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昔と同じ優しいあなた
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呆然とする僕に笑いかけ、僕が焦がれ続けている人は、ひらりと馬から飛び降りた。
「久しいね。元気そうで何よりだ」
嬉しそうに破顔する今上帝に、僕は動揺しながらも跪拝の礼を取ろうとした。しかし、地に足をつく前に腕を取られて、本人に止められてしまった。
「必要ない、今はお忍びだからね」
視察にきた官吏のふりをしているんだ、と笑う現皇帝に、僕は喘ぐように問うた。
「どうして、ここが」
「私に嘘をついていた裏切り者が教えてくれたんだ。不穏分子は全てが落ち着き、国も安定し、世継ぎも生まれたから『そろそろ良いでしょう』と、ふざけたことを言ってね。……それまで僕は、君は死んだと聞かされていた」
どこか情けなさそうな顔で、賢帝と名高い彼は言う。
「会いに来るのが遅くなって、すまなかったね。刺されたなんて、さぞ痛かったろう」
まるで、可愛がっている養い子に言うように、いたわしげに。離れていた年月がなかったかのように、親しげに。
「傷は、まだ痛むかい?」
僕の困惑も動揺も頓着せず、彼は眉を下げて首を傾げた。
「……い、え。もう、すっかり良くなっておりますので」
「そうかい。あまり無理をしてはいけないよ」
「……はい、ありがとうございます」
気遣わしげな言葉に僕はやっと苦笑する。この人は、昔から変わらない。彼は他人の、それも平民の孤児の痛みにすら、心を痛めるのだ。
「なんにせよ、君が元気そうでよかった」
路傍の石にすら価値の劣る僕の無事を、彼はさも嬉しそうに、顔を綻ばせて喜ぶ。怜悧冷徹な冷血大公と呼ばれていた日々が嘘のように。
そうだ、この人は元から優しいお方なのだ。
だからこそ、僕はあの時、きちんと消えなければならなかったのだ。
この人の憂いとならないために。
良き皇帝として立つべきこの人の足枷とならないために。
大公爵の恋人であった『僕』という存在は、死なねばならなかったのだから。
それに。
「……ご側近の方の言葉は、嘘ではございません。僕は、一度死んだのです」
「え?」
戸惑う彼に苦笑を返し、僕はぽつりぽつりと『あの日』のことを語った。
「あの日、後宮に立て籠ったレイ様を討ち、城を制圧されたご側近の方……宰相様が虫の息だった僕を連れ帰り、看病して下さりました。半年ほどして、やっと話せるところまで回復したのですが……けれど僕は、過去のことを何もかも忘れてしまっていたのです」
自嘲するように笑って、僕は彼を見上げた。『僕』は本当に、一度死んだのだ。
「忘れ薬も飲んでいないのに、流した血とともに、記憶も流れ出してしまったかのように」
せっかく高価な薬を取り寄せて頂いたのに、必要ありませんでしたね、と肩をすくめてみせたが、彼は表情を緩めることもなく、真剣な顔で僕の話を聞いている。離れてからの、僕の生活を。
「……体が回復してからは、この村に移り住みました。ご側近の方のご厚意で住処と仕事を用意して頂けまして、最初は老婆や子供に混じって糸紡ぎをしておりました」
大の男が情けないことで、と笑ってみせても、彼は穏やかな表情を変えずに笑む。
「君は器用だし、仕事も丁寧だから、喜ばれたろうね」
「い、え、それほどでも……」
かつての記憶にもないほどに、あまりに優しく接されるから、僕は落ち着かなくて、みっともなく視線を彷徨わせてしまう。
「今は村で家庭教師をしているんだって聞いたよ」
淡々とした、けれど情愛に満ちた温かい声が僕を包み込む。
「君はさぞ優秀な教師だろうねぇ」
「ふふっ、そんな……それに、最初はただの穀潰しでしたし」
「そうか。苦労して……いや、この地に受け入れてもらうために、頑張ったのだね」
「かっ、か……」
ふざけて誤魔化そうとしても、何を言っても柔らかく頷く彼のせいで、僕は潤む瞳を隠すために俯くしかなくなってしまう。
