! 死ぬな、ルーディ!!」
 だれか……と助けを呼ぼうとして、ぞっとするような絶望が彼を襲った。天幕の外は、フリードリヒを祝う群衆のざわめきで、ほとんど何も聞こえないありさまだった。
 笛のような音を立てて、ルードルフが息を吸い込もうとした……が、首筋に腱が浮き上がるばかりで、空気を吸い込むことができないままに、彼はかすかに顔を歪めた。それは、ほんのわずかな動きで、ルードルフは、むしろ眠っているかのような穏やかな表情に見えた。顔の筋肉までもが麻痺し、苦痛の表情すらも十分に表せないのだ……

 レッチェンは、ローレの言葉を思い出していた。

 ――お母さまは、さまざまな薬物をお楽しみのために用いてらっしゃるの。

 ――だから、色んな国からの荷物が届くのだけれど……その中に、あれがあった。

(クラーレ……!!)

 新大陸で、現地民が狩りに使っているという矢毒……わずかな傷から身体に入ると、四肢の力を奪い、呼吸する力を弱めて、結果死に至る……

(それなら)

 レッチェンは、ルードルフの顎を持ち上げ、唇を覆うと、渾身の力で息を吹き込んでいた。



 ルードルフは、闇の中にいた。意識がないわけではない……指一本、目蓋すら動かすことができない身体に閉じ込められているというのに、意識は、残酷なまでに清明だった。酸素を求めて頭が熱っぽく脈打ち、恐怖と焦燥が胸を駆け巡る。耳の中で血の流れる音がごうごうと鳴る……

(息がしたい、息がしたい、息がしたい……)

 このまま死ぬのか、俺は?
 せっかくこの手にレッチェンを抱きしめたのに……また手放すのか? あいつに、そばにいると約束したのに……また、約束を破るのか?

(嫌だ)

 呼吸したくてたまらないのに、口を開けて喘ぐことさえできない。最後に残った意識さえ、じわじわと遠くなっていく。

(死にたくない。
息がしたい――息が――)

 その刹那、耳元に砂を踏んでひざまずく気配がした。顔に触れる手、柔らかな感触が唇を覆い、次の瞬間、甘露とも思える一呼吸が、胸郭を押し広げた。そしてもう一呼吸。
 手放しかけていた意識がはっきりとしたが、それで呼吸ができるようになったわけではなかった。唇からさらに数回の呼吸を送られ、胸を掻きむしりたいほどの息苦しさがようやくうすらいだとき、唇が離れ、耳元に声がした。
「ルーディ、死ぬな……」
 体がまさぐられ、胸鎧の紐がナイフで切られるのが分かった。

「おまえは、俺が助ける」



 ……そうレッチェンが言ったとき、あたかも眠っているかのように見えるルードルフの目尻から、一筋涙が伝って髪に吸い込まれた。

 指一本……どころか、睫毛一本動かせなくとも、こいつは、俺の言葉を聞いている……

 レッチェンは、もう一度言った。
「おまえは、俺が助ける」

 毒のついた血塗れのナイフは、可能な限り触れたくもなかったが、全身甲冑を着て動くのはもう限界だった。レッチェンは、最大の注意を払って分厚い胸鎧の紐を切り、その重量からようやく自由になった。楔帷子まで脱ぎ捨て、リネンのシャツ一枚になる。
 呼吸についていえば、片時も休めないわけではない。せいぜい、六秒に一回……あるいは、一度過呼吸ぎみに回数を増やしておけば、そのあといくらか間があいても苦しくはならないものだ。そう頭で理解してはいたが、実際やってみると、胸郭が膨らまず鼻から漏れたり、空気を腹に飲み込ませてしまったりと、毎回が上手くいくというわけではなく、レッチェンは苦戦した。
 呼吸のリズムが乱れ、自分自身が息苦しくてたまらない。息を吸い込みすぎているせいなのか、視界が狭まり、指先が痺れてくる……
 今朝、一度昏倒しかけたときのように、冷や汗がにじみ、目眩がした。
(駄目だ、俺がしっかりしなければ)
 温かな唇を覆い、必死に息を送り込む。だが、思うように胸郭が上がらない……わずかに吐き出されたルードルフの呼気は、擦り切れた絃楽器のような切羽詰まった音色だった。

(この音は…!)レッチェンは、はっとした。

(喘息発作だ…)

 クラーレが時に喘息発作を引き起こすことを、レッチェンは医学生として知っていた。
 そして、それだけではなく……
 指先で触れた手首の脈に、レッチェンは絶望に似た気持ちを味わった。

(脈が、遅くなっている……)

 時に心停止にすら至る徐脈。クラーレのもう一つの恐ろしい効果である。

(呼吸は、口から吹き込んでやることもできる。でも、脈が……心臓が打つのをやめてしまったら……)

 喘息発作で狭まった気管に呼吸を送り込むのは、さらに困難を極め、レッチェンは、荒く息を継いで口をぬぐった。

(薬がほしい……気管を広げて……脈を強めるような薬……ベラドンナかダチュラ……葉っぱの一枚でもいい、ここにあれば……)

 そうだ、花毒でもいい。あれには、おそらくベラドンナが配合されている……
 そして、自分自身で作った「疑似薬」にも……

 そのとき、レッチェンは、ルードルフが左手に何かを握っていることに気がついた。
(……さっきは、これを持っていたから右手だけで戦ったのか……?)
 そっと左手を持ち上げると、脱力した手の中から、小さなものが転がり落ちた。

 それは、指輪だった。
 ゲオルクの名を冠した指輪、竜を殺す剣の意匠……

「あ……」

 レッチェンは、震える指先で、それを拾い上げた。
 台座を回すと、竜がポロリと外れ、中の小さな空間が明らかになる。そこに、たった一粒、最後に調合した疑似薬を、レッチェンは入れておいたのだった。

(あった……)

 レッチェンの判断は早かった。
 経口投与よりも舌下投与のほうが効果は早く訪れる。レッチェンは、貴重な一粒の薬を奥歯で噛み砕くと、唾液に混ぜてルードルフに口移しで与えた。ベラドンナの苦味が鋭く舌を刺す。喉の奥に落ちないよう、顔を横向け、ついで、深く肺の奥まで届くように呼吸を送り込む。

(届け)

 念じながら、深く深く呼吸を送る。

(届け……)

 気が遠くなるような時間が流れた。

 口の中はベラドンナの苦味で痺れたようになり、息を切らしたレッチェンは、もう口元を拭う余裕もなかった。涙と唾液に汚れた顔で、なりふり構わず彼は、ただ次の呼吸、その次の呼吸を、送り込み続けていた。いつまで続くのか分からない苦行を必死に続けているのは、自分が諦めたその瞬間にルードルフが死ぬからだった。

(俺は、諦めない……
絶対に、こいつを諦めない)

 何百回目かもうわからなくなった口づけで呼吸を送り込みながら、レッチェンは、誓うように胸のうちでそう繰り返した。

 そのとき、ルードルフの目が開いた……
 まだ呼吸の兆しもなく、四肢も動かすことができなかったが、目蓋を開ける力が戻ってきたのだった。そして、その眼を見れば、ルードルフがずっと意識があったことは一目瞭然だった……
 言葉にならない思いが、青い瞳に溢れた。

「大丈夫だ、ルーディ」
 荒い息の下、レッチェンはささやいた。手を伸ばし、髪を梳き、頭を撫でる。
「大丈夫。おまえの身体が、毒に勝ちつつある……あとは、時間が経つのを待つだけだ」
 ひたすら、生きるために、二人は、視線を絡ませながら、口づけを交わし、吐息を交換し続けた。
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