この数年、胸にポカリと空いていた穴が静かに満たされてしまう。平穏だけれど埋まらなかった悲しみの闇が、穏やかに晴れてしまう。彼の声は、昔から僕の全てを簡単に癒してしまうのだ。
「……このしずかな村で、数年かけて、少しずつ思い出しました」
「……そうか。動揺は、しなかったかい?」
「はい」
優しく問いかける声に、僕はなんとか微笑を浮かべて答えることができた。動揺はしたけれど、でも、本当に絶望はしなかったのだ。
「あぁ、そうか、と妙に納得しました。村人達は、僕のことをどこぞの貴族の落胤だと思っているみたいですけれど、元々根っからの平民なのだな、と。馴染むのが早かったはずです」
「……そうか」
きっと、僕に辛い過去を背負わせた、と彼は思っていたのだろう。僕が本気でそう言っているのだと分かると、安堵したように目を細めた。
「今、幸せかい?」
「……はい。しあわせ、です」
静かな問いかけに、僕は少し躊躇い、けれど小さく頷いた。
正直、『幸せ』かは分からない。僕は彼の言う『幸せ』というものが、どういう定義なのか分からないから。
けれど、もし満ち足りてはいることが幸せだと言うのならば、僕はずっと『幸せ』だ。
閣下の役に立ちたくて、必死に苛酷な訓練や勉強をしていた時も。
閣下のお役に立たんと、憎悪と呪詛が沈澱して血と毒に塗れた、後宮という名の伏魔殿に死を覚悟して乗り込んだ時も。
閣下が作り上げて下さった、この幸せな安寧の時代を、国の片隅から見つめることができる今も。
辛く苦しくもあったけれど、でも、この人のために生きる日々は、いつだって満ち足りていたのだ。
「この地で、今はただただ穏やかに暮らさせて頂いております」
柔らかく笑いながら、背の高い人を見上げる。
遠くからこの人の幸せを祈り、この人の治世の平穏を信じて暮らす、変わり映えのしない日常。
これは、僕が求めていたものかもしれないと、最近思う。
決して手に入らない人を、僕だけのものには決してならない人を、すぐそばで恋焦がれている日々は、本当はとても苦しかったから。
そう思いながら、今や陛下となった僕の閣下を見上げていると、愛しい人は悪戯っぽく笑って、ゆるりと目を細めた。
「ねぇ。君は、都に『心を捧げたひと』がいると聞いたけれど、誰のことか聞いても良いかい?」
「久しいね。元気そうで何よりだ」
嬉しそうに破顔する今上帝に、僕は動揺しながらも跪拝の礼を取ろうとした。しかし、地に足をつく前に腕を取られて、本人に止められてしまった。
「必要ない、今はお忍びだからね」
視察にきた官吏のふりをしているんだ、と笑う現皇帝に、僕は喘ぐように問うた。
「どうして、ここが」
「私に嘘をついていた裏切り者が教えてくれたんだ。不穏分子は全てが落ち着き、国も安定し、世継ぎも生まれたから『そろそろ良いでしょう』と、ふざけたことを言ってね。……それまで僕は、君は死んだと聞かされていた」
どこか情けなさそうな顔で、賢帝と名高い彼は言う。
「会いに来るのが遅くなって、すまなかったね。刺されたなんて、さぞ痛かったろう」
まるで、可愛がっている養い子に言うように、いたわしげに。離れていた年月がなかったかのように、親しげに。
「傷は、まだ痛むかい?」
僕の困惑も動揺も頓着せず、彼は眉を下げて首を傾げた。
「……い、え。もう、すっかり良くなっておりますので」
「そうかい。あまり無理をしてはいけないよ」
「……はい、ありがとうございます」
気遣わしげな言葉に僕はやっと苦笑する。この人は、昔から変わらない。彼は他人の、それも平民の孤児の痛みにすら、心を痛めるのだ。
「なんにせよ、君が元気そうでよかった」
路傍の石にすら価値の劣る僕の無事を、彼はさも嬉しそうに、顔を綻ばせて喜ぶ。怜悧冷徹な冷血大公と呼ばれていた日々が嘘のように。
そうだ、この人は元から優しいお方なのだ。
だからこそ、僕はあの時、きちんと消えなければならなかったのだ。
この人の憂いとならないために。
良き皇帝として立つべきこの人の足枷とならないために。
大公爵の恋人であった『僕』という存在は、死なねばならなかったのだから。
それに。
「……ご側近の方の言葉は、嘘ではございません。僕は、一度死んだのです」
「え?」
戸惑う彼に苦笑を返し、僕はぽつりぽつりと『あの日』のことを語った。
「あの日、後宮に立て籠ったレイ様を討ち、城を制圧されたご側近の方……宰相様が虫の息だった僕を連れ帰り、看病して下さりました。半年ほどして、やっと話せるところまで回復したのですが……けれど僕は、過去のことを何もかも忘れてしまっていたのです」
自嘲するように笑って、僕は彼を見上げた。『僕』は本当に、一度死んだのだ。
「忘れ薬も飲んでいないのに、流した血とともに、記憶も流れ出してしまったかのように」
せっかく高価な薬を取り寄せて頂いたのに、必要ありませんでしたね、と肩をすくめてみせたが、彼は表情を緩めることもなく、真剣な顔で僕の話を聞いている。離れてからの、僕の生活を。
「……体が回復してからは、この村に移り住みました。ご側近の方のご厚意で住処と仕事を用意して頂けまして、最初は老婆や子供に混じって糸紡ぎをしておりました」
大の男が情けないことで、と笑ってみせても、彼は穏やかな表情を変えずに笑む。
「君は器用だし、仕事も丁寧だから、喜ばれたろうね」
「い、え、それほどでも……」
かつての記憶にもないほどに、あまりに優しく接されるから、僕は落ち着かなくて、みっともなく視線を彷徨わせてしまう。
「今は村で家庭教師をしているんだって聞いたよ」
淡々とした、けれど情愛に満ちた温かい声が僕を包み込む。
「君はさぞ優秀な教師だろうねぇ」
「ふふっ、そんな……それに、最初はただの穀潰しでしたし」
「そうか。苦労して……いや、この地に受け入れてもらうために、頑張ったのだね」
「かっ、か……」
ふざけて誤魔化そうとしても、何を言っても柔らかく頷く彼のせいで、僕は潤む瞳を隠すために俯くしかなくなってしまう。
この数年、胸にポカリと空いていた穴が静かに満たされてしまう。平穏だけれど埋まらなかった悲しみの闇が、穏やかに晴れてしまう。彼の声は、昔から僕の全てを簡単に癒してしまうのだ。
「……このしずかな村で、数年かけて、少しずつ思い出しました」
「……そうか。動揺は、しなかったかい?」
「はい」
優しく問いかける声に、僕はなんとか微笑を浮かべて答えることができた。動揺はしたけれど、でも、本当に絶望はしなかったのだ。
「あぁ、そうか、と妙に納得しました。村人達は、僕のことをどこぞの貴族の落胤だと思っているみたいですけれど、元々根っからの平民なのだな、と。馴染むのが早かったはずです」
「……そうか」
きっと、僕に辛い過去を背負わせた、と彼は思っていたのだろう。僕が本気でそう言っているのだと分かると、安堵したように目を細めた。
「今、幸せかい?」
「……はい。しあわせ、です」
静かな問いかけに、僕は少し躊躇い、けれど小さく頷いた。
正直、『幸せ』かは分からない。僕は彼の言う『幸せ』というものが、どういう定義なのか分からないから。
けれど、もし満ち足りてはいることが幸せだと言うのならば、僕はずっと『幸せ』だ。
閣下の役に立ちたくて、必死に苛酷な訓練や勉強をしていた時も。
閣下のお役に立たんと、憎悪と呪詛が沈澱して血と毒に塗れた、後宮という名の伏魔殿に死を覚悟して乗り込んだ時も。
閣下が作り上げて下さった、この幸せな安寧の時代を、国の片隅から見つめることができる今も。
辛く苦しくもあったけれど、でも、この人のために生きる日々は、いつだって満ち足りていたのだ。
「この地で、今はただただ穏やかに暮らさせて頂いております」
柔らかく笑いながら、背の高い人を見上げる。
遠くからこの人の幸せを祈り、この人の治世の平穏を信じて暮らす、変わり映えのしない日常。
これは、僕が求めていたものかもしれないと、最近思う。
決して手に入らない人を、僕だけのものには決してならない人を、すぐそばで恋焦がれている日々は、本当はとても苦しかったから。
そう思いながら、今や陛下となった僕の閣下を見上げていると、愛しい人は悪戯っぽく笑って、ゆるりと目を細めた。
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